2015年12月13日日曜日

沼津自由大学 匂坂信吾

 沼津自由大学 匂坂信吾
 去る十一月三十日に満百歳となられた矢田保久氏は、沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)の最高齢会員です。同氏は小山町出身で、旧制沼津中学を昭和八年に卒業され、同窓会「昭八会」の幹事を長く務められました。
 昭八会の有志が、昭和二十一年から三年余りの間、六期三十六回にわたって行った文化活動が「沼津自由大学」という名前の連続講座です。
 昭和二十一年七月の講師には、当時五十歳の芹沢光治良や、四十五歳の元逓信院総裁、松前重義がいました。同年十一月には、当時四十二歳の法政大学教授、美濃部亮吉や国務大臣の金森徳次郎の名前があります。
 女性講師には、昭和二十二年六月に作家の宮本百合子、二十三年五月に作家の林芙美子がいました。このほかにも有名な大学教授、研究者や政治家、評論家、全国紙の論説委員など、錚々(そうそう)たる講師陣が四十人程、名を連ねています。
 当時の昭八会員は沼中卒業後十三年目、三十歳を迎えたばかりの若者連で、このような企画がなぜ実行できたのか、矢田氏が七十年間、大切にしていた当時の写翼やガリ版刷りの資料、味わい深い印刷の古いポスター」などを講座の会場に展示して、若き日の熱い想いを語られます。
 また本会会員、大中寺の下山光悦住職が、矢田氏との対談を会誌「沼津史談」に寄稿され、第六十六号と来年四月発行の六十七号に分けて掲載されます。
 なお、今回からは平成二十八年度の企画である複数講師制による初めての試みとして、矢田氏のほか、会員の三人が、それぞれのテーマで話します。
 ◇齊藤正巳氏「切手でたどる歴史の世界」=日本化学会会員、化学史学会の正会員で科学切手の収集家として知られる齊藤氏が切手の世界を語ります。
 ◇松村由紀さん「戦国マンガの世界」=十月の本会の史跡探訪バス旅行に参加した歴史漫画家すずき孔さんによる長篠合戦場ルポ作品を解説します。
 ◇渡邉美和氏「沼津に測候所があったころ」=NPO法人・東亜天文学会理事の渡邊氏が、明治十六年から昭和十四年まで市内にあった測候所を取り上げます。
 本会では、二十日に会誌「沼津ふるさと通信」の創刊号を発行します。A4判十六ページ、白黒印刷で、発行部数は一千五百部です。頒価は二百円ですが、今回の講座参加者には無料で提供します。すずき孔さんのルポ作品や渡邉美和氏の論文も掲載されていますのでご期待ください。
 市民公開講座・第9回「沼津ふるさとづくり塾」は今月二十日(日)、市立図書館四階の第一・二講座室で開かれます。午後一時に受け付け開始、一時半開講です。定員は百人(先着順)。資料代として五百円(会員は無料)。
 問い合わせは匂坂(電話〇九〇ー七六八六ー八六一二)まで。
(沼津郷土研究談話会副会長、小諏訪)
【沼朝平成27年12月13日(日)言いたいほうだい】

