2019年1月26日土曜日

沼津兵学校創立150周年記念「懇親会」大手町会館







沼津兵学校創立150周年記念事業「史跡見学と記念集合写真」











沼津兵学校創立150周年記念式典「記念講演」





兵学校150周年を記念し
徳川家広氏と樋口雄彦氏が講演
 明治二年(一八六九)に開校した沼津兵学校の設立一五〇周年記念式典が二十日、市民文化センター小ホールで開かれた。記念講演が行われ、約五百人が来場した。
 沼津兵学校は、明治維新によって徳川将軍家が一大名として静岡藩に移ったことが契機となって設立された軍人養成学校。
近代的な教育が行われ、軍事にとどまらない様々な分野で活躍する人材を生んだ。明治四年(一八七一)年の廃藩置県で静岡藩が消滅すると明治政府に移管され、翌年に廃校となった。
 記念講演は、徳川将軍家十八代当主恒孝氏の子で次期当主の家広氏と、兵学校研究の専門家で国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦氏が講師として招かれた。
 家広氏は「沼津兵学校創立150周年に寄せて」と題して講演。
日本の伝統的な社会秩序を激変させた画期的な存在として豊臣秀吉を挙げ、その混乱を鎮めて社会を安定させたのが徳川家康と江戸幕府だったと論じ、
明治維新で不遇な立場に追いやられても反乱を起こさなかった静岡藩や兵学校にも、社会の安定を優先する徳川の気風が受け継がれたと解説した。
 樋口氏は「沼津兵学校から学ぶべきもの」と題して話し、兵学校関係者の書簡や回想などから読み取れる模範思想を挙げた。
 模範として列挙されたのは、反骨精神、進取の気風、地方性への着目など。特に樋口氏は、地方性の思想について、保守的な静岡藩上層部からの妨害を排除するために、
あえて藩中央から離れた沼津の地に兵学校が設置されたという経緯を説明し、地方の弱点を逆手に取る思考法こそ、地方が東京一極集中の現状に対抗する上で重要なヒントになると指摘した。

【沼朝平成31年1月22日(火)号より】







2019年1月21日月曜日

沼津兵学校創立150周年記念新聞記事【平成31年1月21日(月)朝刊】





沼津兵学校150年祝う
 大政奉還後、静岡藩を治めた徳川家が設置した沼津兵学校がことし創立150周年を迎え、20日、記念式典と同校付属陸軍医局(静岡藩立沼津病院)の記念碑除幕式(いずれも実行委主催)が沼津市内で開かれた。先進的な教育制度を実践し、日本の近代化に貢献する人材を輩出した同校の功績を知ってもらおうと企画した。

徳川家縁故者ら式典 病院記念碑除幕も
 第18代徳川家当主徳川恒孝さんの長男家広さん(53)らを招き、病院跡地の市立第一小北側で沼津病院の記念碑除幕式を行った。病院の初代院長杉田玄端のひ孫鈴木富子さん(83)=東京都世田谷区=らも出席し、司会の合図で一斉に幕を引き下ろした。完成した碑を見た鈴木さんは「言葉にならないほどの感謝でいっぱい」と話した。
 除幕式に先立ち行った式典では、家広さんと国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授が記念講演した。家広さんは兵学校設置の経緯や教育内容などを説明した。樋口教授は自由貿易論を推進した田口卯吉や政界で活躍した元学生らを紹介した。反骨精神や外国語と異文化の学習など5点を挙げ、「兵学校からくみ取るべきものは無数にある」と強調した。(東部総局・中川琳)
【静新平成31121()朝刊】



<沼津病院>設立150年 跡地に記念碑建立 /静岡
毎日新聞201901210000

 1869(明治2)年に当時の徳川藩が設立した「沼津兵学校」付属医学所「沼津病院」跡地の沼津市西条町で20日、病院記念碑の除幕式が行われた。沼津病院は後身の駿東病院が1945年に空襲で焼け、市民にあまり知られていないため、設立150周年を機に、歴史を後世に伝えようと碑が建立された。

