2013年12月12日木曜日

 白隠とその時代 遠藤悦子

 白隠とその時代 遠藤悦子
 沼津史談会の市民公開講座「沼津ふるさとづくり塾」では、今月二十一日(土)午後一時かち市立図書館四階視聰覚ボー、ルで、国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏先生による第7回講座「白隠とその時代」を開催予定です。
 高橋先生は若いころから白隠の研究者として知られ、昭和五十八年五月に沼津市歴史民俗資料館で開催された市制六十周年記念展「白隠とその時代」の図録にも七ページに及ぶ同名の論文を寄稿されています。
 それから二十三年後の平成十八年三月に刊行された沼津市史通史編『近世』の文化部門は、高橋先生が編集責任者を務めており、その中では「第四章・近世沼津の文化、第一節・東海道沼津と文化」のうち十ページ余りを「白隠と沼津」の記述に充てています。
 今回は、さらに七年後、つまり記念展から三十年目に当たる市制九十周年の今年、師走に史談会主催の講座「白隠とその時代」が開かれる運びとなりました。
 四年後の平成二十九年が、白隠禅師二百五十年忌に当だるということで、市内では仏教界を中心に様々な取り組みが行われており、今回の高橋先生の講座は時宜を得たものと思います。
 私は、沼津西高在校中に高橋先生に日本史を担当していただいたことがきっかけとなり、大学でも日本史を専攻することとなりました。高校時代の高橋先生は、時にシニカル、軽妙洒脱な話し方で、史・資料から学び取る、暗記物ではない「歴史」を教えていただきました。
 近年、白隠について映像や書籍、企画展などで取り上げられ、日本のみならず世界的にも新しく見直されていますが、それらは白隠の書画にスポットが当てられているようです。今回の高橋先生の講座では、それとは一線を画し、宗教者として、また人間としての白隠の実像についてお話しいただける予定です。
 白隠は原・松蔭寺の住持として数多くの有能な門弟を育て、臨済宗妙心寺派において一大門流を築き上げながら、生涯権力に近付かず市井に身を置きました。禅の民衆化に努める一方、己の悟りを開くことに終始し、社会に目を向けない宗門や、時には幕政にまで鋭い批判を展開しています。
 高橋先生は現在、白隠についての著作を執筆中で、年内にも脱稿、来年には刊行の予定です。白隠研究四十年近い先生のお話から、白隠の実像の一端に触れられれば、白隠禅画の見方も違ってくるかもしれません。
 「ふじのくに・静岡県」が誇る白隠禅師について、私達、沼津市民が全国の、また世界の人達に対して胸を張って情報発信ができるようになるために、多くの皆様のご参加を心から期待しています。
 事前に申し込みをしていない方でも、当日、受付で申し出ていただければ受講できます。(資料代五百円が必要)(「沼津ふるさとづくり塾」受講生、三園町)
《沼朝平成25年12月12日(木)言いたい放題》

2013年12月11日水曜日

「大山巌と牛臥山別荘」 浜悠人


「大山巌と牛臥山別荘」 浜悠人

 牛臥山公園の小浜海岸は、井上靖原作の「わが母の記」を原田眞人監督が映画化したロケ地で、主人公の伊上(役所広司)が母(樹木希林)を背負って渚に入るクライマックスシーンが思い出される。その渚を望む小高い丘に明治の元勲、大山巌の別荘があったのを知る人は少ない。
 明治二十二(一八八九)年頃、牛臥の温暖な気候と素晴らしい景色に魅せられ、西郷従道、川村純義、大山巌ら薩摩出身の要人が志下から牛臥にかけた海岸沿いに別荘を建てた。明治二十六(一八九三)年、御用邸が桃郷(現島郷)に設けられると、それぞれの別荘は御用邸をお守りするかのような位置になっていた。

 NHK大河ドラマ「八重の桜」が、いよいよ最終回を迎えるが、会津の家老、山川浩の妹の捨松と、三人の女子を残し妻に先立たれた大山巌が昔の仇敵の間柄を乗り越え結ばれるシーンがあった。
 捨松は聡明かつ美貌の女性で、十一歳の時、岩倉具視の使節団に加わり渡米した。幼名は咲子だったが、母は「一度捨てたつもりで帰国を待つ(松)」の意で「捨松」と改めたという。
 十年余の留学の後、日本人初の看護婦の資格を取って帰国した。大山と結婚したのは明治十六(一八八三)年で、巌四十一歳、捨松二十三歳であった。二人の間には一女二男が授かり良妻賢母の捨松は一方で、「鹿鳴館の華」と呼ばれた。後年、鹿鳴館のバザー収益金で我が国初の看護学校を設立している。

 先日、明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館を訪ねた。そこには、明治天皇ご在位四十六年間の御事績を描いた壁画八十点が展示されていた。七十点目が「日露役奉天戦」で、時は明治三十八(一九〇五)年三月、満州軍総司令官大山巌は総力を挙げてロシア軍と対決、三月十日、奉天城を占領した。
 奉天戦は日本軍二十五万人、ロシア軍四十万人が対戦した日露戦役中、最大の戦闘だった。絵は奉天城南大門から入城する光景で、軍馬にまたがった大山巌が正面で、後に控える参謀には沼津出身の井口省吾の名もあった。戦前、この日を記念し、三月十日は陸軍記念日として祝った。

 芹沢光治良の『人間の運命』では、次郎少年が三人の友達と牛臥山の大山元帥の松林に忍び込み、落葉を掻き集めていたところ、妖精のごとき夫人が現れ、夫人から「お友達にも分けてやりなさい。急いで転んではいけませんよ」と言われ、お菓子の入った大きな紙包みを握らせてくれた、とあり、作中の夫人は捨松で、大山の牛臥山別荘に滞在中の出来事だったと思われる。

 幕末、韮山代官の江川太郎左衛門は、反射炉で鋳造した大砲で牛臥海岸から海に向かい試射したと言われる。そして江戸では、高島秋帆を招き砲術の塾「江川塾」を開いた。薩英戦争に敗れた薩摩は、大山巌ら若手を「江川塾」に送った。砲術の基礎理論と技術を学んだ大山は後年、彼の幼名である弥助を取った「弥助砲」を考案し、砲術の大家となった。
 鳥羽伏見の戦、戊辰戦争、会津若松と転戦した大山は砲術を使って幾多の戦勝をもたらした。会津での戦いでは、右股に銃弾が貫通する重傷を負った。この時、狙撃したのは八重であったと言われるが、弾に聞いてみなければ分かるまい。

 大山巌の長女信子は結核にかかり十九歳で天逝した。徳富蘆花は、小説『不如帰(ほととぎす)』で、信子を悲劇のヒロイン浪子に仕立て、世の同情を得て、小説は空前のヒットをした。小説に登場する逗子の海岸が小浜海岸だったら、さぞかし牛臥も世に知られたことだろう。

 明治三十九(一九〇六)年、大山は参謀総長を児玉源太郎に譲って現役を退き、死の直前まで牛臥山別荘をこよなく愛し、滞在したと言われる。大正五(一九一六)年、七十四歳で亡くなる。葬は国葬で行われた。
(歌人、下一丁田)
《沼朝平成25年12月11日(水)寄稿文》