2019年1月3日木曜日

「沼津、兵学校碑文」口語訳(昭和15年沼津兵学校石碑文)

昭和14年沼津兵学校創立七十周年式典の
翌年、昭和15年、停車場通りの沼津郵便局(兵学校があった二の丸御殿跡)に建立。
郵便局南側にあった石碑は現在城岡神社に移設されている。

「沼津、兵学校碑文」口語訳
明治元年に徳川(いえ)(さと)公は、新政府によって静岡に、国替えさせられました。その前に幕府は、国の政を天王に返還し、後に、仕えていた家臣達は職を失いました。家達公は沼津に兵学校と附属小学校を開校し、軍隊の士官を養成しました。その教育様式を欧米に見習いましたが、これが、我が国の新教育の始まりとなったのです。政府は、藩を廃止して県を置く政策をとりましたので、家達公は、兵学校を政府に献上しました。こうして兵学校は、東京にあった政府の陸軍兵学寮に組入れられてしまいました。そこで、兵学校は、開校以来三年半で閉校となり、卒業生は二百余人だけでしたが、これらの生徒は、当時の新進気鋭の秀才として選ばれ、維新以後の世の立て直しは、私達の責務であると自覚していました。
 この人達は、後に将校となったり国の役人となったりして、国家の復興のため採用された者が、ぞくぞくと出て、我が家達公の人材育成の目的は達成されたのでした。ああ、これは何と偉大なことではありませんか。
 今日になって、縁りのある郷土の人々は、昔、兵学校の盛んだった頃を思い出し、その(なつ)しさのあまり、沼津兵学校創立七十周年記念会を開催し、式典と共に記念碑を兵学校址に建立しました。家達公の子息、(いえ)(まさ)公には碑文の表題を頼のみ、私は碑文を頼まれました。私も幕臣の子孫であるために断る事もできませんでした。そこで、世間と兵学校との係わりなどを記録しまして、後々(のちのち)の人々への(はげ)ましとしました。

侯爵徳川家正題字(題字を書いた人) 文学博士塩谷温選(文を作成した人) 石川道正書(文を清書した人)
昭和十五年十一月 沼津兵学校創立七十周年記念会 高嶋清助セン(碑に文字を刻んだ人)


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