2013年9月26日木曜日

昭和31年1月8日号の記事より:「匂坂信吾さんが小学校2年生」

 小中縣展へ
 沼津から十三点
一月十三日から県民会館で行われる県小中学校図画工作展へ沼津市から選ばれて出品する者は次の通り。
 ▽図画 五味博行(二小一)、匂坂信吾(二小二)、小池竜三(一小三)、黒田政子(静西小四)▽工作 海瀬愛子(静西小.)、鈴木賢治(六小四)▽書初 渡辺てるやす(金小一)、美屋のり子(三小二)、小倉智子(西浦西小二)▽習字 真野美佐代(三小四)、武士和子(二小五)、斎藤れい子(西浦西小五)

(沼朝昭和3118日号)

2013年9月8日日曜日

山本勘助を追う 講師平山優

信玄の家臣山本勘助の実在照明
沼津で発見の文書が大きな決め手に
市歴史民俗資料館は先月、歴民講座を市立図書館視聴覚ホールで開催。山梨県立中央高教諭で同県史編纂事業にも従事した平山優氏が「山本勘助を追う~沼津に残されたその足跡~」と題し、武田信玄の家臣として知られ、NHK大河ドラマの主人公にもなった戦国武将、山本勘助について話した。約百八十人が聴講した。
「甲陽軍鑑」や古文書の記述を補完
沼津在住の子孫が信玄子孫と対面
平山氏は戦国大名武田氏の研究で知られ、今年一月にも同資料館主催講座で講師を務め、戦国時代、武田氏によって沼津に築かれた三枚橋城について講演している。
平山氏は「山本勘助は実在しない架空の人物というイメージが強かったが、古文書の相次ぐ発見により、その実像が明らかになってきた。その決定打となったのが、沼津で発見された古文書。きょうは、歴史研究者がどのように研究を行うかという手の内を明かしながら、勘助についてお話しします」として講演を始めた。
山本勘助
はじめに平山氏は、戦国時代の武田氏の事績を記した書物『甲陽軍鑑』の記述を元に勘助の生涯を紹介した。勘助は、三河国牛窪(現・愛知県豊川市)で生まれた。駿河の今川義元の家臣になろうとしたが、片目を失い、片足が不自由という外見で、その姿が醜いとして義元に嫌われ、家臣にはなれなかった。
その後、武田信玄の側近、板垣信方の推薦で信玄の家臣となった。勘助は城造りの専門家として信玄に仕え、永禄四年(一五六一)の第4回川中島の合戦で戦死したが、勘助の活躍は甲陽軍鑑にしか記載されておらず、これが勘助架空説の根拠にもなった。
甲陽軍鑑
甲陽軍鑑(以下、「軍鑑」)は、信玄の重臣だった高坂弾正が天正三年(一五七五)に口述筆記という形で書き始めた。
これは、武田軍が織田信長に大敗した長篠の合戦の年に当たる。信玄の死後に跡を継いだ武田勝頼に信玄時代のことを学んでほしいという意図から、軍鑑の製作が始まったという。
高坂の死後は、その甥が執筆を継続し、武田氏滅亡後は、同じく武田家臣だった小幡氏が原稿を入手。元和七年(一六二一)には既に書物としてまとまっていたことが判明している。
軍鑑は、江戸時代に入り、戦国時代を経験した者も多く生存していた頃に書物として広まり、将軍ら幕府上層部からも高い評価を受けた。
江戸時代には、徳川家にとって都合の悪い内容の書物は発禁処分を受けたが、三方ヶ原の合戦で徳川軍が武田軍に大敗する様子を記しているにもかかわらず、軍鑑は処分を受けることはなかったという。
江戸時代には重要な書物と見なされていた軍鑑だが、明治になると、その評価が逆転。西洋から近代的な歴史学が導入されると、軍鑑は、その内容の調査が行われ、文中に登場する年代表記が不確かであることなどから、高坂弾正ではなく別人に書かれたものと見なされ、史料的価値は否定された。
その後、昭和や平成に至っても、軍鑑を資料にして歴史研究を行うことは許されない風潮が続いた。
勘助と軍鑑は切っても切れない関係にあるため、軍鑑の内容の信ぴょう性が否定されたことにより、勘助の存在も否定されるようになったことに対して平山氏は、「勘助は近代歴史学によって抹殺された」と強調。
しかし、近年は軍鑑が再評価され、国文学の立場から文法的な研究が進み、軍鑑の文章には戦国時代の言葉が使われていること、甲信地方の方言が使われていること、当時の身分の低い人によって使われた「下劣言葉」が含まれていることなどが判明し、甲斐国の農民出身である高坂本人が軍鑑作者である可能性が高まったという。このことなどを踏まえて平山氏は「甲陽軍鑑の内容の六割以上は真実であると言える」との見解を示した。
作られた勘助像
