2013年12月12日木曜日

 白隠とその時代 遠藤悦子

 白隠とその時代 遠藤悦子
 沼津史談会の市民公開講座「沼津ふるさとづくり塾」では、今月二十一日(土)午後一時かち市立図書館四階視聰覚ボー、ルで、国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏先生による第7回講座「白隠とその時代」を開催予定です。
 高橋先生は若いころから白隠の研究者として知られ、昭和五十八年五月に沼津市歴史民俗資料館で開催された市制六十周年記念展「白隠とその時代」の図録にも七ページに及ぶ同名の論文を寄稿されています。
 それから二十三年後の平成十八年三月に刊行された沼津市史通史編『近世』の文化部門は、高橋先生が編集責任者を務めており、その中では「第四章・近世沼津の文化、第一節・東海道沼津と文化」のうち十ページ余りを「白隠と沼津」の記述に充てています。
 今回は、さらに七年後、つまり記念展から三十年目に当たる市制九十周年の今年、師走に史談会主催の講座「白隠とその時代」が開かれる運びとなりました。
 四年後の平成二十九年が、白隠禅師二百五十年忌に当だるということで、市内では仏教界を中心に様々な取り組みが行われており、今回の高橋先生の講座は時宜を得たものと思います。
 私は、沼津西高在校中に高橋先生に日本史を担当していただいたことがきっかけとなり、大学でも日本史を専攻することとなりました。高校時代の高橋先生は、時にシニカル、軽妙洒脱な話し方で、史・資料から学び取る、暗記物ではない「歴史」を教えていただきました。
 近年、白隠について映像や書籍、企画展などで取り上げられ、日本のみならず世界的にも新しく見直されていますが、それらは白隠の書画にスポットが当てられているようです。今回の高橋先生の講座では、それとは一線を画し、宗教者として、また人間としての白隠の実像についてお話しいただける予定です。
 白隠は原・松蔭寺の住持として数多くの有能な門弟を育て、臨済宗妙心寺派において一大門流を築き上げながら、生涯権力に近付かず市井に身を置きました。禅の民衆化に努める一方、己の悟りを開くことに終始し、社会に目を向けない宗門や、時には幕政にまで鋭い批判を展開しています。
 高橋先生は現在、白隠についての著作を執筆中で、年内にも脱稿、来年には刊行の予定です。白隠研究四十年近い先生のお話から、白隠の実像の一端に触れられれば、白隠禅画の見方も違ってくるかもしれません。
 「ふじのくに・静岡県」が誇る白隠禅師について、私達、沼津市民が全国の、また世界の人達に対して胸を張って情報発信ができるようになるために、多くの皆様のご参加を心から期待しています。
 事前に申し込みをしていない方でも、当日、受付で申し出ていただければ受講できます。(資料代五百円が必要)(「沼津ふるさとづくり塾」受講生、三園町)
《沼朝平成25年12月12日(木)言いたい放題》

2013年12月11日水曜日

「大山巌と牛臥山別荘」 浜悠人


「大山巌と牛臥山別荘」 浜悠人

 牛臥山公園の小浜海岸は、井上靖原作の「わが母の記」を原田眞人監督が映画化したロケ地で、主人公の伊上(役所広司)が母(樹木希林)を背負って渚に入るクライマックスシーンが思い出される。その渚を望む小高い丘に明治の元勲、大山巌の別荘があったのを知る人は少ない。
 明治二十二(一八八九)年頃、牛臥の温暖な気候と素晴らしい景色に魅せられ、西郷従道、川村純義、大山巌ら薩摩出身の要人が志下から牛臥にかけた海岸沿いに別荘を建てた。明治二十六(一八九三)年、御用邸が桃郷(現島郷)に設けられると、それぞれの別荘は御用邸をお守りするかのような位置になっていた。

 NHK大河ドラマ「八重の桜」が、いよいよ最終回を迎えるが、会津の家老、山川浩の妹の捨松と、三人の女子を残し妻に先立たれた大山巌が昔の仇敵の間柄を乗り越え結ばれるシーンがあった。
 捨松は聡明かつ美貌の女性で、十一歳の時、岩倉具視の使節団に加わり渡米した。幼名は咲子だったが、母は「一度捨てたつもりで帰国を待つ(松)」の意で「捨松」と改めたという。
 十年余の留学の後、日本人初の看護婦の資格を取って帰国した。大山と結婚したのは明治十六(一八八三)年で、巌四十一歳、捨松二十三歳であった。二人の間には一女二男が授かり良妻賢母の捨松は一方で、「鹿鳴館の華」と呼ばれた。後年、鹿鳴館のバザー収益金で我が国初の看護学校を設立している。

 先日、明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館を訪ねた。そこには、明治天皇ご在位四十六年間の御事績を描いた壁画八十点が展示されていた。七十点目が「日露役奉天戦」で、時は明治三十八(一九〇五)年三月、満州軍総司令官大山巌は総力を挙げてロシア軍と対決、三月十日、奉天城を占領した。
 奉天戦は日本軍二十五万人、ロシア軍四十万人が対戦した日露戦役中、最大の戦闘だった。絵は奉天城南大門から入城する光景で、軍馬にまたがった大山巌が正面で、後に控える参謀には沼津出身の井口省吾の名もあった。戦前、この日を記念し、三月十日は陸軍記念日として祝った。

 芹沢光治良の『人間の運命』では、次郎少年が三人の友達と牛臥山の大山元帥の松林に忍び込み、落葉を掻き集めていたところ、妖精のごとき夫人が現れ、夫人から「お友達にも分けてやりなさい。急いで転んではいけませんよ」と言われ、お菓子の入った大きな紙包みを握らせてくれた、とあり、作中の夫人は捨松で、大山の牛臥山別荘に滞在中の出来事だったと思われる。

 幕末、韮山代官の江川太郎左衛門は、反射炉で鋳造した大砲で牛臥海岸から海に向かい試射したと言われる。そして江戸では、高島秋帆を招き砲術の塾「江川塾」を開いた。薩英戦争に敗れた薩摩は、大山巌ら若手を「江川塾」に送った。砲術の基礎理論と技術を学んだ大山は後年、彼の幼名である弥助を取った「弥助砲」を考案し、砲術の大家となった。
 鳥羽伏見の戦、戊辰戦争、会津若松と転戦した大山は砲術を使って幾多の戦勝をもたらした。会津での戦いでは、右股に銃弾が貫通する重傷を負った。この時、狙撃したのは八重であったと言われるが、弾に聞いてみなければ分かるまい。

 大山巌の長女信子は結核にかかり十九歳で天逝した。徳富蘆花は、小説『不如帰(ほととぎす)』で、信子を悲劇のヒロイン浪子に仕立て、世の同情を得て、小説は空前のヒットをした。小説に登場する逗子の海岸が小浜海岸だったら、さぞかし牛臥も世に知られたことだろう。

 明治三十九(一九〇六)年、大山は参謀総長を児玉源太郎に譲って現役を退き、死の直前まで牛臥山別荘をこよなく愛し、滞在したと言われる。大正五(一九一六)年、七十四歳で亡くなる。葬は国葬で行われた。
(歌人、下一丁田)
《沼朝平成25年12月11日(水)寄稿文》

2013年11月28日木曜日

千本松原守った若山牧水

千本松原守った若山牧水
片浜地区社協が福祉講演会
牧水会 林理事長が講演

片浜地区社会福祉協議会(佐々木健会長)は福祉講演会を、このほど片浜地区センターで開催。沼津牧水会理事長の林茂樹・乗運寺住職が「若山牧水と沼津」をテーマに話した。林住職の祖父は、千本松原伐採の反対運動を通じて牧水と知り合いになった。同寺には牧水と妻喜志子が眠る。

お上の計画中止させる
自然保護運動の先駆け
林住職は、まず「牧水をめぐる三人の女性」について語り、最初に母親マキを挙げた。
マキは野山に出かけるのが好きで、牧水を連れて行っては樹木の名称を教えた。牧水の短歌には樹木や鳥の名前が多く出てくるが、これらは全て母親から教わったものだと書いているという。
牧水の本名は繁。筆名「牧水」の「牧」は母親のマキから取っていて、「水」は海の水のことで母親から教わった自然を指している。このように牧水は、母親なしには語
れない。
二番目に挙げたのは、早稲田大学時代、宮崎県に帰省した時に知り合った園田小枝子。彼女との恋愛が大学時代に制作した第一歌集に収められているが、彼女は子持ちの人妻で、牧水は自分の下宿に連れて行くほど熱愛していたが、小枝子は後に別の男性と結婚する。
牧水は大変なショックを受けて荒れ、多い時には三日で一斗(一升の十倍の一八・〇三九リットル)、最低でも一日一升を飲んでいたと言われ、それから酒なしではいられないようになったという。
林住職は、牧水どん底時代の歌として「自玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」を紹介しながら、後に信州への旅で出会う、牧水を巡る三番目の女性、後に妻となる太田喜志子について話した。
「この女性と出会ったことが牧水にとって大変な幸せだった。牧水は、この女性に出会った瞬間、自分はこの女性によって救われると直感した」とし、東京に戻った牧水は毎日のようにラブレターを書き続けたこと、それが今、若山牧水記念館に展示してあることを説明した。
喜志子は学校の先生で、牧水の誘いを受けることは職を失うことを意味していたが、牧水の情熱に負けて東京に出る。牧水は短歌で生計を立てることを決めていて、大変な生活が待っていたが、「ひたすら奥さんの喜志子さんが支えた」と林住職。
また、「牧水は喜志子さんにも園田小枝子とのことを全て話していた」と思えること、自身が何度も目にしたという喜志子さんは「凛とした背筋のピンとした人」だったことを語った。
この後、牧水が東京から沼津に移り住み、千本松原に隣接する五百坪の土地を買って初めての自宅を建設したこと、自宅を建ててから日課としたのが松原の散策で、酒を二合飲んでから松林の中を歩いていたことなどを話した。
大正十五年に千本松原の御料林が県に払い下げられ県有林になると、県が一部を切って財政の足しにしようとした計画が立てられる。牧水が、いつものように散歩していると、大きな松や堂々とした松に限って印が付けられており不審に思っていたところ、伐採計画であると知り激怒する。
この伐採計画反対は市民運動になり、当時の全国紙に牧水が投稿し、三日間、連載の形で掲載される。この寄稿で牧水は千本松原を日本一の松原だと称えている。新聞を通じ全国に知れ渡ったことで県は計画を中止せざるを得なくなった。
林住職は「この時代、お上の決めたことが住民の反対でつぶれたということは、ほとんどなかったと思う。それより大事なのは、牧水は自然保護運動の先駆けだったこと。沼津の人達は千本松原を守った牧水のことを知ってほしい」と話した。
《沼朝平成25年11月28日(木)号》

