2021年7月31日土曜日

210731アーカイブスシリーズ寿々喜とその時代の思い出as


・・・・・寿々喜は明治・大正時代は湊橋の沼津町側で橋に向かって左岸に居たが、その後、御成橋右岸(菊水料亭:浮影楼支店)へ移り営業したが、平成に入り下香貫に移った。

・・・・・ 『宴会もうなぎで 御成橋際の寿々喜 ”うなぎといえば寿々喜"というほど狩野川畔、御成橋たもとの寿々喜は、うなぎの代表格だが、そのうなぎは、四季を通じていつでも昧がよく、その営養価の点からいつても、冬、のスタミナをつけるにもつてこいの料理。 名物支える材料の吟味 ここでは、材料のうなぎを特に吟味するので、浜名湖のものは使わず、もつばら焼津ものを使っている。そこに沼津名物としての寿々喜のうなぎが存在するわけで、蒲焼一人前が、すいものとごはんつきで五百円 うな丼が、すいもの、ごはんつきで四百円。 このほか、一般日本料理は何でもできるが、特にこれからの寒い季節に喜ばれる 〃なべ料理"もできるしてんぷらも自饅の一つ・・・・。 宴会向きに一般料理も 忘年会、新年会などの宴会向きには、料理五品と海苔茶つきのAコース七百円と料理四品と うな丼つきのBコースがあり、数人づれの部屋が五つ、団体では二十五人前後まで入れる。 狩野川の水面にうつす灯影を下にみて、情緒のある宴会は、寿々喜ならではの趣向である。定休日は第一第二、第四日曜日。(電話(62)◯◯三一番)』・・・昭和35年頃黎明新聞(現在廃刊)記事・・・・・


七つの子 濱悠人 沼朝令和3年7月31日寄稿文




「七つの子」 浜悠人

 毎年十月、千本港口公園では千本ライオンズクラブにより勝田香月、本居長世を偲ぴ碑前祭が行われている。それは沼津の風物詩となっていると思われる。

 昭和五十五年、千本ライオンズクラブは結成十五周年記念事業として香月碑を建立、顕彰し、本居長世については六十二年に同クラブが記念碑を建立した。

 先日、童謡作曲家本居長世之碑を港口公園に訪ねた。記念碑は伊豆湯ヶ島産の石で、上部に西条八十作詞、本居長世作曲の童謡「残り花火」の一節が楽譜付きで刻まれ、下には国語学者金田一春彦の害で「作曲家本居長世は沼津をこよなく愛し毎年夏にはこの地を訪れ海辺の生活を楽しんだ」とあり、傍らの副碑には「七つの子」「赤い靴」「汽車ポッポ」など十六曲が作詞者名と共に刻まれていた。

 表題の「七つの子」は大正十年七月号の児童雑誌「金の船」に発表された。 解説に「不吉な黒い鳥として人々に嫌われていたカラスの鳴き声を子煩悩な親の鳴き声にしてこんなにも慈愛あふれる詞にするあたり作詞者野口雨情の人柄の良さ心のやさしさが垣間見られ、たまらなく親しみを覚える」とある。

 七つの子

 烏なぜ哺くの 烏は山に 可愛七つの 子があるからよ 可愛可愛と 烏は啼くの 可愛可愛と啼くんだよ 山の古巣に いって見て御覧 丸い眼をした いい子だよ

 本居長世は国学者本居宣長から六代目にあたり、明治十八年、東京御徒町に生まれ、東京音楽学校(現東京芸大)を卒業。明治時代の唱歌に代わり大正から昭和にかけて童謡を作曲、童謡隆盛の一角を担った。

 大正九年、中山晋平の紹介で「金の船」に「葱坊主」を発表、新日本音楽大演奏会で発表した「十五夜お月さん」は、長女みどりの歌によって一躍有名となり、以後、野口雨情等と組んで次々と童謡を発表。その後、次女貴美子(後に三女若葉も)等と共に日本各地で公演を行った。

 大正十二年、関東大震災により甚大な被害が発生すると、日系米国人を中心に多くの援助物資が贈られた。その返礼として日本音楽の演奏旅行が企画され、本居長世も二人の娘と共に参加し、アメリカ各地で公演した。

