2014年10月19日日曜日

141018沼津繭市場の発展と繊維工場の進出:講師寺村泰教授





















当日画像資料

工業進出で人口が増加
 沼津の経済発展過程を学ぶ
 沼津史談会(菅沼基臣会長)は、第7回沼津ふるさとづくり塾を、このほど市立図書館視聴覚ホールで開き、約六十人が受講。講師を務めた静岡大学人文社会科学部の寺村泰教授が「沼津繭(まゆ)市場の発展と繊維工場の進出-沼津の経済発展過程を捉えるー」と題し、明治から昭和初期までの沼津の経済と人口の歴史について、様々な統計資料に基づいて述べた。
 変化のきっかけは繭市場開設
 史談会ふるさとづくり塾
 寺村泰静大教授が講義
 戦前沼津の人口変動明治十八年(一八八五)から大正三年(一九一四)の間に、静岡県全体では人口が約一・五倍に増えた。これに対し、旧沼津町の人口の伸びは約一・二倍で、県内平均よりも低い伸び率だった。
 一方で、大正三年から十二年の間は、県内人口が一・一倍になったのに対し、沼津の人口は約一・五倍になった(この時の「沼津」は旧沼津町と旧楊原村を合わせたもの)
 大正時代において沼津の人口が県内平均以上に増加したのは、繊維工場の進出により沼津が商業都市から軽工業都市に変貌したことによるもので、外部から労働者人口が流入した。
 昭和になり、太平洋戦争が始まると、海軍工廠や東芝機械などの軍需工場が進出して沼津は重工業都市となり、これに合わせて人口が急増。太平洋戦争前後の昭和十五年と二十二年を比較すると、静岡市や浜松市では人口が減少したが、沼津市は人口が増え、戦争によって増えた人口は、戦後も維持された。
 これは軍需工場が民需工場に転換したことや海軍工廠跡地が新たな工業用地となって沼津の工業化を維持したことが大きい。
 明治大正期の経済 我が国の統計学研究の草分け的存在である杉亨二(すぎ・こうじ)は江戸幕府に仕え、明治維新後は静岡藩に仕えた。その際、藩内で人口調査を行い、旧沼津町や旧原町に相当する地域の人口資料を残している。
 それによると、明治二年(一八六九)の旧沼津町民の職業構成は、約五割が商業やサービス業で、工業や農業は一割ずつに過ぎない。当時の沼津は商業が中心となった都市だった。
 これに変化を与えるきっかけは、大正五年(一九一六)の沼津繭市場の開設だった。繭市場の開設により、蚕の繭から生糸を作る大規模製糸工場が現在の高島町周辺に進出。繭確保が容易であることや、豊富な水資源、輸出港である横浜と東海道線により直結していること、などが理田だった。また、工場誘致のために旧沼津町当局も積極的な誘致活動を行っていた。
 第一次大戦後の大正九年(一九二〇)に世界恐慌が起きても沼津の繊維工業は好調で、人手不足の事態さえ生じた。沼津の工場は最新鋭の設備を有していたので、企業経営者が他地域よりも沼津の工場を優先して操業を続けさせたのが、その理由だという。人口が増加し、経済が発展する中で、沼津は大正十二年(一九二三)に市制施行を果た
した。
 沼津繭市場 沼津の工業化と人口増加に大きな影響を与えた繭市場は、山梨県の繭仲買人の家に生まれた名取栄一(一八七三~一九五八)によって設立された。
 当時、静岡県東部では国策による補助金行政もあり養蚕が盛んだった。県東部で生産された繭は長野県の製糸工場群に運ばれ、生糸の原料になった。かねてより長野系の製糸企業とつながりのあった名取は、県東部産繭の一手買い入れを狙い、繭市場を創設して他の繭取引業者と激しく争った。
 その後、独占買い付けによる繭の買い叩きから農民を保護しようとする政府の動きに合わせ、昭和十二年(一九三七)、繭市場は廃止された。廃止後の昭和十五年(一九四〇)、名取は沼津市長になっている。
 重工業へ一九三〇年代の昭和恐慌により製糸業は打撃を受け、繊維工場の閉鎖が始まり、繭価格低迷により養蚕農家も減少した。代わって重工業系の工場が沼津に進出。兵器部品を生産する富士製作所や国産電機、芝浦機械などの工場が建設された。
 昭和十八年(一九四三)の海軍工廠設置により沼津の軍需工業は発展し、太平洋戦争末期に最盛期を迎えた。
 終わりに 明治から太平洋戦争終戦までの沼津の経済と人口について解説した寺村氏は、沼津の経済の特徴として、①工場誘致が経済発展を大きく左右した、②名取栄一のように沼津の外部からの人間や資本によって工業化が進められた、③工場誘致において行政当局が積極的に関わった、の三点を挙げた。
 また、余談として戦後のコンビナート誘致と反対運動について経済史の観点から述べ、「沼津へのコンビナート進出失敗は公害反対運動のみによるものか」と問いかけながら、当時の沼津市内は失業率が極めて低くてコンビナート建設による雇用創出を求める機運が市民間に生まれなかった、コンビナートの工場は三島市や清水町に建設される予定で沼津市には税収面のメリットが期待できず沼津市当局も誘致には消極的だった、などといった当時の状況を解説した。

