2018年9月12日水曜日

沼津史明治史料館通信第134号(平成30年7月25日発行)




歴史とまちづくり 匂坂信吾 (沼朝平成30年9月12日(水)号寄稿文)


歴史とまちづくり 匂坂信吾

明治維新により静岡に移った德川家静岡藩は、明治元年(一八六八年)暮れに沼津兵学校を設置し、翌年一月、旧沼津城二の丸御殿を校舎として開校しました。この御殿は、現在の大手町・城岡神社西交差点の少し南側に、駅前通りを横断する形で東西八十㍍、南北六十㍍規模の入り組んだ造りで、数十もの部屋がある大きな建物でした。

 兵学校では、校舎から近い本丸跡(現在の中央公園内)に寄宿寮を設けたほか、上本通りの元ボウルビルのあたりに附属小学校を設置しました。この学校は、静岡藩士が子弟の教育のために作った代戯館(だいぎかん)に始まり、後の小学沼津黌(こう)、集成舎等を経て、現在の市立第一小学校に至ります。
 第一小学校の北側一帯には、兵学校附属医局に始まる沼津病院が明治二年九月に開院し、同十二年十一月には郡立・駿東病院として組織を変更して、やがて東海一と評される病院に発展しました。

本年三月、沼津史談会では市民参加により「沼津まちなか歴史MAP」を作成しました。その動機は、平成二十五年以来、毎月、沼津ふるさと講座を開催してきた中で、歴史を生かしたまちづくりの重要性を実感し、城下町、宿場町、沼津兵学校など沼津のまちの歴史を目で見て分かる形で表現したいと考えたことにありました。

特に昨年三月末、冷たい雨風の中で行った沼津宿交流会では、三島や原からの人を含め、百人を超える参加者から、当日使用した手書きの地図が一定の評価を得たため、更にデジタル手法を用いて正確な地図を作る必要性を感じました。

そこで昨年八月以降、市街地中心部の昔と今の「まちの姿」を重ねた地図を作り、まちづくり活動の出発点とするために試行錯誤を繰り返しながら取り組みました。
出来上がった地図は市内の全小中学校に約六千枚を配布し、市立図書館や、沼津観光協会、市街地中心部の公共施設にも常設して、皆様にご意見を伺ってまいりました。
 
 その結果、いくつか再検討すべきことが分かってきましたので、改定版を作ることとしました。今回の主な修正事項は、代戯館から始まる小学校の位置が、どのような変化をたどったかという点であり、関連する地図の一部を変更するものです。

 九月十五日(土)、午後一時三十分から市立図書館四階視聴覚ホールにおいて開催する沼津ふるさと講座は、国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦講師により、テーマを「沼津兵学校附属小学校が及ぼした他藩・他県への影響」として行います。地図の修正内容と関係するため、講座の中でも「沼津まちなか歴史MAP・改定第二版」の画像を上映するほか、改定案の写しを資料として提供します。

 また、沼津ふるさと講座計画の本年度下半期にはいりましての第一回として、十月十三日(土)、午後一時三十分から、明治史料館においてさらなる改定のための勉強会を行います。
ここでは、沼津まちなか歴史MAP作成のために重要な拠り所としている、江戸時代末期に描かれた「沼津城絵図」(明治史料館所蔵)の巨大かつ精緻な本物の絵図との比較検討を行います。めったにない機会ですので、希望者はご参加ください。
いずれも参加費は無料で、申込みは、十月十三日のみ必要です。
問合せ・申込みは、匂坂(さぎさか)=〇九〇―七六八六―八六一二まで。
           (沼津史談会会長、小諏訪)


2018年9月11日火曜日

平成30年7月14日沼津ふるさと講座「歴史の現場に立つこと」市橋章男講師




平成30年9月11日(火)沼朝記事より



物語資源型の歴史観光
発展へ人に話したくなる物語を発掘
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)は七月十四日、「沼津ふるさと講座」を市立図書館視聴覚ホールで開催した。おかざき塾歴史教室を主宰する市橋章男氏が「家康公の存在と歴史学習」と題して話した。
 市橋氏は徳川家康の出身地である愛知県岡崎市で郷土史の研究や発信を通した歴史観光の育成を行っている。現在は、家康と家臣団をテーマにした「新・家康公検定」の実施に取り組んでいる、
 講話で市橋氏は、歴史観光を単一資源型と物語資源型の二つに分類。前者は金閣寺や姫路城といった、著名な観光名所となっているもの、後者は歴史の現場になった場所を指す。市橋氏は、後者の例として、岡崎市にある家康一族ゆかりの大樹寺や是之字寺を挙げた。
 大樹寺は家康一族の墓がある寺で、桶狭間の合戦で家康が属する今川軍が敗れた際に家康が切腹未遂をした場所だといい、市橋氏は、家康が切腹しようした墓地は、家康の再出発を象徴し、後の天下取りのスタート地点になったと指摘した。
 是之字寺は、家康の祖父松平清康が建立した寺院で、正式な名称は龍海院。「是」の字を手で握るという吉夢を清康が見たことに由来する。
 是の字を分解すると、日・下・人の三文字となり、これは天下の第一人者を意味する、と解説した僧侶があり、これを聞いて喜んだ清康が僧侶のために寵海院を建立したという。
 市橋氏は、これらの逸話を紹介しながら、聞いた人が誰かに話したくなるような物語を発掘することが、物語資源型の歴史観光の発展につながると解説。そして、沼津の物語資源の種として、幕末の沼津城下に現れた遊撃隊を挙げた。
 また、物語資源を発掘して磨き上げるためには地元住民の意識高揚が重要であり、それを生む手段として、郷土史研究団体による学習会や学校での郷土史学習、楽しみながら学べる郷土知識検定などを挙げた。
【沼朝平成30年9月11日(火)号】