勘助の生涯については、書物としては軍鑑にしか記されていないが、江戸時代以降は、芝居や小説などによってフィクションのイメージが次々に付け加えられていった。
軍鑑では勘助の肩書について「足軽大将」とのみ記しているが、そのうち「軍師」と呼ばれるようになり、現在では戦国時代研究の権威として知られるような歴史学者も「軍師」と呼ぶようになっているという。
また、軍鑑には勘助は片目であるとだけ書かれ、どちらの目が不自由であるかまでは書かれていないが、後世の画家は独自に解釈して描いた。
さらに後の世になると眼帯を付けた姿として描かれるようになり、二〇〇七年の大河ドラマ「風林火山」でも勘助は眼帯をした姿で登場した。
平山氏は、勘助が眼帯姿で描かれるようになったのは昭和四十年代以降だと指摘。当時、世界的に有名だったイスラエル軍のダヤン将軍の影響ではないか、と推測した。ダヤン将軍は中東戦争で活躍した軍人で、眼帯を付けた独特の風貌で知られる。
市河文書と「菅助」
こうした、実在と虚構の間をさまよう勘助の実像解明の一つの契機となったのは、一九六九年の「市河文書」の発見だった。
当時の大河ドラマ「天と地と」に武田信玄の花押(サイン)入りの書状が映し出され、それを見た北海道の視聴者が「我が家にも同じものがある」と地元の図書館に持ち込んだことが発見につながった。
北海道で見つかった文書は、武田信玄が信濃国の武将、市河藤若に宛てて送ったもので、上杉謙信に攻められた市河に対して、降伏しないよう励ます内容。そして文中に、信玄からの使者として「山本菅助」という人物が登場する。
当時は「武田」を「竹田」と書くなど当て字が多かったことから、この「山本菅助」と「山本勘助」は同一人物であるという指摘がされ、軍鑑以外の当時の文書に勘助が登場したことで、勘助実在の可能性が高まった。
真下文書
市河文書を巡っては、菅助イコール勘助であるか、菅助は軍鑑に登揚する勘助のように身分の高い武士だったのか、などの論争が長年にわたって続いたが、この論争に大きな影響を与える複数の古文書が二〇〇九年、群馬県安中市の旧家、真下(ましも)家から発見された。
その中の一つに武田信玄が山本菅助に宛てて送った手紙がある。「判物(はんもつ)」という形式のこの手紙は、菅助が天文十七年(一五四八)に信濃国伊那郡で活躍したことを評価し、給料として銭百貫文を与える、という内容。
平山氏は、この古文書の調査を担当したが、最初、この手紙の写真を見た時は偽物ではないかと思ったという。有名武将の手紙などは骨董品として価値があるため偽物が多く、戦国時代に作られた古紙を入手して書状を偽造することは多く行われている。
しかし、後に実物の手紙の調査を行うと、本物であることが分かってきた。判物形式の手紙は、紙の折り方や書式を見れば真偽が分かるという。また、既に本物であることが分かっている手紙を集め、その中から同じ筆跡の手紙があるか調べるごとが可能であるほか、花押の筆跡からも鑑定できる。
平山氏は鑑定の場に大量の古文書の写真を持ち込み、筆跡の比較を行ったという。
続いて平山氏は、この手紙の内容が意味することについての解説に移った。
天文十七年、武田信玄は上田原の戦いで信濃の武将、村上義清に大敗し、伊那郡で武田側として残ったのは高遠城だけとなった。しかも、高遠城主の高遠頼継という武将は普段から信玄に対して反抗的だったため、この時は査問のために甲府に呼び出されており、城主不在という状況だった。
平山氏は、菅助は高遠城を任され、その防衛に活躍したのではないかと推測。与えられた給料の百貫文という金額は、かなりの高額だという。これらのことから、菅助は軍鑑の勘助のように身分の高い武士だった、と平山氏は指摘する。
このほか真下文書には、上杉と戦うために川中島近くの東条城に赴任していた菅助へ信玄が送った手紙なども含まれている。
こうした古文書の内容を総合し、平山氏は、真下文書に登場する「山本菅助」は、最前線を担当するような軍事能力に優れた武将で、信玄から信頼された重臣であった、と推測。そして、市河文書の中で菅助が市河藤若への使者として派遣されていることにも触れ、上杉との戦いで極めて重要な立場にあった市河氏に派遣されるのだから、菅助は、やはり重要な立場の武将であった、との結論を改めて述べた。
沼津での大発見
