2017年2月25日土曜日

三島宿西遊歴史歩き(三島・沼津・原 宿場町交流会)


170225三島宿西遊歩き版 from 河谷杯歩 on Vimeo.





 旧東海道宿場町巡る
 三島でウオークイベント
 旧東海道宿場町を巡る「第1回三島宿ウオーキング」が25日、三島市内で開かれた。約80人が参加し、ボランティアガイドの案内で三島宿の歴史や文化に触れた。
 沼津・観光まちづくり市民の会が主催し、地元のボランティアガイドが企画する「旧東海道宿場町交流ウオーキング」の初回。楽寿園を発着点に約3㌔の道のりを歩いた。宿場の本陣の門が移築されて残る長円寺や、江戸時代から防火の神様が祭られているという三石神社などを訪ねた。
 ガイドの宮田篤三郎さん(72)=同市=は「宿場という共通点を生かして両市の活性化を図るとともに、多くの人に歴史を知ってもらいたい」と意義を語った。
 第2回は沼津宿(沼津市)で3月に、第3
回は原宿(同)で4月に実施予定。
【静新平成29年2月26日(日)朝刊】

2017年2月24日金曜日

次代を担う人びと・沼津の文化を語る会

故望月良夫氏主宰の「沼津の文化を語る会」発行
昭和63年~平成元年に連載ものです。
登場する人たちもずいぶん若い時代です。
二名のかたが故人となっております。


2017年2月23日木曜日

地震之記 魯夷船漂流話し 嘉永七甲寅歳




25年前プチャーチン孫来沼時の新聞記事↓

その時、昌原寺杉山住職から過去帳の欄外に記入されていたプチャーチン一行昼食資料です↓

2017年2月16日木曜日

子持川に架かる橋の名称探索散歩

子持川に架かる橋の名称探索散歩




(子持川は、我通路川の下流なり。栄町の背に架する橋を子持橋と言う。出口、市道の間にあるを出口橋と言う。蓋し子持とは、水町北より岐れて二つとなり、一大一小岐間小瀦を作りて合わす、故に名付くと言う:沼津市誌全より)
(子持川の上流の松澤川は現在、下り国道一号線側を西に流れ新中川(囚人堀)にそそいでいます。
現在は雨水幹線として、桐陽高校・リコー線から南の地区の雨水等を東地区を観音川第一幹線、中地区を観音川第二幹線、西地区を観音川第三幹線として南に流れ鉄道線路北で合流して鉄道線路をくぐり丸運倉庫東脇を流れる。沼津市河全地図より
 
常磐町に住む友人の話がきっかけで、初秋子持川に架かる橋を探索した。

子持川は我通路川(源を松澤に発し各地の野水を誘い沼津城址の北を還流して、観音川を合わせて海に入る:沼津市誌全より)の下流で現在「あまねガード」北出口の左、ポンプ小屋脇の駐輪場の下から始まって線路脇を西に、線路をくぐって丸運倉庫東脇を南に千本港防潮水門まで流れている。聖隷病院前で草刈川と合流し、その場所から海までを観音川といわれている。

昭和33年沼津赤十字結団十周年記念に除幕された沼津駅前「愛の母子像」(和田金剛制作井上靖詩文)から西に歩き先ず最初の橋を調べる。

1)城内橋 この辺りは明治時代何もない畑で子持川には橋がなかった様ですが、現在、一番目の橋 名称「城内橋」昭和386月竣工。この辺りは大字城内(条内)であるので「城内橋」と名付けたのであろう。道は東は沼津駅、西は白銀町。旧青果市場北通り。尚、昭和9年沼津都市計画図にこの位置に橋が描かれている。


2)月見橋 城内橋から南に川添を歩くと二番目に 名称「月見橋」昭和2812月竣工となる古いコンクリートの橋であった、きっとこの橋から西空に名月が鑑賞出来たのであろう、又、幕末の沼津城辺図にこのあたりに橋が描かれている。道は東は上本通り、西は丸子町。旧青果市場南通り。尚、明治24年出版の駿河国駿東郡沼津町略図にこの位置に橋が描かれている。
(月見橋と白銀橋の間に戦後しばらくまでは二つの橋があった、一つは石の太鼓橋で、地元では西条橋又はことぶき橋と呼んでいた?)今は歩行者用の鉄の幅が細い橋がある。


3)白銀橋 月見橋から南に左岸は明治時代の沼津病院跡、左岸は旧岡野邸跡に三番目の橋で 名称「白銀橋」竣工日は昭和53年、月日は不明。橋上道は旧国道、東は東京、西は大阪。尚、この位置あたりに名称なしで明治初年の古地図に橋が描かれているので江戸時代から幅は狭いが橋があったと思われる。尚、大正11年発行の沼津町全図にこの位置に橋が描かれている。