2013年11月27日水曜日

産業遺産を歩く:平成25年11月27日(水)靜新記事より

 琵琶湖疏水 京都市・大津市
 産業遺産を歩く
 地域主導の大土木事業

 琵琶湖クルーズの観光船が滋賀県・大津港を出港すると、まもなく左側に水路がチラリと見える。琵琶湖疏水(そすい)だ。古くは舟運などで産業を支え、今は京都市民約147万人の「上水道の99%を担う『命の水』」(水田雅博・京都市上下水道局長)が流れる。
 疏水は、大津市から京都市伏見区に至るまで、周囲の景観にすっかり溶け込み、沿線は紅葉や桜、四季折々の花が咲き誇る。疏水沿いで育った、JR東海初代社長で現相談役の須田寛(82)は「帰郷のたびに疏水の流れを見るのが楽しみ」と話す。
 ◇◆◇
 疏水の開削は、明治の東京遷都に伴い、10万単位で人口が激減した京都再生のため、殖産振興の切り札となった。多くの先人が開削を夢見たが、実行したのは3代目京都府知事・北垣国道だ。工部大学校(東京大工学部の前身)を卒業した当時21歳の田辺朔郎(1861~1944年)を主任技師に起用し、4年余の難工事の末、1890(明治23)年、大津-蹴上(けあげ)(東山区)間が完成。以来123年、疏水は京都を潤し続ける。
 大津市小関ー藤尾間を結ぶ約2・4㌔のトンネルは、当時日本最長だった柳ケ瀬・鉄道トンネル(滋賀・福井県境)の記録を塗り替えた。日本初の鉄筋コンクリート橋(山科区)も設計した田辺は、開削終盤に渡米し、世界初の水力発電所を視察。水車計画を変更し日本初の水力発電所を蹴上に建設し、その電力は日本初の路面電車を京都市内に走らせた。
 世界を驚かせたのは、外国人技師頼りだった大土木事業を日本人の手で成し遂げたことだ。国内的にも、国営ではなく、大半が地域主導での壮挙だった。
 「琵琶湖疏水はリニア新幹線に匹敵する偉業」と指摘するのは、「国土強靱(きうじん)化」を提唱し、昨年末の安倍晋三内閣発足時に内閣官房参与となった藤井聡京都大教授(45)=都市社会工学専攻=だ。疏水事業で培った京都の進取の気性は、西陣はじめ伝統産業を勇気づけ、その後の京都発のベンチャー企業群誕生に弾みをつけた。
 ◇◆◇
 大津と京都、大阪を結ぶ舟を曳くために設け、形態保存されるインクライン(傾斜軌道)など琵琶湖疏水の12カ所は1996(平成8)年、文化遺産として国の史跡に指定、6年前には近代化産業遺産群にも認定された。今なお現役の疏水について、伏見区生まれで土木学会元会長の中村英夫東大名誉教授(77)は「運輸、製造、潅漑(かんがい)、防火…と、多目的運河だったことが大きい」と説く。
 田辺はその後も北海道の鉄道敷設に尽力し、京都帝国大教授などを務め、関門海底トンネル建設も提言。現場第一の人であった。
 田辺の銅像は、蹴上広場から市街を優しく見守っているようだ。鴨川の東を南北に貫く川端通に架かる疏水の橋には名が残る。ひっそり目立たない「田辺橋」と「田辺小橋」。橋から東山を仰ぎ、直線で8㌔ほど先にある琵琶湖に向けて歩を進めると、開削に懸けた先人の気概を感じ、心地いい。
京都新聞社 文・河内量
《靜新平成25年11月27日(水)近代の礎》

メモ
 冷泉通川端西入ルの鴨川合流点一伏見区(通称・鴨川運河)を含めた第1疏水の全長約20㌔、大津一蹴上間のほぼ全線がトンネルで、1912年完成の第2疏水の全長約7.4㌔、蹴上から北へ全長約3.3㌔の疏水分線などで構成する。水は平安神宮など大小庭園にも流れる。第1期の開削工費125万円は、現在価値で約1兆円。湖からの1日平均流量は10トントラックで17万2000台分。国は、1996年、インクラインや南禅寺・水路閣、各トンネル出口洞門など関連12カ所を史跡に指定した。2007年には経産省が蹴上の浄水場や発電所などを加えて近代化産業遺産群に認定。琵琶湖疏水記念館
<電075(752)2530>。


参考(代戯館HPより)
田辺朔郎と沼津のご縁
田辺朔朗(沼津兵学校附属小学校卒)
博士少年時の敏育・沼津小學校に入る

博士は家運の傾ける甚しき間、即ち十一歳まで沼津の小學校に通うて居た。それは前将軍慶喜の静岡に移さるるを同時に奮幕臣は一様に濱松静岡沼津に配分して居住を許され。叔父太一氏は沼津の兵學校に教務を執り、從って田邊一族は氏に伴はれて再び東京を離れ、其の地に移住して居た關係からである。而して明治四年に至り太一氏は新政府に用ひられて、外務省に任官したので、博士の家もまた翌五年に東京に転じた。當時の子弟敢育の機關は、英漢数の學を箇々別々に授ける私塾のみであつた故に博士は東京移転後、湯島天神下なる共慣義塾に入ってその授業を受けることとなった。


2013年11月25日月曜日

黎明新聞昭和31年7月5日号に新作二本立て95円の記事。

 映画料金協定成る
 新作二本は九十五円に
 沼津映画協会では入場料の最低料金について各館とも統一することを申合せ十三日から実施する。
 ○新作二本立九十五円(最低料金)
 ○新作と再上映の二本立七十円。
 ○再上映のみ二本立五十円
券発売中、三枚つづり九十円、このクーポン券とはナイト・シヨウ四十円の所を三十円で夏の夜をたのしめるというもので、いつのナイト番組にも共通する特典券である。
(黎明新聞昭和31年7月5日号)

2013年11月18日月曜日

55年の歴史を閉じた、西武沼津店、沼津進出時の攻防。沼朝の記事。

西武百貨店沼津進出問題沼津朝日新聞 昭和31年・32年記事一覧
駅前に西武百貨店 廿七日商連が対策協議
駅前、駿鉄の角へ西武百貨店沼津支店が建設される。地下一階、地上六階、三三七〇・六九一平方米の近代百貨店で、駅前の一偉観となるが東京資本によるこのデパート進出に対して・商店街連盟では、二十七日午後二時から役員会をひらき・対策を講ずると共に、意見書を通産省企業局商務課に堤出する。
地上六階のビル 来年二月から開業
西武百貨店(東京都豊島区池袋二丁目一一八八)では大手町五番地駿鉄角へ、沼津支店の新設を計画し〃西武鉄道、駿豆鉄道ビル〃として清水組によって工事が進められているがこれは鉄筋コンクリーと六階建三、五七〇・六九一平方米(地下一階四二四・一〇四平方米地上六階三、一四六・七平方米)の近代百貨店で、松坂屋静岡支店よりは小さいが、松菱沼津支店の二倍ほどの大きさ。塔屋には、さらにもう一階延べ八階のビルで、衣料、家庭用品、雑貨、食料品、加工修理、卸売などの売場のほか、美容室(三三平方米)食堂(四〇二平方米)が計画され営業開始は三十二年二月末日からと予定されている。
商店街に脅威? 五日までに意見書
松菱につづいて、それよりも更に大きいこの西武百貨店の進出に対して、商店街では生命線を脅かされるものとして強硬に反対する向と、却って商店街の繁栄になるものと、意見はさまざま商店街連盟(会.長大僑親一氏)では、二一十七日午後二時から商工会議所で役員会をひらき、対策について協議、意見書をとりまとめて九月五日までに通産省企業局商務課へ提出することになった。
《沼朝昭和31年8月24日(金)号》

西武百貨に街の聲
廿九日に諮問委員会
本紙既報のとおり、西武百貨店では(駅前駿鉄角に地下一階地上六階、三、五七〇・六九一平方米の沼津支店の建築に着手、来年二月末開業の準備を進めているが、市民間では市の繁栄策として歓迎する者と、商店街は生命線か脅かされると反対する者と、二つの意見か対立している。
これに対し商工会議所では、二十九日午後一時から卸売業者、小売業者、百貨店、消費者各代表、学識経験者、公共団休職員、商議所役員など二十数名で構成する諮問委員会(商業活動調整協議会)をひらき、九月五目までに通産省企業局商業課に意見書を提出する。
生命線を脅かす"
西武デパート沼津進出に対して、今日午後三時から.大手共栄会、仲見世商店街、上土振興会、上本通共栄会、アーケード街大成会、南部商店街、沼津専門店会沼津サービス店会、沼津チエーンストア会の代表者は商工会議所に集つて協議したが、商店街連盟としては生命線を脅すものとして反対を表明、し問委員会にこれを具申すると共に、通産省企楽局商業課に陳惰を行うことになつた。
各代表者の意見ーー。 田村靖雄氏(アーケード街大成会)
沼津の入口は周辺を入れて十五万人だ。静岡や浜松のように周辺人口を加えて三十万もある都市なら影響は少いだろうが、沼津では共倒れになる公算大だ。将来はどうか知らないが、現状では反対だ。
柴田正氏(上土振興会) 駅前に大資本のデパートが出来るということは、商店街にとつて非常な脅威だ。たださえ立地条件のわるい上土の商店街は大打撃になる。多数の地元商店の死活問題として遠慮してもらいたいというのが、大部分の意見だ
加藤俊輔氏(上本通共栄会) 市の発展のためには結構だという人があるかも知れない.また商店としても、立場によつては喜ぶ人があるかも知れない。それぞれ利害の立場に於いて違うと思うが、商店街としては脅威だ。反対せざるを得ないと思う。
杉山猪作氏(沼津サービス店会) 大反対だ。駅前に六階層もの大デパートが出来たら、大手も、上土も、本通りも、木町の商店街も客がここで、食いとめられしてしまい。苦しいやりくりを続けている商店街にとつては大打撃だ。
消費人口は増える だが商店街は大打撃
犬川角太郎氏(仲見世商店街) 狭い見地から賛否をきめるのはいけないと思う。早計にきめず、静岡や浜松の事例をよく調整したい。
大竹新太郎氏(南部商店街) みんなの意見はまだまとまつていない。しかし個人の考えとしては、困るには困るが、防げないではないかと思う。大デパートが田来ることによつて、市は繁栄し、また消資人口もふえると思うが、これがはたして商店街にいい結果になるかどうか、デパートはよくとも、われわれは駄目になるのではないかと心配だ。
山本義重氏(沼津専門店会) 専門店会ではチケツトを.利用して、長期分割収入を行つているが、東京あたりのデパートでも、これと同じ方法で月賦販売をはじめている。大資本のデパートで、同じことをされたらとてもかなわない。
渡辺盛作氏(沼津チエーンストア) 反対もあリ、贅成もある人の利害によっていろいろ違うが、大勢は反対の線だ。
《沼朝昭和31年8月28日(火)》

賛否両意見を提出 "西武百貨の公聴会“
駅前に建築工事をはじめている西武百貨店沼津支店の新設に対して、利害閣係ある事業者及び団体、学識経験者などを以て構成する沼津市商業活動調整協議会は、きのう午後一時から商工会議所会議室で公聴会をひらいたが、東京資本のデパートの進出は商店街を脅かすとして反対するものと時期尚早を論ずるものと、これとは別の見地から、大局的に市の繁栄になるとして賛成するもの場から活発な意見が開陳された。
同協議会では、九月五日までに通産省企業局商務諜に意見書を提出することになっているが、結論に至らないでの、公聴会そのまま発言をまとめて提出することになった。

市の発展になる だが商店街は反対
西武百貨店の新設について意見か求めるため商業活動調整協議会では、各階層から次の二十三氏を委嘱、きのう午後一時から公聴会をひらいた。
◇商業活動調整協議会委員
百貨店代表西川伝九郎(松菱沼津支店長)卸売業者代表岡田吾市(酒類卸商)同増田慶三(魚類卸商)同大橋規一(沼津青果市場専務取締役)小売代表吉邨勇(大手町大栄会々長)同柴田正(上土振興会会長)田村靖雄(アーケード大成会会長)同加藤俊輔(上本通り共栄会会長)
消費者代表大野虎雄(市社会福祉協議会副会長)井関幸子(市連合婦人会会長)稲玉むめ(市赤十字奉仕団長)竹内鉄次郎(県士木建協会東部支部長)
学識経験者西脇仁(商業高校校長)中江斎(工業高校々長)加藤ふじ(女子商業高校々長)地方公共団体職員内藤政次(沼津電話局長)土持留男(市商工観光課長)杉山善四郎(市農林水産課長)
商工会議所杉山猪作(繊維商業部会長)真野民次(金属商業部会長)大沼栄吉(雑貨商業部会長)田中保(食品部会長)森喜世彦(専務理事)
公聴会は自由な立場で束縛なく意見を開陳するためとして、非公開で行われたが、商店街筋は反対、消費者側は賛成、条件論なども出たが結論にいたらなかった。
(沼朝昭和31年8月30日号)

西武反対不可能か 百貨店審査会五月まで見送り
駅煎に建設中の西武デパート'開店をめぐつて地元小売発商の反対と消費者の賛成意見が衝突、営業許司の実際的発言権を持つ百貨店審査会が十六日開かれ、最終的決定がでるものと注目されていたが、中村東京通産局長は、地元商店街連盟と西武側とが折り合わず、正面衝突の状態でいるため遂に審査会を延期、建物が竣工する五月まで双方の歩みよりを期待する態度をみせている。
沼津商店街連盟杉山会長はじめ幹部八名は森商議事務長と同行、十六日東京通産局を訪れ、中村局長と会見、反対陳情を行い、種々懇談したが、百貨店審査会開催を通産大臣に答申する権限を持つ局長は、「建築も現在進行中のことではあるし、絶対的に反対は扱いに困るし、影響についでは今後に待たなければ好結果か悪結果は判断はできず、むしろ地元側としては夜間営業、貸売、外売或いは売場などの制限や、商品の地元製造品や卸品の買い上げなど協定を結んで相携えていったら却って好影響も期待されないか、無論デパート側の地元との不協力的なやり方については注意する」との希望意見を述べている。
これについて近く局長斡旋でデパート側と地元商連との会見が行われるものとみられる。
(沼朝昭和32年1月18日号)