本物であることが判明した古文書に登場する「菅助」と、軍艦に登場する「勘助」が同一人物であることを証明する古文書は、沼津市内で発見された。二〇〇九年、沼津市民文化センターで開かれた戦国時代の沼津に関するシンポジウムに出席した平山氏は、会場に展示されていた古文書の中に「山本菅助」に関するものがあることを発見。翌年、沼津市教委の協力を得て調査が始まった。市内には山本家の子孫`が住んでおり、市教委は、その伝来の古文書を管理していた。明治史料館で山本家の古文書に目を通した平山氏は、そのあまりの重要さに衝撃を受け息が止まり、手が震え}という。
「沼津山本家文書」と呼ばれる、この古文書には、菅助の子孫の就職活動に関する記録などが残されていた。
菅助の子孫は武田家滅亡後、徳川家の旗本や浪人生活を経て、淀藩主の永井尚政の家臣となり、永井家が改易されると、「知恵伊豆」の別名で知られる老中松平信綱の子である信興の家臣となった。この松平家は各地を転々とするが、最終的には高崎藩主となり、菅助の子孫も高崎藩士として明治を迎えた。
維新後は、沼津近代化に尽くした江原素六翁の招きで金岡尋常小学校(現・金岡小)の教師となって沼津へ移住し、現在に至っている。
真下文書は、もともとは山本家の所有物だったが、幕末の頃、裕福で骨董収集に熱心だった真下家に売却されたと見られている。
この沼津山本家文書の中に、近藤忠重という水戸藩士から菅助の孫の山本三郎右衛門に送られた手紙がある。近藤は武田一族でもある穴山梅雪の家臣の子孫。
水戸藩では武田家臣の子孫を藩士として集めており、近藤の手紙には「藩主徳川頼房が甲陽軍鑑に出てくる『山本勘助』の子孫を家来にしたいと言っているので、あなたが希望するなら協刀します」などと書かれている。
諸事情により山本三郎右衛門の水戸藩への就職はうまくいかなかったが、この手紙によって、当時の武田家関係者が「山本菅助」と「山本勘助」を同一人物と見なし、連絡を取り合っていたことが明らかになった。
この沼津での発見により、実在したことがはっきりしている「菅助」と甲陽軍鑑の「勘助」がイコールで結ばれることになった。ただし、軍鑑に描かれた勘助の活躍のすべてが真実であると判明したわけではない。
おわりに平山氏は「歴史学者が、定説をひっくり返すような史料に出会えるのは一生のうちに一回あるかないか。沼津での文書の発見により、これまで架空とされてきた人物の実在が証明された。戦後の戦国史研究の中でも、最も劇的な出来事ではないか」と述べて講演を締めくくった。
また、平山氏が「最近は長篠の合戦の研究に取り組んでおり、新しいことがいろいろと分かってきた。機会があれば、ぜひ沼津の皆さんの前でお話ししたい」と付け加えると、会場からは盛大な拍手が送られた。
この日の講演には、信玄の子孫で現在の武田家当主でもある武田邦信氏(東京都在住)や、武田家家臣子孫の全国組織「武田家旧恩会」の土屋誠司会長(沼津市在住)も来場した。山本勘助の子孫家族も来場し、信玄子孫と勘助子孫による歴史的な対面も行われた。
《沼朝平成25年9月8日(日)号記事「8月25日山本勘助を追う:平山優講演」》

当日資料
武田氏の危機と山本菅助
 (1)天文17年(1548)4月、信濃伊那郡で戦功を上げ100貫文を加増される(【史料①】)。
 ◆天文17年2月14日、上田原の合戦で武田晴信敗退。佐久・小県郡の国衆離反、村上義清の攻勢が強まる(【参考史料①一一一1】)。
 ◆武田晴信、4月3日高遠城主高遠頼継を甲府に召還し、宝鈴を鳴らして臣従を誓わせている(頼継は5日に高遠へ帰る)。頼継が甲府を発ったその日、伊那郡福与城主藤沢頼親が小笠原長時・仁科道外の誘いに応じて武田方から離反。小笠原・仁科氏らとともに諏訪に乱入(【参考史料①一2】)。
 →晴信は、伊那郡の確保のため、高遠頼継が留守中の高遠城に派遣され、この地域の確保を実現
したと推察される。
 →武田氏は、6月19日、塩尻峠の合戦で小笠原・仁科軍を撃破し、危機を脱す。
 3.第三次川中島の合戦と山本菅助
 ◆第三次川中島の合戦(弘治三年・1557)において、北信濃衆市河(市川)藤若が長尾景虎に攻められ、高梨政頼より調略を受ける。藤若、これを拒否し頑強に抵抗。武田氏に援軍を要請(6月)。
 →晴信、援軍派遣の準備を急ぎ、市河藤若に長尾方の調略に応じぬよう求め、近日援軍を派遣することを約束。まもなく使者をもって詳細を報じると約束(6月16日)(【吏料②一一1】)。
 →6月23日、晴信、使者山本菅助に書状をもたせて市河のもとへ派遣。長尾軍を撃退した市河の戦功を賞し、今後の援軍派遣についての詳細を知らせる(【史料②】)。
