2018年6月24日日曜日

明治初期、沼津に外国からの馬(アラビア馬):





明治初期、沼津に外国からの馬
ナポレオン3世から幕府への贈り物
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)は先月、沼津ふるさと講座を市立図書館四階の講座室で開催。国立歴史民俗博物館教授で元市教委学芸員の樋口雄彦氏が「沼津城と沼津兵学校ーアラビア馬がいた厩(うまや)のことー」と題して話した。約六十人が聴講した。
 「顕彰に値」と樋口教授
 近代日本の馬の歴史で重要な位置
 沼津兵学校の研究で知られ、市内でもたびたび兵学校にまつわる講演をしている樋口氏が今回取り上げたのは、一八六七年に海外から日本にやってきた二十六頭の馬。
 この馬は、日本の在来種とは異なるアラブ種の馬で、江戸幕府と友好関係にあったフランスの皇帝ナポレオン三世から贈られた。当時、ヨーロッパでは蚕の病気が流行して養蚕業が大打撃を受けており、この復興支援のために幕府がフランスに蚕の卵を送ったことへの返礼品だった。
 当初は、下総国小金牧(千葉県松戸市)で飼育されたが、幕末の動乱で新政府軍との徹底抗戦を図る旧幕府軍に接収されることを恐れた勝海舟の命令により、沼津の愛鷹牧へ移されることになった。小金牧も愛鷹牧も幕府の牧場だった。
 しかし、馬がやってきた当時の沼津は幕府が崩壊して駿河に転封となった徳川家の静岡藩の管轄となっていて、財政的に苦しい静岡藩は牧場経営に冷淡だった。
 愛鷹牧に移された馬は、在来の小型馬と交配させて品種改良を進める計画となっていたが、静岡藩の冷遇のため、再び江戸に戻り、新政府に献上されることになった。ところが、新政府も受け取りを拒否したため、旧幕臣で新政府に仕えていた山岡鉄舟の提案に従い、二十六頭の一部が徳川家一族に分配された。
 残りの馬の消息については、その一部が沼津兵学校にいたと見られる。兵学校では乗馬の授業があり、馬は授業で使われた。兵学校の沿革を記した記録によると、複数の出自の馬十数頭がいたという。
 馬術の授業は水野家沼津藩時代に沼津城に付属して設けられていた馬場を使って行われ、幕府陸軍の騎兵出身者が馬の管理を行った。
 一八七二年、フランス公使は日本政府に対し、過去に品種改良のために寄贈したはずの馬が本来の目的で活用されていないと抗議を申し入れた。これを受けて政府は、陸軍省が管轄していた沼津兵学寮(兵学校の後身)にいた馬二頭を農政を担当する大蔵省農寮に移管きせている。これは沼津兵学寮が廃止される直前の出来事だったという。
 フランスからの馬と沼津との縁を話した樋口氏は、この馬は近代日本の馬の歴史において重要な位置を占めていることから、そうした馬が沼津で数年間を過ごしていた事実を重要視し、顕彰に値する出来事ではないかと指摘した。
講演後、参加者は樋口氏と共に、大手町などの沼津城や沼津兵学校ゆりの地を見学した。
【沼朝平成30331()号】


【当日配布資料】
沼津城と沼津兵学校一アラビア馬がいた厩のこと一
樋口雄彦(国立歴史民俗博物館)
2018311日 沼津史談会・沼津ふるさと講座
史斜1
(前略)慶応三年に至り幕府ハ下総に御囲牧を設け、此馬を飼育し蕃殖を謀りましたか、翌明治元年ハ先に申上けし戦争にて脱走の徒か右「アラビヤ」馬を持行くやも謀り難しトヲ勝安房か心配シ、私に取りに行けと命せられました。因て私ハ下総へ参り、其馬を率連て来ましたか、何分飼ふ場所に困りました処に、駿河の沼津で飼つて蕃殖を謀り、兼て愛鷹山の野馬を改良するか良からんとて同所へ移しました。此愛鷹山の野馬は以前徳川家で放飼したものて体格も頗る小さくなつて蝦夷馬よりも尚ほ小柄の様に覚てゐます。(中略)牧馬に金を遣ふなとは不都合たとの議論をなすものもあつて、会計方の重立のものを銃を放って強迫するに至り、厩舎にも妨害を加へました。(中略)夫れから東京に引連れて行きて政府に伺つた処、政府ではソンナものは不用なりとて受取りません。会以山岡鉄太郎氏か集議院の公議人として在京して居たのて之に相談したる処、山岡も困り果て、一層の事徳川の親戚に分配するか宜しからんとて、水戸、尾張、越前、田安等の諸家へ配付し、又一頭を小松宮に献し残り不良の馬一頭を私が貰ひました(後略)
(三浦泰之「史料紹介「函館大経氏ノ談話』一河野常吉の聞き取りから一」『北海道開拓記念館調査報告』第40号、2001)
史斜2
申渡 川上次郎右衛門 陸軍生育方肝煎被命並之通役金被下候旨綾雄殿被申候依之申渡
申渡 川上次郎右衛門 亜刺比亜野馬掛可相勤候
(白井町史編さん委員会編『白井町史史料集1』、1984年、白井町)
史斜3
明治元年1026日「阿部邦之助川村半左衛門鈴木与兵衛を訪高畠友吉二付口阿らひや馬を見」(樋ロ雄彦「静岡藩の医療と医学教育一林洞海「慶応戊辰駿行日記」の紹介を兼ねて」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第153集、2009)
史斜4
明治25月「十七日徳川家達よりアラビヤ馬(牝七才栗毛・牡当才白栗毛)各壱疋を贈ら。(番頭・用人日記、駿府様御用留)
(辻達也編『新稿一橋徳川家記』、1983年、株式会社続群書類従完成会)

