2018年12月27日木曜日

まんが「沼津兵学校物語」根木谷信一



まんが「沼津兵学校物語」根木谷信一
 ー「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けてー
 来る一月二〇日()、午後一時三十分から市民文化センター小ホールにおいて「沼津兵学校創立150周年記念式典」が開催されます。
 会場では『沼津兵学校記念誌』が初めてお目見えしますが、その中で、ひときわ注目されるのが、愛知県西尾市出身の著名な戦国まんが家・すずき孔さんによる、まんが「沼津兵学校物語」です。沼津兵学校創立百五十周年記念事業(フレッシュ150)実行委員会が、この人にこそ、と特別にお願いしたものです。
 孔さんは、沼津史談会の故・松村由紀会員とは以前から歴女仲間として親交があり、数年前から史談会の講座や旅行に参加するため、自宅のある横浜から沼津に度々通い、松村さんと自転軍で市内の史跡や見どころ探索をしてこられました。松村さんが難病で闘病中には何度もお見舞いに来られ、平成二十九年八月に彼女が亡くなった後も、孔さんはお別れの会や追悼の集まりに参加されました。
 今回の作品についても企画段階から取材や調査のため沼津に何度も足を運ばれ、今年九月二十三日には東京都狛江市の杉田玄端(げんたん)のご子孫、鈴木清作氏宅にも本会担当者三人と同行され、物語の核心部分の着想を得られたとのことです。
 玄端は、「解体新書」で知られる杉田玄白の曾孫に当たる、極めて優秀なオランダ医学者で、徳川家と共に静岡に移り、沼津兵学校附属医局に着任しました。明治元年から六年間、沼津に踏み止まり沼津兵学校ゆかりの沼津病院頭取(院長)を務めました。
 明治四年の廃藩置県に伴い沼津病院が廃止されようとした時、玄端は決意の「壁書」を表し、個人で病院経営を引き受けて、庶民のために病院を存続させました。
 玄端は遥か後、昭和二十年七月の沼津大空襲で後身の駿東病院が焼失するまで、七十六年間にわたり地域医療に貢献するための素地を作ったと言えます。
 物語は明治十五年、沼津から東京に戻った後、横浜に引っ越していた「杉田醫院」を舞台に、玄端の六男で、兄弟のうちただ一人沼津生まれの六蔵が十二歳のころ、愛犬タローをめぐる事件に始まります。そのころの横浜は新橋からの鉄道が開通して活気が増していた時期に当たり、杉田家は横浜で医院を開業していたという設定です。
 孔さんは、九月下旬に再び沼津に来られ、市立図書館で映画「沼津兵学校」のビデオを細部まで丹念に鑑賞し、明治史料館で詳細な調査を行いました。その後も研究を重ねてストーリー展開などを検討され、十一月下旬には最初の下書きを拝見しましたが、孔さんの企画力と豊かな表現力に驚かされました。
 さらに国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授や本会担当者の助言を受けて修正を重ね、期限内に仕上げられました。内容は小学校高学年以上なら理解は可能ですが、一番役に立つのは大人で、年齢や性別は関係ないと思います。
 一月二十日は、午後零時半に受け付けを開始します。記念誌は、まんが以外にも見どころ満載で、一冊千円で.す。式典に参加され当日、記念誌をお買い上げの皆様には、沼津史談会が江戸時代末の沼津城絵図を活用して独自に開発した画期的なデジタル地図「沼津まちなか歴史MAP」の改定第三版"街歩きしよう(仕様)"を進呈します。
(フレッシュ150事業担当・沼津史談会副会長、岡一色)
【沼朝平成301227()「沼朝言いたいほうだい」】