 →使者は上使であり。信玄の名代に相応しく、かつこの地域の事情に精通し北信濃衆とも関係が深い人物が選任されたはず。山本菅助は、北信濃の武田方の一員であった可能性。決して身分の低い軽輩ではない(平山優、2002・6年)。
 4.武田氏の北信濃防衛と山本菅助
 晴信は、弘治4年(永禄元年・1558)4、月20日、山本菅助に現地の諸将と「揺」(軍事)についての相談をさせ、腫物を患い危篤と伝わる「小山田」を見舞い、様子を報告するよう求めている(【史料③】)。
 →「小山田」は都留郡領主小山田出羽守信有ではなく、小山田備中守虎満(後に主家して玄恰)のこと(郡内小山田氏ではあまりにも不自然)。
 →小山田虎満(もとは上原伊賀守)は、佐久郡内山城代をつとめ、これは息子小山田備中守昌成(二代目備中)にも引き継がれた。佐久郡再制圧戦では、最前線の前山城将をつとめ(天文17年8月19日、『戦武』267号)、戸石城攻略後は、戸石城代になっている(天文22年.1月28日、『戦武』357号)。虎満は、飯富虎昌(天文22年8月7日より小県郡塩田城代、『甲陽日記』)とともに佐久・小県方面の武田方を統括する重臣。ちなみに、飯富虎昌は天文20年6月25日に、虎満と一緒に内山城に在城していることが確認できる(『戦武』329号)。
 →小山田虎満は、永禄元年春以来病床にあり、閏六月の時点でもまともに歩行することすら不自由であったことが知られる(【史料③一1】)。【史料③】の「小山田」とは小山田信有ではなく、小山田虎満と確定できる(平山、2010年)。
 →なお、小山田虎満は、前山城に在城衆のほか足軽大将とともに籠城している(『戦武』267号)。
 →第三次川中島の合戦で、小山田虎満は東条城(尼飾城)、綱島(大堀館)、佐野山城など川中島方面の武田方を統括する武将であったことが明らかである(【史料③ー3】)。
 ◆弘治4年(永禄元年)4月吉日、武田晴信は「東条籠城衆」として、小山田備中守(虎満)、佐久郡北方衆(虎満同心衆)、真田幸綱を明記した(【史料③一2】)。なお、虎満は真田幸綱の取次役であり(黒田基樹、2007年)、真田は虎満、飯富虎昌とともに川中島方面の敵に対抗すべく連携を指示されていた(【史料③一3】)。
 ◆山本菅助は、北信濃侵攻を企図していた武田方の有力武将の一人。菅助は、飯富虎昌とともに塩田城に在城していたメンバーの一員か?
 ◆『甲陽軍鑑』.に海津城築城に関与したとあるのは、あるいは事実か?
 ◆永禄4年9月10日の川中島の合戦で戦死したとされる。
 5,その後の山本一族
 ◆菅助の実子兵蔵(菅助)が永禄11年に相続するも(【史料④】)、天正3年(1575)5月の長篠合戦で戦死(「山本家文書」)。
 ◆後見人の山本十左衛門尉が相続(「山本家文書」【史料⑤】)。
 →山本十左衛門尉宛文書の初見は【史料⑤】であることは、長篠合戦の戦後処理の一環であることを証明する。武田勝頼は天正四年に軍役改定を伴う軍役定書を発給するが、山本十左衛門尉宛と同日付けのものも確認できる(【参考史料⑤一2】)。
 →山本十左衛門尉は、武田家臣饗庭越前守の子とされている(『甲斐国志』)。饗庭越前守は実在の人物で、永禄八年に死去(【参考史料⑤一1】)。世代的にみて矛盾しない。この伝承は事実ではないか。
 ◆武田氏滅亡後、徳川氏にいち早く付き、本領を安堵される(【史料⑥】)。
 →本能寺の変直後に大須賀康高を通じて徳川氏に帰属したことが知られる武田遺臣は、わずかで山本氏の迅速な対応が想定される(平山、2011年)。
 ◆その後、徳川家康から正式な知行安堵状を交付され(【史料⑦】)、その後改定作業を受けて再安堵されている(【史料⑧】)。また「天正壬午甲信諸士起請文」をも提出(【参考史料⑦一1】)。
 ◆戦国期山本菅助・十左衛門尉らの本領は、「逸見」の「相田郷」(「惣田」とも書く)。
 →従来は、この「相田郷」がどこなのかは不明とされていた
 →これは、近世の逸見筋上手村(現在の北杜市明野町)の枝郷「相田」のこと(『甲斐国志幽村里部)。逸見筋に他に「相田」で「そうだ」と読む村は存在しない(宮澤富美恵氏のご教示による)。
 ◆山本十左衛門尉の家督は嫡男山本平一郎が継ぎ(【史料⑨】)、旗本として活躍していたが、伏見で急死した。その際に家族は窮したと系譜にみられることから、平一郎の死があまりにも急であったため、弟を養子にすることができず(いわゆる末期養子の禁にひっかかった)、牢人を余技なくされたとみられる。