2015年12月10日木曜日

先進的だった静岡県東部の綴り方教育

先進的だった静岡県東部の綴り方教育
 沼津ふるさとづくり塾 高橋敏氏が講義
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)は、郷土史講座「第8回沼津ふるさとづくり塾」を、このほど市立図書館講座室で開講。国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏氏が「駿東文園と綴方教師たちー冨原義徳と杉山正賢」と題し、戦前の一時期、全国から見ても先進的だった静岡県東部地区における教育の様子を話した。
 北駿に誕生した「児童文苑」
 「駿東文園」に改称、「沼津文園」も系譜上に
 大正時代と綴方「綴方(つづりかた)」とは、戦前の小学校で実施されていた授業科目の一つで、作文指導が行われた。現在は国語科に吸収されている。
 講演冒頭、高橋氏は江戸時代には各地で独自の教育が行われていたことを紹介しながら、近代的教育のスタートとなった明治の学制は国家による教育統制のスタートでもあった、と指摘。その反動から大正時代には「大正自由教育」と呼ばれる新たな動きが起き、綴方の授業にも大きな影響が出たことを述べた。
 それまでの綴方の授業では、時候のあいさつなどの文章の型を教えることに主眼が置かれ、大人のような文章が書けるようになることが期待された。これに対し、子どもが身の回りの生活を題材に、子どもらしい文章を書けるようにしようという動きが起こった。
 嶽陽文壇 富士郡大宮町(現富士宮市)では、小学校教員の池谷佐一郎が大正七年(一九一八)に作又投稿誌「嶽陽文壇」を創刊した。我が国の児童文学に大きな影響を与えた児童文学雑誌「赤い鳥」の創刊四カ月後のことだった。
 嶽陽文壇は、地方資産家の子弟でもあった池谷が学校組織とは無関係に設立した出版社によって制作され、池谷は教員を続けながら編集した。
 投稿作品が掲載された子どもには景品を進呈するというアイデアなども盛り込まれ、最盛期には全国から投稿が寄せられ、数万部が発行されたという。その一方で、投稿の過熱により、他人の文章を丸写しした投稿や、それへの告発なども相次いだ。こうした投稿誌という形態は、郵便制度が全国的に整備されたことから可能になったメディアでもあった。
 大正十二年(一九二三)、富士郡で「一斉考査(学力テスト)」の実施計画が持ち上がると、池谷は「狭い学力偏重につながる」との理由から反対運動を展開。その結果、計画は中止されたが、教頭に相当するポストに就いていた池谷は処分を受け、教員を退職して上京した。
 池谷は東京で、「不二文壇」と改題し雑誌の発行を続けたが、その後、廃刊となった。
 駿東文園 子ども達が生活をテーマに作文する新たな綴方運動は、駿東郡にも波及。御殿場などの北駿地域で教員をしていた富原義徳と杉山正賢は、池谷が富士郡を去った三年後の大正十五年(一九二六)に駿東郡で作文集「児童文苑」を発刊した。富原と杉山は、池谷と同じく静岡師範学校を卒業していて、池谷は先輩格だった。
 富原は「田園児の創作は田園から生まれる」と提唱し、農村の生活や地域の行事について子ども達が見たこと感じたことを率直に文章に書くことの重要性を訴えた。当時、方言は矯正の対象となっていたが、富原は子ども達の文章中に方言が登場することも許容したという。
 富原は「創作鑑賞 土の綴方」と題する書籍を出版し、同書は全国的な評価を得ている。
 戦後、「児童文苑」は「駿東文園」と改称し、北駿地域や清水町、長泉町の小中学生を対象に現在も続いている。沼津市内の小中学生を対象とした「沼津文園」も児童文苑の系譜上にあるという。
【沼朝平成27年12月10日(木)号】

2015年12月1日火曜日

強く、りりしく、戦国時代を生きた静岡の女性リーダー 静岡大名誉教授 小和田哲男さんに聞く





強く、りりしく、戦国時代を生きた静岡の女性リーダー
【静新平成27年11月6日(金)夕刊】
静岡大名誉教授 小和田哲男さんに聞く

今年8月、女性活躍推進法が成立したが、時をさかのぼれば戦国時代の静岡と浜松にも「女戦国大名」「女城主」の異名を持つ女性がいた。今川義元の母・寿桂尼(じゆけいに)(生年不詳~1568年没)と、2017年のNHK大河ドラマの主人公に決まった井伊直虎(同~1582年没)。戦国時代をたくましく生き抜いた女性たちの実像について、"歴女、記者が戦国史研究の第一人者である小和田哲男静岡大名誉教授にインタビューした。いざ出陣。(塩沢恵子)

寿桂尼 領国支配に手腕発揮

―男たちが合戦に明け暮れた戦国時代、女性はどんな立場だったのでしょうか。
「合戦は男だけが戦ったのではないと最近分かってきた。沼津市の千本松原に、武田氏と北条氏の戦いで亡くなった人の首を埋めたと伝えられる首塚がある。骨を分析すると、3分の1は女性だったそうだ。しかも至近距離で後ろから鉄砲で撃たれたとみられる女性の頭蓋骨があった。確認された105体の骨は全て成人。老人や子供はいないことから、合戦に女性も加わっていたと考えられる。私も驚いたが、史料を読み直すと、日尾城(現・埼玉県)の妙喜尼など、女性が城を守って戦った例は結構ある」




ー女性が戦場で戦っていたとは驚きました。寿桂尼にいたっては「女戦国大名」と呼ばれているそうですが、その理由は。

「寿桂尼は夫の今川氏親が亡くなった後、病弱だった子の氏輝の後見役となり、1526年から6年間、自分の印判を押した文書を出した。男の戦国大名と同じように領国支配に手腕を発揮した」

-女性が当主の後見役を務めることに周囲の反発はなかったのでしょうか。
「夫の氏親は亡くなる10年ほど前から中風で寝たきり状態だったという。戦国大名が領国支配のために作った分国法として名高い『今川仮名目録』は氏親が亡くなる直前に制定したもの。作成には寿桂尼が関わっていたのだろう。だからこそ重臣たちも彼女の能力を認めたのだと思う」

ー寿桂尼が静岡に残した功績は何ですか。
「1982年、現在の駿府城公園の発掘調査が行われ、今川館跡から茶道具などが見つかった。京都の公家出身だった彼女の存在があってこそ、今川文化が花開いたのではないか」

