2020年3月29日日曜日

アーカイブス:昭和57年7月1日発行「沼津市民文化センター開館記念事業:記念誌」より


沼津市民文化センター建設と文化団体
 1つの運動が結実するのには、大変長い時間と労力かかかるものです。一人の熱心な提唱者が、声を大きくし.繰り返し呼びかけ、一人一人を説得してゆく。
 それに応えるように、何人かの賛同者が、こんどはより多くの人々に声をかけて、運動は花咲き、結実してゆくのです。
 夢にまで見た”市民文化センター"の完成を見、そして今また、その"こけら落し"の記念行事が、市民文化団体の力で華かに、にぎにぎしく開幕したこの記念すべき71日は、沼津の文化運動にとって、画期的とも言える大変革の日ともなることでしょう。 この記念すべき日、"市民文化・センター”建設までの運動を紹介するのも又、私たちの仕事と言えるのではないでしょうか。
 昭和437月と言えば実に14年も前になりますが,沼津合唱団の指揮者中村義光先生の提唱によって、「東高跡地への近代的文化ホールの建設」が運動として形を整え、文化団体の活動の目安が出来たのです。この年9月「文化ホール建設促進協議会」が生まれ、当時の塩谷市長に対して、”建設促進の陳情”なされるなど、市民文化会館建設の運動の輪は、少しづつしっかりした足どりで広かっていったのです。
 陳情後は。精力的に市民への協力を呼びかけ、署名運動に取りくみ、44918日、13000名の署名簿をそえて市議会へ「総合市民会館建設に関する請願書」を提出したのです。この時の請願者には、今回このフェスティバルに関わっている団体も多く参加しており運動の質的な面を長く支えていたことが示されております。この請願を契機として、ようやく市民の問に関心が高まり、「東高跡地」をめぐる文化と体育の2つの競願の様相を呈してきてしまいました。市議会での請願採択は、文化26対体育16という数字で両案共採択という結果はやや不本意なものでしたが、建設の決断は当局に移ったわけです。
 行政は、その後一向に建設の決断を下さす、塩谷市長から原市長、そして井手市長と三代も・変る中で、しびれを切らした市民団体は、”建設促進”を側面から訴えるため「募金活動」にも取り組み、これはその後すっと続けられることになりました。 昭和5011月、市民・文化団体の根づよい運動の成果として、井手市長から委託を受けた「市民文化センター建設調査委員会」が発足、517月調査報告書を答申したのです。
 昭和53年、実に運動が具体化してからも10年という時の流れのあと、48年から設定された「市民文化会館建設基金」に対し、議会で「文化センター建設継続」として約42億の資金手当がなされたのです。
 長い、長い道程と苦しい、しかし張りのある運動の結実は、目を目張るばかりの、機能的な文化センターとして見事に私たちの前に現れたのです。 運動の過程の中で、紆余曲折は確かにありました。文化か体育かの論争も起きました。しかし沼津の街を
愛し、沼津市民を支えとしての運動体同志、必ずや理解し合い豊かな市民文化の創造に結集出来ることと信じての活動は、これからも長く続けてゆきたいものです。それには一つ一つの団体か、謙虚に活動を展開し、時にはこのフェスティバルのように、供にステージに立うではありませんか。市民フェスティバルの成功を心から祈念します。
  市民フエスティバル委員会