 →その後、山本弥八郎、素一郎が相次いで死去したため、山本家は若年の三郎右衛門だけが残された。彼はしばらく江戸にいたが、後に父祖の地甲斐に移り住んで牢人し、江戸と甲斐を往復して仕官運動をしていたとみられる。
 →このような経緯からか、近世山本家では、当主のうち嫡男は菅助、養子は十左衛門を称すことが慣例となっていたらしい。
 6,牢人山本三郎右衛門(三代目菅助、英琢)と水戸藩
 ◆山本三郎右衛門は、父十左衛門尉や兄平一郎と同じように、徳川家の旗本になることを望み、江戸と甲斐を往復して仕官運動をしたがうまくいかなかったという。その後、20年以上が経過した。
 ◆水戸藩主徳川頼房が山本勘助の子孫に興味を示す(【史料⑧】)
 ①徳川頼房は、『甲陽軍鑑』を読んでおり、ここに登場する山本勘助に惹かれ、その子孫がいれば召し抱えたいと家老や側近たちに漏らしていた。
 ②家老や側近たちには思い当たるふしがなかったが、頼房の意向を伝聞した近藤七郎兵衛とその叔父近藤三九郎は山本菅助の孫三郎右衛門と知己であり、その情報を彼に伝えた。
 ③近藤は、山本三郎右衛門が勘助の孫であることを証明できるかどうかを問い、また仕官め意志があるかどうかを尋ね、もしその気があるなら御奉公したいとの熱意を示し、頼房の意に沿ってふるまうよう助言した。
 ④近藤は、三郎右衛門が勘助の孫であるなら、そのことを徐々に家老衆たちの耳に入れ、頼房に話が伝わるよう工作すると約束した。このことは采女とも話をしている。
 ⑤このころ水戸藩では、200石で新規に家臣を雇っており、さらに増やしたいと頼房が希望していたため、近藤は山本三郎右衛門の登用を楽観視していた。
 ◆文書に登場する人物とは?
 ①近藤七郎兵衛→近藤七郎兵衛忠重(「水府系纂」巻六)
・近藤七郎兵衛忠重は、近藤図書の三男近藤下野の孫とされている。
 ・近藤忠重は、寛永3年(1626)威公(徳川頼房)に出仕、寛文2年(1662)11月隠居、同7年故あって追放された。
 ・切符を賜り歩行士→小十人組→新番組→追放
 ②近藤三九郎(「水府系纂」巻六)
 ・近藤三九郎(はじめ伝三郎)は、近藤図書の次男右衛門君次の子、七郎兵衛忠重の親類にあたる。
 ・近藤三九郎は元和元年(1615)威公に出仕(200石)、寛永16年(1639)5月3日歿とある。
 ・大番組→書院番組→供番組→100石加増(寛永10年)→死去(寛永16年)
 ③采女→近藤采女(「水府系纂」巻六)
 ・近藤采女は、近藤図書の三男下野の子で、七郎兵衛忠重の父。
 ・近藤采女は、息子七郎兵衛忠重とともに寛永3年に威公に出仕。
 ・職歴は不詳。

 ◆近藤氏はもとは穴山信君の家臣の家系であった。「水府系纂」によると、近藤下野は信君死後浪人となり甲州に住み、そのまま死去したという。
 →近藤采女が徳川頼房に登用されるまで、近藤下野系(采女・七郎兵衛忠重)は甲斐に住んでいたと推定される。
 →水戸徳川家の家臣は穴山梅雪遺臣によって構成されているのは周知の事実(家康の子万千代が武田家を継ぎ、穴山家臣が補佐。万千代は、信吉と名乗り、秀吉の姪を娶って、下総小金→佐倉→常陸水戸へと順調に進んだが慶長8年死去。これにより徳川系武田家は断絶)。
 →武田遺臣間の情報ネットワークが実在しており、誰の子孫がどこに健在なのかは有る程度把握されていた。そして大名に仕官している者が、牢人している者を推挙、紹介して、扶助しあっていた様子が窺える。
 ◆【史料⑧】の年代を確定することは困難であるが、山本三郎右衛門が淀藩永井信濃守尚政に仕官することが決まった寛永10年(1633)以前であることは確実。
 →近藤七郎兵衛忠重が出仕した寛永3年を起点に、寛永9年までの間のどこかということになる。
 ◆『甲陽軍鑑』を徳川頼房が読んでいたとあるから、彼が手にしたのは小幡景憲が書写して与えた書写本か、宇佐美勝興が元和年間から寛永初期にかけて京都で版行した「無刊記十行本」のどちらかであろう(高橋修、2007年)。
 →時期的には文書の推定年代と矛盾せず符号する
 ◆水戸藩は山本三郎右衛門と接触をしており、仕官への道が開けていたかに見えていたが、寛永9年までにその話は頓挫、沙汰やみとなった。その明確な理由は定かでない。
 →ただし、推測しうる興味深い事実あり。同時期に、上杉謙信の軍師宇佐美駿河守定行(定満)の子孫と称する宇佐美勝興が水戸藩に仕官する運びとなったが、上杉景勝が生存していた畠山入庵(畠山義春)に宇佐美氏の素性を問い合わせ、真っ赤な偽物であったことが判明し、徳川頼房が登用を中止した経緯がある(高橋前掲書)。