 碑は縦50センチ、横160センチの横長。徳川家の現当主、徳川恒孝さんによる「沼津病院駿東病院跡」の文字があり、左右に明治末期の病院の写真や沿革の説明文がある。

 式では沼津病院初代頭取(院長)杉田玄端(げんたん)のひ孫の鈴木富子さん(83)や徳川家次期当主の徳川家広さん、頼重秀一市長らが除幕した。また除幕式に先立ち、沼津兵学校創立150周年記念式典も沼津市民文化センターで行われた。

 玄端は杉田玄白のひ孫。副院長格の林洞海(どうかい)は順天堂大創設者の佐藤泰然の女婿。本人が医者と名乗れば誰でも医者になれた時代に、舶来の医療器具や医学書、薬品をそろえ、極めて水準の高い医療を施したという。廃藩後は私立や郡立の病院として変遷。廃院まで戦前の沼津の医療の中心だった。

 鈴木さんは「曽祖父を直接は知らないが、記念碑建立はうれしい限り。みなさんに感謝します」と話した。

 また実行委員会事務局長の匂坂(さぎさか)信吾・沼津郷土史研究談話会会長(71)は「今日は沼津兵学校の先生や生徒の子孫が74人も集まった。先祖の人生の原点の地を見に来たのだろう」と話した。【石川宏】



 沼津病院顕彰の記念碑除幕西条町の旧所在地跡に設置
 記念式典終了後、兵学校に併設された沼津病院を顕彰する記念碑=写真=の除幕式が、西条町の県道冨士清水線(旧国一通り)北側で行われた。
 沼津病院は、兵学校附属陸軍医局として設立され、沼津病院、駿東病院と名を変えて空襲で焼失する昭和二十年(一九四五)まで地域医療に貢献した。
 除幕式には、徳川家広氏や頼重秀一市長、沼津病院頭取を務めた杉田玄端(杉田玄臼の曾孫)の子孫などが参列し、紅白の幕を引いた。

【沼朝平成31122()号】


↓除幕式当日の動画



2019年1月19日土曜日

昭和28年4月右14日の沼津朝日新聞社記事「本通りアーケード建設実現へ」




防火美觀地區指定
 七日付 官報で正式に告示さる
本通アーケード實現へ
 本通りアーケド建築計画はさきに建設大臣の諮問に封する都市計画地方審議會の全面的に支持する旨の答申が行われ、建設省では四月七日付官報で防火地域指定(四九七號)美觀地區指定(四九六號)都市計画道路指定(四九五號)が正式に告示され、市當局では直ちに防火建築促進に關する意見書を提出した。
 これによって、本通共同住宅建設組合六十五戸の總建積二二六七坪、總工費一億二千四百七十二萬七千三百五十円の鐵筋コンクリート二階建の画期的な建築が五月ごろには着手されることになる。防火建築に封する、二千三百七十八万七千国の補助金は國庫の半額と市の四分ノ一は問題ないが、五九五万円の縣補助も必ず獲得できると市當局では見ている。
五月末に着工 秋には新装の商店
 本通共同佳宅建設組合理事一長岡田人嗣氏談正式に認可になるのは五月初めと豫想されるから着工は五月末になるだろう。工事は地主との話合いが完全についた團地からはじめるのが至當だと思う。階下の完成は三ケ月か三ヶ月半と見られるから、この秋には一部新らしい商店がお目見得する。二階まで完成するには半年かかると思う。縣補助も期待理想は三階建て
 落合都市計画課長談
先日視察した鳥取市では駅から縣道までの問一キロ半が防火地域で目抜通りにずらりと三階、二階の鐵筋コンクリートやブロツク建築が並び、まさに偉觀だった。これに對する補助金は九千萬圓で縣も市もポンと出した。こういう例があるから静岡縣が六百萬圓の補助金をしぶることはないと思う。先進地を視察して防火帯は三階建の方がよいことに氣がついた。沼津も南北に防火帯を延長して將來立派なものにしたい。
【沼朝昭和28414日号】