史料5
    ●御厩
兵学校に附属したる厩は城外字御添地にあり調馬方教授岩波力次、竹田金次郎、並木謙可の支配にて其下に御馬方ありて馬疋を馴練飼養す御馬方は孰れも前の騎兵の兵士なり(中略)此頃厩に飼養せられ資業生の稽古に供せられたるはカズノー(仏国御雇教師カズノー氏の持馬なり依て名つく)軽井沢、鼠山、愛鷹など十四五疋なりしが後に前上様乗用なりし雄龍(或は謂ふ蟠龍)といふ逸足を下されたり
    ●落馬の稽古
馬場は厩に接して設けられたれども元水野藩時代のもの其侭にて拡張せられず長方形にて埒の内幅□間長□間斗り十四五疋の馬を一筋に乗る時は長辺は余地なき程に短し一辺に馬見所あり教官は此所に居りて指図を下す(中略)
    ●雄龍(或は謂ふ蟠龍)より落馬
(中略)雄龍は舶来雑種の良馬にて御厩中第一の駿足と称され熟練の者に非れば中々御し難きなり(後略)
(石橋絢彦「沼津兵学校沿革(五)」『同方会誌』421916年)



↓馬上の函館大経(函館悦子氏所蔵):沼津市博物館紀要42「馬と沼津兵学校:樋口雄彦」論文より


2018年6月19日火曜日

平成30年6月19日(火)駿東病院薬瓶発掘





・・・・・平成30619()午後1時 西条町 鈴与ガソリンスタンド跡地 に集合 匂坂・仁王・長谷川 旧ガソリン跡地は 明治3年に沼津病院が開院され 昭和206月解散された 私立駿東病院が存続していた 跡地です 先日 地面を掘削していたら 昔の病院医療廃棄物(65立米)が出てきた と 鈴与建設より 連絡あり 匂坂会長・仁王氏・長谷川で 本日 現地を 見学。 そこには 駿東病院で 使われていたと 思われる 駿東病院名入れ薬瓶 薬差し 注射器 試験管などが掘り出されていた。鈴与の現場責任者の話では 人骨消毒液と読める薬瓶も発掘した事でした。・・・・ 

