2011年6月26日日曜日

懐かしのチンチン電車

「懐かしのチンチン電車」 浜悠人
 明治二十二年七月、東海道線が全線開通し、新橋ー神戸間を二十時間五分で結んだ。今、新幹線「のぞみ」なら二時間三十分で到着する。沼津駅は同年二月一日に開業した。当時はまだ、駅と言えば宿駅=宿場を意味していたので、汽車の駅は停車場(ステーション)と呼ばれていた。
 明治三十九年十一月、沼津停車場から三島広小路までの約六・五㌔を結ぶ県下最初の路面電車が駿豆電気鉄道(後の駿豆鉄道)により開通した。運行開始当日、沼津・三島の町民は、こぞって歓迎し、花火や花電車、楽隊、山車と華やかな祝賀式を繰り広げた。そして終日、電車は運賃無料で沿線住民にサービスしたという。
 この電車が「チンチン電車」と呼ばれるのは、チンチンと警笛(ベル)を鳴らしながら走ったのが起こり(最初)で、大正から昭和にかけてはバスとの競合もなく、新車二〇形(後のモハ一〇形)四両が十二分間隔で運行。沼津・三島間を二十四分で走った。ために、沿線の通勤、通学者の足として利用された。戦争が激しくなると乗客もあふれ、座席は半減。最後は全員立ちん坊で、荷物並みとなった。
 昭和三十年代に入るとバス路線との競合が激化。乗客はだんだん減っていったが、潰滅的な打撃を受けたのは、昭和三十六年の集中豪雨であり、黄瀬川橋が流失し、電車は広小路と国立病院前間の折り返し運転となり、国立病院前から沼津駅まではバスによる代行運転となった。
 そして昭和三十八年、それまで五十七年間にわたって親しまれたチンチン電車も、ついに廃線となった。
 先日、往時を偲び、沼津駅から広小路まで二日間をかけて旧電車道を歩いてみた。まずはイーラde東側の旧「沼津停車場」から歩き始めた。運転手が出発のため、通電装置(電線から電気を取る棒状のもの)を一八〇度反対の向きに変えてスタートする。
 最初の停留所は「追手町角」で、裁判所前(現在、大手町の中央公園となっている)を下ると「三枚橋」がある。三園橋を渡って香貫方面へ向かう人は、ここで降りる。次に「平町」を経て、「山王前」で線路は複線となり、三島から来る電車とすれ違う。戦中、三島から沼中へ通学した大岡信は、ここで降り、黒瀬橋を渡った、と回顧している。近くには、平作地蔵、一里塚、玉砥石などの遺跡が見られる。
 さらに進めば、「麻糸前」「石田」を経て「黄瀬川」となる。現在工事中の黄瀬川橋を渡ると、左手に、こんもりとした森の智方神社がある。ここには、後醍醐天皇の皇子、護良(もりなが)親王を祭ると言われる御陵があり、そこの祠(ほこら)に井上靖は『夏草冬濤』の中で、三島に下宿していた洪作少年が沼中まで徒歩で通い、始業式の日、通学鞄を神社の木の根の洞に隠し失くしてしまう事件を書いている。
 「臼井産業前」には、片側だけだが、旧東海道の松並木が今なお残っている。この辺り左手に車庫があったのが思い出される。
 次に「国立病院前」「長沢」「玉井寺前停留所」となる。八幡(やはた)には頼朝、義経が対面を果たしたと言われる対面石のある八幡神社があり、玉井寺には一里塚や白隠の遺墨の「三界萬霊等」、同寺山号の「金龍
山」がある。
 一服した後、「伏見」「千貫樋」と進む。ここには伊豆と駿河の国境となる境川が流れ、戦国時代、北條が今川に三島の湧水を、この樋を使って送った通称、千貫樋が左手に見られる。「木町」を過ぎ、遂に「三島広小路」に到着。
 最後に、先ごろ、路面電車のある岡山ではワイントラム(トラムは市街電車、路面電車の意)を走らせ、乗客は楽しそうに飲み合っていた。私は、沼津にもチンチン電車があればなあ、と懐かしく思ったのだが…。 (歌人、下一丁田)
【沼朝平成23年6月26日(日)】