2018年12月26日水曜日

近代教育先駆け、明治期担う人材輩出 沼津兵学校「設置150周年」功績知って 有志が記念事業準備



近代教育先駆け、明治期担う人材輩出
沼津兵学校「設置150周年」功績知って
有志が記念事業準備

大政奉還後の徳川家が陸軍将校を育成するため1869年から3年間、現在の沼津市内で付属小学校とともに国内の近代教育の先駆けとなった旧沼津兵学校が2019年、設置から150周年を迎える。国内各分野に果たした役割を伝えようと、市内5団体が設立した実行委員会(委員長・四方一彌・元国士舘大教授)1月の記念事業に向け、準備を進めている。
兵学校は哲学者の西周が初代頭取(校長)を務め、英語やフランス語を必修科目とするなど西洋を模範とした先進的な教育内容と教育制度を実践した。1872年に明治政府に移管されて廃校となったが、学生や教授陣の多くが官僚や教員になり、日本の近代化に大きく貢献した。
 実行委は20176月に発足した。記念式典の開催、記念誌の発行とともに、兵学校と密接な関わりがある静岡藩立沼津病院(駿東病院)の記念碑建立を目指して活動を続けてきた。
 約190㌻の記念誌は県内外の有識者が論考を寄せた。樋口雄彦国立歴史民俗博物館教授による付属小が他県に与えた影響の検証や、漫画家すずき孔さんが執筆した沼津病院の由来を描いた漫画などを盛り込んだ。
 太平洋戦争末期の1945年の大空襲で焼失した病院の再評価にも力を注いだ。古地図などを参考に現在の地図上に場所を特定。現在の市立第一小の北側に碑の建立場所を定めた。
 実行委事務局長を務める沼津郷土史研究談話会の匂坂信吾会長は「兵学校でどんな人がどんなことを教え、そこで学んだ人がどんな活躍をしたかを改めて県民に認識してもらいたい」と意義を語る。
(東部総局・橋爪充)
〈メモ〉記念式典は2019120日午後1時半から沼津市民文化センターで開かれる。徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんが「沼津兵学校創立150周年に寄せて」、国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授が「沼津兵学校から学ぶべきもの」と題してそれぞれ講演する。当日、「沼津兵学校記念誌」を11000円で販売する。入場無料、先着500人。問い合わせは沼津郷土史研究談話会<電055(921)1412>へ。
【静新平成301226()夕刊】

2018年12月23日日曜日

2012年7月22日高尾山古墳シンポジウム資料


駿東病院の薬瓶 長谷川徹




駿東病院の薬瓶 長谷川徹
 ー「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けてー
 来年一月二十日(日)に開催される「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けて、実行委員会では、「沼津病院・駿東病院跡」記念碑の設置や『沼津兵学校記念誌』の制作準備が大詰めを迎えています。
 記念碑チームは、沼津病院跡記念碑の設置予定場所として、旧国道一号(現県道富士清水線)の西条町地先、元鈴与商事沼津支社付近(明治二年三日へ沼津兵学校附属陸軍医局が設置された)を重点に調査をしておりました。
 さらに、支社とガソリンスタンドの建物が撤去されたため鈴与本社に足を運び、記念碑の設置などについて協力をお願いしました。
 今年六月初めに、鈴与から実行委の匂坂信吾事務局長宛てに、整備中の土地から病院関係の遺物が出土したとの連絡が入りました。
 その土地は、明治二年八月に医局を引き継ぐ形で沼津病院が開院され、昭和二十年六月閉院、同七月の沼津大空襲で焼失した、私立駿東病院に至るまで、七十六年間にわたり存続して地域医療に貢献した由緒ある場所です。
 六月十九日()午後一時、西条町の鈴与ガソリンスタンド跡地に実行委員の匂坂、仁王一成と私長谷川が集合しました。現場担当者の話では「先日、地面を掘削していたら昔の病院医療廃棄物(六・五立方㍍)が出てきた」ということで、そこには、駿東病院で使われていたと思われる病院名入りの薬瓶、薬差し、注射器、試験管などが掘り出されていました。また、「人髄消毒消毒
液」と読める薬瓶も発掘したとのことでした。
 そこで医療関係の歴史遺産として、薬瓶などを提供願いたいと依頼しました。
 鈴与から連絡があり、病院関係遺物の整理が終わったのでお渡ししたいとのことで、八月一日()、先の実行委員三人と明治史料館主任学芸員の四人で現場事務所を訪問。
 そこには美しいガラス薬瓶が鎮座し、なんと「駿東病院」「室賀病院」「井手診療所」「人體消毒新薬」と鮮明に刻印されていました。
 医療廃棄物は六月時点より増えていて、ドラム缶八十本分に上り、福島県に運んで処理をしたとのことでした。この発見は病院の建物や設備が失われた現在、ただ一つの歴史的遺産であると私は考えます。そして、合計十五本の薬瓶は、明治史料館に保管されることになりました。
 この歴史的薬瓶は明年一月四日()~二十四日()、大手町の沼津信用金庫本店ぬましんストリートギャラリー企画展「沼津兵学校創立150周年記念展」で披露する予定
です。
 市民の皆様、写真ではなく本物の駿東病院(佐々木次郎三郎が五十年間、院長を務めた)の薬瓶を始め、駿東病院初代院長の室賀録郎が大手町に開業した室賀病院の薬瓶、千本緑町の井出診療所(井手敏彦元沼津市長の父上、井手敏男氏開業の小児科医院)の薬瓶など、七十六年間の歴史資産を鑑賞していただきたいと思います。
(フレッシュ150事業担当・沼津史談会会員、大手町)
【沼朝平成301223()「言いたいほうだい」】