2019年1月17日木曜日

平成31年1月17日(木)頼重市長表敬訪問

平成31年1月17日(木)午後2時30分
頼重沼津市長表敬訪問をす。


杉田家と芹沢家は隣同士 仁王一成・駿東病院の薬瓶 長谷川徹・漫画沼津兵学校物語 根木谷信一・花と緑のまちづくり 大石千鶴子・沼津病院 駿東病院跡記念碑 千野慎一郎・フレッシュ150 匂坂信吾



杉田家と芹沢家は隣同士 仁王一成
ー「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けてー
 平成30年も残りわずかとなりました。
 明治150年という節目の年でもあり、来年には改元も予定されるなど、平成最後の年.末を迎えました。
 そうした中で、来年一月二十日()、市民文化センター小ホールで午後一時半から「沼津兵学校創立150周年記念式典」が開催されます。この式典に向けて、多くの市民の皆様方の参加を賜りだく、リレー随筆として様々な角度から関係するエピソードなどを順次紹介していきたいと思います。
 今回は、その初回として、沼津病院初代頭取(院長)・杉田玄端(玄白の孫)の六男、杉里六蔵(実業家)と芹沢光治良との繋がりについて触れてみたいと思います。
 六蔵は沼津で生まれましたが、その後、東京へ戻り、東京都中野区東甲野に自宅を新築されました。なんとその場所は、芹沢光治良(作家・沼津市名誉市民)宅の隣であったとのごとです。これは、六蔵の孫に当たる鈴木富子さん(東京都狛江市在住)から直接伺った話であり、現在も子孫が住んでおられます。
 このことを芹沢家の四女、岡玲子さんにお伺いしたところ、確かに杉田家とは隣同士であり、戦前から若干の付き合いもされていたようです。岡さんのピアノ演奏会のチケットを何回かお渡ししたこともあるようです。
 両家とも東甲野駅から徒歩数分、閑静な住宅地の一画にあり、近くには神田川が流れ、川沿いは、春の花見などには最適な場所です。光治良お気に入りの散歩コースとなっており、六蔵も恐らく散策したのではないでしょうか。
 六蔵の人となりを表すエピソードとして、兄たちの医学勉強のために愛犬を解剖されたことに非常なショックを受け、医師になることを嫌ったそうで、父玄端はそれを許し、好きな生き方をさせたとのこと。
 また、孫娘の富子さんを非常に可愛がり、「賀茂鶴」(広島の地酒)での晩酌をこよなく愛し、毎晩冨子さんが酒の肴を喜んで食べたので、おまえは将来、立派な酒飲みになれると言われたそうです。富子さんご自身も「文学座」へ入るなど、自らの好む道を歩んだとおつしゃっています。
 一方、芹沢家では、光治良には四人の娘さんがおられましたが、幼少期から成人に至るまで、娘さん方を「○○さん」と「さん」付けで、決して呼び捨てにはされなかったようです。もちろん、明治生まれの日本男児として時には厳しい躾もされたそうですが、基本的には極めて心優しい父親であったとのことです。
 ご両家とも、それぞれの家庭の根底には、「自由・平等・博愛」という崇高な理念が流れていたのではなかろうかと、想像いたしております。
 (フレッシュ150事業担当・沼津史談会会員、白銀町)
【沼朝平成301221()「言いたいほうだい」】