( 沼朝平成26117日号)

第7回「沼津ふるさとづくり塾「沼津繭市場の発展と繊維工場の進出」




沼津繭市場の発展と繊維工場の進出
講師:寺村泰教授




















当日画像資料集

2014年10月5日日曜日

沼津に武田の隠れた名将「曽根下野守昌世」

沼津に武田の隠れた名将「曽根下野守昌世」 
 興国寺城の城代務めた一時期も

 市教委は先月、二十六年度歴民講座「甲斐武田氏と沼津~興国寺城将曽根下野守昌世を追って~」を市立図書館視聴覚ホールで開催。約二百人が聴講した。講師は、歴史学者で戦国大名武田氏研究の第一人者、平山優氏が務めた。平山氏は、これまでにも二回、同講座で講師を務めている。


 曽根下野守昌世 信玄をして「両眼の一方」
 今回のテーマとなった「曽根昌世(そね・まさただ)」は、武田信玄と勝頼の二代に仕えた戦国武将で、市内根古屋の興国寺城が武田領になると、同城に駐在した。武田氏滅亡後は徳川家康に仕えて旧武田勢力を徳川派に迎えるために活躍したが、家康によって追放処分となり、最終的には豊臣系の大名である蒲生氏郷(がもう・うじさと)の家臣となった。
 真田昌幸(*)と共に、信玄によって「我が両眼」と評価されるほどの才能の持ち主だったが、真田氏とは違い、その子孫は大名になることもなく途絶えてしまった。現在も、昌世に関する研究は、ほとんど行われていない状況だという。
 曽根家 曽根家は武田家十四代当主の信重(のぶしげ)の子孫に当たる。信重の長男信守は武田本家を継ぎ、信玄は、その子孫。信守の弟達は分家して曽根家と下曽根家の初代となった。「曽根」の名は、甲府市南西の曽根丘陵に由来するといい、同丘陵には曽根氏の館があったという伝承がある。曽根も下曽根も、武田本家の家臣という立場だったが、武田一族として格の高い家臣と見なされていた。
 曽根家と昌世 平山氏によると、昌世は曽根家の本家出身ではない可能性があるという。武田一族の家系の嫡流は、名前に「信」の字が付く慣習があることから、このような推測ができるという。
 昌世は曽根家の嫡流ではなかったが、信玄の側近として活躍し多くの史料に存在が記されている。一方で曽根家嫡流の人物については、史料上に明確な記述はない。ただし、三枚橋城の城将を務めた曽根河内守のように、曽根家嫡流である可能性が指摘される人物は存在している。
 平山氏は、昌世が本家筋の人物よりも史料が豊富な点について、信玄は家臣の次男、三男を取り立てて自分の側近としていたことを話し、嫡流の人物は本家を守るために地元に残ったので信玄家臣として活躍する機会も少なかったのだろう、と推測する。
 失脚と駿河 昌世は信玄の側近として活躍する前に、失脚を経験している。一五六〇年に桶狭間の合戦で駿河の今川義元が死亡すると、信玄は駿河侵攻を考えるようになった。信玄は外交方針を転換し、それまで親密だった今川を攻めるために今川の宿敵である織田信長との同盟を計画。信長の養女と自分の四男勝頼との政略結婚を考えた。これに反対したのが、信玄の長男で義元の娘を妻にしていた義信だった。
 こうして信玄と義信の親子の間には、今川を巡る外交方針の対立が起こった。これは義信の幽閉と死という結果で終わり、義信の側近達も死罪や自害に追い込まれた。曽根一族も義信派であったため、昌世らは所領を信玄に返還して甲斐を去ることになった。
 この時、昌世は駿河で暮らしたといい、この駿河での生活について平山氏は、曽根丘陵と駿河とは陸路で通じていることを説明し、曽根一族と駿河との関係の近さを指摘するとともに、後に昌世が興国寺城に派遣されたのも、こうした駿河との関係によるものだったのではないかと推測した。