西武百貨店に制限
商連がきょう申入れ
百貨店審議会を無期延期ざせた沼津商店街連盟の西武デパート開店反対運動は、去る十六日通産局に陳情の折、中村通産局長から「絶対反対でなく、何んらかの話し合いで、歩みよってもらいたい」との意向が伝えちれたが、きよう二十五日午前十一時から東京通産局で杉山商連会長ら五名と西武デパート代表五名が初会見を行い、意見の交換を行うことになった。
西武側としては地上五階地下一階を全部デパートとして使用したい気持らしいが、地元商連側としは売り場階数や外売りなどの制限を相当強く申入れるもようである。
(沼朝昭和32年1月25日号)

西武商戦異状あり 商連と話合い.物分れ
沼津駅前に進出、着々と工事を進めている西武デパー(駿豆ビル)の全階営業(地下一階、地上六階)に反対する地元沼津市商店街連盟(会長杉山猪作氏)は二十五日東京通産局長の斡旋により同局で西武側代表と初会見をしたが、「全階は認めぬ」という地元側と“通産局の妥協案に応じられぬ”の西武と双方の主張意見は真向うから対立して物別れとなり、五月上旬竣工する同ビルをめぐり開店の裁断は通産局の原一つとなったが、両者が譲らないところから今後の成り行きが注目されている。
仲裁案は二割削減 双方ともに譲らず
両代表の会議は二十五日午前十一時から通産局で、地元沼津商店街連盟から杉山会長、吉邨、田村副会長、土屋理事と森商議所事務局長、西武側からは堤清二社長、伊藤総務課長以下代表五名が出席し、中村通産局長と地元の世論を調査にきた江下商工課長が立ち会って行われた。
この会見で西武側は全.階営業面積千八十坪の一割百八十坪使用削減で地元の同意を受け付けず、中村局長は二割の二百六坪を削ったらどうかと提案したが“これ以上の譲歩は絶対に出来ない”と断った。
これに対し地元沼津商店街側は百貨店法にふれぬ範糊内で営業(二階で営業場所四百五十坪)するならばよいがそれ以上では許せないと云い張り、双方の主張は大きな開きをみせ、物別れとなってしまった。
この意見の対立をよそに工事は一億二千万円の工費で着々進められ、すでに五階までを完了、残る一階と内外の装飾をするだけとなっているだけに、早期結論が急がれる。
(沼朝昭和32年1月27日号)

2013年11月7日木曜日

「近世沼津の学問と井口省吾」 松村由紀

「近世沼津の学問と井口省吾」 松村由紀

 以前、小学生の女の子に、江戸時代の和本、いわゆる「往来物」と呼ばれる本を見せてあげたことがある。「昔の子ども達が使っていた教科害だよ」と言うと、「えっ、こんなに薄いの?昔の人はいいなあ。」と答えた。
 率直な反応に思わず笑ってしまったが、現代の子ども達は教科によっては一〇〇ページ崖超えるような教科書を使って毎日勉強しているのだから無理もないか、と思う。
 江戸時代、藩士の子弟は藩が設けた藩校で儒学などを学んだ。沼津城下においては、文化年間(一八〇四~一八)水野忠成の時代に「矜式館(きょうしょくかん)」が設立された。文久年間(一八六一~六四)にはヒ「明親館」と改各され、江戸藩邸にも分校が出来た。
 当初、江戸藩邸に教育施設は無く、皆川淇園門下の東条一堂の家塾などで家中教育が行われていた。東条塾の隣には幕末三大道場のひとつ、北辰一刀流・千葉周作の玄武館があり、現在、その跡地には二つの施設の事跡を記した石碑が建っている。
 この頃、庶民の子弟達は、寺子屋や手習塾で、いわゆる「読み」「書き」「そろばん」といった実用的な教育を受けていた。一説には江戸時代の識字率の高さは世界一とも言われ、貸本業なども大いに繁盛していたというから、庶民の文化度は高かったと考えられる。
 沼津には漢学で大きな業績を残した二つの家があった。
 ひとつは医家である島津家で、沼津を代表する漢学者・島津退翁は沼津城下で最初の私塾を開き、身分を間わず儒学を教えていた。退翁の養子・一斎は、沼津藩お抱えの医師及び儒官として登用されている。
 もうひとつは三枚橋町の豪商・鈴木家で、沼津宿の問屋を輪番で勤める大地主だった。四代にわたって学問を修め、数々の著書も残している。
 沼津史談会公開購座『沼津ふるさとづくり塾』第6回は十一月十六日(土)、午後一時から「近世沼津の学問」と題し、元市立沼津高等学校及び県立沼津西高等学校教諭で、沼津市史特任調査員として、沼津の漢学及び俳諧について執筆された牧島光春先生を講師にお迎えして市立図書館四階講座室で開催する。
 丹念な調査・研究に定評のある先生の講義に是非お越しいただきたい。事前の申し込みがなくても受講可。資料代として五百円(会員は二百円)が必要。
 さて、牧島先生の市史での記述には直接関係ないが、筆者としては江戸時代末期から明治初期にかけての激動の時代に青春期を過ごした沼津人、井口省吾陸軍大将の学問はどうだったのかということに思いを馳せてみた。
 井口省書は安政の大地震発生の翌年、安政二年(一八五五)八月、上石田村に生を享け、元治元年(一八六四)、九歳で島津一斎の長子・得山(恂堂)から漢学を学び、その後、沼津兵学校附属小学校に進んだ。
 明治六年(一八七三)、三枚橋町・鈴木与兵衛の依頼を受けた元沼津兵学校頭取・西周の紹介により、従兄弟の鈴木健橘郎と共に、井口省吾は十八歳で中村正直開設による高名な東京の私塾「同人社」に入門。その後、陸軍士官学校、更に陸軍大学校に進んでいる。
 沼津での学問が、いわゆる"坂の上の雲"に結び付いた稀有な例であるが、時代がもたらした様々な巡り合わせに驚かされた次第である。
 井口省吾の足跡については、本会会員の弁護士、井口賢明氏がライフワークとして研究中であり、『沼津ふるさとづくり塾』の中では今年七月の井口賢明氏による、井口省吾のドイツ留学時代を中心とした講座を出発点に、来年以降も継続予定とのこと。更なる研究の進展に期待したい。(沼津史談会会員、長泉町)
《沼朝平成25年11月7日(木)投稿文》

2013年10月10日木曜日

歴史を生かした沼津のまちづくり 長谷百合

歴史を生かした沼津のまちづくり 長谷百合

 今年六月から沼津史談会主催の「沼津ふるさとづくり塾」が市民公開講座として始まりました。幸い講座の評判は上々で、全部で九回の予定のうち、既に四回が終わっていますが、九月末現在の実参加者数は一八八人、延べ参加者数は三〇一人に上っています。一回当たり平均七五人の参加があったことになります。
 講座の内容は、市史講座と地域講座の二本立てです。
 市史講座は昨年まで読書会形式で二年間続けた「沼津市史を読む会」を引き継ぎ、平成二十五年から三年間の計画で沼津市史通史編の「近世」「近代」「漁村」の執筆者から話を伺う形で進めています。
 地域講座では、沼津市及び周辺地域の様々なテーマを取り上げ、専門的な立場の講師の話、つまり市史執筆者のような歴史のプロとは違う目線の話を伺います。したがって地域講座は、どなたでも講師として参加することができます。
 来月、本紙に掲載させていただく予定の沼津史談会からの「お知らせ」では、地域講座の講師希望者を募集する予定です。
 どちらの講座にも共通するテーマは、小文の標題に掲げた"歴史を生かした沼津のまちづくり"です。このテーマが、そのまま演題となっているのが、次回の地域講座③です。ちょうど折り返し点に当たる次回の講座は、十月十九日()の午後一時から、市立図書館四階の視聴覚ホールで開催されます。
 事前に申し込みをしていない人も当日受講できますが、資料代五百円(会員は二百円)が必要です。
 講師は勝亦眞人氏。先日お会いして講座についての話を伺ったところ、同家のルーツは江戸・東京で、先祖は田安(徳川)家に仕えていましたが、戦争中に沼津に疎開したとのこと。
 勝亦氏は戦後、沼津で生まれ、東京大学入学を機会に横浜に移転され、卒業後は東芝に入社されましたが、平成十三年施行のいわゆる「官民交流法」により、経済産業省に移られ、国際標準に関する業務などを担当されました。定年退官後の現在は「勝亦国際標準経済研究所」を主宰されています。
 また、勝亦氏は二十年来、毎年のようにフランスを中心にヨーロッパの名だたる観光地を訪ねており、いつも気が付くと、その土地と沼津を比較していたとのことで、沼津の持つ観光地・保養地としての恵まれた条件を生かすための提案をしたいということです。
 日ごろから「沼津っ子」の眼と「旅人」の眼で沼津を見ており、今回は"複眼の視点"から日ごろ考えていることを話していただけるそうです。
 特に話の内容が具体的になるように、できるだけ「一次資料」や「定着した古典」を参加者と一緒に読み、そこに現れる時代背景と沼津の姿を紹介したいとのことです。勝亦氏ならではの斬新な論点に大いに期待したいと感じました。
 このような話に関心をお持ちの皆様の参加をお待ちしています。
(沼津史談会ボランティァスタッフ、常盤町)

《沼朝平成251010()号》

2013年10月8日火曜日

「続町名由来(十一)」 浜悠人

「続町名由来(十一)」 浜悠人

 西浦地区は駿河湾に面し、内浦地区に続いて伊豆半島の北西にあたる地域である。歴史的には縄文、弥生、古墳の各時代の遺跡がある。江戸時代、村々の多くは海岸線まで傾斜地が迫っているので農耕地に恵まれず、半農半漁の生活が営まれていた。
 明治に入ると伊豆国君沢郡の村々は韮山県、足柄県を経て静岡県に所属することになった。明治二十二年の町村制の施行に伴い、木負、河内、久連、平沢、立保、古宇、足保、久料、江梨の九力村は一つにまとまり、君沢郡西浦村として発足した。
 明治二十九年、君沢郡から田方郡に編入されて田方郡西浦村となり、昭和三十年、西浦村と沼津市が合併。それぞれ西浦木負~西浦江梨と呼ぶようになった。西浦なる地名は古くからあり、内浦の西に連なる海辺を指し西浦と呼ばれた。
 『木負(きしょう)
 内浦地区に接し、長井崎に挟まれ(奈良時代の古文書には「吉妾郷」「棄妾郷」、室町、戦国時代には「木負」なる地名が出てくる。木負とは山中より木を伐出し、背負い下ろしたことより名付けられたとあるが定かではない。
 『河内(こうち)
 河内川の中流に位置し、西浦では海に面していない唯一の村落である。地形的に河内とは、川の中流に沿う小平地を指し、また、この地ゆかりの源頼政の孫、源太夫顕綱の後窩である大河内氏に由来して付けられたとも言われるが定かではない。
 この地にある臨済宗の九華山「禅長寺」は昔、真言宗の寺で大きな伽藍を持っていたと言われる。
 治承四(一一八〇)年、源頼政が宇治で敗死した後、妻の菖蒲(あやめ)が伊豆国に逃れ、剃髪して西妙と号し、この寺に入り故人の冥福を祈ったと伝えられる。境内にある「頼政堂」は元禄十一(一六九八)年、頼政の子孫にあたる高崎藩主、松平右京大夫輝貞によって改築された。
 『久連(くづら)
 戦国時代の古文書に出てくる地名で、昔、津波によって土地が崩壊したので「崩(くずれ)」と称し、後に美字をあて久連と記し「くづれ」から「くづら」と託ったと言われる。
 海岸沿いの道路傍らには渡瀬寅次郎夫妻のレリーフをはめ込んだ顕彰碑が建っている。この地に昭和四年、渡瀬の遺言に従い、「興農学園」が開校した。渡瀬は沼津兵学校附属小学校から札幌農学校を経て事業家となり、デンマーク式農業教育に共鳴し、農学校をこの久連の地に設立した。
 『平沢(ひらさわ)
 久連の西隣にあり、地名は海に面した砂浜が半輪形をなし平砂勾(ひらさわ)と称されていたが、砂勾を沢にあて「平沢」と改めたと言われるが定かではない。今日、人工の砂浜「らららサンビーチ」が賑わいを呈している。
 『立保(たちぼ)
平沢の西隣で駿河湾に面し、立保川下流に位置する。
 立保は南北朝から室町時代の古文書に見える地名で、「保」は平安末期より中世を通じての地方行政単位で荘、郷、保となり、地方の土着有力者によって拓かれた土地と思われるが、立保なる地名については定かではない。この地の神明神社には「四方(よも)の回文」と言われる奇妙な作品がある。
 『古宇(こう)
立保の西隣。地名の由来は判然としない。「宇」は家を指し、昔から古い家が多くあった村落のため名付けられたとも言われ、また公領であったから「公」が呼び名から土地名に転じ当て字されたとも言われるが、定かではない。
 「太子堂」の木造伝月光菩薩立像は一木造りで、藤原後期の作と推定されている。
 『足保(あしぼ)
古宇の西隣。古文書に「葦保」とあり、葦の生えていた土地で、足は葦が転化したと思われる。
 『久料(くりょう)
足保の西隣。昔、公田で公田料を納めた土地で公料(くりょう)と呼び、後に「久料」に転化したと言われているが定かではない。
 『江梨(えなし)
戦国時代の古文書に「江梨郷」とみえる。この地に入り江がないので「江なし」と称され、「なし」が「梨」に転化したと言われるが定かではない。西端の突き出た砂洲は「大瀬崎」と呼び、海の神の大瀬神社が祭られている。近くには伊豆七不思議の一つ、真水の湧く「神池」がある。
(歌人、下一丁田)