2018年9月7日金曜日

大正五年 本通り(町方)「沼津座開業祝」記念写真

大正二年の沼津大火のあと、町方町に本通りが開通。
大正五年十一月、新しい通り、本通りの北部に、「沼津座」開業。
二千人の観客を収容できる、沼津一の大劇場誕生。
座主は「西家重太郎氏」である。



2018年9月5日水曜日

狩野川台風 浜悠人(沼朝平成30年9月5日(水)号寄稿文)


狩野川台風 浜悠人
 本年七月、西日本を襲った豪雨の被害が連日報道された。思い起こせば、この地に大きな被害をもたらした狩野川台風が襲来したのは昭和三十三年九月二十七日。今年で満六十年になる。
 当時の記録によれば、昭和三十三年九月二十一日頃、グアム島東万洋上に発生した台風二十二号は、その後発達しながら西北進。中心気圧八八〇㍊(当時。現ヘクトパスカル)、中心付近の最大風速七五㍍、半径四〇〇㌔。以内は風速五〇㍍以上の暴風雨を伴う戦後最大の大型台風となった。
 伊豆半島には台風の影響により、二十五日から雨が降り始め、二十六日には豪雨となり、台風の中心が伊豆半島に最接近した午後八時から十一時頃が最も激しく、湯ヶ島では九時からの一時間雨量が一二〇ミリに達し、総雨量は七五三㍉に及んだ。
 狩野川では上流部の山地一帯で鉄砲水や土石流が集中的に発生。猛烈な洪水となり、堤防が決壊して広範囲に浸水が生じ、橋梁には大量の流木が堆積。巨大な湖を造った後、「ダム崩壊現象」を起こし、さらに大規模な洪水となって下流を襲った。
 狩野川流域では破堤十五カ所、決壊七カ所、氾濫面積三、○○○㌶、死者・行方不明者八五三人に達した。
 後に気象庁は、この二十二号台風を「狩野川台風」と命名、台風を地名で表現する第一号となった。
 狩野川台風を報じた沼津朝日新聞によれば、市民は恐怖の一夜を過ごし、狩野川上流から約七〇〇人が流され、暗夜の濁流に救いを求める悲鳴が続く悲惨な情景を目のあたりにした。
 狩野川は危険水位を二㍍超えた五・六㍍を記録し、黒瀬橋、新城橋、徳倉橋は流出し、ざらに三枚橋町、平町の国道、我入道などは水浸しとなり、床上浸水三〇四戸、床下浸水三〇五戸を出し、このため、沼津署は夜十一時過ぎ、狩野川沿岸住民に避難命令を出すとともに、全署員を非常招集し、救助、警戒に当たった。
 新聞には、台風にからんだ幾つかのエピソードも報じられているので、紹介する。
 ・濁流に流された修善寺中の三年生を二十五㌔。下流の我入道不動岩付近で漁師が決死的に救助した。
 ・大仁町の小学六年の男の子が狩野川に流され島郷海岸に漂着し助けられた。
 ・修善寺中で当夜、妻子ある先生の宿直を代わってあげた沼津出身の若い教師が校舎もろとも泥海に流され、行方不明になった。
 ・精華高(当時。現沼津中央高)の秋鹿(重彦)校長は十一時に授業を打ち切り、全校生徒を帰宅させたが、列車が不通のため、帰宅できずに駅にいた生徒二十人を職員が学校に連れ帰り、校内に宿泊させ無事だった。
 ・駿河湾での遺体捜索は三十日も引き続き行われ、同日タまで四十二体が発見された。このうち身元が確認されたのは三十六体で、残り六体は我入道の仮死体安置所に置かれた。
 一方、市立高三年生は、今日で言うボランティア活動のため、水害地の田方に出掛けた。初日は函南町の蛇ヶ橋で自衛隊と一緒になり、死体の捜索をした。蛇ヶ橋付近は流木の山で、生徒は竹の棒で、埋まったごみを突き刺し突き刺し、反応を見た。記録によれば、蛇ケ橋付近で収容した遺体は百六十体余りに上ったとある。
 翌日は韮山、原木地方に出かけ、流木や土砂の片付け作業を実施した。わずか二日間の作業だったが、今思えば貴重な体験をしたものだと痛感する。
 それから七年を経て昭和四十年七月、狩野川放水路は七百億円の巨費を投じて完成し、その後、二度と災害が起きていない。
(歌人、下一丁田)
【沼朝平成3095()号寄稿文】


