2017年1月19日木曜日

ふるさと講座 順天堂大学特任教授の酒井シヅ氏

杉田玄白と『解体新書』
前野良沢との共同作業ゆえに実現
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)は十五日、「沼津ふるさと講座」を開き、約四十人の聴講者があった。順天堂大学特任教授で医学史が専門の酒井シヅ氏が「杉田玄端とその時代」と題して話した。
 沼津病院たどる講演で解説
 ふるさと講座 順天堂大学特任教授の酒井シヅ氏
 史談会は来年の沼津兵学校創立一五〇周年に合わせ、同校に併設された沼津病院の顕彰事業「フレッシュ150」に取り組んでいる。今回の講演は、沼津病院のトップである頭取を務めた医師をテーマとしたもの。
 杉田玄端(すぎた・げんたん)は、オランダ語の医学書を翻訳して『解体新書』として刊行した蘭学者杉田玄白(すぎた・げんぱく)の義理の孫に当たる。酒井氏は、玄端の系譜の解説として玄白の事績を中心に話した。
 玄白は小浜藩(福井県)に仕える医師で、中津藩(大分県)の医師である前野良沢(まえの・りょうたく)と共にオランダ語の医学書の翻訳を志した。この両者は対照的な人柄で、大らかで交際範囲の広い玄白に対し、良沢は謹厳な性格であった。翻訳作業は、初めに玄白が文章を大まかに和訳し、その後に良沢が細部を検証するという方法で進められた。
 それまで日本にはなかった概念を理解して日本語で表現するという作業は難航を極め、新語を生み出しながら進められた。現在も使われる「神経」という言葉は、この時に考案されたという。
 翻訳において良沢の存在は欠かせないものだったが、彼は求道的な人物だったので、『解体新書』の出版時には翻訳者として名を連ねることはなかった。ただ序文の中に一度、名が登場するだけだったという。
 酒井氏は、物事を先に進めようとする玄白と、厳密に作業を行おうとする良沢が揃ったからこそ、困難な翻訳事業が実現したと指摘。性格の異なる者同士が組み合わさることの重要性を強調した。
 ◇
 次回の沼津ふるさと講座は、二月十九日午後一時半から市立図書館四階の講座室で開かれる。講師は沼津・観光まちづくり市民の会の伊藤知彦氏と、新仲見世商店街役員の今井俊之氏。
 伊藤氏は「子どもたちに学ぶ、沼津のマチの見方(仮題)」、今井氏は「沼津城外堀の水を生かそう まちのオアシスづくり」と題して話す。
 参加無料。申し込み不要。

【沼朝平成29119()号】

2017年1月14日土曜日

平成28年度歴民講座「徳川家康の沼津支配」

平成29年1月14日(土)
歴民講座
「徳川家康の沼津支配」

ー興国寺城将松平清宗を通じてー



当日配布資料





徳川家康の沼津支配を見る
 興国寺守った松平清宗を通じて
 市歴史民俗資料館(歴民)は先月、歴民講座を市立図書館四階の視聴覚ホールで開き、歴史学省の芝裕之氏が「徳川家康の沼津支配-興国寺城将松平清宗を通じてー」と題して話した。百四十七人が聴講した。
 三枚橋城と役割分担
 河東二郡の警備を担当か
 芝氏は徳川家康の家臣団に関する研究を行っている。昨年度の歴民講座でも講師を務め、戦国時代末期に三枚橋城代を務めた松井忠次について解説している。
 今回の講演は前回と対になるもので、松井忠次と同時期に興国寺城に駐在した松平清宗の生涯を明らかにするとともに、現在の沼津市域に存在する二つの城に配置された二人の武将の役割の違いについて話した。
 沼津の城東海道経由で関東地方への入り口となる沼津の地は、政治的軍事的に重要な拠点と見なされ、戦国大名による争奪の対象となった。当時、沼津を含む駿東郡は富士郡と合わせて「河東(かとう)二郡」と呼ばれて一つの地域と見なされていた。
 戦国時代後期に河東二郡を制圧した武田氏は、興国寺城を河東の行政中心地として定め、武田信玄の側近も務めた曽根昌世(そね・まさただ)を担当者に任命した。
 天正十年(一五八二)、武田氏が滅亡すると、河東二郡は徳川氏の支配下に入った。徳川家康は三枚橋城を行政の中心地とし、国境防備のベテランであった松井忠次を関東の北条氏への備えとして同城に配置した。
 松平清宗 この時、興国寺城に派遣されたのが松平清宗(一五三八~一六〇五)だった。
 清宗は竹谷(たけのや)松平家の出身で、同家は家康の実家である松平一族の分家筋に当たる。
 清宗は家康の部下として戦い続けて手柄を立てている。息子は家康から名前の一文字をもらい、家清」と名乗ることを許されたうえ、家康の異父妹を要とした。
 武田氏滅亡直後、河東二郡は、武田時代から興国寺城にいる曽根昌世と、新たに勢力を拡大した家康によって二分された。このため、曽根の興国寺城と、家康によって送り込まれた松井忠次の三枚橋城という二つの中心拠点が河東二郡に並立することになったが、曽根は間もなく亡命してしまったため、興国寺城が空くことになってしまった。この空き城に清宗が派遣されることになった。
 清宗の仕事 当時の清宗が発行した命令書など三通の書状が現在も残されている。それらによると、清宗は現在の原地区周辺に漂着した不審船の捜査を担当したことが分かっている。
 このことから、湾宗は興国寺城に駐留する武士達を指揮して河東二郡の警備を担当していたと考えられている。
 一方で、同時期に三枚橋城にいた松井忠次は、税金徴収などの行政事務を担当していたことを示す史料が残っているため、清宗は河東二郡を治める忠次を軍事面で補佐する役割を果たしていたと見られている。
 清宗の子孫 豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、家康は東海地方から関東地方に移された。この時、清宗も武蔵国八幡山(埼玉県本庄市)に移り、一万石の領地を認められた。清宗は生前に当主を引退して息子の家清が後継となり、家清は関ヶ原の合戦後に三河国吉田(愛知県豊橋市)で三万石の大名となった。
 しかし、家清は五年前に死去した父に続いて慶長十五年(一六一〇)に四十五歳で急死。息子の忠清が後を継いだが、忠清も二年後に二十八歳で急死してしまった。これにより大名としての竹谷松平家は断絶してしまったが、忠清の弟の清昌が後に幕府旗本となり、旗本としての竹谷松平家は幕末まで続いたという。
【沼朝平成29年2月5日(日)号】