駿東病院の薬瓶 長谷川徹
 ー「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けてー
 来年一月二十日(日)に開催される「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けて、実行委員会では、「沼津病院・駿東病院跡」記念碑の設置や『沼津兵学校記念誌』の制作準備が大詰めを迎えています。
 記念碑チームは、沼津病院跡記念碑の設置予定場所として、旧国道一号(現県道富士清水線)の西条町地先、元鈴与商事沼津支社付近(明治二年三日へ沼津兵学校附属陸軍医局が設置された)を重点に調査をしておりました。
 さらに、支社とガソリンスタンドの建物が撤去されたため鈴与本社に足を運び、記念碑の設置などについて協力をお願いしました。
 今年六月初めに、鈴与から実行委の匂坂信吾事務局長宛てに、整備中の土地から病院関係の遺物が出土したとの連絡が入りました。
 その土地は、明治二年八月に医局を引き継ぐ形で沼津病院が開院され、昭和二十年六月閉院、同七月の沼津大空襲で焼失した、私立駿東病院に至るまで、七十六年間にわたり存続して地域医療に貢献した由緒ある場所です。
 六月十九日()午後一時、西条町の鈴与ガソリンスタンド跡地に実行委員の匂坂、仁王一成と私長谷川が集合しました。現場担当者の話では「先日、地面を掘削していたら昔の病院医療廃棄物(六・五立方㍍)が出てきた」ということで、そこには、駿東病院で使われていたと思われる病院名入りの薬瓶、薬差し、注射器、試験管などが掘り出されていました。また、「人髄消毒消毒
液」と読める薬瓶も発掘したとのことでした。
 そこで医療関係の歴史遺産として、薬瓶などを提供願いたいと依頼しました。
 鈴与から連絡があり、病院関係遺物の整理が終わったのでお渡ししたいとのことで、八月一日()、先の実行委員三人と明治史料館主任学芸員の四人で現場事務所を訪問。
 そこには美しいガラス薬瓶が鎮座し、なんと「駿東病院」「室賀病院」「井手診療所」「人體消毒新薬」と鮮明に刻印されていました。
 医療廃棄物は六月時点より増えていて、ドラム缶八十本分に上り、福島県に運んで処理をしたとのことでした。この発見は病院の建物や設備が失われた現在、ただ一つの歴史的遺産であると私は考えます。そして、合計十五本の薬瓶は、明治史料館に保管されることになりました。
 この歴史的薬瓶は明年一月四日()~二十四日()、大手町の沼津信用金庫本店ぬましんストリートギャラリー企画展「沼津兵学校創立150周年記念展」で披露する予定
です。
 市民の皆様、写真ではなく本物の駿東病院(佐々木次郎三郎が五十年間、院長を務めた)の薬瓶を始め、駿東病院初代院長の室賀録郎が大手町に開業した室賀病院の薬瓶、千本緑町の井出診療所(井手敏彦元沼津市長の父上、井手敏男氏開業の小児科医院)の薬瓶など、七十六年間の歴史資産を鑑賞していただきたいと思います。
(フレッシュ150事業担当・沼津史談会会員、大手町)

