2013年11月28日木曜日

千本松原守った若山牧水

千本松原守った若山牧水
片浜地区社協が福祉講演会
牧水会 林理事長が講演

片浜地区社会福祉協議会(佐々木健会長)は福祉講演会を、このほど片浜地区センターで開催。沼津牧水会理事長の林茂樹・乗運寺住職が「若山牧水と沼津」をテーマに話した。林住職の祖父は、千本松原伐採の反対運動を通じて牧水と知り合いになった。同寺には牧水と妻喜志子が眠る。

お上の計画中止させる
自然保護運動の先駆け
林住職は、まず「牧水をめぐる三人の女性」について語り、最初に母親マキを挙げた。
マキは野山に出かけるのが好きで、牧水を連れて行っては樹木の名称を教えた。牧水の短歌には樹木や鳥の名前が多く出てくるが、これらは全て母親から教わったものだと書いているという。
牧水の本名は繁。筆名「牧水」の「牧」は母親のマキから取っていて、「水」は海の水のことで母親から教わった自然を指している。このように牧水は、母親なしには語
れない。
二番目に挙げたのは、早稲田大学時代、宮崎県に帰省した時に知り合った園田小枝子。彼女との恋愛が大学時代に制作した第一歌集に収められているが、彼女は子持ちの人妻で、牧水は自分の下宿に連れて行くほど熱愛していたが、小枝子は後に別の男性と結婚する。
牧水は大変なショックを受けて荒れ、多い時には三日で一斗(一升の十倍の一八・〇三九リットル)、最低でも一日一升を飲んでいたと言われ、それから酒なしではいられないようになったという。
林住職は、牧水どん底時代の歌として「自玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」を紹介しながら、後に信州への旅で出会う、牧水を巡る三番目の女性、後に妻となる太田喜志子について話した。
「この女性と出会ったことが牧水にとって大変な幸せだった。牧水は、この女性に出会った瞬間、自分はこの女性によって救われると直感した」とし、東京に戻った牧水は毎日のようにラブレターを書き続けたこと、それが今、若山牧水記念館に展示してあることを説明した。
喜志子は学校の先生で、牧水の誘いを受けることは職を失うことを意味していたが、牧水の情熱に負けて東京に出る。牧水は短歌で生計を立てることを決めていて、大変な生活が待っていたが、「ひたすら奥さんの喜志子さんが支えた」と林住職。
また、「牧水は喜志子さんにも園田小枝子とのことを全て話していた」と思えること、自身が何度も目にしたという喜志子さんは「凛とした背筋のピンとした人」だったことを語った。
この後、牧水が東京から沼津に移り住み、千本松原に隣接する五百坪の土地を買って初めての自宅を建設したこと、自宅を建ててから日課としたのが松原の散策で、酒を二合飲んでから松林の中を歩いていたことなどを話した。
大正十五年に千本松原の御料林が県に払い下げられ県有林になると、県が一部を切って財政の足しにしようとした計画が立てられる。牧水が、いつものように散歩していると、大きな松や堂々とした松に限って印が付けられており不審に思っていたところ、伐採計画であると知り激怒する。
この伐採計画反対は市民運動になり、当時の全国紙に牧水が投稿し、三日間、連載の形で掲載される。この寄稿で牧水は千本松原を日本一の松原だと称えている。新聞を通じ全国に知れ渡ったことで県は計画を中止せざるを得なくなった。
林住職は「この時代、お上の決めたことが住民の反対でつぶれたということは、ほとんどなかったと思う。それより大事なのは、牧水は自然保護運動の先駆けだったこと。沼津の人達は千本松原を守った牧水のことを知ってほしい」と話した。
《沼朝平成25年11月28日(木)号》

