2020年2月17日月曜日

平成28年2月7日(日)戸田の漁師唄:漁師唄保存会


↓令和2年2月16日撮影の戸田漁師唄動画





資料



戸田の漁師唄:せぎり唄



160207戸田の漁師唄:せぎり唄 from 河谷杯歩 on Vimeo.


戸田の漁師唄:松・大和めぐり・戸田浦・ほめ言葉・伊勢音頭




戸田の漁師唄:鯨突き唄


160207戸田の漁師唄・鯨突き唄 from 河谷杯歩 on Vimeo.



戸田の漁師踊・唄鑑賞会
勇壮な所作 観客魅了
沼津市明治史料館
沼津市西熊堂の市明治史料館は7日、同市戸田地区に江戸時代から伝わる県指定無形民俗文化財「戸田の漁師踊・漁師唄」の鑑賞会を開いた。28日まで同館で開く企画展「地域の歴史シリーズ へだ」の関連企画。
同地区で活動する保存会(荒川邦夫会長)のメンバー13人が、かつて船名主の祝宴で歌われたという祝唄やほめ言葉、御船唄(せきふね)を、踊りを交えて披露した。
1畳分のスペースで2人一組になって踊る「戸田浦」、もりを使つた勇壮な所作が見どころの「鯨突き」など、どっしりした足運びと手のひらの返しを多用する独特の振り付けで、詰め掛けた約50人を魅了した。
長島福枝副会長(74)は「市立戸田中でも踊りを教えている。若い人に伝統が受け継がれてほしい」と願いを込めた。
【静新平成28年2月9日(火)朝刊】

2020年2月11日火曜日

三枚橋城主中村一栄の書状見つかる


三枚橋城主中村一栄の書状見つかる
 新たに愛知県小牧市の寺院から
 安土桃山時代の三枚橋城主である中村一栄(氏次)が出した書状の実物が新たに発見された。書状は関ヶ原の合戦の直前に出されたと見られており、沼津と関ヶ原の関連を示す重要な発見となりそうだ。
 関ヶ原に向かう途中か
 沼津との関連示す重要な史料に
 この書状は、愛知県小牧市の小松寺に伝わる「中村彦左殿折紙」と呼ばれるもの。小松寺に対し、同寺院内に駐留する兵士の風紀取り締まりを約束する内容で、日付は「八月廿二日(22)」とのみ記されている。
 書状の差出人は「中村彦左」となっているが、これまで正体不明とされていた。今回、歴史学者の柴裕之さんによって中村彦左と中村一栄が同一人物であると判明した。柴さんは、先月11日に沼津市立図書館で開かれた歴民講座に講師として招かれ、中村氏領有時代の沼津について解説している。
 書状差出人の確定では、書状に添えられた花押(かおう=武将のサイン)が決め手となった。一栄のものとして知られている花押の形=下の写真(『駿河志料』より)=と今回の書状に記されている花押の形=左の写真中の左下(小牧市教委『小松寺文書』より)=が同様のものであった。
 中村一栄は、慶長5(1600)9月に起きた関ヶ原の合戦では、駿河一国を治める中村家を代表して出陣。関ヶ原の前哨戦である杭瀬川の戦いでの苦戦で歴史に名を残した。
 小松寺のある愛知県小牧市は駿河と関ヶ原を結ぶルート上にあることと、書状に書かれた8月下旬という日付を合わせると、この書状は関ヶ原へ向かう途中の一栄によって出されたと考えられるという。
 一栄によって出された書状は、これまでに4点の存在が確認されている。そのうち3点は後世に書き写されたもので、実物と考えられるものは1点。
 今回の発見は、数が少ない一栄関係の史料が新たに見つかった点だけでなく、中村家の関ヶ原出陣にまつわる直接の史料としては唯一のものであることから、非常に貴重なものとなりそうだ。
 一栄の出陣が立証されることは、一栄の部下として沼津の人間も関ヶ原に行っていた可能性をうかがわせ、沼津もまた、日本史上の大事件と無縁でなかったことを示している。
 また、今回の発見は一栄関係の新史料が今後も発見される可能性を示した点でも意義がある。
 中村彦左殿折紙の詳細については、市歴史民俗資料館が発行する資料館だより(4回発行)に今後、掲載される予定。
 ◇
 中村一栄(「かずひで」、あるいは「かずしげ」)は、豊臣秀吉の家臣中村一氏の弟。兄が天正18(1590)に駿河を治める大名になると、沼津の三枚橋城を与えられた。関ヶ原の合戦の直前に兄が死去し、その子が幼かったため、一栄は兄の子が成人するまで代理人を務めた。
 関ヶ原後、中村家は伯耆(ほうき=現在の鳥取県西部)に国替えとなり、一栄は伯耆東部の八橋城に移った。間もなく同地で没し、子の栄忠が一栄を弔う寺として大岳院(鳥取県倉吉市)を建立している。
 三枚橋城時代の一栄は「氏次」と名乗っていて、一栄の名を使うのは伯耆時代と見られる。
 昨年夏、徳川家康が一栄に一氏遺児の代理人就任を命じる書状が東京の古書店で発見され、静岡市が購入して一般公開された。
【沼朝2020(令和2)211(火曜日)