 →このことは、徳川頼房が上杉謙信の軍師宇佐美定行の子孫と、武田信玄の軍師山本勘助の子孫をともに登用しようと積極的になっていたこと。
 →ところが、宇佐美氏の子孫が偽物であったことが露見したことから、頼房と水戸藩は山本勘助の子孫三郎右衛門にも疑いの目を向けたか、このような登用を取りやめたかのどちらかではなかろうか。
 7,山本三郎右衛門(三代目菅助、英琢)の仕官
 ◆山本三郎右衛門は、寛永10年(1633)に淀藩永井信濃守尚政に仕官することとなる。その経緯を記したものが【史料⑨】。全体の経過を知るのに便利。
 ◆【史料⑨】①②より、寛永10年4月11日に、甲斐国石和で山本三郎右衛門(この文書には「ゑいたく様』(英琢)と法名で呼ばれている)は、永井信濃守尚政と対面したことがわかる。
 →【史料⑨】①より永井尚政は、かねてより山本勘助の孫三郎右衛門に興味があったらしく、淀藩に転封されることになった際に、その途上でわざわざ甲斐に立ち寄ったことがわかる。また山本三郎右衛門のことを尋ねられ、彼を紹介することになった人物は「日向清安」(日向盛庵)という人物。
 →「日向清安」が対面のお膳立てを行い、その協力方を甲斐国の代官頭平岡次郎右衛門尉和由に依頼した。平岡次郎右衛門尉は、石和に到着した永井尚政への使者に山本三郎右衛門を指名した。
 ◆「日向清安」とは誰か?甲斐国奉行を勤めたこともある武田遺臣で、日向半兵衛正之(後に政成)のことと推察される(彼は、武田家臣日向玄東斎宗立の子)。彼の書状も現存しており、この話は事実と見られる。
 →なぜ「日向清安」に永井尚政が事実関係を質問し、紹介を依頼したのか?
 →『寛政譜』の「日向半兵衛」の伝記によると、日向政成の後妻は「永井信濃守尚政が女」と明記されている。日向氏と永井氏は婚姻関係にあったことが判明する。
 ◆山本三郎右衛門は永井尚政より、牢人分として私のところへこないかと正式に誘われた。
 ◆この時、山本三郎右衛門は、伊丹播磨守康勝(元武田家海賊衆伊丹氏、寛永10年より甲府城番)に勧誘されていたが、まだ対面するには至っていなかった。永井尚政に誘われた三郎右衛門は、先に伊丹に勧誘されていることを告げ、どのように対応すべきかを平岡二郎右衛門尉を通じて永井に言上したところ、それについては永井が直接伊丹播磨守に掛け合って解決すると約束した。そして永井は三郎右衛門に杯を下した(主従のかための杯)。
 ◆山本三郎右衛門が淀に向けて甲斐を出発したのが同年8月15日、伏見に到着したのが同25日、淀へ入ったのが26日、永井尚政にお目見えしたのが27日、そして元萩原平左衛門配下の足軽20人を預けられ、知行300石を拝領した(【史料⑨】③④)。
 →この間の事情を証明する史料が【史料⑩】~【史料⑮】。
 →【史料⑨】~【史料⑭】によると、永井尚政は家臣佐川田山三郎を通じて甲斐の山本三郎右衛門と平岡次郎右衛門尉和由と緊密に連絡をとっており、山本を淀に呼ぶのは8月中にしたいと述べている。それは、まだ家臣が滞在する家屋敷が不足しており、普請の最中であること、また寛永10年は異常な洪水だったらしくその被害もあり、淀城下の整備に時間がかかるというのが理由であった(この洪水は事実で、京都・大坂などで甚大な被害があった)。
 →【史料⑭】で永井尚政は自ら平岡和由に書状を送り、8月中には家屋敷の普請が仕上がるので、山本三郎右衛門を即時上洛させていただくよう依頼している。永井は仲介の労をとってくれた平岡を立てて、山本三郎右衛門の仕官に向けた状況報告を頻繁に行っている。
 →【史料⑮】で日向盛庵は、山本三郎右衛門が「山本勘助」と名を替えた事実を記している。彼は仕官を契機に名を父祖と同じにしたのであろう。
 →日向盛庵が、「菅助」を「勘助」と書いていることに注意。同じと認識されていたことを示す好例。
 ◆以後、近世山本家では、嫡子は「菅助」、養子は「十左衛門」などを称し、「菅助」を襲名しない慣例が成立する(近世山本家の成立)。この文書から、日向盛庵が永井尚政に山本菅助を紹介したという伝承は事実とみなすことができる。
 →以上の事実から、【史料⑨】の内容の信憑性は極めて高いことがわかる。
 ◆その後、永井尚政は、鉄御門(淀城か)で板倉周防守重宗に直接引き合わせ、紹介したという(【史料⑨】⑤)。
