2019年1月12日土曜日

歴民講座「江戸時代初期の徳川権力との沼津」講師:歴史学者 柴裕之





当日配布資料↓


室町から江戸初期の沼津の変遷
歴史学者の柴裕之氏が解説

 市歴史民俗資料館による郷土史講座「歴民講座」が先月、市立図書館視聴覚ホールで開かれた。歴史学者で徳川家臣団の研究が専門の柴裕之氏が「江戸時代初期の徳川権力と沼津」と題して話した。これまでのおさらいはじめに柴氏は、これまでの歴民講座で柴氏や平山優氏(武田氏研究の専門家)によって解説された戦国時代前後の沼津について触れた。
 室町時代の沼津は、室町幕府と鎌倉府の勢力圏の境界に位置した。鎌倉府は東北地方や関東地方を管轄するために設けられた役所で、足利氏の一族がトップとして派遣されていたが、京都の幕府と対立関係にあった。戦国時代になると、今川、武田、北条という有力大名の勢力圏の境目となった。さらに沼津を含む駿東郡には国衆の葛山氏がいた。
 国衆はミニ大名のような存在で、他の大名に従属することもあった。葛山氏は、はじめは今川氏に従い、武田氏が駿河に侵攻すると、武田氏に従うようになった。
 しかし、葛山氏は北条氏ともつながりを持つており、北条氏と対立した武田信玄は、駿東郡の安定確保のために息子を養子に出して葛山氏の当主にし、元の当主を死に追いやった。そして、葛山領は武田領に組み込まれ、興国寺城が駿東郡や富士郡の行政の中心地となった。
 信玄の死後、武田軍を率いた勝頼は、北条氏への備えとして三枚橋城を築いた。
 武田氏が滅亡すると、駿河は徳川領となった。家康は北条領との境目となる沼津の地を重視し、松井忠次を派遣。忠次は三枚橋城を本拠とし、駿東郡と富士郡の軍事と行政を管轄した。
 さらに家康は、軍事面で忠次を支援させるため、松平清宗を興国寺城に、牧野康成を長久保城(長泉町)に配置した。
 北条氏が滅亡すると、豊臣政権で関東・東北問題を担当していた家康が関東に移り、駿河には豊臣系の武将である中村一氏が入った。一氏は弟の氏次を三枚橋城に派遣した。豊臣秀吉にとって一氏は東の徳川への備えと見なされ、その一氏は氏次を東の備えとしていた。
 秀吉の死後、秀吉の妹の夫であった家康は、豊臣家の親族として政治の中枢を担った。これへの反発から関ヶ原の戦いが起き、戦いに勝利した家康は、現在の福島県南部から近畿地方に及ぶ広大な範囲を領地とする大名になった。
 さらに幕府を開いて公的に国政を握ることになった家康は、国政運営は自分が担当し、関東の領地管理は息子の秀忠に任せるという分担方式を採用した。
 この分担によって、京都の伏見城を中心とする家康の勢力圏と、江戸城を中心とする秀忠の勢力圏の二つが誕生し、沼津は、その境目となった。この結果、興国寺城には家康側近の天野康景が配置されて大名となり、三枚橋城には秀忠側近の大久保忠隣の叔父である大久保忠佐が入って大名となった。
 一六〇七年に天野康景の興国寺藩が取りつぶしとなると、その領地は家康のものとなった。家康は十男の頼官(よりのぶ)を駿府藩主にし、旧興国寺領は駿府藩に編入された。
 一六一三年に大久保忠佐が跡継ぎのいないまま死去し、さらに直後に甥の忠隣が政変で失脚すると、沼津城は破壊され、周辺領地は駿府藩に編入された。
 新旧駿府藩 頼宣の駿府藩が誕生した時、頼宣は幼く、また家康が伏見城から駿府城に転居したため、頼宣が藩政に携わることはなかった。
 家康は、頼宣の駿府藩を、九男義直の尾張藩と合わせて、江戸を守る西の抑えと見なしていた。
 しかし、家康が死去して秀忠が実権を握ると、秀忠は近畿地方の警備のため、一六一九年に頼宣を紀伊(和歌山県)に移す。駿府藩領は幕府直轄地となり、代官が派遣された。
 そして一六二五年、江戸の西の守りを考えていた秀忠は、自身の三男、忠長を駿府藩主とした。忠長は五十五万石の大名となり、大納言の位を与えられた。後に御三家と呼ばれる尾張藩主義直や紀伊藩主頼宣に匹敵する待遇だった。
 しかし、忠長は痴蹟(かんしゃく)を起こして周囲の人を殺すなどの異常行動を繰り返しており、身柄を甲府に移され幽閉された。
 忠長の不在によって駿府藩は機能不全に陥ったことから、江戸の防備のために稲葉正勝が小田原城に入り、小田原藩が置かれた。正勝は、三代将軍家光の側近。
 忠長の行状に激怒する秀忠に対し、兄の家光は同情的で、忠長の行状回復を望んでいた。忠長の甲府移送後も駿府藩は存続していたが、行状は回復しなかったため、一六三二年、忠長は高崎(群馬県高崎市)に移され、駿府藩も改易となった。
 その翌年、家光が跡継ぎのないまま病気になると、忠長の存在による政治的混乱を防止するため、忠長は自害に追い込まれている
 忠長の駿府藩の改易後、沼津近辺の土地は幕府領や小田原藩領旗本領などとなった。
 終わりに室町時代から江戸時代初期までの沼津の支配者の変遷を解説した柴氏は、当初は関東から西を守るための防備の地であった沼津が、江戸時代以降は西から関東を守るための防備の地になったと総括した。
 さらに頼宣の駿府藩以降は、駿河国全体が江戸を守る西の境となり、沼津はそれ以前の自立した性質を持つ地から、駿河の一部を構成する地へと変容していったと指摘した。
【沼朝平成31年2月17日(日)号】

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