2018年6月17日日曜日

河童 浜悠人 【(沼朝平成30年6月17日(日)号】


河童 浜悠人
 六月、梅雨に入ると、川や水と関わる季節になる。そこには勢い、日本の妖怪、伝説上の河童が登場する。
 「かっぱ」は「かわ()」と「わらは()」の「わっぱ」(童の別称)が連なり「かわわっぱ」が変化したもので、「河童(かっぱ)」または「河太郎」とも言われる。
 恰好は子どものようで、全身は緑または赤色、頭に皿があり、皿は円くて平らで毛はなく、いつも水で濡れて皿が乾いたり割れたりすると力を失くし、死ぬと言う。口は短い嘴(くちばし)で、背中に亀のような甲羅、手足には水掻きがあり、肛門が三つあるとも言われる。体臭は生臭く、姿は猿やカワウソのようだと表現されている。
 川や沼に住み、泳ぎが得意で、悪さをしては、水辺を通りかかったり川で泳いだりしている人を水に引き込み溺れさせたり、尻子玉(しりこだま)を抜いたりして殺してしまう。
 尻子玉とは人間の肛門内にある架空の臓器で、尻子玉を抜かれた人は「ふぬけ」になると言われ、溺れた人の肛門括約筋が弛緩した様子が、あたかも尻から何かを抜かれたように見えたことに由来する。
 河童の好物はキュウリで、キュウリを巻いた寿司のことを「カッパ巻き」と呼ぶ。諺(ことわざ)では「猿も木から落ちる」を「河童の川流れ」と言ったり、なんとも思わないことを「屁の河童」と言って使われる。
 川廊町に水神宮がある。沼津城の曲輪の守護神で、狩野川洪水の守り神であった。昔、狩野川の水を制御するためか、川に向かって石積みの突出物が造られ、「出し」と呼ばれていた。そこは船で運ばれてきた積み荷の揚げ降ろしに利用されていた。
 出しの根っ子あたりに小さな祠(ほこら)の水神宮があり、隣の志多町と共に祭っていた。盆の七月十五日を中心に祭りを営み、水難に遭わないよう「水神宮」という木札を出し、昭和四十年代まで出しの上に芦で祠を作り、ロウソクに火を灯し拝んでいた。そこには雌雄の河童の作り物を置き、白瓜の胴に昆布の衣を着せ、ナスの頭やヤツデの手、トウモロコシの髪などを付け多くの人の目を引いた。
 このように水神宮のお祭りとして「かっぱ祭り」が行われてきたが、いつしかなくなっていたのが、平成二十三年、地元有志によって復活。二年に一度、七月になると町内の子ども達が河童に扮した祭興が行われる。
 その昔、川廊に面した狩野川は沼津藩の水練場として使われ、昭和の初期まで若者が泳いでいた。当時、川の真ん中辺りに差し掛かると河童が足を引っぱり溺れさせると言われて怖がったものだ。
 私なりに推測すれば、こうだ。狩野川は天城湯ケ島を発し、途中、柿田川、黄瀬川と合流し、沼津の町を貫流する際には上土側から見て、黄瀬川、柿田川、狩野川と三本の筋をなして流れているようだ。
 川の水は決して、すぐには混じり合うことはない。多分、川の中ほどには富士山からの冷たい湧き水による柿田川が層をなして流れ、泳いでいる若者は川の真ん中で、この冷水にあい足が痙攣(けいれん)、心臓麻痺になったのではなかろうかと思う。
 ともあれ街の真ん中を大河、狩野川が流れているのは素晴らしいことである。
(歌人、下一丁田)
【沼朝平成30617()号寄稿文】



2018年6月8日金曜日

今上天皇の行幸(昭和天皇)の模様



今上天皇の行幸(昭和五年六月一日~四日章)

昭和五年五月二十八日より七日間
聖上陛下には、静岡縣の.民情産業教育其他設般の施設を親しく御視察あらせらる。.
沼津御用邸は二夜(ふたよ)の行在所にあてられ、沼津市第四尋常高等学校は東部縣民奉拝場として御選びにあづかり、加うるに沼津繭市場へ臨御、沼津種畜場へ侍従御差遣の光榮なる御諚を拝す。
我が沼津市民は約一月の間、此のよき日を如何に御待ち申し上げたることか。
御巡幸第五日、六月一日
陛下には早速より西遠地方の御視察を遊ばされ、午後四時半車駕は沼津驛に着御あらせる。
 初夏の日影は麗かに輝き、富岳も一般の秀麗を添へ、天地共に感喜感激に打ちふるふなかを御車は行在所に進ませらる。
 行在所には御休憩もとらせられず、直ちに東部縣民奉拝場たる、第四小学校に進御遊ばさる。富士郡以東一市四郡の特別奉拝者三千人は知事の發聲に唱和して、陛下の御前に、聖壽の萬歳を祈念し奉る。終りて同校御座所に於て、県下東部地方有資格者に拝謁を賜り、森田市長より奏上する沼津市政の檄要を聞し召し給う。
次で陳列場にならせ給ひ、県下に於ける貴重なる發明品、研究物、富士山を中心とせる動植物及富士の模型、県下小學校児童の成績品等を天覧あらせらる。
鹵簿(ろぼ)は尚三園橋より沼津繭市場へ進まる。繭市場に於いては特別の思占を以て組合長に謁を賜り、市場の沿革のあらましを御聴取あり、又専務の御説明を聞し召されつゝ、荷受、大漁取引、値段協定等の勇ましき作業、市場内の諸設備を御一覧遊ばさる。
御車は繭市場より再び沼津驛前に出で、復興せる新市街の模様を御覧遊ばされつゝ行在所に着御遊ばさる。
六月二日、巡幸第六日
 陛下には驟雨の中を天城山にお登り遊ばされ、山の峯谷間等をお威ひもなく粘菌の御採取と御研究を遊ばされ、八丁池にては森の青蛙の御調査をとげさせらる。往復共に内浦の景色を殊の他めでさせ給ひし由洩れ承る。
六月四日 巡幸最終日
 三島御巡幸の御多忙なる時間をお割き下され、県下少年團員一万五千人の代表たる岳陽少年團員一千三百余人を御親蘭あらせられ、少年武道の天覧をかたじけなふす。
 願いみるに我が沼津市は御用邸所在地として御選定にあづかり、聖上陛下の未だ皇孫殿下にあらせられし御時より今日迠行幸啓あらせらたることしばゝなり。加ふるに當市數度の災厄に際し度毎に御救恤を給ふ。
 今回當市御巡幸に際しは、大正十五年の大火後の復興著しく、産業教育等各方面の發達目覚ましきもののあるを御覧遊ばされ、いとも御模様に拝せらたるもの一心協力以て沼津市發展の為に努力し、聖恩の萬分の一にも報ひ奉らん事を期せざるべからず。