2017年1月8日日曜日

第9回「フレッシュ150 沼津ふるさと講座」 山岡鉄舟と静岡 講師 加藤靖雄


第9回「フレッシュ150 沼津ふるさと講座」

山岡鉄舟と静岡

講師 加藤靖雄





161218山岡鉄舟・講師 加藤靖雄 from 河谷杯歩 on Vimeo.

江戸城改築に戸田の石
沼津にも縁ある山岡鉄舟
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)は先月、郷土史学習講座「沼津ふるさと講座」を市立図書館講座室で開催。約五十人が参加し、戸田史談会の水口淳会長と静岡山岡鉄舟の会の加藤靖雄副会長が講師を務めた。
 史談会ふるさと講座で解説
 次回は15日、沼津病院テーマに
 水口会長は「江戸城再建の夢」と題し、石材を通した戸田地区と江戸城の関係について話した。
 江戸城は、戦国時代の直前に関東地方で活躍した名将、太田道灌(おおた・どうかん)によって築かれた。その約百五十年後、豊臣秀吉の命令によって徳川家康が江戸城に移ったが、その城は道灌時代の建物が残る古びた状態だったという。家康は城下町の整備と合わせて城の改築も行い、孫の三代将軍家光の時代まで続けられた。改築された江戸城の石垣の大半には、伊豆産の石材が使用されているという。
 市内でも、戸田地区や西浦地区に石丁場(いしちょうば)と呼ばれる採石場があり、切り出された石材は船で江戸へと運ばれた。戸田では今も、山中に当時の石丁場跡が多く残されている。
 積み出されずに石丁場跡に残された石にはかつての所有者などを示す刻印が入っているものもあり、現在の江戸城の石垣でも、戸田で見つかった刻印と同じ刻印の入った石を見ることができる。戸田史談会や沼津市教委では、戸田に残された刻印石などについて調査を行っている。
 水口会長は「二〇一五年は家康没後の四百年祭ということで、静岡市や浜松市では様々な観光イベントが行われたが、沼津にも家康とのつながりを示すものが残されている。ぜひとも、市内の歴史資源を見つめ直してほしい」と話した。
 また、一六五七年の「振りそで火事]で焼失したまま再建されていない江戸城天守閣を再建する市民運動が行われていることを紹介し、「江戸城天守の再建は、戸田の歴史的価値の掘り起こしにもつながる」として協力を呼びかけた。
 続いて静岡山岡鉄舟の会の加藤副会長は、山岡鉄舟の逸話について話した。
 山岡鉄舟(一八三六~一八八八)は幕末から明治にかけて活躍した幕臣。戊辰戦争での江戸城無血開城では官軍の西郷隆盛と準備交渉を行い、後には明治天皇の侍従も務めた。
 加藤副会長は、明治になってから鉄舟が白隠禅師への国師号贈与に尽力した逸話に触れて沼津とのゆかりを紹介した後、江戸開城交渉の経緯などを説明した。
 徳川慶喜の指示を受けた鉄舟は、官軍を率いて江戸に進撃中の西郷との単独交渉に臨んだ。交渉の直前に鉄舟は勝海舟と面会しているが、これが両者の初対面だったという。
駿府(静岡市)で行われた交渉での最重要課題は慶喜の処遇。慶喜身柄の他藩預かりを主張する西郷に対して、鉄舟は「(西郷が仕える)島津公が同じ境遇になったら、あなたはどう思うか」と反論して西郷を説き伏せ、寛大な処分を勝ち取った。
 江戸に帰る鉄舟を見送った西郷は「虎穴に入って虎児を得たのは本望でしょう」との言葉を鉄舟に掛け、その活躍を称賛したという。
 加藤副会長によると、鉄舟は原理原則を重視し、常に言動を一致させる人柄であった。また、交渉では相手に対する誠実さを尊重したという。「鉄舟の人となりや交渉術には学ぶことが多い。現代に通じるものもある」と話した。
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 史談会による次回の沼津ふるさと塾は十五日午後一時半から市立図書館四階の講座室で。
 順天堂大学特任教授の酒井シヅ氏が「杉田玄端とその時代」と題し、明治初年に存在した沼津病院について話す。
 予約不要、参加無量。

【沼朝平成2918()号】