【沼朝平成301223()「言いたいほうだい」】

まんが「沼津兵学校物語」根木谷信一
 ー「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けてー
 来る一月二〇日()、午後一時三十分から市民文化センター小ホールにおいて「沼津兵学校創立150周年記念式典」が開催されます。
 会場では『沼津兵学校記念誌』が初めてお目見えしますが、その中で、ひときわ注目されるのが、愛知県西尾市出身の著名な戦国まんが家・すずき孔さんによる、まんが「沼津兵学校物語」です。沼津兵学校創立百五十周年記念事業(フレッシュ150)実行委員会が、この人にこそ、と特別にお願いしたものです。
 孔さんは、沼津史談会の故・松村由紀会員とは以前から歴女仲間として親交があり、数年前から史談会の講座や旅行に参加するため、自宅のある横浜から沼津に度々通い、松村さんと自転軍で市内の史跡や見どころ探索をしてこられました。松村さんが難病で闘病中には何度もお見舞いに来られ、平成二十九年八月に彼女が亡くなった後も、孔さんはお別れの会や追悼の集まりに参加されました。
 今回の作品についても企画段階から取材や調査のため沼津に何度も足を運ばれ、今年九月二十三日には東京都狛江市の杉田玄端(げんたん)のご子孫、鈴木清作氏宅にも本会担当者三人と同行され、物語の核心部分の着想を得られたとのことです。
 玄端は、「解体新書」で知られる杉田玄白の曾孫に当たる、極めて優秀なオランダ医学者で、徳川家と共に静岡に移り、沼津兵学校附属医局に着任しました。明治元年から六年間、沼津に踏み止まり沼津兵学校ゆかりの沼津病院頭取(院長)を務めました。
 明治四年の廃藩置県に伴い沼津病院が廃止されようとした時、玄端は決意の「壁書」を表し、個人で病院経営を引き受けて、庶民のために病院を存続させました。
 玄端は遥か後、昭和二十年七月の沼津大空襲で後身の駿東病院が焼失するまで、七十六年間にわたり地域医療に貢献するための素地を作ったと言えます。
 物語は明治十五年、沼津から東京に戻った後、横浜に引っ越していた「杉田醫院」を舞台に、玄端の六男で、兄弟のうちただ一人沼津生まれの六蔵が十二歳のころ、愛犬タローをめぐる事件に始まります。そのころの横浜は新橋からの鉄道が開通して活気が増していた時期に当たり、杉田家は横浜で医院を開業していたという設定です。
 孔さんは、九月下旬に再び沼津に来られ、市立図書館で映画「沼津兵学校」のビデオを細部まで丹念に鑑賞し、明治史料館で詳細な調査を行いました。その後も研究を重ねてストーリー展開などを検討され、十一月下旬には最初の下書きを拝見しましたが、孔さんの企画力と豊かな表現力に驚かされました。
 さらに国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授や本会担当者の助言を受けて修正を重ね、期限内に仕上げられました。内容は小学校高学年以上なら理解は可能ですが、一番役に立つのは大人で、年齢や性別は関係ないと思います。
 一月二十日は、午後零時半に受け付けを開始します。記念誌は、まんが以外にも見どころ満載で、一冊千円で.す。式典に参加され当日、記念誌をお買い上げの皆様には、沼津史談会が江戸時代末の沼津城絵図を活用して独自に開発した画期的なデジタル地図「沼津まちなか歴史MAP」の改定第三版"街歩きしよう(仕様)"を進呈します。
(フレッシュ150事業担当・沼津史談会副会長、岡一色)

【沼朝平成301227()「沼朝言いたいほうだい」】

花と緑のまちづくり 大石千鶴子
 ー「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けてー
 今私が住んでいる西条町に、沼津兵学校ゆかりの「沼津病院・駿東病院跡」の記念碑が今月中旬に完成する予定です。
 市立第一小学校北側の県道富士清水線(旧国道一号)沿い、静岡日産西条宮業所の東側で鈴与の支店やガソリンスタンドがあった土地が今は更地になっています。記念碑建立地は、その更地南側歩道脇の植栽帯で、現在、沼津兵学校創立150周年記念事業実行委員会が、県の許可をいただき、記念碑の設置工事を進めています。
 長い歳月、多くの人達の生命や健康を守ってきた病院の記念碑が、間もなく、この地に姿を現します。
 沼津市花の会と沼津史談会(記念実行委員会事務局)では、できれば記念碑の周辺を花や緑でお守りしたいと考えています。そのためには定期的に手入れをする必要がありますので、私達だけでなく、協力していただける仲間を募集します。
 協刀願える方は、新宿町一九の四、天野出版工房内、沼津史談会事務所(電話・ファックス九二一ー一四一二)まで連絡ください。
 なお、今月二十日()には市民文化センター小ホールで、沼津兵学校開設者の徳川家や兵学校関係者のご子孫をはじめ、自治会関係者や一般市民など多くの皆様の参加により、沼津兵学校素立記念式典が開かれます。
 式典は、午後零時半に受け付けを開始、一時半開会、三時ごろに閉会の予定です。
 終了後、三時四十分ごろから西条町の現地で記念碑の除幕が行われ、記念碑は沼津市に寄付されるとのことです。
 除幕式の後は、添地町の馬場・厩跡や上本通りの附属小学校記念碑などの史跡見学を行い、ぬましんストリートギャラリーでの兵学校特別展を見学します。この特別展では、最近駿東病院跡から出土した病院名入りの薬瓶が注目されます。皆さん、どうか家族、友達誘い合わせの上、各行事に足を運んでいただきますよう、お願い申し上げます。
 (沼津市花の会会長、沼津市談会会員、西条町)
【沼朝平成3118()号「言いたいほうだい」】