 →板倉重宗は、秀忠側近として永井尚政・井上正就とともに「近侍の三臣」と呼ばれるほど寵愛された人物で、元和5年以来京都所司代をつとめ在京しつつ畿内・西国の統括にあたっていた。永井とは昵懇であり、武田信玄ゆかりの山本菅助を家中に加えたことを自慢したのであろう。
 ◆仕官する際に、永井尚政より武田信玄より拝領した御朱印などの有無を尋ねられたが、山本三郎右衛門はなぜか「一切残っていない」と返答したという(【史料⑨】⑥)。
 →かつて他藩(水戸藩か?)に仕官を申請した際に、自家に残る武田信玄朱印状などを証拠文書として列挙していたのに、今度の永井家仕官の時にはそうしたことは一切なされず、日向・平岡ら武田遺臣の証言のみによって山本菅助子孫と認定されたと思われる。
 →その理由は定かでないが、水戸藩との仕官申請の過程で疑われたためではないか。
 ◆以後、山本家は永井・松平氏を主家とし高崎で明治維新を迎えた。
 8,松平家における山本菅助の役割
 ◆山本菅助(四代目・寛永9年生~元禄5年歿)は、永井家が改易された後に、松平信興(老中松平伊豆守信綱の五男)に仕えた。松平家は、土浦→壬生→高崎→越後村上→高崎と転封を重ね、高崎藩で明治維新を迎えた(「山本家文書」)。
 ◆山本菅助(四代目)が松平家のもとで城普請の奉行を実施していたことが、「沼津山本家文書」から判明。
 →貞享2年(1684)、松平信興は山本菅助を奉行に任命し、土浦城の大改修を実施。特筆すべきは、大手口(高津口)と搦手口(真鍋口)で、大手は武田流の出枡形、搦手は丸馬出を二つ重ねたもの。山本菅助は、初代菅助が編み出したとされる「山本勘助流城取」を採用したことがわかる。
 ◆その後、山本十左衛門(四代目菅助の養子)は、主君松平輝貞の命を受け、元禄7年(1694)に壬生城の改修を担当し、ここでも日光街道に面したところに、真の丸馬出を構築した。
 ◆松平家において山本菅助家は、兵法、特に城取を司る家と位置づけられていたと考えられる。
 9,山本菅助と山本勘助一鍵を握る小幡景憲
 ◆『甲陽軍鑑』の編者小幡景憲と、山本菅助家は四代目菅助の時代から密接なつきあいがあったらしい。
 ◆その初見は、万治3年(1660)8月、小幡景憲から山本菅助(四代目)に出した甲州流兵法に関する印可状(【史料⑯】)。
 →これをみると、山本菅助は長年にわたり兵法の修行を積んでおり、それを賞して小幡景憲が甲州流兵法の「奥義五之曲尺」を伝授したとある。
 →「五之曲尺」とは、甲州流軍学では「兵法之奥義」とされ、「本有曲尺」「縢榎(ちきりおさ)曲尺」「重曲尺」「卍字曲尺」「人心曲尺」の五つをいい、築城にむけた重要な理論とされていた。「本有曲尺』(万事天地の理に従い、無理せず自然の命ずるままに随って行動すること)、「縢榎(ちきりおさ)曲尺」(縢は紡績機の経糸を巻く小糸のことで、この形態が中くびれになっていることから、城郭の塁や城壁の形にソリを与えることの俗称)、「重曲尺」(すべての構えを強化するため、二重・三重の防禦線を構築すること)、「卍字曲尺』(卍字は回転や変転の象徴であり、転じて変幻自在で物事に固執しないこと)。以上、『甲州流兵法』による。
 →このことから、山本菅助は小幡景憲のもとで修行を積んでいたことが判明。
 →つまり、山本菅助家には、初代菅助の編み出した兵法や城取は継承されていなかったらしい。
 『軍鑑』に結実する兵法などは、山本菅助(初代)から馬場信春を経て、早川幸豊、広瀬景房に継承されており、これを小幡景憲が引き継いだ(『小幡景憲記』「小幡景憲印可状」など)。
 →『甲陽軍鑑』に結実する山本勘助の逸話や兵法と山本菅助家は、別々に初代菅助の記録を継承しており、結びつきはまったくなかったことになる(『軍鑑』と山本家が互いに影響しあいながら話が形成されていったわけではない)。
 ◆小幡景憲は、晩年も山本菅助家とのつきあいを続けており、病床の景憲を見舞った「山本勘助」(四代目山本菅助)に礼状を送っている(【史料⑰】)。
 →しかし、小幡景憲は山本菅助を「山本勘助」と記すなど、近世の山本菅助家を山本勘助入道道鬼の系統と"して認識していたことは確かである。なお小幡景憲は、寛文3年(1663)4月3日歿
 ◆寛文12年(1672)4月、恵林寺で挙行された「武田信玄百回忌」に参加した山本菅助は四代目。
 →山本勘助(菅助)は当時すでに有名で、武田越前守信貞(川窪系武田氏)は「山本勘助」に会いたいと思っていたが、この度会うことが出来て嬉しいと述べている(【史料⑬】)。
