2019年1月4日金曜日

沼津兵学校設立と廢校の顛末




沼津兵学校
 設立の過程
 沼津兵・学校設立の構想は、島羽・伏見の敗戦後に公議所御用掛阿部邦之助(潜)と撒兵頭並江原鋳三郎(素六)2人の考え方の中から生まれたという.その意図するところは、洋式軍制による陸軍士官の養成であった。
 徳川家の駿府移封が決まると、阿部は上層部に兵学校設立を建議し、旧幕府陸軍関係者の沼津移住を促進するために沼津移住掛に就任し、移住事務の一切をとりしきった。
 7月には水野藩から沼津城が明け渡され、8月には「陸軍解兵御仕方書」が発せられ、旧幕臣の移住・土着および兵学校の設立が公表された。この規則書では、学校方と生育方(後の勤番組)の組織が定められ、兵学校での人材育成と無禄移住者の授産とがセットになっている点に特徴があった。
 慶応4年改め明治元年(18689月に入ると、陸軍総括に就任した服部綾雄、陸軍御用重立取締に就任した阿部潜らによって、沼津移住が続々と進められる一方、兵学校教授陣の人選も進められ、10月から11月にかけて頭取西周助(周)以下の任命が行われた。
12月には、「徳川家兵学校掟書」と「徳川家兵学校附属小学校掟書」が制定され、生徒の募集も始まった。そして、翌明治218日には兵学校と附属小学校が開校され、同13日には授業が開始されたのである。

廃校のてん末
 かくて隆盛を極めた沼津兵学校であったが、歴史の流れの中では短命に終らざるをえない運命にあったといえる。強力な中央集権国家の形成によって富国強兵・殖産興業をめざす明治政府にとって、廃藩置県の断行と近代軍隊の創設は絶対的な使命であり、静岡藩や沼津兵学校の廃止も歴史的必然であった。
 早くも明治2年秋ころから兵学校教授に対する明治政府からの出仕命令が相次ぎ、櫛の歯を削るように教授が減っていった。明治39月には頭取の酉周が上京するまでに至った。生徒の問にも動揺がみられ、教授の辞任に対して反対集会を開く者や、逆に兵学校の将来に見切りをつけ白ら退校する昔も続出した。明治政府の徴命を受け、沼津を去っていく教授たちは、「天朝御雇」と呼ばれた。
 そして、明治4年(18717月には廢藩置県が行われ、同年9月には兵学校は兵部省の管轄に移されることになり、12月には「沼津出張兵学寮」と改称され、大阪兵学寮の分校とされた。
 翌明治55月、その沼津出張兵学寮も東京の陸軍兵学寮教導団に編入されることになり、残存生徒64名は沼津を後に東京へ去り、ここに名実ともに沼津兵学校は廃止されたのであった。
(「沼津兵学校」明治史料館 昭和6181日発行)

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