2018年12月22日土曜日

平成30年12月8日(土)「弥生のムラから古墳のムラ」篠原和大教授


↓当日配布資料



駿府城に「秀吉の城」跡 最善の整備方針を模索


駿府城に「秀吉の城」跡
最善の整備方針を模索
 「考古学や城、歴史にあまり興味がない人も発掘現場に来るようになった」。静岡市の駿府城発掘調査で、豊臣秀吉が家臣に築かせた城の跡が見つかったと公表されてから約2カ月。同市葵区の駿府城公園にある発掘現場を訪れる人が増えたことを、ガイドする文化財サポーターは喜ぶ。

 
 発掘現場では現在、秀吉と家康がそれぞれ築いた石垣や秀吉の城に使われていた金箔(きんばく)瓦を見学できる。県内外の城跡ファンはもちろん、「大発見があったと聞いて初めて来た」という帝民も多い。市の担当者は「10月後半の来場者は通常の3倍に増え、12月も多い傾向だ」と話す。"大発見"の兆候を、市の発掘作業員が最初に感じたのは2017年秋のこと。「ないはずの場所に石がある」。調査は年度末で一時中断したが、185月に再開すると、徐々に石垣が姿を現した。近くで金箔瓦も次々と発見。「これまでの遺構とは明らかに違う」「秀吉政権下の城か」ー。作業員の間に高揚感が広がった。
 8月には石垣の遺構が全貌を現した。市は急きょ、考古学や土木工学、戦国時代史の専門家計8人に現地調査を依頼。秀吉が家臣に築かせた城の跡だと判定された。
 家康と秀吉の城の遺構が同じ場所で見つかって遺構の価値は高まったが、家康の城の天守台復元を目指す市は難しい判断を迫られている。市民の間で「歴史的価値が高まったからこそ復元すべきだ」「二つの遺構をそのまま展示したほうがいい」と賛否が割れる。
 遺構は一度壊したら元に戻せないだけに、最善の整備とは何か、慎重な検討が必要になる。市は19年度から、出土した石垣の耐久性を調べ、有識者を交えて復元と保存を両立する方法を探る方針だ。
(政治部・内田圭美)
 〈メモ〉静岡市は1016日、秀吉が家臣中村一氏に築かせた城跡を発見したと発表した。秀吉の城の特徴とされる金箔瓦約330点と、家康の天守台の石垣とは異なる特徴の石垣が出土した。家康が秀吉の城を壊した上に駿府城を築いたことも明らかになった。
【静新平成301222()「追跡」】

維新選択は緊急避難 国家主義から卒業を 渡辺京二氏(日本近代史家)



維新選択は緊急避難
国家主義から卒業を
渡辺京二氏(日本近代史家)