 先年、東京目黒にある目黒不動尊を参詣した折、近くに住んでいた本居長世を記念し、境内に「十五夜お月さん」の歌碑が建立されていた。

 歌碑の説明文には「童謡は第一流の詩人が子供のために詩を書き第一流の音楽家が曲を付けた世界に誇る日本の児童文化財で…大正九年野口雨情の詩に作曲した"十五夜お月さん"はいかにも日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的作品として重ん'じられました…本居長世を慕う会 童謡の里めぐろ保存会」とあった。

 歌碑にある「十五夜お月さん」を紹介し、結びとしたい。

 十五夜お月さん ごきげんさん 婆やはおいとまとりました 十五夜お月さん妹は いなかへ貰われていきました 十五夜お月さん あさんに もう一度私は 会いたいな

 (歌人、下一丁田)

【沼朝令和3731日(土)寄稿文】

 

七つの子 濱悠人 沼朝令和3年7月31日寄稿文


 

2021年7月26日月曜日

「鎌倉だより」 三木卓 7月 文化人の拠点、沼津兵学校

 


「鎌倉だより」 三木卓 7月

文化人の拠点、沼津兵学校

 梅雨があけた。

 熱海の土石流のおそろしい被害のことを思うと、心が重い。テレビで見た瞬間のすさまじさを決して忘れることは出来ないだろう。

 土地の造成業者たちは、この大惨事を心に刻みつけて、今後の仕事をはげんでもらいたい。ぼくら土地・建物の素人は、相手を信頼して、安全と幸福を買っているのだから。

 「沼津史談」七二号(沼津郷土史研究談話会)がとどいた。この郷土史研究会は、六十年も続いていて、巻末には去年の物故会員たちを悼む文章もある。最年長者として去る十二月十二日になくなられた矢田保久さんは満百五歳である。いろいろな時代を経て来た、沼津知識人たちのねばり強い仕事の場である。

 沼津といえば、まず思い出すのは、沼津兵学校と、御用邸である。 とくに沼津兵学校は、そもそもは駿府藩士のための洋学・兵学の教育機関として江戸時代からあったものだが、維新以降にも大いに力を発揮、日本の近代化推進のポイントとして大きな役割を果たした。

 ここには、沼津兵学校をあつかった講演が二本載っていて、田邉康雄さん「ある幕臣の挑戦」は、沼津兵学校一等教授だった田邉太一(やすかず)の仕事を語っている。また嘉治憲夫さん「田□卯吉・上田敏」は、田口卯吉の四代目にあたる嘉治さんが、田口家とその周辺の文化人のネットワークを描き出している。ここで後者の論文を紹介すると、沼津兵学校がひとつの拠点となっていて、たとえばここで若かった田口卯吉は、英語教師の乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ)の下に下宿してフランス式兵学を学ぶ。また木村熊二も田口をたすけた。田口卯吉は、かれらが認める才能をもう明らかにしていたのだろう。

 田口卯吉は、経済学や文明史家として万能の力を発揮する大知識人となるが、そもそもその曽祖父は、儒学者・陽明学者の佐藤一斎だった。

 また、かれの面倒を見た乙骨太郎乙は儒者乙骨耐軒の子で、その甥は「海潮音」の上田敏である。太郎乙の息子の三郎は作詞家になり、グルックのオペラ「オルフエオ」の訳詞をした。ぼくらがうたってきた唱歌も、かれの詞が多い。

 また木村熊二は明治女学校をつくったことで知られる。同校は野上弥生子や羽仁もと子、新宿中村屋創業の相馬黒光などを輩出した。

 沼津兵学校つながりの知識人・文化人が沼津と東京の西片町というもう一つの拠点を得て、近代化を促進していった。田口家で写した若き日の上田敏や近藤朔風(「口ーレライ」の訳詞者)や乙骨三郎らの集合写真を見ると、感動が湧いてくる。

 神山明久さん「渋沢栄一と沼津その足跡を語る」は、渋沢栄一が沼津で牧場ビジネスとかかわっていたこと、その事業会社「耕牧舎沼津店」が、沼津御用邸に牛乳を調達するために設けられた支店であったのではないか、と語っている。御用邸の御用を受けていたらしいが、皇族方が飲まれる「御用達」かどうかは判然としない。