4)真砂橋 白銀橋から南へ、四番目の 名称「真砂橋」昭和305月竣工。左岸は沼津第一小学校、道は東は第一小学校西門、西は真砂町。尚、昭和9年版沼津都市計画図にこの位置に橋が描かれているが子持川側道は北向きはなかった、小学校西門から直接真砂町に渡っていた。


5)山神橋 真砂橋から南へ歩く、左岸は昔、山神道の森であった。五番目の橋 名称「山神橋」昭和4211月竣工。道の東は山神道(第一地区センター)、西は真砂町。


6)子持川橋 山神橋から南へ少し歩くと六番目の橋 名称「子持川橋」昭和433月竣工。道は東は末広町(旧富士見町)、西は真砂町。尚、この位置あたりに名称なしで明治初年の古地図に橋が描かれているので江戸時代から橋があったと思われるし、東海道の裏道の橋として遠い昔から重要な橋であったようです。昭和12年発行の沼津市誌に子持橋と記録あり。尚、明治40年発行の沼津町全図にこの位置に橋が描かれている


7)末広橋 子持川橋から南へ歩く、七番目の橋 名称「末広橋」昭和453月竣工。道は東は御成り橋、西は富士市。尚、この道は戦後できた道であるのである。


8)幸橋 末広橋から南へあるくと八番目の橋 名称「幸橋」昭和4412月竣工。道は東は永代橋、西は富士市。又、この橋は歴史があり、○→○→五反田橋→出口橋→幸橋と代った。尚、名称なしで明治初年の古地図に橋が大きく描かれているので中世から幅は狭いが続いた橋であったと思われる。又、大正2年の大火のあと町名が出口町から幸町に変わったので幸橋に、昭和12年発行の沼津市誌に幸橋と記録あり。尚、明治24年出版の駿河国駿東郡沼津町略図にこの位置に橋が描かれている。


9)三又橋 幸橋から南へ右岸は千本病院(昔緑新地:遊郭)行くと九番目の橋 名称「三又橋」昭和279月竣工。三又橋の言われはこの橋下で子持川と草刈川が合流し観音川となることがではないかと思われる。道は東は緑町、西は松下町。聖隷病院前。尚、昭和9年版沼津都市計画図にこの位置に橋が描かれている。


10)松下橋 その合流点の草刈川の上橋が十番目の橋 名称「松下橋」竣工は三又橋と同じと考える。橋そのものは「三又橋」より歴史が古く、明治24年出版の駿河国駿東郡沼津町略図にこの位置に橋が描かれている。道は南に千本浜、北に幸町。子持川と草刈川合流地点。橋下の流れは草刈川、聖隷病院前。


11)八千代橋 松下橋から南へ歩いて十一番目の橋 名称「八千代橋」昭和48328日竣工。道は東は旧緑町病院、西は旧塩谷邸跡。先人がこの橋が永遠に架かり人の利用する橋であってほしい事を願って名付けたもと思われる。尚、昭和9年版沼津都市計画図にこの位置に橋が描かれている。


12)緑橋 八千代橋から歩いて十二番目の橋 名称「緑橋」昭和48326日竣工。道は東は浅間神社、西は浜の観音さん。尚、名称なしで明治初年の古地図に橋が描かれているので江戸時代から橋は存在したと思われる(そのころ緑町が存在していないのでもしかしたら観音橋とも云われていたか)。又、大正11年発行の沼津町全図にこの地域は緑町となっているので少なくとも大正時代から緑橋と云われていたと思われる。昭和12年発行の沼津市誌に緑橋と記録あり。尚、明治40年発行の沼津町全図にこの位置に橋が描かれている。


13)千本橋 緑橋から歩いて十三番目の橋 名称「千本橋」昭和48328日竣工。道は東は宮町、西は千本公園。観音川の川面に逆さ富士の撮影ポイントと言われている。尚、昭和9年版沼津都市計画図にこの位置に橋が描かれている。


14)港橋 千本橋から歩いて十四番目の橋は 名称「港橋」昭和48328日竣工。道は北は浜の観音さん、南は沼津港。この橋の上から真直ぐ大きく沼津港が光って見える、それで港橋と名付けたと思われる。尚、昭和9年版沼津都市計画図にこの位置に橋の計画が描かれているが、昭和18年発行の沼津市全図には橋が実現している。





15)千鳥橋 港橋から桜堤を歩いて十五番目の橋は 名称「千鳥橋」昭和473月竣工。道は東は下川原町、西は千本浜。きっとこの橋あたりに千鳥が遊んでいるのでしょう。又、この橋は古く幕末作成の沼津城周辺図にも描かれている、さらに天保8年作成の沼津本町絵図にも描かれている。