 沼津市民フェスティバル発足と委員会
 市民文化センターの建設工事が順調に進歩する中で完成を機に、市民サイトのイベントで賑やかに幕を開けようではないかーとの声が、文化団体の中で話し合われるようになったのは56年春頃からです。 しかし、市民期待の文化七ンターの順調な建設の歩みに比べて、市民文化団体の動きは鈍く、祝賀のイベントを市民の手でーという構想は一向に陽の目を見ないまま時か過ぎました。
 何故か、どこからも”市民フェスティバル”を起こそう”との呼びかけかないまま、秋も深まり、いくつかの団体から、「このままでは、夏のオープンでの計画か立たない」「一刻も早く、集まって相談を」の声がきかれるようになった。こうした市民の自発性を土台とした活動は、誰でもいい、声をかけて、きっかけを作ってくれることか必要なのです。
 功名のためてなく、縁の下の支えとなる人たちか何よりも求められていたのではないでしょうか。
 誰から言い出すともなく”集まって、市民のフェステイバルをやろうよ”と言うことで、5610月、8団体が集まり、①大、小団体にこだわらず、みんなが平等に発言し、責任をもち合い②自主的な運営と民主的な話し合いですすめ③呼びかけ合ってメンバーを増やしてゆこうーの基本的な姿勢を確認し合ったのです。
 2回目の打ち合わせは、13団体が参集、いよいよ市内の文化団体への呼びかけを決めたのです。ここでは、①この会は、市民フェステバルの実現のみに会合しよう②関心のある団体にはすべて平等の立場で参加してもらおう③当面は会議制で④費用は参加団体にも拠出してもらおう④行政当局と連携を保ち効果的にしようーとの確認と、文化団体の結集を122日と決めたのです。
 122日、呼びかけに応え60団体が参加、市民フェスネィバルの実現に、胸躍らせて勢のこもった話し合いが続けられたのです。
 "市民の手で、オープンを祝おう”と、他市に見られないこの自主的な試みは、この日に実質的スタートをしたと言えるでしょう。
 その後、文化協会等から、フェスティバルを全丈化団体の力でやるようにとの提言もあって、会合を重ね市民フェスティバル委貝会の組織も、正副会長の決定を含めて形成されて行ったのです。
 第一回打ち合せ以来、3ヵ月後の121日のことです。会長に中村義光先生を迎え、副会長に花柳稔、志賀旦山、二橋正夫の各氏、運営委員15名を選出し、いよいよ具体的なフェスティバル作りに入った訳です。
 市社会教育課作成の文化団体名簿を頼りに呼びかけ市の広報でも参加を呼ひかけての作業は、なかなか困難も多く、団体の消長も予想外に大きく所在・責任者をつかむのに大変な苦労か続きました。
 初めての経験のため、思うように事か運はす、焦りも生しましたが、多くの団体から理解ある励ましを受け、ようやく163団体の参加でオープンを迎えることかできました。
 このフェスティバル作りを通して感じたことは、沼津の文化団体の多彩な活動であり、個性的な運営、運動であり、特に多くの優れた指導者の存在が何よりも嬉しい発見てあったことで、これはフェスティバル作りに参加したすべての人たちの実感ではないでしょうか。より豊かな市民文化の街にしてゆきたいものです。
 市民フェスティバル委員会事柊局 杉山富士男
(「沼津市民文化センター開館記念行事:記念誌」昭和5771日発行)


2020年3月28日土曜日

200328東海道沼津宿・清水本陣企画展




東海道沼津宿と清水本陣
市立図書館で企画展
企画展「東海道沼津宿と清水本陣」が5月24日まで、市立図書館4階展示ホールで開かれている。協力は明治史料館。
市は今年度、近世沼津宿の本陣清水家が所蔵していた貴重な古文書など8点を購入。企画展では、それらと共に沼津宿などの関連資料が展示されている。
江戸時代に整備された「東海道五十三次」で、沼津宿は起点の江戸日本橋から12番目、原宿は13番目で、一般の旅行者が利用する宿とは別に、武家や公家が宿泊、休憩をする本陣・脇本陣が置かれ、その宿の有力な旧家が指定されることが多かった。
沼津宿では元禄期、清水家と間宮家、それ以降は高田家が加わり3軒が指定された。
購入した古文書の中には、戦国時代の貴重な古文害2点も含まれていて、清水家が北条家に仕える武将であった伝承を示すものもある。豊富な関連資料と分かりやすい解説が付いている。
一方、図書館では新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、入館者が館内に一定時間とどまることが予想されるサービスを休止している。
貸し出しと予約の点数については31日まで拡大していて、図書については通常10冊のところ20冊まで、AV資料は通常3点のところ6点まで貸し出しを受け付けている。
また、1階フロアでは特集コーナーとして「ブラインドブック」を用意。職員が選んだお勧めの本を、タイトルが分からないように紙で包み、紹介文を添えてある=写真。開館時間は午前9時半から、火・水・木曜は午後6時半まで、金曜は9時まで、土・日・祝日は5時まで。月曜日と、4月1日と5月13日は休館。
問い合わせは市立図書館(電話952~1234)。
【沼朝令和2年3月28日(土)号】