2013年11月27日水曜日

産業遺産を歩く:平成25年11月27日(水)靜新記事より

 琵琶湖疏水 京都市・大津市
 産業遺産を歩く
 地域主導の大土木事業

 琵琶湖クルーズの観光船が滋賀県・大津港を出港すると、まもなく左側に水路がチラリと見える。琵琶湖疏水(そすい)だ。古くは舟運などで産業を支え、今は京都市民約147万人の「上水道の99%を担う『命の水』」(水田雅博・京都市上下水道局長)が流れる。
 疏水は、大津市から京都市伏見区に至るまで、周囲の景観にすっかり溶け込み、沿線は紅葉や桜、四季折々の花が咲き誇る。疏水沿いで育った、JR東海初代社長で現相談役の須田寛(82)は「帰郷のたびに疏水の流れを見るのが楽しみ」と話す。
 ◇◆◇
 疏水の開削は、明治の東京遷都に伴い、10万単位で人口が激減した京都再生のため、殖産振興の切り札となった。多くの先人が開削を夢見たが、実行したのは3代目京都府知事・北垣国道だ。工部大学校(東京大工学部の前身)を卒業した当時21歳の田辺朔郎(1861~1944年)を主任技師に起用し、4年余の難工事の末、1890(明治23)年、大津-蹴上(けあげ)(東山区)間が完成。以来123年、疏水は京都を潤し続ける。
 大津市小関ー藤尾間を結ぶ約2・4㌔のトンネルは、当時日本最長だった柳ケ瀬・鉄道トンネル(滋賀・福井県境)の記録を塗り替えた。日本初の鉄筋コンクリート橋(山科区)も設計した田辺は、開削終盤に渡米し、世界初の水力発電所を視察。水車計画を変更し日本初の水力発電所を蹴上に建設し、その電力は日本初の路面電車を京都市内に走らせた。
 世界を驚かせたのは、外国人技師頼りだった大土木事業を日本人の手で成し遂げたことだ。国内的にも、国営ではなく、大半が地域主導での壮挙だった。
 「琵琶湖疏水はリニア新幹線に匹敵する偉業」と指摘するのは、「国土強靱(きうじん)化」を提唱し、昨年末の安倍晋三内閣発足時に内閣官房参与となった藤井聡京都大教授(45)=都市社会工学専攻=だ。疏水事業で培った京都の進取の気性は、西陣はじめ伝統産業を勇気づけ、その後の京都発のベンチャー企業群誕生に弾みをつけた。
 ◇◆◇
 大津と京都、大阪を結ぶ舟を曳くために設け、形態保存されるインクライン(傾斜軌道)など琵琶湖疏水の12カ所は1996(平成8)年、文化遺産として国の史跡に指定、6年前には近代化産業遺産群にも認定された。今なお現役の疏水について、伏見区生まれで土木学会元会長の中村英夫東大名誉教授(77)は「運輸、製造、潅漑(かんがい)、防火…と、多目的運河だったことが大きい」と説く。
 田辺はその後も北海道の鉄道敷設に尽力し、京都帝国大教授などを務め、関門海底トンネル建設も提言。現場第一の人であった。
 田辺の銅像は、蹴上広場から市街を優しく見守っているようだ。鴨川の東を南北に貫く川端通に架かる疏水の橋には名が残る。ひっそり目立たない「田辺橋」と「田辺小橋」。橋から東山を仰ぎ、直線で8㌔ほど先にある琵琶湖に向けて歩を進めると、開削に懸けた先人の気概を感じ、心地いい。
京都新聞社 文・河内量
《靜新平成25年11月27日(水)近代の礎》

メモ
 冷泉通川端西入ルの鴨川合流点一伏見区(通称・鴨川運河)を含めた第1疏水の全長約20㌔、大津一蹴上間のほぼ全線がトンネルで、1912年完成の第2疏水の全長約7.4㌔、蹴上から北へ全長約3.3㌔の疏水分線などで構成する。水は平安神宮など大小庭園にも流れる。第1期の開削工費125万円は、現在価値で約1兆円。湖からの1日平均流量は10トントラックで17万2000台分。国は、1996年、インクラインや南禅寺・水路閣、各トンネル出口洞門など関連12カ所を史跡に指定した。2007年には経産省が蹴上の浄水場や発電所などを加えて近代化産業遺産群に認定。琵琶湖疏水記念館
<電075(752)2530>。