 信玄の両眼 一五六八年、信玄が駿河今川領への侵攻を開始したころ、昌世は信玄の家臣として復帰し軍中で活躍。一五六九年に今川を支援する北条軍と武田軍が三増峠(神奈川県西北部)で戦った際、昌世は浅利信種という重臣の軍勢に監視役として従軍していた。
 この時、信種は銃撃を受けて戦死し、浅利隊は大混乱に陥ったが、昌世は、すぐに指揮官代理となって混乱を鎮め、そのまま敵軍に反撃を開始して勝利。一五七〇年の花沢城(焼津市)の戦いでは、共に信玄の奥近習(秘書)として同僚だった真田昌幸と軍の先頭に立って真っ先に敵城に乗り込んでいる。
 同年、現在の三島市周辺で北条と武田の両軍が戦った際、信玄の重臣が「偵察をして周辺の地形を調べるべきだ」と提室すると、信玄は「すでに私の両眼のような者達を派遣しているから、心配はいらない」と答え、家臣達が「信玄様がそれほど信頼している者達とは何者だろう」と噂し合っていると、昌幸と昌世が偵察から帰って来た。これ以後、多くの人が昌世達の才能を認めるようになったという。
 足軽大将 このころの昌世は「足軽大将」という身分だった。この場合の足軽とは、金銭で雇われてパート労働者的に従軍する傭兵(ようへい)などの職業軍人のこと。足軽大将は、こうした兵士達を率いていた。足軽の部隊は即座に招集でき、戦場へも派遣しやすいので、手柄を立てやすい立場にあった。昌世も足軽大将から出世して侍大将になり、さらに城代という出世コースを歩いた。
 城主・城代・城将 城の責任者を何と呼ぶかについて、平山氏は歴史研究者による三種類の定義を紹介した。「城主」とは、城の元からの所有者を指す。「城代」とは、大名から城を任されて、城の周辺の土地を統治する「郡司(ぐんじ)」の権限も持つ者。「城将」は、大名から城を任されているものの、城の守備など軍事に関する権限のみを与えられた者。
 興国寺城に派遣された昌世は、この三つのうちの城代として駐在し、税金徴収や関所の監督、労働者動員、裁判事務などの職務も行っていたという。なお、興国寺城と同じく、当時の沼津市内にあった三枚橋城は、城代ではなく城将が駐在する城だった。
 興国寺城 戦国時代初期に活躍した北条早雲の旗揚げの城として知られる興国寺城は、北条氏が関東に勢力を伸ばした後は今川氏に奪われた。武田氏が今川氏を攻めて駿河に侵攻すると、北条軍は今川氏を支援して駿河東部に進出し、興国寺城もこの際に北条氏の支配下に入った。この時の武田氏と北条氏の戦いは武田の優勢な状態が続き、逆転の機会を得られなかった北条氏は、武田氏が駿河を領有することを認めて和平を結んだ。
 こうして一五七二年、興国寺城は武田氏の支配下に入り、数人の前任者を経て昌世が城代となった。任命の時期は不明だが、昌世が城代として発行した天正六年(一五七八)の日付入りの命令書が確認されている。
 天正壬午の乱 興国寺城代となった昌世は、一族にして三枚橋城将の曽根河内守に協力し、北条側の戸倉城(清水町)を武田側に寝返らせるなどの活躍をしたが、武田氏は一五八二年に織田信長に攻められて滅亡。昌世は以前から信長に手紙を出すなどの裏工作をしていたことから生き残ることに成功し、信長の家臣として興国寺城を支配することを認められた。
 しかし、この年に本能寺の変が起きて信長が急死すると、その混乱を利用して領土を広げるために北条軍が箱根を越えて駿河に攻め寄せる気配を示した。このため、昌世は駿河の武士達を統率して徳川家康に協力し、北条軍とにらみ合った。