☆わたなべ・きょうじ 1930年京都市生まれ。法政大卒。熊本市在住。著著に「逝きし世の面影」「黒船前夜」「死民と日常私の水俣病闘争」など。
 
 明治維新はなぜ起きたのか.そして維新という選択は、この国の在り方にどのような影響を与えたのか。日本近代史家の渡辺京二さんは、西洋列強に対するおびえが武士らを突き動かし、国家主義につながったと語る。
 江戸末期の日本は幕府、朝廷、そして雄藩に権力が分散していた。このまま生き馬の目を抜くような国際社会に出て行くと、外国の餌食、植民地となる恐れがあった。この強烈な危機感の中、生き残りのため中下級の武士、いわゆる志士らが立ち上がったのです。
 権力を一元化して統一国家をつくるには有力な藩や朝廷による合議体とするのか、幕府を倒すのか二つの方法がありました。そこで朝廷の岩倉具視や薩摩藩の大久保利通らが陰謀を巡らせ、将軍・藩主を超える忠誠の対象として天皇を担ぎ出し、倒幕したのです。
 この明治維新の作業は、西洋近代文明への衝撃、そして列強への恐れからくる緊急避難だったのです。人民をより幸せにするといった理想に基づいたものではなかった。
 〈明治政府は1871(明治4)年、新国家建設のため岩倉や大久保らを欧米諸国に派遣した〉 既に国民国家を確立していた欧米は、世界の各地に植民地を持って競い合う状況にあった。これらの国と互角にやり合うには、日本も強兵のために国を豊かにする富国強兵しかないと大久保らは悟ったのです。
 だから明治国家をつくつた中核の人のほとんどは、個人の権利や自由よりも国を優先する国家主義者、ナショナリストになっていきました。
 お上の権威も、江戸時代よりもはるかに強力にしました。明治憲法が定めた天皇の在り方は、それまでの歴史上、一度も存在したことのないような異様なものです。皇帝、絶対王政の君主のような存在になりました。
 確かにジャーナリズム、文学、芸術、人権の尊重といった思想、民権の自覚、議会制度など魅力的なものが西洋から入ってきましたが、これらはあくまでも変革の随伴物としてです。文明開化も、しゃばを少しでもいいものにという民間の動きでした。
 1904年に始まった日露戦争に勝利した日本は一等国、大国の仲間入りをしたと喜びました。幕末や明治の初めに欧米の外交使節にばかにされ強い劣等感が残っていたから、一等国になりたくて仕方なかったのです。 一方、列強並みとなったことで、各国が繰り広げる国益と外交のパワーゲームにさらに誘い込まれていく。朝鮮半島を広義の自衛圏であるとか、満州もそうだとして領土を広げ、帝国主義となって東洋の覇権を求めていきました。
 国内では軍事国家、警察国家として国民を締め付けた。45年の敗戦でつまずくまでは、ナショナリズムが支配していた国家だったのです。
 振り返ると、江戸末期の日本は、工場制機械工業の前の段階では最高の状態にありました。豊かで公正で人も幸せそうだった。こんないい社会をどうしてぶち壊すのかと、近代化に疑問を持つ外国人も多かったのです。
 国内でも幕末の思想家横井小楠や、西郷隆盛のように、東洋の道義を守ろうという意見もあった。急に変革するのではなく、緩やかな近代化、内発的な発展と言える、もう一つの国づくりの可能性もあったはずです。
 〈戦後の日本は戦前の軍事国家、警察国家の全面否定から始まった〉
 79年に日本的経営を高く評価した「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が発表され、経済大国と評価されて一等国願望が復活した。傷ついたこの国の自尊心を取り戻そうとしています。
 今でもオリンピックでのメダル数や、世界の大学ランキングで何位かを競っている。国際的な威信や名声を高めることに躍起になっている。
 しかし、幸福度が高いといわれているスイスとか北欧の国は大国と呼ばれているでしょうか。日本社会は満足感、安心感、そして充足感を、暮らす者に本当に与えているのでしょうか。
 明治維新が残した一等国願望、国家主義の尻尾をもう引きずる必要はないはずです。このナショナリズムをそろそろ卒業しなければ、戦争に負けた意味がないのではないでしょうか。
【静新平成301222()「明治150年の軌跡」完】