《沼朝平成25108()号投稿文》

2013年9月26日木曜日

昭和31年1月8日号の記事より:「匂坂信吾さんが小学校2年生」

 小中縣展へ
 沼津から十三点
一月十三日から県民会館で行われる県小中学校図画工作展へ沼津市から選ばれて出品する者は次の通り。
 ▽図画 五味博行(二小一)、匂坂信吾(二小二)、小池竜三(一小三)、黒田政子(静西小四)▽工作 海瀬愛子(静西小.)、鈴木賢治(六小四)▽書初 渡辺てるやす(金小一)、美屋のり子(三小二)、小倉智子(西浦西小二)▽習字 真野美佐代(三小四)、武士和子(二小五)、斎藤れい子(西浦西小五)

(沼朝昭和3118日号)

2013年9月8日日曜日

山本勘助を追う 講師平山優

信玄の家臣山本勘助の実在照明
沼津で発見の文書が大きな決め手に
市歴史民俗資料館は先月、歴民講座を市立図書館視聴覚ホールで開催。山梨県立中央高教諭で同県史編纂事業にも従事した平山優氏が「山本勘助を追う~沼津に残されたその足跡~」と題し、武田信玄の家臣として知られ、NHK大河ドラマの主人公にもなった戦国武将、山本勘助について話した。約百八十人が聴講した。
「甲陽軍鑑」や古文書の記述を補完
沼津在住の子孫が信玄子孫と対面
平山氏は戦国大名武田氏の研究で知られ、今年一月にも同資料館主催講座で講師を務め、戦国時代、武田氏によって沼津に築かれた三枚橋城について講演している。
平山氏は「山本勘助は実在しない架空の人物というイメージが強かったが、古文書の相次ぐ発見により、その実像が明らかになってきた。その決定打となったのが、沼津で発見された古文書。きょうは、歴史研究者がどのように研究を行うかという手の内を明かしながら、勘助についてお話しします」として講演を始めた。
山本勘助
はじめに平山氏は、戦国時代の武田氏の事績を記した書物『甲陽軍鑑』の記述を元に勘助の生涯を紹介した。勘助は、三河国牛窪(現・愛知県豊川市)で生まれた。駿河の今川義元の家臣になろうとしたが、片目を失い、片足が不自由という外見で、その姿が醜いとして義元に嫌われ、家臣にはなれなかった。
その後、武田信玄の側近、板垣信方の推薦で信玄の家臣となった。勘助は城造りの専門家として信玄に仕え、永禄四年(一五六一)の第4回川中島の合戦で戦死したが、勘助の活躍は甲陽軍鑑にしか記載されておらず、これが勘助架空説の根拠にもなった。
甲陽軍鑑
甲陽軍鑑(以下、「軍鑑」)は、信玄の重臣だった高坂弾正が天正三年(一五七五)に口述筆記という形で書き始めた。
これは、武田軍が織田信長に大敗した長篠の合戦の年に当たる。信玄の死後に跡を継いだ武田勝頼に信玄時代のことを学んでほしいという意図から、軍鑑の製作が始まったという。
高坂の死後は、その甥が執筆を継続し、武田氏滅亡後は、同じく武田家臣だった小幡氏が原稿を入手。元和七年(一六二一)には既に書物としてまとまっていたことが判明している。
軍鑑は、江戸時代に入り、戦国時代を経験した者も多く生存していた頃に書物として広まり、将軍ら幕府上層部からも高い評価を受けた。
江戸時代には、徳川家にとって都合の悪い内容の書物は発禁処分を受けたが、三方ヶ原の合戦で徳川軍が武田軍に大敗する様子を記しているにもかかわらず、軍鑑は処分を受けることはなかったという。
江戸時代には重要な書物と見なされていた軍鑑だが、明治になると、その評価が逆転。西洋から近代的な歴史学が導入されると、軍鑑は、その内容の調査が行われ、文中に登場する年代表記が不確かであることなどから、高坂弾正ではなく別人に書かれたものと見なされ、史料的価値は否定された。
その後、昭和や平成に至っても、軍鑑を資料にして歴史研究を行うことは許されない風潮が続いた。
勘助と軍鑑は切っても切れない関係にあるため、軍鑑の内容の信ぴょう性が否定されたことにより、勘助の存在も否定されるようになったことに対して平山氏は、「勘助は近代歴史学によって抹殺された」と強調。
しかし、近年は軍鑑が再評価され、国文学の立場から文法的な研究が進み、軍鑑の文章には戦国時代の言葉が使われていること、甲信地方の方言が使われていること、当時の身分の低い人によって使われた「下劣言葉」が含まれていることなどが判明し、甲斐国の農民出身である高坂本人が軍鑑作者である可能性が高まったという。このことなどを踏まえて平山氏は「甲陽軍鑑の内容の六割以上は真実であると言える」との見解を示した。
作られた勘助像
勘助の生涯については、書物としては軍鑑にしか記されていないが、江戸時代以降は、芝居や小説などによってフィクションのイメージが次々に付け加えられていった。
軍鑑では勘助の肩書について「足軽大将」とのみ記しているが、そのうち「軍師」と呼ばれるようになり、現在では戦国時代研究の権威として知られるような歴史学者も「軍師」と呼ぶようになっているという。
また、軍鑑には勘助は片目であるとだけ書かれ、どちらの目が不自由であるかまでは書かれていないが、後世の画家は独自に解釈して描いた。
さらに後の世になると眼帯を付けた姿として描かれるようになり、二〇〇七年の大河ドラマ「風林火山」でも勘助は眼帯をした姿で登場した。
平山氏は、勘助が眼帯姿で描かれるようになったのは昭和四十年代以降だと指摘。当時、世界的に有名だったイスラエル軍のダヤン将軍の影響ではないか、と推測した。ダヤン将軍は中東戦争で活躍した軍人で、眼帯を付けた独特の風貌で知られる。
市河文書と「菅助」
こうした、実在と虚構の間をさまよう勘助の実像解明の一つの契機となったのは、一九六九年の「市河文書」の発見だった。
当時の大河ドラマ「天と地と」に武田信玄の花押(サイン)入りの書状が映し出され、それを見た北海道の視聴者が「我が家にも同じものがある」と地元の図書館に持ち込んだことが発見につながった。
北海道で見つかった文書は、武田信玄が信濃国の武将、市河藤若に宛てて送ったもので、上杉謙信に攻められた市河に対して、降伏しないよう励ます内容。そして文中に、信玄からの使者として「山本菅助」という人物が登場する。
当時は「武田」を「竹田」と書くなど当て字が多かったことから、この「山本菅助」と「山本勘助」は同一人物であるという指摘がされ、軍鑑以外の当時の文書に勘助が登場したことで、勘助実在の可能性が高まった。
真下文書
市河文書を巡っては、菅助イコール勘助であるか、菅助は軍鑑に登揚する勘助のように身分の高い武士だったのか、などの論争が長年にわたって続いたが、この論争に大きな影響を与える複数の古文書が二〇〇九年、群馬県安中市の旧家、真下(ましも)家から発見された。
その中の一つに武田信玄が山本菅助に宛てて送った手紙がある。「判物(はんもつ)」という形式のこの手紙は、菅助が天文十七年(一五四八)に信濃国伊那郡で活躍したことを評価し、給料として銭百貫文を与える、という内容。
平山氏は、この古文書の調査を担当したが、最初、この手紙の写真を見た時は偽物ではないかと思ったという。有名武将の手紙などは骨董品として価値があるため偽物が多く、戦国時代に作られた古紙を入手して書状を偽造することは多く行われている。
しかし、後に実物の手紙の調査を行うと、本物であることが分かってきた。判物形式の手紙は、紙の折り方や書式を見れば真偽が分かるという。また、既に本物であることが分かっている手紙を集め、その中から同じ筆跡の手紙があるか調べるごとが可能であるほか、花押の筆跡からも鑑定できる。
平山氏は鑑定の場に大量の古文書の写真を持ち込み、筆跡の比較を行ったという。
続いて平山氏は、この手紙の内容が意味することについての解説に移った。
天文十七年、武田信玄は上田原の戦いで信濃の武将、村上義清に大敗し、伊那郡で武田側として残ったのは高遠城だけとなった。しかも、高遠城主の高遠頼継という武将は普段から信玄に対して反抗的だったため、この時は査問のために甲府に呼び出されており、城主不在という状況だった。
平山氏は、菅助は高遠城を任され、その防衛に活躍したのではないかと推測。与えられた給料の百貫文という金額は、かなりの高額だという。これらのことから、菅助は軍鑑の勘助のように身分の高い武士だった、と平山氏は指摘する。
このほか真下文書には、上杉と戦うために川中島近くの東条城に赴任していた菅助へ信玄が送った手紙なども含まれている。
こうした古文書の内容を総合し、平山氏は、真下文書に登場する「山本菅助」は、最前線を担当するような軍事能力に優れた武将で、信玄から信頼された重臣であった、と推測。そして、市河文書の中で菅助が市河藤若への使者として派遣されていることにも触れ、上杉との戦いで極めて重要な立場にあった市河氏に派遣されるのだから、菅助は、やはり重要な立場の武将であった、との結論を改めて述べた。
沼津での大発見
本物であることが判明した古文書に登場する「菅助」と、軍艦に登場する「勘助」が同一人物であることを証明する古文書は、沼津市内で発見された。二〇〇九年、沼津市民文化センターで開かれた戦国時代の沼津に関するシンポジウムに出席した平山氏は、会場に展示されていた古文書の中に「山本菅助」に関するものがあることを発見。翌年、沼津市教委の協力を得て調査が始まった。市内には山本家の子孫`が住んでおり、市教委は、その伝来の古文書を管理していた。明治史料館で山本家の古文書に目を通した平山氏は、そのあまりの重要さに衝撃を受け息が止まり、手が震え}という。
「沼津山本家文書」と呼ばれる、この古文書には、菅助の子孫の就職活動に関する記録などが残されていた。
菅助の子孫は武田家滅亡後、徳川家の旗本や浪人生活を経て、淀藩主の永井尚政の家臣となり、永井家が改易されると、「知恵伊豆」の別名で知られる老中松平信綱の子である信興の家臣となった。この松平家は各地を転々とするが、最終的には高崎藩主となり、菅助の子孫も高崎藩士として明治を迎えた。
維新後は、沼津近代化に尽くした江原素六翁の招きで金岡尋常小学校(現・金岡小)の教師となって沼津へ移住し、現在に至っている。
真下文書は、もともとは山本家の所有物だったが、幕末の頃、裕福で骨董収集に熱心だった真下家に売却されたと見られている。
この沼津山本家文書の中に、近藤忠重という水戸藩士から菅助の孫の山本三郎右衛門に送られた手紙がある。近藤は武田一族でもある穴山梅雪の家臣の子孫。
水戸藩では武田家臣の子孫を藩士として集めており、近藤の手紙には「藩主徳川頼房が甲陽軍鑑に出てくる『山本勘助』の子孫を家来にしたいと言っているので、あなたが希望するなら協刀します」などと書かれている。
諸事情により山本三郎右衛門の水戸藩への就職はうまくいかなかったが、この手紙によって、当時の武田家関係者が「山本菅助」と「山本勘助」を同一人物と見なし、連絡を取り合っていたことが明らかになった。
この沼津での発見により、実在したことがはっきりしている「菅助」と甲陽軍鑑の「勘助」がイコールで結ばれることになった。ただし、軍鑑に描かれた勘助の活躍のすべてが真実であると判明したわけではない。
おわりに平山氏は「歴史学者が、定説をひっくり返すような史料に出会えるのは一生のうちに一回あるかないか。沼津での文書の発見により、これまで架空とされてきた人物の実在が証明された。戦後の戦国史研究の中でも、最も劇的な出来事ではないか」と述べて講演を締めくくった。
また、平山氏が「最近は長篠の合戦の研究に取り組んでおり、新しいことがいろいろと分かってきた。機会があれば、ぜひ沼津の皆さんの前でお話ししたい」と付け加えると、会場からは盛大な拍手が送られた。
この日の講演には、信玄の子孫で現在の武田家当主でもある武田邦信氏(東京都在住)や、武田家家臣子孫の全国組織「武田家旧恩会」の土屋誠司会長(沼津市在住)も来場した。山本勘助の子孫家族も来場し、信玄子孫と勘助子孫による歴史的な対面も行われた。
《沼朝平成25年9月8日(日)号記事「8月25日山本勘助を追う:平山優講演」》