 上野(こうずけ=群馬県)から田斐、信濃といった旧武田領を巡って徳川氏と北条氏と上杉氏が争い、「天正壬午の乱」と呼ばれる戦いが始まると、昌世は徳川軍に従軍して甲斐へと向かった。昌世は、同じく元武田家臣の岡部正綱と共に甲斐の平定に尽力し、甲斐北部の大野砦(山梨県山梨市)の城将となった。
 その後は信濃に向かって上田城の戦いに参加。この時の敵となった上田城の城主は、かつての同僚、真田昌幸だった。
 追放と晩年家康が甲信地方を手に入れるのに貢献した昌世だったが、一五八四年の小牧長久手の戦いの後に家康の命令で追放される。かつて自分が生き残るために武田氏を見捨てたことが、卑怯な振る舞いとして家康に嫌われたという。
 浪人となった昌世は、後に蒲生氏郷に仕えた。氏郷は豊臣秀吉の部下で、秀吉の天下統一後は会津若松(福島県)を支配した。
 蒲生家臣となった昌世は会津若松城の設計に携わったほか、同じく蒲生家臣となった真田隠岐守(昌幸の弟)と共に蒲生軍の幹部を務めたという。昌世のその後については、史料がないため不明となっている。
 終わりに 講演のまとめとして平山氏は「昌世は地元沼津でも、ほとんど知られていない存在だろう。しかし、武田氏の重臣で有能な人物でもあった。今回、この講演のために昌世について一から調べた。今後は、この研究内容を論文にまとめたい」と話して講演を終えた。
 ◇
 今回の講演会を企画した市歴史民俗資料館の鈴木裕篤館長は、昌世について「武田家臣団を描いた『武田二十四将図』では、昌世は有名武将である真田昌幸と対になって描かれることが多く、本来は重要な立場の人物だったはずだが、現在の知名度はそれほどでもない。武田家臣のイメージ形成に大きな役割を果たした書物『甲陽軍鑑』では、昌世が勝頼を見捨てて裏切ったことが強調されており、昌世が家康に追放されたのも、これが理由になっている。しかし、家康に仕えた者の中には武田を裏切って徳川に乗り換えた者も多いのに、昌世だけが批判的に記述されるのは不可解な部分もある。蒲生家に移った昌世は、武田流軍学の継承者として会津若松城の築城に携わった。その一方で、『甲陽軍鑑』の編さんに深く関与した小幡景憲も武田流の軍学の元締め的存在であったから、武田流の継承者の座を巡って、景憲は昌世に対して何らかの思いを抱いていた可能性もあるだろう。だとしたら、昌世には『甲陽軍鑑』の被害者としての側面があるのかもしれない」と話す。

 (*)真田昌幸 曽根昌世と浅からぬ縁を持つ真田昌幸(一五四七~一六一一)は、信濃北部の豪族出身で、昌世と同じく武田信玄と勝頼の二代に仕えた。「真田十勇士」などの物語で有名な真田幸村(信繁)の父で、昌幸自身も名将として知られている。
 武田氏滅亡後の混乱では、わずかな兵力で敵の大軍を撃退する軍事的手腕を発揮したほか、外交にも優れ、上杉、北条、徳川といった大大名達の下を巧みに立ち回り、最終的には大名として独立を勝ち取った。
 関ヶ原の戦いの際には、東軍と西軍のどちらが勝 関ヶ原の戦いの際には、東軍と西軍のどちらが勝利しても真田氏が生き延びられるよう、長男信之を東軍に参加させ、自分は次男幸村と共に西軍に加わった。東軍の勝利により昌幸、幸村親子は領地から追放されたが、信之は大名として生き残り、大名としての真田家は幕末まで続いた。
 再来年のNHK大河ドラマ「真田丸」では、幸村が主人公で、その家族とのつながりが中心に描かれるという。昌幸が劇中で重要な役回りを果たすことが予想される。

(沼朝平成26年10月5日号)