2022年9月26日月曜日

鎌倉だより 三木 卓 9月  洋学都市駿河 知的凝集力示す

 

鎌倉だより 三木 卓 9

 洋学都市駿河 知的凝集力示す



 目下、大相撲の秋場所中である、今場所おどろいたのは、静岡出身の翠富士が前頭の筆頭に昇進していたことだ。静岡のおすもうでここまで来た力士は、ぼくの記憶にはない。あっぱれである。

 この文章を読んでいただけるときは、もう場所は終っている。前頭の筆頭というのはきびしい地位で、横綱以下の強い力士に当らなければならないから、大変だが、若さの弾力でなんとか勝ちこし、番付を維持、あるいは昇進してほしい。

 出だしでは、大関の正代をやぶる殊勲があったが、今は五分五分だ。期待しているぞ。

 十両上位にいる本県出身の熱海富士も出だし快調、がんばってくれ。来場所はぜひ入幕してほしい。

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 沼津から「沼津史談」七三号(沼津郷土史研究談話会)がとどいた。創立六〇周年記念号で杉亨二・駿河国人別調特集である。

 ぼくは不勉強なので、杉亨二という人物の存在を知らなかった。杉さんは江戸末期に育ち、明治のはじめに日本初の人口センサスを行った人物である。かれが調査しまとめた「沼津政表」「原政表」は、当時は大きな理解を得られなかったが、やがて日本全土で行われる一億人をこえる規模の国勢調査となった。いわば先駆者である。

 杉さんの親族である松宮克昌さんの「杉亨二の生きた時代と沼津との縁」によると、かれはそもそも長崎の出身である。当時長崎は西欧文明の幕府への流入点であり、若い学問だった統計学もその一つだった。

 そこで学んだ杉さんは、やがて幕府洋学問所である「蕃書調所」の教授手伝いとなった。

 しかし、大政奉還となり、徳川の最後の将軍慶喜は、遠江・駿河に転封されるという大変なことがおこる。家臣は身のふり方をきめなくてはならないが、いっしょに無禄覚悟で駿河に移住するものも多かった。杉さんもそれに加わり、こうして沼津との縁ができた。かれは沼津兵学校でフランス語文法と万国地理を担当する。調査の足場も沼津にできた。

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 森博美さんの「わが国統計史における駿河国人別調の意義」によると、「調査への協力度は頗(すこぶ)る高かった」という。江尻、沼津、原、清水港と調査はすすめられ、駿府についても「九十六箇町」をしらべた。

 その調査表を見ると、夫婦・こども・使用人、生国・年齢・家持借家・田畑山林・出稼・入稼・宗旨というように書きこむ欄があり、一家の人間が一人ものであるかどうかと精緻をきわめる。

 森さんは、幕府時代の人別帳は名主のもとに台帳として保管されているが、その情報が、実際の人□統計の出発点となっていた、という。これに対して杉さんの駿河国調査では「集計処理過程においても依然として個体情報としての情報特性を維持している」と指摘している。

 樺山紘一さん「杉亨二と西周、または旧幕の知性たち」は、慶喜とともに移動したそういう杉さんを含んだ知識人たちが、静岡学間所と沼津兵学校へ結集したことを指摘している。樺山さんはいう。

 「沼津と静岡。このふたつの徳川家の学校は、ともに当時の洋学者の粋を集め、教授、学生をあわせ数百人の陣容をもって明治初年を代表する機関となった。実際には、現実の政局に翻弄され、一八六八年から、七二、三年までのごく短期間、機能しただけであるが、しかしその数年のあいだに駿河の二都市が示した知的凝集力は、おどろくべきものがある。疑いもなく、日本最大の洋学都市であった」

 すごい時代だったのだ。その前には長崎があって、日本の飛躍を準備していた。杉亨二さんは直接的にその知的嵐のなかで己れの志を実現したすごい人々の一人だったのである。(作家、鎌倉市在住)

【静新令和4926日(月)朝刊「文化 芸術」】