ー女城主の井伊直虎は、大河ドラマの主人公に決まりました。直虎とはどんな人なので
すか。
井伊直虎 男になりきった城主
「直虎は井伊谷(現・浜松市北区引佐町)を治めていた井伊氏の当主直盛の一人娘。元の名前は分からないが、家督争いで一族の男性が次々と殺される中、出家して次郎法師を名乗った。父直盛は今川軍の一員として桶狭間で戦死。次の当主直親も殺され、一族に成人男性がいなくなった際、次郎法師は直虎を名乗り、元婚約者でもあった直親の遺児虎松(のちの井伊直政)を育てながら、1565年から4年間、井伊谷城主を務めた」

ー女性が城主になるのは珍しいのでは。
「女性が家督を譲られた例は、九州の戦国武将立花道雪の娘の誾千代(ぎんちよ)など他にもある。しかし、直虎が特殊なのは、署名代わりのサインである花押を使っていた点だ。特別に地位が高い女性を除くと、一般の女性は当時、花押は持てないという不文律があった。寿桂尼も花押は持っていない。直虎は男の名前に変えただけでなく、男になりきっていた。周囲もそれを認めていたということが面白い」

ー直虎の功績は何ですか。
「今川氏が没落した後、浜松城主だった徳川家康に直政を仕えさせるという決断をしたことだろう。後に直政は『徳川四天王』と呼ばれる名将になり、井伊氏は彦根城主となった。そして幕末に日本を開国させた大老井伊直弼(なおすけ)につながった」

ー戦国時代の女性というと、政略結婚の悲劇を思い浮かべがちですが、たくましく生きた人もいたのですね。
「政略結婚と言っても、当時は親が決めた相手と結婚するのは当たり前なので、彼女たちは『好きな相手と結婚できなくて不幸だ』とは思っていないだろう。政略結婚で嫁ぐ女性は、国の平和のために外国に派遣される、いわば大使だ。家督を継ぐのが男性に限られたのも江戸時代以降。戦国時代は女性の役割が非常に大きかった時代だと言える」




首塚(沼津市本字千本1910の186)沼津市教委によると、1900年5月、暴風雨の翌朝、千本松林で見つかった頭蓋骨を集めて弔ったという。鈴木尚東京大名誉教授が89年、調査報告書を出した。本光寺の北側西隅にある=写真①=。

 千本首塚(静岡県沼津市千本浜)
 天正八年三月、甲州武田勝頼と小田原の北条氏政軍が激突した遺跡。この時、北条方の優秀な軍船に制圧された武田軍は、なすところなく砲撃をうけて塹壕にひそみ、陸戦隊にふみにじられて敗退した。
 この首塚に首なし武者の伝説が発生したことは、前述したとおりだが、明治三三年五月の暴風雨で欠崩し、おびただしい頭骨を露出させて村民を驚かせている。
そのため村人は、ここを発掘して頭骨を集め、俵につめて長谷寺にもちこんだ。しかし間もなく本光寺の角地に塚を築き、石碑をたてて祀ってやった。
 昭和二九年におよび、東大の鈴木尚氏によって正式発掘が行なわれると、これが伝承の如く戦国時代の首塚であることが確認され、すっぽりと刀で切り割られた頭骨などで歴史のあとが実証づけられた。
 まず石碑を脇によせ、石積みを除去してから、砂地を掘りすすめると、間もなく寄せ集められた頭骨が、寄りそうようにいくつか露頭した。土をよけると、いずれも北向きに安置してあって、このひとかたまりの頭骨の下部には、平板石が敷かれていた。そこで頭骨をとりあげ、石を除くと、再び人骨があらわれてきた、掘ると、これらは大きな甕に納められた分ですべて破片であった。頭骨の破片が、ぎっしりとつめられていたのである。明治時代の扱いであろう。
 これら破片はきれいに水洗いされて、やがて調査計測されて、次のよう事が判明した。頭骨のなかに一刀のもとに鉢を割られたものが混っていて、激戦のあとを物語っていたが、それにもまして平均年令が、意外にも若い十代後期に集中していたことは、きびしい戦国の現実を物語っていた。その数は、数百人、という漠然とした表現しかできないほど、破損骨片の多いこととが、ありし日の犠牲者を彷佛とさせていた。なお明治時代には、まだ完全な形のものも多かったようだが、発掘と移動でくずれ、さらに埋葬時点で破損したものも多く、写真で見るような程度になぞいたのであった。
(遠藤秀男著「日本の首塚」)





龍雲寺(りゅううんじ、静岡市葵区沓谷3の10の1)寿桂尼の菩提寺で、遺言に従って今川館の鬼門に当たる東北方向に建てられた。墓所=写真②=のほか、寿桂尼没後430年に建てられた石碑がある。<電054(261)4861>


龍潭寺(りょうたんじ、浜松市北区引佐町井伊谷1989)井伊家の菩提寺で直虎の墓所=写真③=がある。国指定名勝の庭園は小堀遠州作。紅葉まつり・寺宝展が12月10日まで開かれている。<電053(542)0480>