参考(代戯館HPより)
田辺朔郎と沼津のご縁
田辺朔朗(沼津兵学校附属小学校卒)
博士少年時の敏育・沼津小學校に入る

博士は家運の傾ける甚しき間、即ち十一歳まで沼津の小學校に通うて居た。それは前将軍慶喜の静岡に移さるるを同時に奮幕臣は一様に濱松静岡沼津に配分して居住を許され。叔父太一氏は沼津の兵學校に教務を執り、從って田邊一族は氏に伴はれて再び東京を離れ、其の地に移住して居た關係からである。而して明治四年に至り太一氏は新政府に用ひられて、外務省に任官したので、博士の家もまた翌五年に東京に転じた。當時の子弟敢育の機關は、英漢数の學を箇々別々に授ける私塾のみであつた故に博士は東京移転後、湯島天神下なる共慣義塾に入ってその授業を受けることとなった。


2013年11月25日月曜日

黎明新聞昭和31年7月5日号に新作二本立て95円の記事。

 映画料金協定成る
 新作二本は九十五円に
 沼津映画協会では入場料の最低料金について各館とも統一することを申合せ十三日から実施する。
 ○新作二本立九十五円(最低料金)
 ○新作と再上映の二本立七十円。
 ○再上映のみ二本立五十円
券発売中、三枚つづり九十円、このクーポン券とはナイト・シヨウ四十円の所を三十円で夏の夜をたのしめるというもので、いつのナイト番組にも共通する特典券である。
(黎明新聞昭和31年7月5日号)

2013年11月18日月曜日

55年の歴史を閉じた、西武沼津店、沼津進出時の攻防。沼朝の記事。

西武百貨店沼津進出問題沼津朝日新聞 昭和31年・32年記事一覧
駅前に西武百貨店 廿七日商連が対策協議
駅前、駿鉄の角へ西武百貨店沼津支店が建設される。地下一階、地上六階、三三七〇・六九一平方米の近代百貨店で、駅前の一偉観となるが東京資本によるこのデパート進出に対して・商店街連盟では、二十七日午後二時から役員会をひらき・対策を講ずると共に、意見書を通産省企業局商務課に堤出する。
地上六階のビル 来年二月から開業
西武百貨店(東京都豊島区池袋二丁目一一八八)では大手町五番地駿鉄角へ、沼津支店の新設を計画し〃西武鉄道、駿豆鉄道ビル〃として清水組によって工事が進められているがこれは鉄筋コンクリーと六階建三、五七〇・六九一平方米(地下一階四二四・一〇四平方米地上六階三、一四六・七平方米)の近代百貨店で、松坂屋静岡支店よりは小さいが、松菱沼津支店の二倍ほどの大きさ。塔屋には、さらにもう一階延べ八階のビルで、衣料、家庭用品、雑貨、食料品、加工修理、卸売などの売場のほか、美容室(三三平方米)食堂(四〇二平方米)が計画され営業開始は三十二年二月末日からと予定されている。
商店街に脅威? 五日までに意見書
松菱につづいて、それよりも更に大きいこの西武百貨店の進出に対して、商店街では生命線を脅かされるものとして強硬に反対する向と、却って商店街の繁栄になるものと、意見はさまざま商店街連盟(会.長大僑親一氏)では、二一十七日午後二時から商工会議所で役員会をひらき、対策について協議、意見書をとりまとめて九月五日までに通産省企業局商務課へ提出することになった。
《沼朝昭和31年8月24日(金)号》