「沼津病院 駿東病院跡」記念碑
 千野慎一郎
 「沼津兵学校創立150周年記念式典」が行われる二十日()が近づきました。
 この紙面においても先日、お知らせの投稿がありましたが、当日の式典後に「沼津病院駿東病院跡」の記念碑が除幕披露されます。
 そこで、沼津兵学校創立150周年記念事業(略称・フレッシュ150)の柱の一つでもある記念碑建立の経緯を紹介したいと思います。
 平成二十八年六月に実行委員会が設立され記念碑担当チームにより調査研究が行われました。
 昭和十七年に沼津兵学校附属「沼津病院遺蹟」の記念碑計画があり、旧幕臣の子孫で郷土史家の大野虎雄氏が沼津病院の顕彰を目指し、当時の駿東病院前に建立の予定でした。
 碑文の揮毫は、沼津病院頭取杉田玄端の六男杉田六蔵氏に依頼しましたが、戦争の激化などの影響により記念碑は建つことはありませんでした。近年、大野家から六蔵の墨書が発見されて計画の存在が明らかになりました。
 当初は、沼津病院記念碑の建立が記念事業の趣旨でしたので、戦前の記念碑計画の復活を検討していました。そして、明治史料館に保管されていた墨書を写させていただき、幅六〇㌢、高さ一八〇㌢の御影石製の第一案を作成しました。
 次に、設置場所が問題となり、いくつかの候補地が上がりました。病院跡地上を東西に走る県道(旧国道一号)沿いの歩道や東側に接する市道沿いの歩道、さらに近くの西条公園や第一小学校内の道喜塚周辺も検討され現地調査も行いました。
 まず、歩道設置は大きさ的に第一案では難しく、西条公園は住宅地内で奥まり過ぎていること、一小案は学校管理地で出入りに課題があるなど場所選びは難航しました。
 そんな中で、少し離れるが直線で見通すことができる大手町の中央公園内はどうかという提案がありました。環境的には申し分なく早速、沼津市に相談に伺いました。すると、公園は東海財務局の所有地で財務局の許可が必要だと分かり、市の文化振興課を通して打診していただいていましたが、設置条件も厳しく回答を得られない状態が続きました。
 そうこうしているうちに事業が二年目に入り、各事業が具体的になると予算の見直しも必要となり、記念碑の予算も減額する方向で大幅に計画を変更することになりました。
 まず、かつての計画案にとらわれることなく、新たに碑の材料や歩道上でも設置可能な高さが低く横長のデザインを検討しました。その結果、コンクリートのベンチに御影石を組み込んだイメージの第二案が出来上がりました。
 そのような折、徳川宗家十八代当主徳川恒孝様とのご縁をいただき、趣旨に賛同して記念碑の碑文の題字を揮毫していただける話が急展開で進みました。
 また、碑の名称についても、沼津病院は沼津兵学校附属の陸軍医局に始まり、その後、駿東病院と名を変え、経営母体は変わりながらも昭和二十年まで七十六年間存続し、医学教育や地域医療に大きく貢献したことに鑑み、沼津兵学校ゆかりの「沼津病院駿東病院跡」と決めたのでした。
 設置場所は駿東病院の敷地内に当たる県道(旧国一)の歩道が適所と考え、道路管理者の県の沼津土木事務所に相談しました。
 原則的には無理ということでしたが、趣旨を理解していただき、交通障害にならないという条件で、現場での立ち会い指導により既存植栽桝の中で許可をいただくことができました。
 碑の製作は歩道上の作業を少なくするために、コンクリート製の基壇を作業所で三つに分けて製作し、現場で組み立て、縦五〇㌢、横一六〇㌢、重さ一〇〇㌔のインド産黒御影石の銘板を取り付けます。題字脇には駿東病院の写真と説明文をステンレス板にフィルム貼りし、両袖のコンクリート側面にも、東面には当初計画の杉田六蔵揮毫の縮小版を、西面には病院の沿革をステンレスプレートにフィルム貼りしてあります。
 二十日の除幕式当日は市民文化センター小ホールでの式典後、西粂町の会場で徳川様や沼津病院関係者子孫の代表、沼津市長ほかにより除幕式が行われます。その場で、碑は実行委員会から市に寄贈され、市に維持管理をお願いすることになります。また、碑の足元の植栽桝には、先にご案内の沼津市花の会と市民有志により花を植えていただけることにもなっています。
 市民の皆様には近くにおいでの折にご覧いただければ幸いです。
 最後に、記念碑建立に理解と協力をいただいた皆様に衷心より感謝、御礼申し上げます。
(フレッシニ150副委員長・記念碑担当、宮本)
【沼朝平成31113()寄稿文】