小田原城総構図等


2018年6月3日日曜日

維新前、沼津に造船工学の曙光:講師 内藤林 大阪大学名誉教授








 近代造船業に沼津の影響
 内藤林・阪大名誉教授が講演


 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)は、沼津ふるさと講座を先月、市立図書館で開催。大阪大学名誉教授の内藤林(ないとう・しげる)氏が「維新前、沼津に造船工学の曙光」と題して話した。
 内藤氏は旧富士川町出身。沼津東高、大阪大学を卒業。研究者としては船舶工学や海洋工学を専門としている。
 内藤氏は、明治中期における国内重工業の大半が造船業によって占められており、造船業が近代日本の工業の牽引役になっていたという事例を示しながら、沼津や伊豆が近代造船業に与えた影響を話した。
 その中で、韮山代官江川坦庵の塾が様々な人材を育成したこと、ロシアの外交使節プチャーチンのために行われた戸田での洋式帆船「ヘダ」号の建造などが挙げられた。特に戸田からは、上田寅吉や緒明菊三郎といった造船関係の人材が誕生した。
 また、内藤氏が会長を務めた日本船舶海洋工学会の前身である造船協会を創立した赤松則良も取り上げ、赤松と沼津兵学校の関係についても話した。

 沼津まちなか歴史MAP
 沼津史談会が江戸時代と現代の地図を合わせ沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)は、江戸時代の地図と現代の地図を重ね合わせた「沼津まちなか歴史MAP」=右下の写真=を完成させた。沼津城や沼津兵学校の施設の位置を明らかにしている。
 歴史MAPの土台となったのは、平成二十七年作成の「沼津市基本図」と万延元年(一八六〇)以後に作成されたと見られる「沼津城絵図」。城絵図は沼津藩によって作成され、現在は明治史料館に所蔵されている。
 会員の長谷川徹さんらが取り組んだ地図製作では、二つの地図を重ね合わせる際の基点となる場所の探索が最初の課題となった。当初は大手町に現存している古井戸に着目し、城絵図に記載されている井戸と照合させて基点にしようと試みたが、両者の対応関係に確証が得られなかったことから断念。
 そこで、新たに過去の発掘調査や地質調査の記録から過去と現在の地図の一致点を探ることにした。その結果、沼津城大手門の堀や外堀の位置が判明したという。
 こうして得られた複数の一致点を基点とし、二つの地図をデジタル化して重ね合わせた。完成した地図には、二重櫓(やぐら)や二之丸御殿、六つの門など、城の施設を示すマークが付けられている。また、城跡に設立された兵学校の施設の位置も図示されている。
 歴史MAPは今月十五日から市立図書館二階の郷土史コーナーで配布されるほか、市内小中学校への寄贈も予定されている。

 史談会は、今回の歴史MAPの完成を、同会が掲げる「歴史を生かしたまちづくり」の起爆剤にしたい考えで、市街地を訪れる人に沼津城の面影を伝えるモニュメント建立などの新たな動きにつながることを期待。
 さらに史談会の匂坂信吾(さぎさか・しんご)会長は、沼津城の記憶を市民に親しまれるものとするための次なる構想を抱いている。往時の沼津城のシンボル的存在であり、時には天守閣とも見なされた本丸二重櫓を本丸跡の中央公園(大手町)に再建したいという。この新たな二重櫓の内部を郷土史学習や観光ガイドの拠点とすることも構想に含まれている。
【沼朝平成3063()号】