西武百貨に街の聲
廿九日に諮問委員会
本紙既報のとおり、西武百貨店では(駅前駿鉄角に地下一階地上六階、三、五七〇・六九一平方米の沼津支店の建築に着手、来年二月末開業の準備を進めているが、市民間では市の繁栄策として歓迎する者と、商店街は生命線か脅かされると反対する者と、二つの意見か対立している。
これに対し商工会議所では、二十九日午後一時から卸売業者、小売業者、百貨店、消費者各代表、学識経験者、公共団休職員、商議所役員など二十数名で構成する諮問委員会(商業活動調整協議会)をひらき、九月五目までに通産省企業局商業課に意見書を提出する。
生命線を脅かす"
西武デパート沼津進出に対して、今日午後三時から.大手共栄会、仲見世商店街、上土振興会、上本通共栄会、アーケード街大成会、南部商店街、沼津専門店会沼津サービス店会、沼津チエーンストア会の代表者は商工会議所に集つて協議したが、商店街連盟としては生命線を脅すものとして反対を表明、し問委員会にこれを具申すると共に、通産省企楽局商業課に陳惰を行うことになつた。
各代表者の意見ーー。 田村靖雄氏(アーケード街大成会)
沼津の入口は周辺を入れて十五万人だ。静岡や浜松のように周辺人口を加えて三十万もある都市なら影響は少いだろうが、沼津では共倒れになる公算大だ。将来はどうか知らないが、現状では反対だ。
柴田正氏(上土振興会) 駅前に大資本のデパートが出来るということは、商店街にとつて非常な脅威だ。たださえ立地条件のわるい上土の商店街は大打撃になる。多数の地元商店の死活問題として遠慮してもらいたいというのが、大部分の意見だ
加藤俊輔氏(上本通共栄会) 市の発展のためには結構だという人があるかも知れない.また商店としても、立場によつては喜ぶ人があるかも知れない。それぞれ利害の立場に於いて違うと思うが、商店街としては脅威だ。反対せざるを得ないと思う。
杉山猪作氏(沼津サービス店会) 大反対だ。駅前に六階層もの大デパートが出来たら、大手も、上土も、本通りも、木町の商店街も客がここで、食いとめられしてしまい。苦しいやりくりを続けている商店街にとつては大打撃だ。
消費人口は増える だが商店街は大打撃
犬川角太郎氏(仲見世商店街) 狭い見地から賛否をきめるのはいけないと思う。早計にきめず、静岡や浜松の事例をよく調整したい。
大竹新太郎氏(南部商店街) みんなの意見はまだまとまつていない。しかし個人の考えとしては、困るには困るが、防げないではないかと思う。大デパートが田来ることによつて、市は繁栄し、また消資人口もふえると思うが、これがはたして商店街にいい結果になるかどうか、デパートはよくとも、われわれは駄目になるのではないかと心配だ。
山本義重氏(沼津専門店会) 専門店会ではチケツトを.利用して、長期分割収入を行つているが、東京あたりのデパートでも、これと同じ方法で月賦販売をはじめている。大資本のデパートで、同じことをされたらとてもかなわない。
渡辺盛作氏(沼津チエーンストア) 反対もあリ、贅成もある人の利害によっていろいろ違うが、大勢は反対の線だ。
《沼朝昭和31年8月28日(火)》

賛否両意見を提出 "西武百貨の公聴会“
駅前に建築工事をはじめている西武百貨店沼津支店の新設に対して、利害閣係ある事業者及び団体、学識経験者などを以て構成する沼津市商業活動調整協議会は、きのう午後一時から商工会議所会議室で公聴会をひらいたが、東京資本のデパートの進出は商店街を脅かすとして反対するものと時期尚早を論ずるものと、これとは別の見地から、大局的に市の繁栄になるとして賛成するもの場から活発な意見が開陳された。
同協議会では、九月五日までに通産省企業局商務諜に意見書を提出することになっているが、結論に至らないでの、公聴会そのまま発言をまとめて提出することになった。

市の発展になる だが商店街は反対
西武百貨店の新設について意見か求めるため商業活動調整協議会では、各階層から次の二十三氏を委嘱、きのう午後一時から公聴会をひらいた。
◇商業活動調整協議会委員
百貨店代表西川伝九郎(松菱沼津支店長)卸売業者代表岡田吾市(酒類卸商)同増田慶三(魚類卸商)同大橋規一(沼津青果市場専務取締役)小売代表吉邨勇(大手町大栄会々長)同柴田正(上土振興会会長)田村靖雄(アーケード大成会会長)同加藤俊輔(上本通り共栄会会長)
消費者代表大野虎雄(市社会福祉協議会副会長)井関幸子(市連合婦人会会長)稲玉むめ(市赤十字奉仕団長)竹内鉄次郎(県士木建協会東部支部長)
学識経験者西脇仁(商業高校校長)中江斎(工業高校々長)加藤ふじ(女子商業高校々長)地方公共団体職員内藤政次(沼津電話局長)土持留男(市商工観光課長)杉山善四郎(市農林水産課長)
商工会議所杉山猪作(繊維商業部会長)真野民次(金属商業部会長)大沼栄吉(雑貨商業部会長)田中保(食品部会長)森喜世彦(専務理事)
公聴会は自由な立場で束縛なく意見を開陳するためとして、非公開で行われたが、商店街筋は反対、消費者側は賛成、条件論なども出たが結論にいたらなかった。
(沼朝昭和31年8月30日号)