当日資料
武田氏の危機と山本菅助
 (1)天文17年(1548)4月、信濃伊那郡で戦功を上げ100貫文を加増される(【史料①】)。
 ◆天文17年2月14日、上田原の合戦で武田晴信敗退。佐久・小県郡の国衆離反、村上義清の攻勢が強まる(【参考史料①一一一1】)。
 ◆武田晴信、4月3日高遠城主高遠頼継を甲府に召還し、宝鈴を鳴らして臣従を誓わせている(頼継は5日に高遠へ帰る)。頼継が甲府を発ったその日、伊那郡福与城主藤沢頼親が小笠原長時・仁科道外の誘いに応じて武田方から離反。小笠原・仁科氏らとともに諏訪に乱入(【参考史料①一2】)。
 →晴信は、伊那郡の確保のため、高遠頼継が留守中の高遠城に派遣され、この地域の確保を実現
したと推察される。
 →武田氏は、6月19日、塩尻峠の合戦で小笠原・仁科軍を撃破し、危機を脱す。
 3.第三次川中島の合戦と山本菅助
 ◆第三次川中島の合戦(弘治三年・1557)において、北信濃衆市河(市川)藤若が長尾景虎に攻められ、高梨政頼より調略を受ける。藤若、これを拒否し頑強に抵抗。武田氏に援軍を要請(6月)。
 →晴信、援軍派遣の準備を急ぎ、市河藤若に長尾方の調略に応じぬよう求め、近日援軍を派遣することを約束。まもなく使者をもって詳細を報じると約束(6月16日)(【吏料②一一1】)。
 →6月23日、晴信、使者山本菅助に書状をもたせて市河のもとへ派遣。長尾軍を撃退した市河の戦功を賞し、今後の援軍派遣についての詳細を知らせる(【史料②】)。
 →使者は上使であり。信玄の名代に相応しく、かつこの地域の事情に精通し北信濃衆とも関係が深い人物が選任されたはず。山本菅助は、北信濃の武田方の一員であった可能性。決して身分の低い軽輩ではない(平山優、2002・6年)。
 4.武田氏の北信濃防衛と山本菅助
 晴信は、弘治4年(永禄元年・1558)4、月20日、山本菅助に現地の諸将と「揺」(軍事)についての相談をさせ、腫物を患い危篤と伝わる「小山田」を見舞い、様子を報告するよう求めている(【史料③】)。
 →「小山田」は都留郡領主小山田出羽守信有ではなく、小山田備中守虎満(後に主家して玄恰)のこと(郡内小山田氏ではあまりにも不自然)。
 →小山田虎満(もとは上原伊賀守)は、佐久郡内山城代をつとめ、これは息子小山田備中守昌成(二代目備中)にも引き継がれた。佐久郡再制圧戦では、最前線の前山城将をつとめ(天文17年8月19日、『戦武』267号)、戸石城攻略後は、戸石城代になっている(天文22年.1月28日、『戦武』357号)。虎満は、飯富虎昌(天文22年8月7日より小県郡塩田城代、『甲陽日記』)とともに佐久・小県方面の武田方を統括する重臣。ちなみに、飯富虎昌は天文20年6月25日に、虎満と一緒に内山城に在城していることが確認できる(『戦武』329号)。
 →小山田虎満は、永禄元年春以来病床にあり、閏六月の時点でもまともに歩行することすら不自由であったことが知られる(【史料③一1】)。【史料③】の「小山田」とは小山田信有ではなく、小山田虎満と確定できる(平山、2010年)。
 →なお、小山田虎満は、前山城に在城衆のほか足軽大将とともに籠城している(『戦武』267号)。
 →第三次川中島の合戦で、小山田虎満は東条城(尼飾城)、綱島(大堀館)、佐野山城など川中島方面の武田方を統括する武将であったことが明らかである(【史料③ー3】)。
 ◆弘治4年(永禄元年)4月吉日、武田晴信は「東条籠城衆」として、小山田備中守(虎満)、佐久郡北方衆(虎満同心衆)、真田幸綱を明記した(【史料③一2】)。なお、虎満は真田幸綱の取次役であり(黒田基樹、2007年)、真田は虎満、飯富虎昌とともに川中島方面の敵に対抗すべく連携を指示されていた(【史料③一3】)。
 ◆山本菅助は、北信濃侵攻を企図していた武田方の有力武将の一人。菅助は、飯富虎昌とともに塩田城に在城していたメンバーの一員か?
 ◆『甲陽軍鑑』.に海津城築城に関与したとあるのは、あるいは事実か?
 ◆永禄4年9月10日の川中島の合戦で戦死したとされる。
 5,その後の山本一族
 ◆菅助の実子兵蔵(菅助)が永禄11年に相続するも(【史料④】)、天正3年(1575)5月の長篠合戦で戦死(「山本家文書」)。
 ◆後見人の山本十左衛門尉が相続(「山本家文書」【史料⑤】)。
 →山本十左衛門尉宛文書の初見は【史料⑤】であることは、長篠合戦の戦後処理の一環であることを証明する。武田勝頼は天正四年に軍役改定を伴う軍役定書を発給するが、山本十左衛門尉宛と同日付けのものも確認できる(【参考史料⑤一2】)。
 →山本十左衛門尉は、武田家臣饗庭越前守の子とされている(『甲斐国志』)。饗庭越前守は実在の人物で、永禄八年に死去(【参考史料⑤一1】)。世代的にみて矛盾しない。この伝承は事実ではないか。
 ◆武田氏滅亡後、徳川氏にいち早く付き、本領を安堵される(【史料⑥】)。
 →本能寺の変直後に大須賀康高を通じて徳川氏に帰属したことが知られる武田遺臣は、わずかで山本氏の迅速な対応が想定される(平山、2011年)。
 ◆その後、徳川家康から正式な知行安堵状を交付され(【史料⑦】)、その後改定作業を受けて再安堵されている(【史料⑧】)。また「天正壬午甲信諸士起請文」をも提出(【参考史料⑦一1】)。
 ◆戦国期山本菅助・十左衛門尉らの本領は、「逸見」の「相田郷」(「惣田」とも書く)。
 →従来は、この「相田郷」がどこなのかは不明とされていた
 →これは、近世の逸見筋上手村(現在の北杜市明野町)の枝郷「相田」のこと(『甲斐国志幽村里部)。逸見筋に他に「相田」で「そうだ」と読む村は存在しない(宮澤富美恵氏のご教示による)。
 ◆山本十左衛門尉の家督は嫡男山本平一郎が継ぎ(【史料⑨】)、旗本として活躍していたが、伏見で急死した。その際に家族は窮したと系譜にみられることから、平一郎の死があまりにも急であったため、弟を養子にすることができず(いわゆる末期養子の禁にひっかかった)、牢人を余技なくされたとみられる。
 →その後、山本弥八郎、素一郎が相次いで死去したため、山本家は若年の三郎右衛門だけが残された。彼はしばらく江戸にいたが、後に父祖の地甲斐に移り住んで牢人し、江戸と甲斐を往復して仕官運動をしていたとみられる。
 →このような経緯からか、近世山本家では、当主のうち嫡男は菅助、養子は十左衛門を称すことが慣例となっていたらしい。
 6,牢人山本三郎右衛門(三代目菅助、英琢)と水戸藩
 ◆山本三郎右衛門は、父十左衛門尉や兄平一郎と同じように、徳川家の旗本になることを望み、江戸と甲斐を往復して仕官運動をしたがうまくいかなかったという。その後、20年以上が経過した。
 ◆水戸藩主徳川頼房が山本勘助の子孫に興味を示す(【史料⑧】)
 ①徳川頼房は、『甲陽軍鑑』を読んでおり、ここに登場する山本勘助に惹かれ、その子孫がいれば召し抱えたいと家老や側近たちに漏らしていた。
 ②家老や側近たちには思い当たるふしがなかったが、頼房の意向を伝聞した近藤七郎兵衛とその叔父近藤三九郎は山本菅助の孫三郎右衛門と知己であり、その情報を彼に伝えた。
 ③近藤は、山本三郎右衛門が勘助の孫であることを証明できるかどうかを問い、また仕官め意志があるかどうかを尋ね、もしその気があるなら御奉公したいとの熱意を示し、頼房の意に沿ってふるまうよう助言した。
 ④近藤は、三郎右衛門が勘助の孫であるなら、そのことを徐々に家老衆たちの耳に入れ、頼房に話が伝わるよう工作すると約束した。このことは采女とも話をしている。
 ⑤このころ水戸藩では、200石で新規に家臣を雇っており、さらに増やしたいと頼房が希望していたため、近藤は山本三郎右衛門の登用を楽観視していた。
 ◆文書に登場する人物とは?
 ①近藤七郎兵衛→近藤七郎兵衛忠重(「水府系纂」巻六)
・近藤七郎兵衛忠重は、近藤図書の三男近藤下野の孫とされている。
 ・近藤忠重は、寛永3年(1626)威公(徳川頼房)に出仕、寛文2年(1662)11月隠居、同7年故あって追放された。
 ・切符を賜り歩行士→小十人組→新番組→追放
 ②近藤三九郎(「水府系纂」巻六)
 ・近藤三九郎(はじめ伝三郎)は、近藤図書の次男右衛門君次の子、七郎兵衛忠重の親類にあたる。
 ・近藤三九郎は元和元年(1615)威公に出仕(200石)、寛永16年(1639)5月3日歿とある。
 ・大番組→書院番組→供番組→100石加増(寛永10年)→死去(寛永16年)
 ③采女→近藤采女(「水府系纂」巻六)
 ・近藤采女は、近藤図書の三男下野の子で、七郎兵衛忠重の父。
 ・近藤采女は、息子七郎兵衛忠重とともに寛永3年に威公に出仕。
 ・職歴は不詳。