2018年12月18日火曜日

沼津病院記念碑設置工事現場動画




黎明期の自転車写真発見


黎明期の自転車写真発見
「国内現存」最古か 
明治初め、東京で撮影


 明治時代初期、東京の街頭で自転車を撮った珍しい写真が現存していることが17日、分かった。自転車は幕末・明治初期に西欧から流入した舶来品の一つで、日本での黎明(れいめい)期である当時は三輪や四輪も含め自転車と総称されていた。専門家は、国内に現存する自転車写真では最も古いものではないかと評価している。
 所蔵者は東京都千代田区の日本カメラ博物館。近年購入した明治初期の写真アルバムを井桜直美研究員が調べていて、その1枚に三輪自転車が写っているのに気付いた。東京・芝にある増上寺の山門前の路上で男性が乗っており、タイトルとして「大教院山門」「DaiKioin」と書き添えてあった。
 大教院は1872(明治5)年、明治政府の神道国教化政策の流れの中で創設され、翌年に増上寺の本堂に移転。75年に廃止された。井桜さんは「写真には、山門の背後にあるはずの本堂が見えない。74年初めに本堂が放火で焼失した後、再建工事が始まる前までの数年の間に撮られた写真だろう」と推定する。アルバムは明治初期の駐日イタリア公使の遺品で、その親族が近年まで保管していた。
 東京・目黒の自転車又化センターの谷田貝一男学芸員は「明治初期の錦絵などには自転車も含め西欧から来たさまざまな乗り物が描かれているが、三輪目転車の写真が残っていたとは」と驚く。
 井桜さんによると、アルバムの写真は紙焼きだが、原板は湿板だったとみられる。感光材をガラス板に塗る湿板写真は、被写体が数秒静止しないと、きれいに撮れないため、自転車の男性がぶれずに写っているのは偶然ではなく、自転車を入れた撮影が目的だったと考えられるという。
 明治初期の自転車に詳しい福島県須賀川市の自転車史研究家、真船高年さんは「この三輪車のフレームは金属製で車輪は木製のようだ。おそらく日本で人力車やかじの職人が見よう見まねで作ったのだろう」と言う。
 舶来した自転車の模倣の実態を知る上でも重要といえそうな今回の写真。画像を拡大すると、男性の表情はカメラ目線で誇らしげだ。「最先端の乗り物に乗った俺を撮れ、とポーズをとっているようだ。誰でも乗りやすい三輪車は79年に貸自転車でブームになる。その関係者では」と真船さんは写真を読み解いた。
<メモ>1810年代、乗り手が地面を足で蹴りながら走行する二輪車がドイツで誕生したのが自転車の始まりとされる。60年代、前輪をペダルでこぐ自転車がフランスで考案され、80年代に現在の自転車の原型(前後輪が同サイズ。後輪をチェーン駆動)が英国で完成した。日本には幕末・明治初期に西欧から持ち込まれたとみられ、当時の浮世絵や風刺漫画雑誌に三輪自転車が登場している。
【静新平成301217()夕刊】

2018年12月16日日曜日

明治二年、沼津兵学校教授達 毎週一回はビーフステーキ喰い放題だった。(ステーキ発祥の地沼津)


沼津はビーフステーキ発祥の地?
静岡藩での交際者たち
沼津兵学校の管理を担当した静岡藩軍事掛には、権大参事(ごんのだいさんじ)服部常純以下、少参事に藤澤次謙(ふじさわつぐかね)、江原素六(えばらそろく)、阿部潜、権少参事に矢田堀鴻あたりまでが首脳部だったと思われる。矢田堀は、明毅が長崎海軍伝習所にその従者として入って以来の上司であった。海軍出の矢田堀と並んで、幕府最末期の陸軍副総裁(総裁は勝安房)だったのは藤澤であった。
藤澤次謙(一八三五~八一)は、明毅とほぼ同年代だが、その出白は、明毅はもとより本書登場人物の多くと比べて、古くからの名門出であった蘭学者たちとの交友が深く絵画の趣味などもあったが、出生は、蘭方医として幕府奥医師を代々勤めた桂川家(かつらがわけ)の次男、三千石の旗本藤澤家の養子になり志摩守を称する殿様、れっきとした旗本である。
 その藤澤が、明治二年十二月の書状で、明毅らの行状に触れた事例が、樋口氏前掲書に紹介されている当地は、牛の価格が低く、諸子が社を結んで毎週一頭を屠り分配することとなって、塚本・万年などがその世話人である。「ビーフステーキの喰ヒ飽が出来申候」というのである 牛肉の飽食というのは、江戸の武家社会でもまだあまりみかけないものだったろう。明毅を含む兵学校教授たちは、そうした食生活をものにしていたのである。西洋での生活を経験した赤松や西が、そこで指導的な役割を演じ、明毅や藤澤のように洋学に親しんだ諸氏が、この食文化に飛び込んだのであろう。こうしたハイカラ文化は、兵学校の空気にもなったと思われる。
 しかもそれだけではないと思える。明毅や万年が世話人というのは、むろん屠殺処理ではなく、牛肉の分配や会計処理であったろうが、調理や会食にも及んだのではなかろうか。牛鍋(ぎゅうなべ)という日本式食肉法でなく、ビーフステーキというものの調理や食べ方が、分配肉を受ける各人にすぐ広がるとは思えない。藤澤が知ったのは、塚本や万年らのグループによる会食の場で、彼自身もそこに参加したのではなかろうか。
三千石の旗本と徒士身分の士とが同席する食事というのを、旧幕時代に想定するのは困難で、もしあったならそこには煩雑な儀礼や斟酌(しんしゃく)が必要だったに違いない。兵学校教師仲間でのハイカラな空気からは、そうした儀礼抜きの互いの交流の場が生まれていた。
(「塚本明毅(つかもとあきたか)」塚本学著 平成2691日発行)