駿豆電気鉄道パワーポイント資料動画



↓ヴァージョンⅡ版

2020年2月6日木曜日

あすなろう 土屋詔二


 あすなろう 土屋詔二
 受験シーズンである。しかし来年から実施される「大学入学共通テスト」が混乱している。目玉だったはずの英語民間試験や国語・数学などの記述式問題が延期になった。
 英語民間試験について、機会の不平等が生ずるという指摘に対して、萩生田光一文部科学相が、「身の丈に合わせて」と発言して炎上した。萩生田文科相は善意から発言したのだろうが、不平等が前提では、教育の機会均等という点から、やっぱり問題であろう。
 そもそも確実に少子化が進む中で、学校側は、それぞれ差別化戦略を工夫している。果たして共通試験が必要なのだろうか。さらに言えば、「身の丈に合わせて」という発想が教育行政の責任者として如何なものか。学習や成長のダイナミズムについての認識である。
 経営学者の伊丹敬之さんは『経営戦略の論理』で次のように指摘した。
 「カニはおのれの甲羅に似せて穴を掘る」という諺がある。企業の経営戦略で言えば、資源や能力に合わせた戦略を取れということである。
 一見正しいように思えるが、長期的な成長のためには必ずしも適切ではない。成長のためには甲羅を超えた穴を掘る必要がある。掘った穴はオーバーエクステンション(過度な拡張)である。短期的には不均衡であるが、その不均衡が成長を促す。身の丈に合わせると、すぐに「成長の限界」に突き当たる。
 井上靖さんの自伝的小説『あすなろ物語』は、新潮文庫の中でも発行部数ベスト二○に入るという。多くの読者を獲得してきた作品であるが、別に『あすなろう』という短篇がある。旧制金沢四高の同級生四人と共通のマドンナが、一五年ぶりに再会する物語だ。
 一人が「自分の郷里の伊豆地方では槇のことをアスナロウと呼んでいる」と言う。すると博識の友人が「槇ではなく明日は檜になろうと夢見ながら成長する羅漢柏のことだ」と訂正する。羅漢柏は檜科の一種でヒバなどと呼ばれるが、翌檜(あすなろ)とも書く。
 『あすなろう』の五人は、夢見ていた人生とは異なる生活を送っていた。作家デビューが遅かった井上さんは、この話に思い入れがあったと思う。井上靖文学館の前庭にも、生誕百年を記念して植樹された翌檜がある。
 オーバーエクステンションとは、言い換えれば「高望み」である。もちろん翌檜が檜になることはない。やみくもな高望みはムダであり、適度な過度拡張であるべきだ。形容矛盾のようであるが、「無理はせよ、無茶はするな」という匙加減が矛盾を止揚する契機になる。
 親の年収などによって塾など学習環境に差が出るので、格差は世代を超えて連鎖する。エスカレーターのような学校で学ぶのを、特権だと思っているように見える世襲政治家もいる。「身の丈」と考えるよりも、「あすなろう」と頑張る方が健全ではないだろうか。
(高島本町)
【沼朝令和2年2月6日「言いたいほうだい」】

