2019年1月12日土曜日

明治27年9月城岡神社境内建立「沼津兵学校記念碑」書き下し文





沼津兵学校記念碑書下し文
 富岳(ふがく)(よう)()(すい)(狩野川)のほとりに名区(めいく)(景色のよい所)あり、曰く沼津と。往時城あり、青松(せいしょう)白壁(はくへき)江山(こうざん)掩映(えんえい)し、その名特(あら)はる。明治紀元、東方(とうほう)(はじ)めて定まり朝廷我が徳川公をして駿河遠江に封じて静岡を治めしむ。これを以て沼津は遂に静岡の都城となる。公(徳川公)の封に就くや、その従う者市に帰するが如し。乃ち有司(ゆうし)(役人)に命じて所在を安撫(あんぶ)(民を安心させる)し、別に水陸軍人及び子弟の俊秀(しゅんしゅう)なる者をこの地に(あつ)め、城を以て充て以て兵を講ず。所説の課業には数目あり。曰く漢学、曰く洋学、曰く数理、曰く図画、曰く体操練兵、曰く騎、曰く(しゅう)(水泳)と、これを修むること一・二年その人、彬々(ひんひん)として用うらるべし。故を以て列国の行人(役人)の静岡に使する者必ず請うひて來觀す。或いは、その藩人を遣はして就きて学ばしむ。鹿児島、徳島の如きは、特に我が学官を(へい)して以て士卒を訓練巣す。(けだ)し維新の始めを以て、列国の學制いまだ(そなは)らず。沼津兵學これが率先(そっせん)をなす。(明治)四年、朝廷、藩を徹して県となし、学館を以て陸軍兵学寮に合す。(ここ)において、在学の諸子、半ば朝に(のぼ)り(上京して)半ば去りて業を改む。歳月(さいげつ)()たるに及び、或いは陸海軍の将校となり、或いは院省の名官となり、商となり、農となり、衆議院議員となり、銀行公司の長となり、博士となり、学士となり、大小学校の教官となる。その朝に在ると否と(官庁や民間に係わらず)みな力を国家に()さざるはなし(尽くさない者はない)当世知名の者、即ち昔日の苦学の功ここに至って始めて(あら)はれ、公の皇国に忠ならんと欲するの志また(むく)はれり。学館の廢するより、今は二十余年の人、歳時相会(さいじあいかい)し、往時を語る毎に、(すこぶ)る今昔の(がい)あり。つねに言う沼津は即ち我輩の()(しん)の地なりと。学館廢してすでに(ひさ)しといへども、何ぞよく眷々(けんけん)として(なつ)かしきこと()けんや。このごろ相議(あいは)かり、石をその旧跡に立て、公(徳川(いえ)(さと))に()て額を(てん)し、(しゅく)(選文者)にこれを()せしめ(もっ)て永く後に伝え祀せんとす。意はその本を忘れざるにあるのみ。()に敢えてその多材(たざい)誇ると言わんや(碑建立の真意は、兵学校の存在を後世に伝え祭祀(さいし)せんで、その本質を忘れまいとするのみで、我々の人材の豊かさを誇ろうとしているいではない)
(沼津市明治史料館資料)



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