沼津兵学校記念碑書下し文
富岳の陽、狩水(狩野川)のほとりに名区(景色のよい所)あり、曰く沼津と。往時城あり、青松白壁と江山と掩映し、その名特に著はる。明治紀元、東方甫めて定まり朝廷我が徳川公をして駿河遠江に封じて静岡を治めしむ。これを以て沼津は遂に静岡の都城となる。公(徳川公)の封に就くや、その従う者市に帰するが如し。乃ち有司(役人)に命じて所在を安撫(民を安心させる)し、別に水陸軍人及び子弟の俊秀なる者をこの地に聚め、城を以て充て以て兵を講ず。所説の課業には数目あり。曰く漢学、曰く洋学、曰く数理、曰く図画、曰く体操練兵、曰く騎、曰く泅(水泳)と、これを修むること一・二年その人、彬々として用うらるべし。故を以て列国の行人(役人)の静岡に使する者必ず請うひて來觀す。或いは、その藩人を遣はして就きて学ばしむ。鹿児島、徳島の如きは、特に我が学官を聘して以て士卒を訓練巣す。蓋し維新の始めを以て、列国の學制いまだ備らず。沼津兵學これが率先をなす。(明治)四年、朝廷、藩を徹して県となし、学館を以て陸軍兵学寮に合す。是において、在学の諸子、半ば朝に升り(上京して)半ば去りて業を改む。歳月歴たるに及び、或いは陸海軍の将校となり、或いは院省の名官となり、商となり、農となり、衆議院議員となり、銀行公司の長となり、博士となり、学士となり、大小学校の教官となる。その朝に在ると否と(官庁や民間に係わらず)みな力を国家に竭さざるはなし(尽くさない者はない)当世知名の者、即ち昔日の苦学の功ここに至って始めて彰はれ、公の皇国に忠ならんと欲するの志また酬はれり。学館の廢するより、今は二十余年の人、歳時相会し、往時を語る毎に、頗る今昔の慨あり。つねに言う沼津は即ち我輩の起身の地なりと。学館廢してすでに久しといへども、何ぞよく眷々として懐かしきこと無けんや。このごろ相議かり、石をその旧跡に立て、公(徳川家達)に請て額を篆し、淑(選文者)にこれを紀せしめ以て永く後に伝え祀せんとす。意はその本を忘れざるにあるのみ。豈に敢えてその多材誇ると言わんや(碑建立の真意は、兵学校の存在を後世に伝え祭祀せんで、その本質を忘れまいとするのみで、我々の人材の豊かさを誇ろうとしているいではない)。
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