室町幕府 浜悠人


室町幕府 浜悠人
 鎌倉幕府滅亡後、足利高氏は後醍醐天皇から勲功第一とし従四位下を授けられ、鎮守府将軍と左兵衛督(かみ=長官)に任ぜられ、また三十カ所の所領も与えられた。
 元弘三(一三三三)年、従三位に昇り、武蔵守を兼ねるとともに天皇の実名「尊治」から一字を譲り受け、「高氏」から「尊氏」と改名した。
 建武二(一三三五)年、信濃国で北条氏残党が北条高蒔の遺児時行を擁立し反乱を起こした。時行の軍勢は鎌倉を一時占拠した。尊氏は天皇の許可を得ないまま軍勢を率い京都から鎌倉に向かい、天皇はやむなく征東将軍の号を尊氏に与えた。
 尊氏は弟直義の軍勢と合流し、相模川の戦いで時行を駆逐して鎌倉を奪回。そのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え始め、京都の天皇からの「上洛しろ」との命令を拒み、独自の武家政権創立の動きを見せ始めた。そして新田義貞を天皇側の妊(かん=悪者)であるとして、討伐を要請するが、天皇は逆に義貞に息子の尊良親王を伴わせ、尊氏討伐を命じた。
 さらに奥州から北畠顕家も南下し始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言。寺に引きこもり断髪するが、昧方軍勢の直義や高師直などが各地で劣勢と知るや、彼等を救うため天皇に叛旗を翻すことを決意。「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言して出馬する。
 竹の下の合戦
 後醍醐天皇は新田義貞を総大将として尊氏討伐の軍を進めさせた。義貞の軍は東海道を連戦連勝し、箱根・足柄の地まで兵を進めた。
 一方、これを迎え撃ち、尊氏は足柄峠へ、直義は箱根峠へ向かった。直義軍は義貞軍と戦って敗れ、尊氏軍は義貞の弟、脇屋義助の軍を破り勝利を得た。
 この足柄峠の竹の下の合戦では、敗れた義助軍に公家大将の二条為冬が加わり、総大将尊良親王を間道から落ちのびさせ、自分が親王の身代わりとなり、全軍を指揮、奮戦し討ち死した。
 先日、裾野駅近くの佐野原神社を訪ねた。本殿裏側には将軍塚と呼ばれる為冬を埋葬した大きな塚があり、私は墓前で冥福を祈った。この尊氏の竹の下の合戦の勝利が足利幕府創立の端緒になったと言われている。
 疫病新型コロナウイルスの蔓延で今や世界中が恐怖に陥っている。我が国では奈良時代、疫病(天然痘)が大流行した。天平七(七三五)年から九(七三七)年にかけて九州から全国に広がり、奈良平城京では官人(役人)の大多数が罹患したため、朝廷が政務の停止に追い込まれる事態となった。
 天平九年七月には大和国、伊豆国、若狭国、伊賀国、駿河国、長門国の諸地域に相次いで天然痘が大流行したと報じられている。
 同年八月には流行の拡大を受けて、税免除の対象が、九州だけではなく日本全国の地域に広げられた。そして疫病は庶民だけではなく、全ての階級の日本人を襲い、死亡した多くの貴族の中には藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合(うまかい)、藤原麻呂という当時の国政を担っていた藤原氏の四兄弟も含まれていた。
 天然痘のこの大流行も天平十(七三八)年に入ると、ほぼ終息した。当時の総人口の2535㌫にあたる百万人から百五十万人が感染死したと推計されている。
 以後、庶民は疫病にかからぬよう、無病息災を祈り六月三十日の茅の輪くぐりや、七月の京都祇園祭と、その風習が受け継がれてきている。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2328日(土)号】

2020年3月27日金曜日

芸者 梅龍 ―山本五十六とのこと一 巷間・レポ 鈴木隆義





芸者 梅龍
―山本五十六とのこと一
 巷間・レポ 鈴木隆義
昭和16418日、太平洋戦争のさなか「海軍総司令長官山本五十六,太平洋上ニテ米軍ノ襲撃二会イ戦死ス」の悲報が伝えられた。全国民の悲しみの中,とりわけ悲嘆に暮れたひとりの女性がいた。その人の名は梅龍こと河合千代さんであった。新橋の芸者として軍人山本五十六の寵愛を受け,彼女もまた山本に尊敬と強い愛情を寄せていたのである。
 今年の正月,沼津新聞に「市内牛臥海岸の旅館せせらぎ荘が塚田川の悪臭の影響で営業不振に陥り廃業となった」と報ぜられた記事を読者の中には記憶している方も多いと思う。その旅館せせらぎの女将千代さんが他でもない往時の新橋の芸者梅龍その人である。

