2023年10月21日土曜日

狩野川改修計画平面図(部分)   昭和9年11月

 



 狩野川改修計画平面図(部分)   昭和911

 内務省横浜土木出張所発行

 吉田町の榊原公幸さんから提供された昭和初期の狩野(らすい)(しんね)川流域の治水事業の進捗状況を示す資料を紹介します。

 狩野川の治水事業の計画は、昭和4年に内務省横浜土木出張所から発行された『狩野川改修工事計画概要』にその計画概要が記されています。これには計画平面図も添付されていますが、この図に昭和9(1934)11月現在の工事の進捗状況を書き加えたのがこの平面図です。

 計画概要によれば改修工事は昭和2年度から14年度までの13箇年度継続事業として総工費予算635万円を以って施工するもので、その範囲は修善寺町から海に至る26kmに黄瀬川合流点から上流1㎞を加えた27㎞でした。その要旨は洪水による各種損害を防止し、併(あわ)せて沿岸耕地の排水を良くするものであり、工事内容は概(おおむ)ね両岸に新堤を築き、大平の蛇行部を新たに掘削して直通し、壗之上(ままのうえ)・徳倉の狭隘(きょうあい)部は掘削して拡幅し、洪水を快通(かいつう)ささせ、下流部は川幅を拡張し、新堤を築くとともに堤外を掘削し、低水路を浚渫(しゅんせつ)し、舟運(しょううん)の利便も向上させるというものでした。

 昭和42年、建設省沼津工事事務所発行の『狩野川放(わおほら)水路工事誌』によれば、上香貫大洞に改修事務所を設置し、実際に工事に着手したのは昭和4年からでした。その後、昭和8年に期間が3か年延長され17年度までとなり、それ以後も継続事業として小規模な改修工事が続けられ、昭和23年度頃に打切竣功(うらきりしゅんこう)で終了したようです。

 この図は、計画期間延長直後にそれまでの進捗状況を示したものと見られます。この時点で大平地区の蛇行部の短絡(たんらく)水路の掘削や両岸の築堤、上香貫地区の流路拡幅掘削や築堤も概ね完了しています。河口部の両岸の掘削と築堤は工事中です。

 『狩野川放水路工事誌』には、昭和8年の竣工図が載(の)せられていますが、それによると大平地区の蛇行部の築堤は完了していますが、短絡水路はまだ掘削中の様です。

 昭和63年、清水町外原区(そとはらく)発行の『外原』に掲載されている『大平捷水路(しょうすいろ)通水式記念絵葉書』には「9.7.29通水記念1のスタンプが押されており、掘削は昭和97月に通水できるまでに進捗したと見られます。

(沼津市歴史民俗資料館「資料館だより」2392023925日発行)


魚見のある風景⑰ 西浦足保片瀬(かたせ)・小足保(こあしぼ)

 




 魚見のある風景⑰ 西浦足保片瀬(かたせ)・小足保(こあしぼ)

 この絵葉書は、表面(宛名面)の体裁(ていさい)から大正7(1918)から昭和8(1933)までの間に製作されたと考えられるもので、袋入りの5枚セットの内の1枚です。外袋には『伊豆ノ勝地西浦名勝絵葉書』とあり、西浦の渡辺薬店が発行したものです。

 写真中央左に電柱があり、その先端付近に3艘(そう)の漁船が見え、その左にも1艘の漁船が見え、その船に向かって中央右の岩礁(がんしょう)から竹を束にしたと見られるアンバ(浮き)が点々と延び、船を過ぎると半円形になっているようです。この形から定置網(ていちあみ)の仲間の根拵網(ねこさいあみ)のようです。この当時の『西浦村誌』によれば、西浦では久連(くずら)から久料(くりょう)までの各地域で根持網漁が操業されていたようです。

 根拵網は末端の「U」字形の囲いの中に魚群が入るのを待って、その口を引き上げて塞(ふさ)ぐ必要があり、口が広くて入りやすい反面(はんめん)、逃げ出すことも容易で、網の中の様子を常時見張っていなければなりません。そのために網の様子が見える高いところに見張台を設ける必要があります。その見張り台である魚見櫓(うおみやぐら)が右上

の林の上に小さく写っています。

魚見櫓は、四本柱の二階建てで、二階には切妻(きりづま)屋根の小屋が設けられています。小屋の外壁は下見(したみ)板で囲われているようで開口部が見えませんが、裏側の海が見える側が広く開いていると考えられます。

 正確な位置は不明ですが、背景の静浦山地の象山(徳倉山)の形から、西浦足保の片瀬から小足保の海岸付近と推定されます。

(沼津市歴史民俗資料館「資料館だより」2392023925日発行)


覚えていますか? BIVIオープン式典 齊籐沼津市長 (平成18年4月15日撮影)

 




2023年10月19日木曜日

覚えていますか?ウイステリア大手町1Fのセブンイレブン(平成19年2月26日撮影)

 




231019平成19年7月7日沼津みなみ商店街七夕イベントアーカイブスas

231019懐かしのわたやす本店平成19年5月26日撮影as

231019懐かしのわたやす本店平成19年5月26日撮影as

231019平成19年7月7日沼津みなみ商店街七夕イベントアーカイブスas

平成19年7月7日 沼津みなみ商店街七夕イベント 重鎮勢揃い。Y氏・F氏は今天国で今の商店街の現状をどのように見ているでしょうか?