西武反対不可能か 百貨店審査会五月まで見送り
駅煎に建設中の西武デパート'開店をめぐつて地元小売発商の反対と消費者の賛成意見が衝突、営業許司の実際的発言権を持つ百貨店審査会が十六日開かれ、最終的決定がでるものと注目されていたが、中村東京通産局長は、地元商店街連盟と西武側とが折り合わず、正面衝突の状態でいるため遂に審査会を延期、建物が竣工する五月まで双方の歩みよりを期待する態度をみせている。
沼津商店街連盟杉山会長はじめ幹部八名は森商議事務長と同行、十六日東京通産局を訪れ、中村局長と会見、反対陳情を行い、種々懇談したが、百貨店審査会開催を通産大臣に答申する権限を持つ局長は、「建築も現在進行中のことではあるし、絶対的に反対は扱いに困るし、影響についでは今後に待たなければ好結果か悪結果は判断はできず、むしろ地元側としては夜間営業、貸売、外売或いは売場などの制限や、商品の地元製造品や卸品の買い上げなど協定を結んで相携えていったら却って好影響も期待されないか、無論デパート側の地元との不協力的なやり方については注意する」との希望意見を述べている。
これについて近く局長斡旋でデパート側と地元商連との会見が行われるものとみられる。
(沼朝昭和32年1月18日号)

西武百貨店に制限
商連がきょう申入れ
百貨店審議会を無期延期ざせた沼津商店街連盟の西武デパート開店反対運動は、去る十六日通産局に陳情の折、中村通産局長から「絶対反対でなく、何んらかの話し合いで、歩みよってもらいたい」との意向が伝えちれたが、きよう二十五日午前十一時から東京通産局で杉山商連会長ら五名と西武デパート代表五名が初会見を行い、意見の交換を行うことになった。
西武側としては地上五階地下一階を全部デパートとして使用したい気持らしいが、地元商連側としは売り場階数や外売りなどの制限を相当強く申入れるもようである。
(沼朝昭和32年1月25日号)

西武商戦異状あり 商連と話合い.物分れ
沼津駅前に進出、着々と工事を進めている西武デパー(駿豆ビル)の全階営業(地下一階、地上六階)に反対する地元沼津市商店街連盟(会長杉山猪作氏)は二十五日東京通産局長の斡旋により同局で西武側代表と初会見をしたが、「全階は認めぬ」という地元側と“通産局の妥協案に応じられぬ”の西武と双方の主張意見は真向うから対立して物別れとなり、五月上旬竣工する同ビルをめぐり開店の裁断は通産局の原一つとなったが、両者が譲らないところから今後の成り行きが注目されている。
仲裁案は二割削減 双方ともに譲らず
両代表の会議は二十五日午前十一時から通産局で、地元沼津商店街連盟から杉山会長、吉邨、田村副会長、土屋理事と森商議所事務局長、西武側からは堤清二社長、伊藤総務課長以下代表五名が出席し、中村通産局長と地元の世論を調査にきた江下商工課長が立ち会って行われた。
この会見で西武側は全.階営業面積千八十坪の一割百八十坪使用削減で地元の同意を受け付けず、中村局長は二割の二百六坪を削ったらどうかと提案したが“これ以上の譲歩は絶対に出来ない”と断った。
これに対し地元沼津商店街側は百貨店法にふれぬ範糊内で営業(二階で営業場所四百五十坪)するならばよいがそれ以上では許せないと云い張り、双方の主張は大きな開きをみせ、物別れとなってしまった。
この意見の対立をよそに工事は一億二千万円の工費で着々進められ、すでに五階までを完了、残る一階と内外の装飾をするだけとなっているだけに、早期結論が急がれる。
(沼朝昭和32年1月27日号)