 ◆近世山本菅助家と、戦国の山本菅助、そして『甲陽軍鑑』の「山本勘助」はつながっていると近世初期から認識されていたことは間違いなかろう。
 →このことは、水戸藩近藤忠重が『甲陽軍鑑』の「山本勘助」の子孫を、山本菅助の孫三郎右衛門の系統と認識していたこと、日向盛庵や平岡和由も同じであったことを想起すれば、山本菅助=山本勘助(道鬼斎)とみなしていたことは明白といえる(日向盛庵は、三代目菅助を「勘助」と明記している)。
 ◆『甲陽軍鑑』の山本勘助と、「市河文書」「真下家所蔵文書」の山本菅助は同一人物と考えられる。
 →ただし、『甲陽軍鑑』に登場するほどの活躍が実際にあったかどうかは別問題。そこまでの検証はできなかった。しかしそれなりに活躍したことは、真下家所蔵文書から事実とみなせる。

 まとめ
 ①武田氏滅亡後、最も早く徳川家康に出仕した武田遺臣の一人が山本十右衛門尉であり、彼は旗本となった。この地位は息子平一郎に引き継がれたが、彼が慶長10年伏見で急死したため断ち切られ、牢人となることを余儀なくされる。
 ②山本十左衛門の息子はその後相次いで天折し、ただ一人のこった山本三郎右衛門は牢人していた(在所で牢人という記録があるので、甲斐に滞在しており、仕官を目指して江戸と甲斐を往復していた)。
 ③寛永3年~9年のどこかで、水戸藩主徳川頼房が山本勘助の孫を召し抱えたいとの意向を示し、武田遺臣で水戸藩士近藤氏らが奔走する。
 ④しかしなぜかこの仕官は実現しなかった。その理由は定かでないが、同時期に頼房は上杉謙信軍師宇佐美定行の子孫宇佐美勝興を召し抱えようとしていた。ところが彼が偽物であることが発覚し、仕官の話はご破算になった。このことが影響しているのではないか。
 ⑤その後、寛永10年に武田遺臣日向盛庵、平岡和由らの奔走で、山本勘助の孫に興味を示していた永井尚政が山本三郎右衛門を召し抱えることとした。三郎右衛門はこれを契機に、同年6月ごろ「菅助」(勘助)と改名した。
 ⑥以後、近世山本家は、永井家、松平家に仕え幕末に至った。
 ⑦山本菅助家は、小幡景憲とも密接な関わりを持っており、武田遺臣の間では有名な存在であったと見られる。
 ⑧武田遺臣の間では、『甲陽軍鑑』に登場する「山本勘助」は、「山本菅助」のことであり、その子.孫が実在することも周知の事実であった。
 ⑨『甲陽軍鑑』の山本勘助と、「市河文書」「真下家所蔵文書」の山本菅助は同一人物と考えられる。ただし、『甲陽軍鑑』に登場するほどの活躍が実際にあったかどうかは別問題。そこまでの検証はできなかった。ただ、実在した菅助が信玄に激賞される活躍したことは事実である。

 参考文献
 1,出典史料
 ・柴辻俊六・黒田基樹編『戦国遺文武田氏編』全6巻(東京堂出版)
 ・武田氏研究会編『武田氏年表』(高志書院、2010年)
 ・酒井健二纒『甲陽軍鑑大成』全6巻(汲古書院)
 ・有馬成甫・石岡久夫編『甲州流兵法』(人物往来社、1967年)
 2著書・論文
 『発掘された土浦城一地中に眠る知られざる歴史一』(上高津貝塚ふるさと歴史の広場、2004年)
 高田徹「土浦城の構造一縄張り復元の基礎的検討を中心に一」(『土浦市立博物館紀要』第15号、2005年)
 笹崎明「江戸時代城郭修補の一事例一下野国壬生城にみる一」(『壬生城郭・城下町解説書』壬生町立歴史民俗資料館、2007年)
 黒田基樹「武田家中における幸綱の立場」(新・歴史群像シリーズ『真田三代』、2007年)
 海老沼真治「群馬県安中市真下家文書の紹介と若干の考察一武田氏・山本氏関係文書一」(『山梨県立博物館研究紀要』3、2009年)
 戦国人名辞典編集委員会編『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年)
 高橋修著『【異説】もうひとつの川中島合戦』(洋泉社新書y、2007年)
 平山優著『川中島の戦い』上・下(学研M文庫、2002年)
 平山優著『山本勘助』(講談社現代新書、2006年)
 平山優「山本菅助宛て武田晴信書状の検討」(『戦国史研究』60号、2010年)
 山梨県立博物館編『実在した山本菅助』(シンボル展図録、2010年)
 山梨県立博物館編『山本菅助再考』(シンポジウム資料集、2010年)
 山梨県立博物館監修・海老沼真治編『山本菅助の実像を探る』(戎光祥出版、2013年)