   












2023年10月18日水曜日

覚えていますか?上本通り商店街アーケード看板 マルトモ本店(現在駐車場)の看板も写っている。

 






覚えていますか?沼津倶楽部での棋聖戦 藤井八冠はまだ11歳だった。

 



沼津拘置支所の変遷

 

 沼津拘置支所

 

沿革

水野藩の牢 沼津宿本字松下の千本浜寄りに、水野藩時代の牢屋があり、敷地一二〇坪、建物物棟三六坪であったが、明治元年(一八六八)に静岡藩の管轄となり、同四年七月の廃藩置県により静岡県に移管された。この獄舎は明治十年四月に至り、旧沼津城大手門脇に監獄が新設されたので廃棄された。新監獄は建坪九一坪余であったがその後病監や説教所などを増築して、敷地がしだいに狭隘となり、そのうえ街の中心地に存在することの不適当を考慮し、蓮光寺東方の三枚橋字清水上に、敷地一、三〇八坪を購入し獄舎を新築して、同二十三年三月ここに移転し、静岡監獄沼津支所と称した。同二十八年三月下田の監獄支所が廃止されて、その受刑者は沼津支所に収容された。沼津支所は明治三十六年三月、静岡監獄沼津分監と改称された。この分監は十四歳から十八歳での受刑者を収容する未成年監と十八歳以上の未決拘禁者を収容する未決監であった。

 大正二年(一九一三)三月三日の大火後、沼津区裁判所の南隣に敷地六二八坪を入手し、獄舎延五〇八坪を新築して移転し、静岡監獄沼津出張所と改称した。当時この出張所は駿東・富士・田方・賀茂四郡下の刑期二ヵ月以下の服役者、罰金刑を体刑に代えた労役囚および未決拘禁者を収容し、少年受刑者は収容しないことになった。昭和四年十二月二十七日には沼津刑務支所と改称した。

 昭和二十年(一九四五)七月十七日の戦火により、外塀を残して庁舎と収容所を焼失し、一時沼津警察署の留置場を借用して未決拘禁者を収容していたが、同二十一年四月から岡宮字反田に在った元静岡刑務所沼津作業場跡のバラック建一棟、建坪二三五坪を改造し仮設収容所とした。この建物については次の挿話がある。沼津海軍工廠の敷地は排水の便が悪く難渋していたので、静岡刑務所の服役者に工廠地から束間門の海岸に通ずる排水路を堀さくさせることになり、工廠が前記岡宮に収容所を建設し、昭和十九年春ころから囚人三〇〇~四〇〇人をここに収容して、上流方面から掘削事業を開始したが、完成に終戦となり、以後は市が計画を変更して事業を継続した。これは西北部排水路の前身をなすもので、前述の事情により別名を囚人堀という。

 昭和二十四年四月には大手町の焼跡に新庁舎と収容所が竣工したのでここに復帰し、同年六月一日沼津拘置所支所と改称して現在に至った。終戦直後までは司法省の所管であったが、昭和二十二年五月以後は法務庁次いで法務府、さらに現在は法務省の所管となっている。収容定員は明治の末ころ未成年監当時は一二〇人終戦後岡宮仮設収容所当時は一六〇人、昭和二十四年以降は一二八人となっている。また二十六年一月期一日から定員五人の沼津代用少年鑑別所が付設された。

 現況

  現在の収容人員は経理夫(所内の日常役務に従事する服役煮)一五人、未決拘禁者.平均一〇〇人、少年仮収容者および罰金刑を体刑に代えた労役囚数人である。

 現在の職員数は所長一、看守長一副看守長一、看守二六、雁一、傭人一の計三一人である。

 昭和三十四年一月から上香質御幸町に着工した検察庁の鉄筋コンクリート建物のうち、三階と四階が昭和三十六年四月に完成するので、ここが庁舎と収容所に充てられることになった(「沼津市誌上巻」623624頁 625頁 昭和36331日発行)

覚えていますか?平成28年1月24日「ミュージカル お菓子放浪記」

 



2023年10月12日木曜日

覚えていますか? JR高速バス 東京駅行

 




陶壁画 無形文化財 陶芸家 加藤唐九郞氏 昭和40年の作品 千本浜をイメージ。

 





浮世絵「沼津美人」



 


沼津朝日賞を設定 それは昭和31年1月21日(土)沼津朝日新聞紙上での発表であった。

 沼津朝日賞を設定

創刊一千號を記念

 明るい市民生活高揚へ

 沼津朝日新聞は昭和二十七年十二月一日創刊以来、独自の紙面編集をもつて正しい報道と正しい世論の喚起につとめ「市民のための市民の新聞」としての使命達成に努力し、信頼される市民の新聞として読者諸兄の理解ある支持を得て確固たる基盤の上に地方新聞として沼津市はじまって以来の最大発行部数の金字塔を打ち樹て、来る三月二十八日付をもつて一千号を迎えることになりました。本社ではこれを記念し、本年より”沼津朝日賞”を設定、いささかなりとも郷土沼津の文化昂揚と明るい市民生浩の盛りあげに貢献したいと存じます。

 沼津朝日賞は毎年市民の手による功労者の表彰を目途とし、文化、体育、社会事業に於けるかくれた貢献者を顕彰し、今後の市民生活向上に資し仁いと思います。市民

各位のご協力をお願いします。

 文化、体育、社会事業賞牌と副賞一万円

 〃沼津朝日賞〃は、その年間中①文化②体育③社会事業に分けて、顕著な業績を示した沼津市民または沼津市民の団体に、賞牌と副賞一万円宛を贈る。

 これを選考するためには、ひろく市民各階層の有識者から、推選カードによって回答を求め、これにより本社が委嘱する詮衡委員の協議によってこれを決定する但しこの場合、推薦カードの数によって、必ずしも順序はきめない。

【沼朝昭和31121()944号】




三島測候所と箱根測候所の画像