 ◆近藤氏はもとは穴山信君の家臣の家系であった。「水府系纂」によると、近藤下野は信君死後浪人となり甲州に住み、そのまま死去したという。
 →近藤采女が徳川頼房に登用されるまで、近藤下野系(采女・七郎兵衛忠重)は甲斐に住んでいたと推定される。
 →水戸徳川家の家臣は穴山梅雪遺臣によって構成されているのは周知の事実(家康の子万千代が武田家を継ぎ、穴山家臣が補佐。万千代は、信吉と名乗り、秀吉の姪を娶って、下総小金→佐倉→常陸水戸へと順調に進んだが慶長8年死去。これにより徳川系武田家は断絶)。
 →武田遺臣間の情報ネットワークが実在しており、誰の子孫がどこに健在なのかは有る程度把握されていた。そして大名に仕官している者が、牢人している者を推挙、紹介して、扶助しあっていた様子が窺える。
 ◆【史料⑧】の年代を確定することは困難であるが、山本三郎右衛門が淀藩永井信濃守尚政に仕官することが決まった寛永10年(1633)以前であることは確実。
 →近藤七郎兵衛忠重が出仕した寛永3年を起点に、寛永9年までの間のどこかということになる。
 ◆『甲陽軍鑑』を徳川頼房が読んでいたとあるから、彼が手にしたのは小幡景憲が書写して与えた書写本か、宇佐美勝興が元和年間から寛永初期にかけて京都で版行した「無刊記十行本」のどちらかであろう(高橋修、2007年)。
 →時期的には文書の推定年代と矛盾せず符号する
 ◆水戸藩は山本三郎右衛門と接触をしており、仕官への道が開けていたかに見えていたが、寛永9年までにその話は頓挫、沙汰やみとなった。その明確な理由は定かでない。
 →ただし、推測しうる興味深い事実あり。同時期に、上杉謙信の軍師宇佐美駿河守定行(定満)の子孫と称する宇佐美勝興が水戸藩に仕官する運びとなったが、上杉景勝が生存していた畠山入庵(畠山義春)に宇佐美氏の素性を問い合わせ、真っ赤な偽物であったことが判明し、徳川頼房が登用を中止した経緯がある(高橋前掲書)。
 →このことは、徳川頼房が上杉謙信の軍師宇佐美定行の子孫と、武田信玄の軍師山本勘助の子孫をともに登用しようと積極的になっていたこと。
 →ところが、宇佐美氏の子孫が偽物であったことが露見したことから、頼房と水戸藩は山本勘助の子孫三郎右衛門にも疑いの目を向けたか、このような登用を取りやめたかのどちらかではなかろうか。
 7,山本三郎右衛門(三代目菅助、英琢)の仕官
 ◆山本三郎右衛門は、寛永10年(1633)に淀藩永井信濃守尚政に仕官することとなる。その経緯を記したものが【史料⑨】。全体の経過を知るのに便利。
 ◆【史料⑨】①②より、寛永10年4月11日に、甲斐国石和で山本三郎右衛門(この文書には「ゑいたく様』(英琢)と法名で呼ばれている)は、永井信濃守尚政と対面したことがわかる。
 →【史料⑨】①より永井尚政は、かねてより山本勘助の孫三郎右衛門に興味があったらしく、淀藩に転封されることになった際に、その途上でわざわざ甲斐に立ち寄ったことがわかる。また山本三郎右衛門のことを尋ねられ、彼を紹介することになった人物は「日向清安」(日向盛庵)という人物。
 →「日向清安」が対面のお膳立てを行い、その協力方を甲斐国の代官頭平岡次郎右衛門尉和由に依頼した。平岡次郎右衛門尉は、石和に到着した永井尚政への使者に山本三郎右衛門を指名した。
 ◆「日向清安」とは誰か?甲斐国奉行を勤めたこともある武田遺臣で、日向半兵衛正之(後に政成)のことと推察される(彼は、武田家臣日向玄東斎宗立の子)。彼の書状も現存しており、この話は事実と見られる。
 →なぜ「日向清安」に永井尚政が事実関係を質問し、紹介を依頼したのか?
 →『寛政譜』の「日向半兵衛」の伝記によると、日向政成の後妻は「永井信濃守尚政が女」と明記されている。日向氏と永井氏は婚姻関係にあったことが判明する。
 ◆山本三郎右衛門は永井尚政より、牢人分として私のところへこないかと正式に誘われた。
 ◆この時、山本三郎右衛門は、伊丹播磨守康勝(元武田家海賊衆伊丹氏、寛永10年より甲府城番)に勧誘されていたが、まだ対面するには至っていなかった。永井尚政に誘われた三郎右衛門は、先に伊丹に勧誘されていることを告げ、どのように対応すべきかを平岡二郎右衛門尉を通じて永井に言上したところ、それについては永井が直接伊丹播磨守に掛け合って解決すると約束した。そして永井は三郎右衛門に杯を下した(主従のかための杯)。
 ◆山本三郎右衛門が淀に向けて甲斐を出発したのが同年8月15日、伏見に到着したのが同25日、淀へ入ったのが26日、永井尚政にお目見えしたのが27日、そして元萩原平左衛門配下の足軽20人を預けられ、知行300石を拝領した(【史料⑨】③④)。
 →この間の事情を証明する史料が【史料⑩】~【史料⑮】。
 →【史料⑨】~【史料⑭】によると、永井尚政は家臣佐川田山三郎を通じて甲斐の山本三郎右衛門と平岡次郎右衛門尉和由と緊密に連絡をとっており、山本を淀に呼ぶのは8月中にしたいと述べている。それは、まだ家臣が滞在する家屋敷が不足しており、普請の最中であること、また寛永10年は異常な洪水だったらしくその被害もあり、淀城下の整備に時間がかかるというのが理由であった(この洪水は事実で、京都・大坂などで甚大な被害があった)。
 →【史料⑭】で永井尚政は自ら平岡和由に書状を送り、8月中には家屋敷の普請が仕上がるので、山本三郎右衛門を即時上洛させていただくよう依頼している。永井は仲介の労をとってくれた平岡を立てて、山本三郎右衛門の仕官に向けた状況報告を頻繁に行っている。
 →【史料⑮】で日向盛庵は、山本三郎右衛門が「山本勘助」と名を替えた事実を記している。彼は仕官を契機に名を父祖と同じにしたのであろう。
 →日向盛庵が、「菅助」を「勘助」と書いていることに注意。同じと認識されていたことを示す好例。
 ◆以後、近世山本家では、嫡子は「菅助」、養子は「十左衛門」などを称し、「菅助」を襲名しない慣例が成立する(近世山本家の成立)。この文書から、日向盛庵が永井尚政に山本菅助を紹介したという伝承は事実とみなすことができる。
 →以上の事実から、【史料⑨】の内容の信憑性は極めて高いことがわかる。
 ◆その後、永井尚政は、鉄御門(淀城か)で板倉周防守重宗に直接引き合わせ、紹介したという(【史料⑨】⑤)。
 →板倉重宗は、秀忠側近として永井尚政・井上正就とともに「近侍の三臣」と呼ばれるほど寵愛された人物で、元和5年以来京都所司代をつとめ在京しつつ畿内・西国の統括にあたっていた。永井とは昵懇であり、武田信玄ゆかりの山本菅助を家中に加えたことを自慢したのであろう。
 ◆仕官する際に、永井尚政より武田信玄より拝領した御朱印などの有無を尋ねられたが、山本三郎右衛門はなぜか「一切残っていない」と返答したという(【史料⑨】⑥)。
 →かつて他藩(水戸藩か?)に仕官を申請した際に、自家に残る武田信玄朱印状などを証拠文書として列挙していたのに、今度の永井家仕官の時にはそうしたことは一切なされず、日向・平岡ら武田遺臣の証言のみによって山本菅助子孫と認定されたと思われる。
 →その理由は定かでないが、水戸藩との仕官申請の過程で疑われたためではないか。
 ◆以後、山本家は永井・松平氏を主家とし高崎で明治維新を迎えた。
 8,松平家における山本菅助の役割
 ◆山本菅助(四代目・寛永9年生~元禄5年歿)は、永井家が改易された後に、松平信興(老中松平伊豆守信綱の五男)に仕えた。松平家は、土浦→壬生→高崎→越後村上→高崎と転封を重ね、高崎藩で明治維新を迎えた(「山本家文書」)。
 ◆山本菅助(四代目)が松平家のもとで城普請の奉行を実施していたことが、「沼津山本家文書」から判明。
 →貞享2年(1684)、松平信興は山本菅助を奉行に任命し、土浦城の大改修を実施。特筆すべきは、大手口(高津口)と搦手口(真鍋口)で、大手は武田流の出枡形、搦手は丸馬出を二つ重ねたもの。山本菅助は、初代菅助が編み出したとされる「山本勘助流城取」を採用したことがわかる。
 ◆その後、山本十左衛門(四代目菅助の養子)は、主君松平輝貞の命を受け、元禄7年(1694)に壬生城の改修を担当し、ここでも日光街道に面したところに、真の丸馬出を構築した。
 ◆松平家において山本菅助家は、兵法、特に城取を司る家と位置づけられていたと考えられる。
 9,山本菅助と山本勘助一鍵を握る小幡景憲
 ◆『甲陽軍鑑』の編者小幡景憲と、山本菅助家は四代目菅助の時代から密接なつきあいがあったらしい。
 ◆その初見は、万治3年(1660)8月、小幡景憲から山本菅助(四代目)に出した甲州流兵法に関する印可状(【史料⑯】)。
 →これをみると、山本菅助は長年にわたり兵法の修行を積んでおり、それを賞して小幡景憲が甲州流兵法の「奥義五之曲尺」を伝授したとある。
 →「五之曲尺」とは、甲州流軍学では「兵法之奥義」とされ、「本有曲尺」「縢榎(ちきりおさ)曲尺」「重曲尺」「卍字曲尺」「人心曲尺」の五つをいい、築城にむけた重要な理論とされていた。「本有曲尺』(万事天地の理に従い、無理せず自然の命ずるままに随って行動すること)、「縢榎(ちきりおさ)曲尺」(縢は紡績機の経糸を巻く小糸のことで、この形態が中くびれになっていることから、城郭の塁や城壁の形にソリを与えることの俗称)、「重曲尺」(すべての構えを強化するため、二重・三重の防禦線を構築すること)、「卍字曲尺』(卍字は回転や変転の象徴であり、転じて変幻自在で物事に固執しないこと)。以上、『甲州流兵法』による。
 →このことから、山本菅助は小幡景憲のもとで修行を積んでいたことが判明。
 →つまり、山本菅助家には、初代菅助の編み出した兵法や城取は継承されていなかったらしい。
 『軍鑑』に結実する兵法などは、山本菅助(初代)から馬場信春を経て、早川幸豊、広瀬景房に継承されており、これを小幡景憲が引き継いだ(『小幡景憲記』「小幡景憲印可状」など)。
 →『甲陽軍鑑』に結実する山本勘助の逸話や兵法と山本菅助家は、別々に初代菅助の記録を継承しており、結びつきはまったくなかったことになる(『軍鑑』と山本家が互いに影響しあいながら話が形成されていったわけではない)。
 ◆小幡景憲は、晩年も山本菅助家とのつきあいを続けており、病床の景憲を見舞った「山本勘助」(四代目山本菅助)に礼状を送っている(【史料⑰】)。
 →しかし、小幡景憲は山本菅助を「山本勘助」と記すなど、近世の山本菅助家を山本勘助入道道鬼の系統と"して認識していたことは確かである。なお小幡景憲は、寛文3年(1663)4月3日歿
 ◆寛文12年(1672)4月、恵林寺で挙行された「武田信玄百回忌」に参加した山本菅助は四代目。
 →山本勘助(菅助)は当時すでに有名で、武田越前守信貞(川窪系武田氏)は「山本勘助」に会いたいと思っていたが、この度会うことが出来て嬉しいと述べている(【史料⑬】)。
 ◆近世山本菅助家と、戦国の山本菅助、そして『甲陽軍鑑』の「山本勘助」はつながっていると近世初期から認識されていたことは間違いなかろう。
 →このことは、水戸藩近藤忠重が『甲陽軍鑑』の「山本勘助」の子孫を、山本菅助の孫三郎右衛門の系統と認識していたこと、日向盛庵や平岡和由も同じであったことを想起すれば、山本菅助=山本勘助(道鬼斎)とみなしていたことは明白といえる(日向盛庵は、三代目菅助を「勘助」と明記している)。
 ◆『甲陽軍鑑』の山本勘助と、「市河文書」「真下家所蔵文書」の山本菅助は同一人物と考えられる。
 →ただし、『甲陽軍鑑』に登場するほどの活躍が実際にあったかどうかは別問題。そこまでの検証はできなかった。しかしそれなりに活躍したことは、真下家所蔵文書から事実とみなせる。