16)妙見橋 千鳥橋から立派な桜樹の左岸堤を歩いて十六番目の橋は 名称「妙見橋」昭和473月竣工。橋上道は東は岡田邸、西は千本別荘地区。この橋の左岸には妙海寺の源蹟の如来堂があり、その南には明治24年発行の「駿河國駿東郡沼津町界図」によると「妙見塚」が表示されているのでその妙見から妙見橋と名付けたと思われる。尚、昭和9年版沼津都市計画図と昭和18年発行の沼津市全図にこの位置に橋が描かれている。



17)日の出橋 妙見橋から桜堤を歩いて十七番目の橋は 名称「日の出橋」昭和463月竣工。道は東は船倉、西は沼津倶楽部。この橋から東の香貫山からの朝日を仰ぐことができる橋上であるので日の出橋と名付けたとおもわれる。尚、昭和15年発行大日本職業別明細図沼津市部分・昭和18年発行沼津市全図に記載されている。


18)浜田橋 日の出橋から桜樹堤を歩き十八番目の橋は 名称「浜田橋」昭和467月竣工。道は東は港湾区、西は常盤保育園。この辺は浜田と言われた土地なので浜田橋と名付けたと思われる。尚、昭和9年版沼津都市計画図にこの位置に橋が描かれている。


19)富士見橋 最後の十九番目の橋は 名称「富士見橋」昭和467月竣工。道は東は沼津内港、西は沼津外港。
富士橋から北を眺めると素晴らしい富士山が望め、子持川にかかる数ある橋上ではこの橋が最高である。ので富士見橋と名付けたと思われたが、近世の旧観音川の河口は広く狩野川と繋がるところの橋が(昭和初期の現在の沼津港(昭和8年開港)ができる前の観音川の写真によると愛称こんにゃく橋「富士見橋」としてすでに写っている、場所は現在の富士見橋の場所より南の港の新港橋の位置であった)富士見橋(こんにゃく橋)と云われていたのでそれを踏襲したと思われる。


(平成2693日記録、橋の竣工日は現在の橋の建設竣工日であり、橋の歴史ではない)

(尚、橋への名付けの云われの多くは私見であることをお断り申し上げます)







昭和5年頃の子持川「妙見橋」より南を写す、遠く山は鷲頭山。








2017年2月5日日曜日

「邪馬台国時代の列島東部」講師:西川修一先生

平成29年2月5日(日)
金岡地区センター
講師:西川修一先生
「ヤマタイ国時代の列島東部」ー古墳時代の始まりと沼津市高尾山古墳ー
当日配布資料




遺跡など保存の必要性
 調査技術の進歩で徐々に高まり
 金岡・東熊堂の高尾山古墳の保存を要望してきた市民団体「高尾山古墳を守る会(杉山治孝会長)」は五日、古墳学習会を金岡地区センターで開き、県外からの人を含む約六十人が参加。日本考古学会会員の西川修一氏が「ヤマタイ国時代の列島東部ー古墳時代の始まりと沼津市高尾山古墳ー」と題して話した。
 西川氏は神奈川県立高校の教員。同県教委で遺跡調査や文化財保護行政に従事した経歴を持つ。
 はじめに西川氏は、丹後地方(京都府北部)で発掘された弥生時代後期のガラス製腕輪を紹介。こうしたガラス製の装身具は東日本各地で発見されているものの、大和盆地(奈良県)では見つかっていないことに触れ、大和地方を中心とした勢力とは異なる勢力圏が東日本には広がっていて、丹後を通して海外と交易していた可能性があることについて解説。
 その上で、沼津の地を含む東日本一帯は大和地方の影響を受けて徐々に発展していったのではなく、地方で独自の発展を遂げていったという学説について話した。
 また、西川氏は遺跡保存の意義について触れ、新田次郎の小説『霧の子孫たち』を紹介した。この小説では長野県の霧ケ峰高原で起きた自然保護のための道路建設反対運動が取り上げられている。
 当時、長野県庁は道路建設を進める側だったが、現在は県庁のホームページで、この小説を県内における環境保護活動の先進事例として好意的に取り扱っているという。
 この例を挙げながら、何を重視するかという世間の価値観は時間とともに変わってしまうものであり、時間を超えて生き残る価値とは何かを考えることが重要であると指摘した。
 さらに、学問における価値観の変化の例として弥生時代への評価に言及。昭和二十年代の頃、農村遺跡である登呂遺跡の発見もあり、弥生時代は平和な時代だったという見方が定着したが、一九九〇年以降になると、多くの戦乱があった時代と考えられるようになったという。
 西川氏は、こうした変化の陰には、平和を求める声が強かった終戦直後の世相と、冷戦終結後の新たな国際緊張時代の世相とが深く関係しているとの考えを示した。
 そして、近年の考古学調査技術の向上についても話し、かつては捨てられていたような土器片からも重要な情報が発見されるようになっており、遺跡や出土品の保存の重要性は日に日に高まっていると強調した。
【沼朝平成29年2月7日(火)号】