2013年11月7日木曜日

「近世沼津の学問と井口省吾」 松村由紀

「近世沼津の学問と井口省吾」 松村由紀

 以前、小学生の女の子に、江戸時代の和本、いわゆる「往来物」と呼ばれる本を見せてあげたことがある。「昔の子ども達が使っていた教科害だよ」と言うと、「えっ、こんなに薄いの?昔の人はいいなあ。」と答えた。
 率直な反応に思わず笑ってしまったが、現代の子ども達は教科によっては一〇〇ページ崖超えるような教科書を使って毎日勉強しているのだから無理もないか、と思う。
 江戸時代、藩士の子弟は藩が設けた藩校で儒学などを学んだ。沼津城下においては、文化年間(一八〇四~一八)水野忠成の時代に「矜式館(きょうしょくかん)」が設立された。文久年間(一八六一~六四)にはヒ「明親館」と改各され、江戸藩邸にも分校が出来た。
 当初、江戸藩邸に教育施設は無く、皆川淇園門下の東条一堂の家塾などで家中教育が行われていた。東条塾の隣には幕末三大道場のひとつ、北辰一刀流・千葉周作の玄武館があり、現在、その跡地には二つの施設の事跡を記した石碑が建っている。
 この頃、庶民の子弟達は、寺子屋や手習塾で、いわゆる「読み」「書き」「そろばん」といった実用的な教育を受けていた。一説には江戸時代の識字率の高さは世界一とも言われ、貸本業なども大いに繁盛していたというから、庶民の文化度は高かったと考えられる。
 沼津には漢学で大きな業績を残した二つの家があった。
 ひとつは医家である島津家で、沼津を代表する漢学者・島津退翁は沼津城下で最初の私塾を開き、身分を間わず儒学を教えていた。退翁の養子・一斎は、沼津藩お抱えの医師及び儒官として登用されている。
 もうひとつは三枚橋町の豪商・鈴木家で、沼津宿の問屋を輪番で勤める大地主だった。四代にわたって学問を修め、数々の著書も残している。
 沼津史談会公開購座『沼津ふるさとづくり塾』第6回は十一月十六日(土)、午後一時から「近世沼津の学問」と題し、元市立沼津高等学校及び県立沼津西高等学校教諭で、沼津市史特任調査員として、沼津の漢学及び俳諧について執筆された牧島光春先生を講師にお迎えして市立図書館四階講座室で開催する。
 丹念な調査・研究に定評のある先生の講義に是非お越しいただきたい。事前の申し込みがなくても受講可。資料代として五百円(会員は二百円)が必要。
 さて、牧島先生の市史での記述には直接関係ないが、筆者としては江戸時代末期から明治初期にかけての激動の時代に青春期を過ごした沼津人、井口省吾陸軍大将の学問はどうだったのかということに思いを馳せてみた。
 井口省書は安政の大地震発生の翌年、安政二年(一八五五)八月、上石田村に生を享け、元治元年(一八六四)、九歳で島津一斎の長子・得山(恂堂)から漢学を学び、その後、沼津兵学校附属小学校に進んだ。
 明治六年(一八七三)、三枚橋町・鈴木与兵衛の依頼を受けた元沼津兵学校頭取・西周の紹介により、従兄弟の鈴木健橘郎と共に、井口省吾は十八歳で中村正直開設による高名な東京の私塾「同人社」に入門。その後、陸軍士官学校、更に陸軍大学校に進んでいる。
 沼津での学問が、いわゆる"坂の上の雲"に結び付いた稀有な例であるが、時代がもたらした様々な巡り合わせに驚かされた次第である。
 井口省吾の足跡については、本会会員の弁護士、井口賢明氏がライフワークとして研究中であり、『沼津ふるさとづくり塾』の中では今年七月の井口賢明氏による、井口省吾のドイツ留学時代を中心とした講座を出発点に、来年以降も継続予定とのこと。更なる研究の進展に期待したい。(沼津史談会会員、長泉町)
《沼朝平成25年11月7日(木)投稿文》