 まとめ
 ①武田氏滅亡後、最も早く徳川家康に出仕した武田遺臣の一人が山本十右衛門尉であり、彼は旗本となった。この地位は息子平一郎に引き継がれたが、彼が慶長10年伏見で急死したため断ち切られ、牢人となることを余儀なくされる。
 ②山本十左衛門の息子はその後相次いで天折し、ただ一人のこった山本三郎右衛門は牢人していた(在所で牢人という記録があるので、甲斐に滞在しており、仕官を目指して江戸と甲斐を往復していた)。
 ③寛永3年~9年のどこかで、水戸藩主徳川頼房が山本勘助の孫を召し抱えたいとの意向を示し、武田遺臣で水戸藩士近藤氏らが奔走する。
 ④しかしなぜかこの仕官は実現しなかった。その理由は定かでないが、同時期に頼房は上杉謙信軍師宇佐美定行の子孫宇佐美勝興を召し抱えようとしていた。ところが彼が偽物であることが発覚し、仕官の話はご破算になった。このことが影響しているのではないか。
 ⑤その後、寛永10年に武田遺臣日向盛庵、平岡和由らの奔走で、山本勘助の孫に興味を示していた永井尚政が山本三郎右衛門を召し抱えることとした。三郎右衛門はこれを契機に、同年6月ごろ「菅助」(勘助)と改名した。
 ⑥以後、近世山本家は、永井家、松平家に仕え幕末に至った。
 ⑦山本菅助家は、小幡景憲とも密接な関わりを持っており、武田遺臣の間では有名な存在であったと見られる。
 ⑧武田遺臣の間では、『甲陽軍鑑』に登場する「山本勘助」は、「山本菅助」のことであり、その子.孫が実在することも周知の事実であった。
 ⑨『甲陽軍鑑』の山本勘助と、「市河文書」「真下家所蔵文書」の山本菅助は同一人物と考えられる。ただし、『甲陽軍鑑』に登場するほどの活躍が実際にあったかどうかは別問題。そこまでの検証はできなかった。ただ、実在した菅助が信玄に激賞される活躍したことは事実である。

 参考文献
 1,出典史料
 ・柴辻俊六・黒田基樹編『戦国遺文武田氏編』全6巻(東京堂出版)
 ・武田氏研究会編『武田氏年表』(高志書院、2010年)
 ・酒井健二纒『甲陽軍鑑大成』全6巻(汲古書院)
 ・有馬成甫・石岡久夫編『甲州流兵法』(人物往来社、1967年)
 2著書・論文
 『発掘された土浦城一地中に眠る知られざる歴史一』(上高津貝塚ふるさと歴史の広場、2004年)
 高田徹「土浦城の構造一縄張り復元の基礎的検討を中心に一」(『土浦市立博物館紀要』第15号、2005年)
 笹崎明「江戸時代城郭修補の一事例一下野国壬生城にみる一」(『壬生城郭・城下町解説書』壬生町立歴史民俗資料館、2007年)
 黒田基樹「武田家中における幸綱の立場」(新・歴史群像シリーズ『真田三代』、2007年)
 海老沼真治「群馬県安中市真下家文書の紹介と若干の考察一武田氏・山本氏関係文書一」(『山梨県立博物館研究紀要』3、2009年)
 戦国人名辞典編集委員会編『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年)
 高橋修著『【異説】もうひとつの川中島合戦』(洋泉社新書y、2007年)
 平山優著『川中島の戦い』上・下(学研M文庫、2002年)
 平山優著『山本勘助』(講談社現代新書、2006年)
 平山優「山本菅助宛て武田晴信書状の検討」(『戦国史研究』60号、2010年)
 山梨県立博物館編『実在した山本菅助』(シンボル展図録、2010年)
 山梨県立博物館編『山本菅助再考』(シンポジウム資料集、2010年)
 山梨県立博物館監修・海老沼真治編『山本菅助の実像を探る』(戎光祥出版、2013年)

2013年8月9日金曜日

続町名由来(十) 浜悠人

続町名由来(十) 浜悠人
 内浦地区は駿河湾の奥深い内浦湾に面し、海岸線が出入りし天然の良港に恵まれている。北は金桜山を境に静浦口野に接し、東は山を背に伊豆長岡と、南は修善寺や西浦に接し、西は淡島、内浦湾を隔て遥か富士山を眺望できる絶景の地である。ここは江戸時代から漁業を中心に、北から重寺村、小海村、三津村、長浜村、重須村の五力村から成っていた。
 明治二十二(一八八九)年、町村制の施行に際して五力村は一つになり、君沢郡内浦村として発足した。村名は湾深い内海の磯を指す内浦で、戦国時代の古文書に出てくるので採ったと思われる。
 昭和三十(一九五五)年、内浦村は沼津市と合併。それぞれの地域は大字内浦を冠し内浦重寺、内浦小海、内浦三津、内浦長浜、内浦重須と称するようになった。
 『重寺(しげでら)』は昔、医源院と大慈院(現在は観音堂)の二つの寺が上と下に重なっていたので重寺なる地名が付いたとか、また「茂ってらあ」と後背の山を指して呼んだと説く人もあり、定かではない。
 重寺の西に周囲約一・五㌔の円錐形の小島、淡島がある。「あわ」はアイヌ語で「入り口」の意味があり、海から陸への入り口を指す。「淡」は「あわ」の当て字と思われる。重寺の奥に白山神社があり、民俗芸能の三番隻(さんばそう)が有名だと聞いた。
 白山神社から金桜山へのルートがあり、昔は海岸道がなく、山伝いに次の集落へ向かったと考えられる。
 『小海』は山を背に内浦湾に面し三津とは地続きで、地名は三津から見て海の向かい側にあるので向海から小海に転じたと言われる。また海中から光明の差す軸物を発見、これを天満社に祭り以後、光海(こうみ)と呼ぶようになったともいうが、いずれも定かではない。
 『三津(みと)』は網代、下田と共に伊豆の三つの津(湊)から付けられたとも、また三戸氏の出身地からとも、あるいは田方平野に通じる地で山野に対し海戸(みと)と解して付けられたとも言われているが、いずれも定かではない。
 三津の背後に発端丈山があり、山上に正平十六(一三六一)年、畠山国清が関東管領足利基氏に対抗し立てこもった三津城があったと言われるが、城跡は定かでない。
 先日、三津浄因寺にある句碑を訪ねた。
 第八世の大顛梵千(だいてんぼんせん)は、俳人其角(きかく)の禅の師匠で松尾芭蕉とも親交があり、号を幻吁(げんく)と称した。
 禮者門を敲く羊歯暗く 幻吁
(山本三朗氏建立)
 三日月の命あやなし闇の梅 其角
(渡辺龍子氏建立)
梅こひて卯の花拝むなみだかな 芭蕉
(山本三朗氏建立)
白梅や托鉢の僧みな若く 白龍
(山本三朗氏建立)
 三津気多神社に"山桜植樹の碑"がある。
 夢に見し山桜咲き富士高く 長景
 戦後、内浦、西浦の山野を桜で飾りたいと元文部大臣の岡部長景が苗木を寄贈し地元青年団が植樹した記念の碑である。
 三津の旧道と新道の分岐点に愛鷹丸遭難者供養塔がある。大正三(一九一四)年、戸田舟山沖で遭難沈没した愛鷹丸の乗員と乗客百余人の冥福を祈り、内浦の海の仲間が建てたと言われる。
 『長浜』は、戦国時代の古文書に出てくる地名で、長い浜に面した土地から付けられた。
 長浜城跡は、重須と長浜の境にあり海に張り出した小山。長浜城のあった所で、戦国時代、豪族大川氏の居城であった。
 『重須(おもす)』は、長浜に続く集落で湾内の入り江に面していることから「面洲」または、この土地にとって重要な洲を意味し重洲と称し、重須と記された。昔は北条水軍の根拠地で船大将梶原氏の陣所。近くには田久留輪(たぐるわ)や城下(しろした)の地名が残っている。
 天正八(一五八〇)年三月、武田水軍が重須港に鉄砲を放ち、千本浜の沖合で北条と武田の水軍が海戦となり、両者とも勝負つかず引き上げたと言われる。 (歌人、下一丁田)
《沼朝平成25年8月9日(金)号》

2013年7月21日日曜日

2013年7月13日土曜日

「明石海人と世界記憶遺産」岡野久代

「明石海人と世界記憶遺産」岡野久代
 ー「沼津ふるさとづくり塾」をめぐって
 
 『文芸春秋』創刊九十周年記念「新百人一首・近現代短歌ベスト100」(本年新年号)に選歌された明石海人(本名・野田勝太郎、明治三十四年沼津生まれ)の歌は「この空にいかなる太陽のかがやかばわが眼にひらく花々ならむ」である。歌集『白描』の第二部に所収された歌であるが、現代では時代思潮もあって第二部の評価が高いことが分かる。
 しかし筆者の『沼津史談』第六十四号(本年三月刊)の小論は、海人のふるさとである沼津に焦点をあてたので、ハンセン病患者としての自伝的な第一部の歌と長歌および詞書が中心となった。第一部には疾病歌とともに故郷を詠んだ歌が満載されているからである。小論といえども論文には論証が不可欠であるので、構想を練りながら、歌集『白描』に収録された短歌の初出を調査していくうちに、沼津に因むことばを挿んだ歌は『白描』の収録から外したことが判った。社会の偏見と差別から家族や友人を守るためである。その一首は機関誌『愛生』(昭和九年八月号)に発表された父の哀悼歌、
 ふるさとの千本松原小松原松が下なる父がおくつき
 である。沼津では「沼津に下れば千本松千本松原小松原」という歌詞の入った寝かせ歌の子守歌が江戸時代から歌い継がれてきた。また、「沼津千本松原」という祭り歌
は「千本松原小松原」という歌調から始まる。
 次に故郷を秘すために『白描』所収から除けた望郷歌の傑作を紹介してみたい。『愛生』(昭和十年三月号)に発表された歌であるが、「駿河の海」を詠んだ、
 うつつには見ずて果つらむふるさとの駿河の海をまさやかに見つ
 である。脳裏に刻んだふるさとの海が悲槍感とともに美しい声調で詠われている。
 沼津史談会が主催する「沼津ふるさとづくり塾」の第1回講座は、明石海人が国立療養所長島愛生園に終焉した命日の六月九日にあたった。厳粛な思いで臨んだ講演はすでに『沼津史談』の拙論の末尾に提言したが、歌集『白描』はユネスコ事業である世界記憶遺産に値することを強調して締め括った。その後まもなく嬉しいことに富士山が世界文化遺産に登録された。
 一方、世界記憶遺産には「アンネの日記」「ヴェートーベンの交響曲九番の草稿」「べンゼンの癩病記録文書」などがあり、昨年は日本で初めて、「筑豊炭田の炭鉱画(山本作兵衛)」が登録されている。筆者の提案に対して受講者など、多くの人たちから賛同の声が寄せられている。明石海人の『白描』が世界記憶遺産に登録されるための具体的な行動が必要な時期ではないだろうか。
 さて、「沼津ふるさとづくり塾」第3回として、七月二十日(土)の午後一時から市立図害館四階講座室で、「坂の上の雲」にも登場した井口省吾大将のドイツ留学時代を中心に、沼津史談会会員の弁護士、井口賢明氏が講演を行う。
 安政二年、沼津に生まれた井口省吾は沼津兵学校附属小学校に学び、兵学校頭取を務めた西周の紹介で東京の同人社に進み、陸軍士官学校を経て陸軍大学校を卒業後はドイツに留学、日清・日露戦争に参謀として従軍した。凱旋して陸軍大学校校長を務めた後、大将に昇進したエリート将校である。
 井口省吾の遺した資料は膨大であるが、中でも「年中重要記事」は陸大教官時代から晩年まで三十四年間の日記で、ドイツ留学時代の実態を知る貴重な文献である。
 西周の親戚で、幼少時東京神田の西邸に寄宿していた森林太郎(森鴎外)がドイツ留学中、コッホの下で研究していたのもこの頃。森は、井口ともドイツでの接触はあり、帰国後も日清戦争の際は井口が主任参謀森が兵站軍医師長であったので交流があった。そのほか、恩師クレメンス・メッケルとの師弟関係や同時期の留学生との交友関係など、軍人として誇り高く生きた「人間・井口省吾」の実像が明らかにされることであろう。ヴェーゼル市公文書館所蔵の井口省吾のサイン帳には「温故知新」と記されている。
(沼津史談会会員、日本大学短大購師)
 なお、七月二十日の「沼津ふるさとづくり塾」第3回講座は、事前申し込みがない方でも、当日受講は可能です。(資料代五百円が必要)
《沼朝平成25年7月13日(土)号投稿記事》