2020年2月5日水曜日

奈良時代の伊豆の国と三島 浜 悠人


奈良時代の伊豆の国と三島 浜 悠人
 三島の駅前には緑に囲まれた静寂な楽寿園がある。園内の一画に三島市立郷土資料館があり、入ってみた。実のところ、奈良時代の伊豆の国について興味を持ったからである。学芸員さんにコピーして頂いた伊豆についての年表により辿ってみると、
・西暦六八〇年(天武天皇九年)駿河の国より伊豆の国が分けられた。
・西暦七二四年(神亀元年)流罪の遠近を定め、伊豆など六力国を遠流(おんる)の国とした。
 遠流とは律令制の三流(遠流、中流、近流)の一つで、最も重い流罪。延喜式では伊豆、安房(千葉県)、常陸(茨城県)、佐渡(新潟県)、隠岐(島根県)土佐(高知県)の六力国があたる。
・西暦六九九年(文武天皇三年)役君小角(えんのきみおづぬ=山伏の祖)が伊豆の島に流される。
・西暦七四一年(天平一三年)小野東人が伊豆の三島に流される。
・西暦七四二年(天平一四年)塩焼王が伊豆の国に流される。
・西暦一一五六年(保元元年)源為朝が伊豆大島に流される。
・西暦一一五九年(平治元年)源頼朝が韮山の蛭ヶ小島に流される。
・西暦一一七三年(承安三年)文覚上人が韮山の奈古谷に流された。
 国府 奈良時代に入り「律令国家体制」が整うと、伊豆の国にも国司が派遣された。国司が国を統治する拠点が国府で、国府は、いわば初めての地方都市であり、国を司どる国庁は一町(100)四方くらいを築垣で囲んだ立派な役所であった。
 伊豆の国府の所在地は確定されていない。一説に、大仁町田京にあったのが三島に移っとか言われるが、裏付けが乏しい。
 昭和三十年代、三島市芝本町から布目瓦が発掘され、この付近が国府所在地とされている。鎌倉時代の前後には三嶋大社の東側に移ったと考えられる。
 市街地の発掘調査では三嶋大社境内遺跡や東本町の上才塚遺跡が国府関係の建物跡ではないかと注目されている。
 国分寺と国分尼寺 聖武天皇は西暦七四一年(天平一三年)、各国に国分寺建立の詔を発した。国分寺とは国ごとに設けられた国立寺院で、僧寺と尼寺の二寺制を取った。僧寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」、尼寺は「法華滅罪之寺」と定められた。
 僧寺の定員は二十人、尼寺は十人と定められ、生活費として各々水田十町を与えられるなど、その維持経営の細目が決められていた。また、寺地は僧寺が二町(200)四方、尼寺が一町半(150)四方を原則としていたようだ。
 現在、遠江の国の国分寺跡は磐田市見附にあり、駿河の国の国分寺跡は静岡市葵区長谷寺の真言宗醍醐寺派の寺院にあたる。
 ところで伊豆の国の国分寺は現在の三島市泉町にある日蓮宗の寺院で旧称は蓮行寺、山号は最勝山、本尊は釈迦如来で、伊豆の国の国分寺の後継寺院にあたる。
 昭和三十一年(一九五六年)の発掘調査により、寺域は二町四方と推定され、僧坊、講堂、金堂、中門南門の遺構が確認された。しかしながら、伽藍(がらん)の詳細は明らかになっていない。現存する八個の石が七重の塔の礎石の一部で、塔の高さは六十㍍程あったと想像されている。
 伊豆の国の国分尼寺が創建された場所は現在の三嶋犬社の南、大社町の祐泉寺辺りと思われる。祐泉寺には当時の西塔の礎石が残っており、近くの法華寺は国分尼寺の後継寺と伝えられる。年表によれば国分尼寺は西暦八三六年(承和三年)焼失し、西暦八八四年(元慶八年)新たに建立することを許された、とある。
 以上、年表を中心とし奈良時代の伊豆の国や国府三島を辿ってみた。そして、この地が平穏なロマン溢れる里だったに違いないと思った。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2年2月5日(水)寄稿文】

「沼津の文化と千本」第33回本光寺夏期仏教講座:平成23年8月21日

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