フレツシュ150 匂坂信吾
 ー「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けてー
 平成二十八年六月、沼津史談会と沼津香陵ヲオンズクラブ、沼津医師会が中心となり、実行委員会を設立して、沼津兵学校創立150周年記念事業に取り組んできました。事業名が長いので「フレッシュ150」という略称を用い、この機会を生かして新しいまちづくりにつなげていこうとする狙いを込めてきました。
 来る二十日には、全国各地からの参加者を迎え、市民文化センターで記念式典を開催しますが、まちづくりについては確かな手ごたえを得ることができました。
 記念事業の柱は、兵学校ゆかりの「沼津病院・駿東病院跡」記念碑の建立、『沼津兵学校記念誌』の刊行、そして記念式典開催の三点でしたが、それぞれの事業の中に、当初の意図が十分反映されたと考えています。
 特に二十九年度の「沼津市民間支援まちづくりファンド事業」に採択されて取り組んだ「沼津まちなか歴史MAP」の作製は、城下町・宿場町の時代から沼津城二の丸御殿を校舎として開校した沼津兵学校があった明治初期にかけて、現在の駅南中心市街地の、どこに、どのような施設があったのかを示す画期的な成果だったと言えます。
 江戸時代末に沼津藩作事方役所の役人が、正確な測量を行って作製した巨大な「沼津城絵図」のおかげで、沼津には見えざる資産が数多くあることが分かり、この資産をデジタル手法により見えるようにしたのが、この歴史地図です。
 この地図による新たな発見を踏まえ、さらに独創的な発想と実行力を持つことができれば、歴史を生かしたまちづくりが始まることは間違いないと確信します。
 このMAPは昨年三月、国立歴史民俗博物館教授・樋口雄彦氏の監修を得て完成しました。その後も必要な見直しを続け、現在「街歩き仕様(しよう)」を作製しているところです。これはA3判フルカラーの両面印刷で、街歩きに便利な三つ折りの仕様となっていて、標準的な順路やチェックポイントも示されています。
 記念誌はA4判フルカラー百九十ページ、単価千円で、寄稿文や講演録、まんが「沼津兵学校物語」や歴史MAPなどが収録されていますが、これを購入された方には「街歩き仕様」を無料で提供します。
 この本は今月二十日()午後一時半開会の記念式典の受付で当、日の資料として発売します。受け付けの開始は零時半です。
 当日、兵学校を開設した徳川宗家の十八代当主・徳川恒孝氏の講演を予定していたところ、体調に不安があるとのことで、長男の家広氏が代理を務める可能性が高いのですが、同氏の講演は興味深く、楽しい内容が多いという評判です。
 一方、樋口氏は「沼津兵学校に学ぶべきもの」と題し、これまでの集大成とも言うべき講演を準備中ですので、大いにご期待下さい。
(実行委員会事務局長・沼津史談会会長、小諏訪)
【沼朝平成31117()「言いたいほうだい」】