 千代さんは語る一一「その当時,わたくしは新橋で芸者をしていました。軍人山本五十六さんに初めて会ったのは,わたしが28才の時,当時野島家という置屋にいたときのお座敷でした。それ以後,山本さんの男としての情熱と心意気にほれ込んで,陰ながら力になろうと,山本さんとその部下の人達にしてあげました。
 山本さんは本当に心の温い人でした。昭和17,わたしが胸をひどく病んでいた時,当時広島県の呉にいた山本さんは『呉までこい。私の主治医にみせよう』とよんでくれ歩くことさえ困難に衰弱した私を抱きかかえて介抱してくれました。やがて全快した私は東京に戻りましたが、結局逢ったのはそれが最後で,18年の4月に亡くなられました。
 その直後からわたしのところへ鹿岡という海軍の軍人がたびたび来て『お前が生きていては海軍にとって不都合だから自決するか尼になれ』といって迫りましたが結局,死にきれず沼津の保養館(元静浦ホテル)に部屋を借り強制疎開という形で住むようになりました。丁度昭和19年だったと思います。これが沼津に住みつく始まりです。その後,保養館を出てから八幡町で割烹〈せせらぎ〉をひらきましたがうまくゆかず,結局昭和30年からこの旅館せせらぎ荘をやって今日に至りました」という。
 戦争には必ずいくつかの悲しいドラマがつきまとい,そしてその主人公達の運命も戦争によって大きく変えられたのである。このヒロイン千代さんの場合も決して例外ではなかった。
 広報誌《終戦特集》の取材で元旅館せせらぎ荘を訪問した私たちは応接間に通されて初めて千代さんに会う機会を得た。70才とは思えない若さと品格のよさ,一糸乱れぬ髪,端正な和服のきこなしにさすが往年の新橋芸者を思わせる気品をどことなく漂わせている。訪問と取材の趣旨を伝えると心よく理解して下さり,昔のことを思い出しながら色々と語って下さった。
 「私が芸者になることは,親からは大反対
をされてしまいました。だけど父が仕事に失敗し,一家4人の生活を扶けるには,当時としては適当な職もなく,芸者になるのが一番だと思いました」という。
 新橋芸者は伝統の芸術として当時ポッと出の千代さんの前には,その門は堅く閉されていた。しかし,名古屋の商業女学校を出ている才媛の千代さんは,やがて周囲が驚く程芸に励み,梅龍という名で客からの人気はいやが上にも高まった。と,そんな時,軍人山本五十六との逢瀬を楽しみつつこの人の為に尽そう,この人に自分の青春をとことん賭けようと心に誓ったという。「山本さんには自分のすべてを貢いでしまった。身も心も,客からもらった財の殆んども」若き日の芸者梅龍の真摯な青春の姿がそこにはあった。
 色々なドラマを色々な場所で残した」戦争が終って早くも27年の歳月が流れた。しかしこのヒロイン梅龍さんの胸の中にはまだ戦争の残像が消えやらない。いや一生消え去ることはないだろう。戦争で死んだ男,その面影を抱いて残った女ーーその悲しくもせつない物語は戦争に限らずいつの世にも生まれる話である。しかし戦争が舞台となるような物語はこれが最後であって欲しい。どんなに人の心をうつドラマでも戦争をその背景にだけはしたくない。