2011年6月19日日曜日

沼津藩

沼津藩五万石 譜代
 静岡県沼津市
 水野家 城主・子爵
 外桜田 帝鑑間
 家紋:丸二立沢濡(まるにたちおもだか)
 慶長六年、上総茂原で五千石を知行する大久保忠佐(ただすけ)が三枚橋(さんましはし)城主となり、二万石を領したことにより当藩は成立した。慶長十八年、忠佐の死後、無嗣絶家となり廃藩。以後、頼宣(よりのぶ)領、幕領、忠長(ただなが)領となったが、寛永九年に忠長が除封になると、その後の約一五〇年間は幕領となった。安永六年、若年寄水野忠友(ただとも)が側用人に昇進すると同時に七千石を加増され、城主として沼津の地を賜った。
また、城の再築を許され、二万石を領して沼津藩を再び起こした。田沼時代の老中となり、二度の加増で三万石となった。養子忠成(ただあきら)が継ぎ、大御所家斉(いえなり)の時代に老中首座として活躍し、加恩により五万石を領した。
忠友=忠成(岡野知暁(ともあき)二男)=忠義(ただよし)=忠武(ただたけ)=忠良(ただよし)(忠武弟)=忠寛(ただひろ)(水野忠紹(ただつく)嫡男・側用人)=忠誠(ただのぶ)(本多忠孝四男・老中)=忠敬(ただのり)(水野忠明二男)。
二代忠成は将軍世子家斉の小納戸(こなんど)役から次第に累進し、老中格にまで出世した。文政元年に老中首座に任じられると、家斉の信任を得、幕政を縦横に左右した。最初に手がけた事業は貨幣の改鋳で、益金は六十万七〇〇両余りであった。この功により一万石を加増された。五六人を数える将軍家斉の子女の縁組や婚儀もまた、忠成の裁量によるところのものが多かった。文政十二年、一万石の加増を受け五万石となった。
 沼津水野家は水野忠政の二男忠重の四男、忠清(ただきよ)を家祖とする。元和二年に刈谷二万石、次いで三河吉田四万石、松本七万石となった。忠職(ただもと)=忠直(ただなお)=忠周(ただちか)=忠幹(ただもと)=忠恒(ただつね)と在封し、忠恒が江戸城中で毛利師就(もろなり)に刃傷したため除封となったが、伯父忠穀(ただよし)が佐久七千石の旗本として家名存続を許された。嫡子忠友が竹千代(のち家治)の御伽(おとき)衆となり、累進して沼津城主となったものである。
 維新時は尾張藩と行動をともにし、新政府に帰順した。
 現在の沼津駅が城跡であるため何も残っておらず、街を歩いていても、ここが城下町だったという感じはしない。時代の流れとはいえ、寂しいものを感じる。
「ふるさとの藩(前田勤著)」

2011年6月7日火曜日

日本考古学大賞


 文化財センター 黒曜石研究の池谷信之さん
 日本考古学協会賞大賞を受賞

 黒曜石の分析で顕著な成果を上げている市文化財センターの池谷信之さん(52)が、五月に開かれた日本考古学協会総会で第1回の協会賞大賞を受賞した。
 同協会では二〇一〇年度、考古学研究の活性化、啓発と普及、人材の育成、社会貢献の増大などを目的に協会賞を制定。大賞、奨励賞、特別賞を設け、その前年(○九年)一年間に刊行された著作を対象にして作品を募集し、このほど審査を行った。
 池谷さんが大賞を受賞した著作は『黒曜石考古学』(新泉社刊)。
 池谷さんは専用の機器を使って黒曜石の分析に取り組み、愛鷹山腹で出土した黒曜石の産地を特定するだけでなく、石が見つかった集落の性格を推論。さらに、「沼津最古の民」が海を渡って黒曜石を手に入れていたとの結論を導き出した。
 また、市内にとどまらず、千葉県の二つの縄文時代の集落をめぐって続いていた論争についても、両集落から出土した黒曜石の産地を明らかにすることによって一つの方向性を見出すなど、研究成果の及ぶ範囲は広い。
 研究のために分析機器を自前で購入したほどの熱の入った取り組みは、今回の受賞対象のほか、『黒潮を渡った黒曜石見高段間遺跡』(平成十七年、新泉社刊)など、自費出版、共著も含めて数多にわたる著作となって現れ、『黒曜石考古学』で博士号(史学)を取得。また、一連の研究と著作が評価され、昨年、県の文化奨励賞を受賞している。
【沼朝平成23年6月7日(火)号】