2018年9月1日土曜日

180819死に方の質公開講座











死に方の質 宮治眞
 八月十五日付の本紙「言い,たいほうだい」に中学校の同級生、千野慎一郎君が「死に方の質」の市民公開講座開催の経緯を投稿。これを前提に企画者の一人として、御礼を記したく思います。まずは参加の沼津市民の方々、さらに名古屋からも何名かが来場していただき、心からの深謝です。
 当日の感想を独断と偏見で記す無礼を許されたく思います。
 多くの方々の身近な問題への関心の高さです。名古屋開催においては、「易しすぎ」から「難しすぎて面白くない」と、市民が適切な質疑応答に参画することがこれ程に難しいことかなどの評価を得ていました。今回は、その反省を踏まえ、私はともかく、秋山俊學和尚、司会者、総括コメントの人選に心を砕きました。
 とくに和尚との初対面では「私は田舎の和尚」で、とてもと断られましたが、私は、この「田舎の和尚」の一言に魅せられて決断し、同席した幼馴染の○○ちゃんには「宮治君、もっと礼を尽くし、頭を下げなさい」と叱咤されました。しっかりと頭を垂れたしだいです。
 要は死生学の研究と市民感情の乖離は、どこにあるかです。これは死に関わることだけでなく、死のみならず男と女の仲、医療の現況、政治などを始めとして娑婆の諸々の場面で見られる事象との距離を縮める意図です。
 多死社会は老人、不慮、配偶者や子、事故、殺人など果ては死刑による究極の死までをも含みます。
 最近の話題から。田舎の和尚曰く「あるがままに・そのままに」に触発されました。親に虐待死された【5歳船戸「:もう おねがいゆるしてくださいおねがいします:」】/【オウム真理教の死刑囚は(「刑場へは自分であるいていく」・控室で「実家の宗派と異なるので」と仏教の教戒を断り、用意した果物、菓子には手をつけず、お茶を2杯飲む。・「支援者や弁護士の方々に感謝します」・「自分のことについては誰も憎まず、自分のした結果だと考えている」・・「被害者の方々に、心よりおわび申し上げます」〉】などは全ての市民にも一端の實任があるように感じます。
 死刑囚の一人は私と同業の医師であり、その責任の一端は、私もまた負いたいと思います。
 他方で三日間を山中独りで過ごした2歳藤本芳樹ちゃん【「ぼくここ:」】と救出の「生」は一市井人の力です。全裸の入浴中の死は「ああいい湯だな:/腹上死は「ああ、天国だ:」遺族には羞恥、迷惑でも、本人は究極の満足死でしょう。
 私事ですが、私の救命に立ち会った後輩医師は二年後に急逝しました。爾来、私は葬儀には不参加で、お悔やみの手紙、自宅へのお参りなどを決断しました。私は後輩三人に託して、寒中お見舞いとしての賀状欠礼のお詫びも自らの手で認め終わりました。「あるがままに・そのままに」です。
 良い死に方・悪い死に方の質はあるのでしょうか。ー正解はなく千差万別だと思います。質(quality)とは個性であり、「他と異なる特色を有する」を意味します。
 市民公開講座は、所謂(いわゆる)一流の方の講演を「良かった・良かった」と拝聴するだけでは意義が薄れます。ものの見方、考え方は自在でなければならず、そこにこそ多岐に亘る市民の自由な肉声の意見交流があります。これを通して頑迷固陋(がんめいころう)な視野狭窄(しやきょうさく)から免れ、自らの死に方の質を模索し、相性のいい質を選択するものでしょう。
 私たちは困ったとき、しばしば「神様仏様」と念じます。死生観的には別の概念にも拘らず、市民の立場では、その底流は何の違和感もありません。
 実は、この手作り公開講座の裏方を担ったのは昭和三十二年、中学校卒業の同級生、幼馴染です。
 同級会「旅路会」(代表・小川数明君)は卒業以来一回も休むことなく連綿として続き、毎年一月三日、沼津のどこかで逢おうという一言の合言葉です。死を目前に控えつつある若き喜寿の老人たちです。
 この源流は卒業時の担任、岩龍こと無冠の帝王、故岩間龍治先生の感性が通奏低音にあると思います。私も岩龍の死に、不肖の弟子の元迷医として関わりました。
 この市民公開講座に岩龍の不在は痛恨極まりのない自己批判です。ただ改めて省みれば(結局それが娑婆の現実というものでしょう。満員御礼の影の役者はいまなお生き続けているのです。「言いたいほうだい」への返礼は沼津市民の方々ありがとう。
(医師、沼津市出身・名古屋市在住)

【沼朝平成3091()号寄稿文】