 しかし、神山さんの熱意ある努力で、明治はじめ頃からの日本における牛乳の普及事情や、明治政府が牛乳を飲むことを推奨していて、明治天皇が牛乳を初めて飲んだのは、明治四年十一月だったとか、当時の産業としての牛乳の発展の様子などがわかっておもしろかった。

 ぼくが社研所属の高校生だった昭和二十六年、函南村の農村実態調査に参加したが、この村が牛乳生産に熱心でしぼりたての牛乳を飲ませてもらったことをおぼえている。市販のものとはちがう、脂肪のギラギラ浮いた、迫力があるもので、ぼくはたじたじとなった。そういう体験が出来たのも故あることだった、と知った。

(作家、鎌倉市在住)

【静岡新聞令和3年7月26日(月)「文化・芸術」朝刊】

2021年7月22日木曜日

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「沼津駅北地区」小話 中山康之 【沼朝令和3年7月22日(木)号】

 


「沼津駅北地区」小話 中山康之

 沼津駅北地区のイシバシプラザ・イトーヨーカドー沼津店が8月に閉店となる。長く市民に愛されてきたショッピングモール。寂しく、また、とても残念に思う。同時に沼津駅南口周辺の複数の大型商業施設の撤退や小売店の閉店を含めて、沼津のまちの行く末が案じられる。

 ところで、イトーヨーカドー沼津店の北西側の敷地の一角に神社があるのをご存知だろうか。第六天という名が付けられた神社である。昭和3年、昭和天皇の御即位を祝して、当時この地にあった紡績工場の林組沼津支店が再建したものである。

 神社の由来について再建碑の碑文には「神社の証跡がなく、また口碑に徹するに往古よりこの地の鎮守にして常に住民の尊崇の中心たり」とある。

 再建碑のある高島本町は、江戸時代は七反田村と称せられていた所である。そして神社は、代々この村の庄屋を務めていた、その屋敷の中にあった。再建碑に証跡がないとあるが、前身は、その庄屋の家に「屋敷神」として祀られていたものである。

 この庄屋の家は明治後期まで、沼津駅北口周辺から愛鷹山の麓まで土地を所有する地主だった。私の父方の明治20年生まれの祖父は、この庄屋の家の出身である。祖父の話では、沼津駅が開業した頃、我が家の土地を通らなければ沼津駅には行けなかったという。

 江戸時代の古地図による沼津駅北地区周辺は、七反田村の集落を除き、水田が広がっていた。明治維新後、日本の近代化政策に伴って工業化が進み、北地区周辺は徐々に都市化されていった。特に明治22年の沼津駅開業は、その発展を後押しした。製糸会社の工場が出来、繭の取引市場も出来た。しかし、祖父の家は時代の大きなうねりの中で事業に失敗。家、土地の全てを失い没落した。

 その土地の一部が製糸会社の工場である。大正の初期、長野の岡谷から林組が進出。そして林組は昭和5年から6年にかけての昭和恐慌で撤退する。その跡を買収したのが横浜の生糸問屋石橋商会による石橋沼津製糸である。さらに戦後を経て、繊維産業に勢いがなくなると、次に出来たのが今のイシバシプラザ・イトーヨーカドー沼津店である。

 栄枯盛衰は常というが、時代の移り変わりをこれらのことでつくづく感じる。その沼津のまちは、果たしてこれからどうなるのだろうか。

 明治期、沼津駅の開業がまちの発展に結び付いたように、令和の沼津駅鉄道高架化事業がまちの発展にどう結び付けられていくのか。人口減少やコロナ禍の中、その英知が強く間われることになる。

 鉄道は人や物を単に運ぶだけのものではない。鉄路の拠点となる駅は、まちの顔であり、まちのあらゆる産業や生活を支えていく。言うならば、まちの発展を左有するもの。そのことを肝に銘じ、官も民も協力して沼津駅周辺の整備・発展に当たってほしい。

(元沼津市総合計画審議会委員)

【沼朝令和3722日(木)号】

2021年7月8日木曜日

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