2013年6月22日土曜日

世界遺産:「富士山」登録決定 「三保松原」含め

世界遺産:「富士山」登録決定 「三保松原」含め
毎日新聞 2013年06月22日 17時36分(最終更新 06月22日 18時01分)


 カンボジアの首都プノンペンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)第37回世界遺産委員会は22日、日本政府が推薦している「富士山」(山梨、静岡両県)を世界文化遺産に登録することを決めた。山岳信仰や浮世絵など芸術作品の対象として日本文化の象徴的存在が高く評価された。日本の世界遺産は、2011年に登録された小笠原諸島(東京都、自然遺産)と同年の平泉(岩手県、文化遺産)に続き17件目(文化遺産13件、自然遺産4件)となった。今年4月に構成資産から除外するよう勧告されていた国指定の名勝「三保松原」(静岡市)も含めての登録となった。

 世界遺産委員会は16日に始まり、21日からは富士山を含む新規案件を審査していた。

 富士山は、富士山信仰で聖域とされる標高1500メートル以上の山域やふもとの浅間神社、白糸ノ滝、富士五湖で資産構成されている。07年に日本政府の暫定リストに掲載、12年にユネスコに推薦された。その後、ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議(イコモス)」が現地調査を実施。今年4月には富士山から45キロの距離を問題視した三保松原を除外する条件付きで「登録」を勧告した。文化庁や静岡県など地元自治体は「富士山信仰、芸術の源泉の両面から不可分である」などとして、構成資産に含めるよう、世界遺産委員会の各委員国に要望活動を続けていた。

 また、イコモス勧告では、開発や土砂流出防止工事による環境への影響を懸念し、16年までに保全状況報告書を提出するよう求めている。山梨、静岡両県では、富士山の入山料の検討を進めているが、環境保全と地域振興のバランスをどのようにして取るのか、議論が続いている。

 一方、イコモスが「不登録」を勧告していた「武家の古都・鎌倉」(神奈川県)は、この日までに推薦が取り下げられた。今後、地元自治体を中心に再推薦に向けた方針を検討する。【福田隆、プノンペン樋口淳也】

2013年6月15日土曜日

2013年6月9日日曜日

2013年5月23日木曜日

沼津倶楽部について




沼津倶楽部について
 社団法人沼津倶楽部は、沼津市内外の方たちとの交流を図りつつ、産業文化の向上発展について研究協議し、地域の振興に寄与することを目的として、昭和21年に設立された公益法人です。
 その歴史を振り返ると、明治から大正にかけて、沼津市(当時沼津町)が別荘地として貸し出した土地(約3千坪)を茶人でもあったミツワ石鹸の三輪善兵衛氏が借用して、本格的な数寄屋造りの別荘を建てました。千人茶会を催したいとの思いがあったと伝えられています。
 太平洋戦争が勃発すると、陸軍省がこの建物を接収し、将校たちの休息所として利用しました。
 昭和20年7月16日夜半の空襲によって、沼津の街は焼土と化してしまいました。
沼津市長勝亦干城は、戦災復興を協議する場の必要性を痛感し、戦災を免れ、戦後、陸軍省を経て大蔵省に移管されていたこの建物を取得して、その拠点にしようと考え、有志に出資を呼びかけて、社団法人の設立を計画し、昭和21年11月8日商工大臣(星島二郎)の許可を得ました。社団法人沼津倶楽部の発足です。
 社団法人沼津倶楽部は、収益事業としての割烹「沼津倶楽部」を経営しつつ、地域の復興と発展に寄与してまいりました。
 駿河湾の潮騒につつまれ、富士を望む千本松原の一角にある「沼津倶楽部」は、地域の人々の交流の場としても注目され、数寄屋造りの瀟洒な和室、大正モダンの面影を色濃く残す洋間、京都より移築された3畳台目の茶席など、そこに流れる匠の心、洗練された気品は、訪れる人々に広く親しまれてまいりました。
 先人たちは、この松籟の風情が漂う3千坪の広大な庭園と貴重な木造建築を後世に残すべく努力を重ねてまいりましたが、近年、老朽化が進み、この歴史的な建物を長く存続させるための大修理が必要となり、平成18年秋、篤志者「栄光ゼミナール」の創業者北山雅史氏の協力を得て、大修理に着手し、宿泊施設も建てられ、平成20年11月、装いも新たに再開いたしました。
 社団法人沼津倶楽部は、地域の産業文化の向上発展に寄与するための事業を展開しつつ、「株式会社プロジェクトN」(代表北山雅史氏)に施設の管理を委託し、懐石料理の「割烹沼津倶楽部」からフランス料理の「LERESTAURANT」と名称も新たに、沼津の食材を生かした素敵な食事処を営業しております。
 なお、社団法人沼津倶楽部の歴代理事長は、勝亦干城、真野為雄、竹内鉄次郎、岡田吾一、林輝彦、諏訪健次郎、名取寛二郎、宇野紳七郎、山本安彦の諸氏です。
現在の会員は、宇野統彦、大古田一郎、勝亦一強、佐藤一宏、武田吉之助、名取正純、永倉敬久、林茂樹、山本豪彦です。
 公益法人制度改革に伴い、平成24年5月1日付けで一般社団法人としての認可を静岡県知事から受けました。
 平成25年5月
 一般社団法人沼津倶楽部
 理事長 林茂樹

2013年5月19日日曜日

武田家臣末裔の「武田家旧温会」

武田家臣末裔の「武田家旧温会」
 今年度、土屋誠司さん(牛臥)が会長に

 戦国時代有数の名将として知られる武田信玄。信玄は「人は石垣、人は城」という言葉を残し、人材を何よりも重視したとされ、その下には「武田二十四将」と呼ばれる優れた家臣が多く集まった。大名としての武田氏は天正十年(一五八二)に滅亡したが、その家臣の末裔は今も独自の結束を保っている。その象徴とも言えるのが、家臣末裔によって構成される団体「武田家旧温会」(本部・山梨県甲府市)。会員の一人で牛臥に住む土屋誠司さん(83)が今年度から、同会の会長に就任した。
 先祖は勇猛な伝説残る土屋昌恒
 勝頼の最期と運命を共に
 同会は昭和四十六年の設立。先祖の遺徳を偲ぶため武田氏関連の郷土史研究や慰霊祭参加などを行い、信玄の次男、龍芳の子孫で武田家十六世、元商社員の武田邦信さんが最高顧問を務めている。現在、約百三十人の会員がいる。
 土屋さんは昭和五年生まれ。実家は富士宮市(旧大宮町)で、富士宮北高を卒業後同市のボーリング調査技術員や沼津工業高技術研究所で地質調査技術職員を務めた後、昭和三十三年に地質調査会社の富士和ボーリング(現富士和)を設立。現在は会長職にある。これまで沼津ライオンズクラブ会長や、沼津商工会議所監事なども務めている。
 信玄が残した数々の名言のうち、「凡(およ)そ軍勝、五分を以て上と為し、七分を以て中と為し、十分を以て下と為す」という言葉に特に感銘を受け、経営や処世の上でのモットーにしている。「要するに、勝ち過ぎて驕(おご)るのはいけない。勝って兜の緒を締めよ、ということです」
 土屋さんの先祖は、土屋昌恒(まさつね)という武将。土屋惣蔵(そうぞう)、土屋右衛門尉(うえもんのじょう)などとも呼ばれる。一回目の川中島の合戦の三年後、弘治二年(一五五六)に生まれ、武田家が滅亡した天正十年(一五八二)に没した。
 昌恒の兄は武田二十四将の一人として知られる土屋昌続(まさつぐ)で、昌恒より十一歳年長の昌続は、信玄と上杉謙信が一騎打ちをしたとされる永禄四年(一五六一)の四回目の川中島の合戦で活躍したが、信玄没後の天正三年(一五七五)の長篠の合戦で戦死した。
 昌恒達兄弟は、元から土屋氏を名乗っていたのではなく、実家は甲斐の名族、金丸氏で、次男だった兄の昌続は川中島の合戦の功績により、土屋氏の名跡を継いだ。
 昌恒が土屋姓を名乗るのは、それより遅れて、信玄が今川氏を攻めて駿河国を奪った元亀元年(一五七〇)。初めて海のある土地を領有した信玄は、それまで今川氏の家臣として水軍を率いていた岡部貞綱という武将を家臣として迎え入れ、新設された武田水軍の幹部として厚遇。貞綱に土屋姓を名乗るよう命じた。貞綱は土屋貞綱と改名するとともに、昌恒を養子として迎えた。
 長篠の合戦では、兄の昌続だけでなく、餐父の貞綱までもが戦死したため、昌恒が、すべての土屋氏の後を継ぐことになり、領地や家臣団を継承。土屋氏当主となり、信玄の跡を継いだ勝頼の側近として武田氏を支えた。
 天正七年(一五七九)、武田勝頼は沼津に三枚橋城を築くが、武田氏の事績を記した書物『甲陽軍鑑』によると、その翌年、勝頼は小田原の大名、北条氏政と戦うために軍勢を率いて三枚橋城に入り、昌恒も、この軍勢に従軍していたという。
 その後も、東の北条や西の徳川家康と戦い続けた勝頼だったが、次第に情勢は不利となり、天正十年、織田信長が武田氏を攻めるため大軍を派遣すると、これに敗れて最後は自害に追い込まれた。
 この間、武田家臣の中には武田氏を見捨てて裏切る者も現れた。特に、小山田信茂という武将は、勝頼と、その家族を保護すると申し入れ、勝頼一行を自分の城に招いたが、実際は勝頼一行を襲う側に回った。
 この時、昌恒は勝頼を見捨てるようなことをせず、逃げ落ちる勝頼一行を護衛した。僅か数十人の一行に織田軍が襲いかかった時、昌恒は大いに奮戦。狭い山道で、滑り落ちぬように片手で蔓を握りながら、もう片手で刀を振るい、多くの敵を倒したという伝説があり、俗に「片手千人斬り」と呼ばれている。
しかし多勢に無勢で、勝頼一家が自害すると、昌恒もまた、自害して果てた。享年二十七歳。一方の小山田信茂は、卑劣な振る舞いを批判され、後に織田軍によって処刑されている。
 土屋さんに「片手千人斬り」伝説について尋ねると、「刀は人を斬ると歯こぼれしますから、千人斬りというのはありえないでしょう」と話す一方、「腰元など多くの女性も含む僅か数十人に大軍が押し寄せてきたわけですから、敵から残酷な仕打ちを受けるくらいなら自害を選ぶような、そういう凄惨な状況だったのでしょう」と、かつての悲劇を悼む。
 また、織田信長の印象について土屋さんは「やはり好きにはなれないですね。嫌いです」ときっぱりと答えたが、小山田信茂については「小山田は、もともとは独立した勢力で、後になってから武田の支配下に入った。生き残るためには仕方なかったのではないですか。それに、(勝頼一行が)仮に小山田の城に保護されたとしても、織田は大軍。生き延びることができたとは思えません」と理解を示す。
 武田家旧温会では、土屋さんが会長に就く直前、武田信玄の末裔を名乗る女性タレントについて、武田家との関わりを否定する声明を出している。
 こうした中で、先祖と子孫のあり方について土屋さんは「末裔を名乗る人は多くいます。しかし、本当に大事なのは、祖先を敬い祭る気持ちがあるかどうかではないでしょうか」と話す。
 土屋さんの家には、岡部氏の家紋「左三つ巴」の旗印と、柄に家紋の細工が施された短刀が残されている。土屋さんは、昌恒の子で現在の富士宮市で帰農した八之丞(はちのじょう)の子孫に当たるが、昌恒の義父だった岡部貞綱についても強い思いを抱いている。
 貞綱が開基となった現在の静岡市清水区の寺院榜厳院(りょうごんいん)を訪れた際、貞綱の位牌が無いことを知った土屋さんは、位牌を作って奉納。また、岡部氏の本拠だった旧岡部町(現藤枝市)へもたびたび足を運び、貞綱の子孫として神社の祭礼に出席している。
 土屋さんは、子や孫など自身の家族に対しては信玄や昌恒について語ることはあまりないというが、「人間は年を取れば、過去を振り返るようになります。いずれは自然と関心を持つようになるでしょう」という気持ちでいる。
《沼朝平成25年5月19日(日)号》