 山本五十六とのことを語りながらも,当時から約30年を経た現在の世相を,梅龍ねえさんはあまりのへだたりを嘆きながら,はっきりとき『めつける。以下,読者に御紹介してみたい。
 ○今度の総理大臣はずい分若いけれどしっかりしていますね。山本さんと同郷の新潟の人。田中さんは山本さんの生まれ変りだと私は思いますよ。山本さんもきっと喜こんでいるでしよう。もし生きていたら,二人で日本を創っていったろうになあと,思いましたよ。
 ○いまの若い人達はあれでいいんでしょうかねェ。男女の仲に貞操観念が欠けていますよ本当に。アメリカさんに負けてからどうもよくないですね。
 ○大学生もいけないけれど,今の学制がどうもいけない。金がかかりすぎますし,勉強したことが卒業しても何の役にも立っていない。
 ○赤軍派なんてのは国家の恥ですよ,あんなのは。大学生に値しませんよ。勝手すぎますよ。
 ○人間どの家庭でも戸締りはします。一国も同じで自分の国は自分たちで守るのは当然じゃありませんか。自衛隊は必要ですよ。
 ○自分の役目としてやってみうといわれたことは,たとえ反対の意見が自分にあったとしても精一杯やってみることですよ。特に今の若いものをきたえあげなぎゃあ日本は駄目になってしまいますよ。
 語れば尽きない梅龍ねえさんの話に,私たちもつい長居をしてしまいましたが,山本五十六との恋に明け悲恋に終ったその青春日記は,本誌には掲載を省きます。
 いまは独り静か。せせらぎ荘も看板をはずす。
 塚田川の悪臭は,公害という現代病で,風流梅龍ねえさんをも廃業に追いやってしまいました。
 これも世の移り変りか。
19728月発行「翔」№173号 NUMAZU・JC)



2020年3月22日日曜日

山本五十六提督の恋「梅龍」( 河合千代子)


山本五十六提督の恋
山本が初めて「梅龍」の芸名を持った新橋芸者・千代子を知ったのは、昭和八年夏である。もともと、山本は新橋の花柳界ではモテモテで、両手の指が八本しかなかったことから、〝八十銭〃のアダ名で親しまれていた。山本の妻はよく気のつく山本とは、正反対の質実剛健な女性で、家庭的には冷え切っていた。
 一方、千代子はこの道に三十歳近くで入った、薄幸の女であった。似たもの同士で、愛情が深まったのである。昭和十二年に千代子は芸者から足を洗い、料亭の女将となった。東京芝神谷町に家を構え、山本に負担をかけまいと、ここを逢瀬の場にした。
 〝Ⅹデー〃(12月8日)を前に、山本は広島県呉市から上京、多忙な公務に追われながらも、寸暇をさいて千代子と銀プラを楽しんだ。ダンディな山本は、会う時はいつもバラの花を持っていた。別れの際、「この花ビラの散る頃を見て下さい」とナゾの言葉を残した。


六千代子が鏡台に大事に置いていたバラの花ビラが散った翌日、開戦の臨時ニュースを聞いた。連合艦隊は約半年の航海の末、昭和十七年五月十日、呉に帰港した。山本は千代子に会いたいとしきりに電話をかけてきた。この時、千代子は肋膜炎で生死の境をさまよっていた。
千代子は山本に一目会いたい、と看護婦が止めるのも聞かず、死を賭して列車に乗った。 山本は呉駅でメガネとマスクで人目をはばかりながら、歩けない千代子を背負って、人力車に乗せた。千代子はこの時の別れを、「あなたはずいぶん強い力で、私の手を握って下さいましたね。どこまでも、私の手を離さないでつれていって下さいませ」と日記に書いた。
 ミッドウェーへ向かった山本から、折りかえし手紙が届いた。「私は国家のため、最後の御奉公に精魂を傾けます。その上は、万事を放耕して、世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。「うつし絵に 口づけをしつつ幾たびか 千代子と呼びてけふも暮しつ」(五月二十七日付)

山本からの最後の手紙は昭和十八年四月二日付である。ガダルカナルを撤退しラバウルへ出発する直前に書かれたもので、遺髪が同封されていた。短歌も小さい紙に書かれていた。「おほろかに吾し 思はばかくばかり 妹が夢のみ毎夜見むい」

 四月十八日、山本は帰らぬ人となった。五十九歳。発表は一カ月以上伏せられ、六月五に国葬が行われた。山本から千代子へあてた手紙は、十年間に三〇センチ以上の高さになったが、国葬の前日、昭和十六年以降の分が海軍省へ没収された。
 その後、「全部焼却するように」との命令が下り、千代子は心に残る十九通だけを残して、あとは焼いた。別の軍人は千代子に「国葬の当日までに自決せよ!」と迫った。
 
 千代子は山本との愛を生きがいに耐え、戦後は沼津で料亭を経営。昭和二十九年四月十八日付「週刊朝日」が「山本元帥の愛人-軍神も人間だった」で二人のラブロマンスを報じるまでは、一般には全く知られなかった。
 まさしく〝提督の恋″であった。
【前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)HPより)


沼津に設置された公立高校等の沿革高島茂樹PPT資料動画

令和2年3月21日(土)史談会例会「ふたつのみゆきはし」PPT資料動画・スライドシェア資料

沼津の二つのみゆきばし





2020年3月17日火曜日

アーカイブス「沼津街中ウオッチングPPT資料動画」

歴民で企画展「そだてる漁業」 市歴史民俗資料館


 1世紀にわたる沼津の養殖の歴史
 歴民で企画展「そだてる漁業」
 御用邸記念公園内の市歴史民俗資料館は、企画展「そだてる漁業養殖をめぐる沼津の一世紀~国指定漁具コレクション養殖用具」を56日まで2階展示室で開いている。
 沼津の海面で行われてきたノリや真珠、魚類の養殖を取り上げ、歴史史料や国指定重要有形民俗文化財「沼津内浦・静浦及び周辺地域の漁撈用具」の中から主な用具を展示。当時の時代背景などを説明しながら約1世紀にわたる沼津の養殖の歴史を紹介している。
 沼津の養殖の始まりはノリで、明治13(1880)に重須村(内浦重須〕の陰野川河口汽水域で、葉を落とした木の枝を45本まとめた「粗朶(そだ)ひび」を海底に立て、海中を漂うアサクサノリやスサビノリの胞子を付着させて栽培するという三保のノリ養殖技術が伝えられ、高品質の海苔を1日に45千枚製造。昭和46(1971)まで生産されていた。
 有形民俗文化財のうち、粗朶ひびを立てるために海底に穴を開けるのに使われた大きな木槌「掛矢」で叩いて打ち込む粗朶杭、木の股に足をかけて両手に力を込めて海底に打ち込む樫で作られた二股の「振り棒」が並ぶ。

 真珠の養殖は三重県の英虞(あご)湾で御木本幸吉が明治26(1893)に成功し、沼津では明治4142(190809)にかけて百瀬四郎という人物が内浦重寺で始めたが、この百瀬という人物については素性が明らかになっていないという。参考史料として大正2(1913)に内浦漁業協同組合が県に提出した畜養から真珠養殖への「使用目的変更御願」が展示されている。
 約1650平方㍍の養殖場に約6万個の真珠貝を養殖していたが、第一次世界大戦による欧州への販路の制限と、外敵による真珠母貝の損失によって大正8(1919)に幕を閉じた。
 その後、清水港の真珠養殖業者が昭和2526(195051)に西浦木負に真珠の養殖筏を移設するようになった。29(1954)から県水産試験場が西浦古宇で真珠養殖試験を開始し、31(1956)には同地区の40軒のミカン農家が真珠養殖組合を結成。内浦、静浦漁協でも真珠の養殖が始まった。

 30年代には活況を呈し、31年、内浦三津に東海汽船が三津真珠館を開館。県内の生産量は38(1963)1492㌔、生産額は39(1964)48500万円でピークに達したが、その後、水質の悪化や寄生虫の発生、価格低迷やブリ養殖の好況によって真珠養殖は急速に衰退。47(1972)までに、ほとんど行われなくなった。真珠館は43(1973)までに閉館し、その後、三津天然水族館(現在の伊豆・三津シーパラダイス)の海獣館となり、現在はコンビニエンスストァ。
 会場では、有形民俗文化財に指定される真珠選別器として使われたフルイ、貝を開く時に使用された刃物の採収出刃、翼珠の色艶や傷を見る真珠仕分け具、養殖に使った丸寵、平籠、開閉式段籠をはじめ、重須の養殖場で採取された真珠の実物などが並ぶ。
 このほか、東熊堂で行われたウシガエルの養殖、明治43(1910)に重須に開設された県水産試験場で行われた伊勢エビの繁殖・養殖、国内生産量の半分以上を占めるまでになったマアジ養殖などを紹介している。

 千葉県から訪れていた観光客は「沼津には初めて来たけれど良い所ばかり。御用邸では近代以降の皇室について知ることができて良かった。沼津のおいしい魚も、長年にわたる養殖の歴史に裏付けられていることを知ることができた」と話していた。
 入館無料。公園入園料として100(小中学生50)
 開場時間は午前9時から午後4時。
【沼朝令和2317日(火)号】