2015年5月27日水曜日

高尾山古墳保存活用を日本考古学協会・沼津市古墳取り壊し静新・沼朝記事




消える1800年の文化遺産
最古級の高尾山古墳取り壊しへ
 建設予定地で高尾山古墳(*)が発見されたために都市計画道路沼津南一色線(**)の建設が中断している問題で、市は二十五日、古墳の保存を断念して道路建設を進める方針であることを明らかにした。同日開かれた市議会文教消防委員会(梶泰久委員長)で、市教委担当者が、道路建設に先立つ発掘調査を再開することを報告した。調査には約二年間を要し、その後、建設工事を再開するという。
 道路建設優先し保存断念
 県教委からは条件付き許可
 市教委では、道路関係部課などと共に、道路の迂回や陸橋化などによって古墳を保存したまま建設する方法を検討してきたが、現場一帯は新幹線と国道一号に挟まれた狭い土地であるため地形的にゆとりがなく、道路設計の変更による古墳保存は不可能だと判断された。
 このため、今年一月、道路建設工事を進める前提での古墳発掘調査を実施したいと市から県教委に申請したところ、三月になって、条件付きでの許可が下りたという。
 新たな発掘調査は年内にも開始され、古墳墳丘部を掘削して解体しながら進められる。
 県教委による許可には、古墳遺構をなるべく保存するよう検討すること、古墳の価値について市民に周知することなどの条件が付いていることから、道路東側歩道の建設区画については古墳の破壊を行わずに埋め立て、その上に歩道を整備する。このため、歩道は一部が隆起する形状になる。
 また、墳丘部の西側には道路建設予定地と重ならない部分があり、この部分については地権者との協議によっては保存される可能性もあるという。
 一方、古墳の価値の周知については、跡地に看板を立てたり、古墳解体後にレプリカなどを別の地に建設したりする案もあるが、実施は未定。
(*)高尾山古墳
二〇〇九年に都市計画道路沼津南一色線の工事に伴う調査により、東熊堂の高尾山穂見神社境内で発見された。当初は辻畑古墳と呼ばれていたが、一一年六月に現在の名に改称された。四角形と台形を南北につなげた形の前方後方墳で、南北の全長は約六二㍍。
 築造年代については、出土品から西暦二三〇年説と二五〇年説の二説が研究者によって提唱されていたが、二〇一四年の発掘調査により、二三〇年頃に築造が完了し、二五〇年頃に埋葬が行われたとの結論が出された。
 二三〇年説に立った場合、最古の古墳とされる箸墓古墳(奈良県桜井市)よりも古いことになるが、埋葬の時期を築造年代と見なすことから、高尾山古墳も二五〇年の古墳とされることになった。現在、市教委は高尾山古墳を「東日本最古級の古墳」としている。
 この古墳に葬られたのは、当時の日本列島に点在していた小国のうち、古代駿河にあった国の「最初の王」だと考えられている。二五〇年以前に死去していることから、中国の歴史書の一部である「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)と同時代に生きた人物ということになり、当時の政治情勢を踏まえると、高尾山古墳の主と卑弥呼は、互いにその存在を知っていた間柄だった可能性があると考えられている。
 (**)沼津南一色線 
 国道二四六号と国道一号江原交差点を接続する道路。現在は高尾山古墳北側付近まで完成している。
 周辺地元には歓迎と懐疑複雑に 
 渋滞解消の期待と文化財への行政対応に懸念
 都市計画道路沼津南一色線は岡宮北土地区画整理事業の一環であることから、地元の岡宮自治会や門池地区連合自治会では、道路早期開通の要望書を多年度にわたり栗原裕康市長に提出していた。
 こうした場で市長は「古墳が完全な形で残っているのなら保存について一考すべきだろうが、現状を見ると、かなりの部分が損なわれている」と繰り返し答えていたほか、二〇一三年には「古墳を避けるように道路を曲げて開通させるのは技術的に極めて難しい」「古墳の今後については全国から様々な声が寄せられるだろうが、そうした声が地元の事情について将来の責任を取ってくれるのか考える必要がある」などと話していて、市長は今回の方針について早い時期から決断していたと見られる。
 今回の方針決定について門池地区連合自治会長の佐野親邦さんは「門池地区は慢性的な渋滞があり、交通事故も多い。沼津南一色線が開通すれば渋滞が緩和され、通学路の交通安全に寄与する一のではないか」と歓迎する。
 その上で、「沼津には多くの古墳があるが、史跡として活用できていない。高尾山古墳を保存して史跡として活用するとしても、駐車場などの必要な施設整備は現状では難しいだろう。むしろ詳細な映像や画像の記録を残し、それらを誰でも見られるようにした方が、古墳の価値を多くの人に伝えられるのではないか」と話す。
 一方、古墳所在地の東熊堂がある金岡地区では、道路用地提供のために家屋移転した人などもいて、道路の早期開通を望む声もあったが、高尾山古墳を地域の宝と見なして大切にしていこうという動きもあった。
 自治会などが中心になった地域起こし団体「金岡有識者会議」の活動では、住民が自慢できる郷土づくりを通して市内の沈滞ムードの払拭と活性化につなげよう、との考え方から、地域の魅力再発見事業として「金岡の宝五〇選」を選定し高尾山古墳も宝の一つとして認定。これに関連して市教委から学芸員を招いた講演会や金岡中と連携した古墳勉強会などを開き、地域住民が古墳に親しむ取り組みを進めてきた。
 有識者会議活動を主導してきた金岡地区連合自治会前会長の杉山治孝さんは、保存断念を惜しむ。
 「高尾山古墳が現地から姿を消すのであれば、市民にとって憩いの場ともなる記念公園を造って古墳を移築し、出土品を展示する施設も併設するなど、古墳の存在を後世に伝えるための努力も必要だろう。そもそも沼津には名所旧跡が少ない。沼津城や三枚橋城も復元不可能だ。日本最古クラスの高尾山古墳こそ、沼津の宝とも言える存在なのに」と話し、「ぬまづの宝推進課」を設置する一方で文化財を尊重しない市の対応に懸念を示した。

 「国民の遺産」残せないか
 考古学協会からは保存望む声
 研究者や文化財保護関係者らの全国組織である日本考古学協会は二十五日、高倉洋彰会長名で高尾山古墳の保存を求める内容の声明を発表した。同協会は、高尾山古墳を学術的価値が非常に高い「国民共有の文化遺産」と位置付け、過去にも保存を求める要望書を県や市に送付している。
 今回の声明文は同日中に沼津市と市教委にも届いた。声明は回答を求めるものではなく、声明を無視することによる制裁措置のようなものも存在しないが、市教委では声明に対して市の方針に反しない範囲での対応を検討しているという。
 市議会での報告と同協会の声明発表が同じ日になったことについて市教委では、「市の方針は既に決まっていたが、市議選などの影響で議会への報告が遅れていた。声明と重なったのはまったくの偶然」だとしている。
 一方、市議会と声明が重なった影響からか、普段は傍聴者もまばらな委員会室には多くの報道関係者が詰め掛け、テレビカメラ三台が委員会の質疑を撮影していた。
(沼朝平成27年5月27日号)





 高尾山古墳取り壊しへ
 沼津市 道路計画変更できず
 沼津市教育委員会は25日の市議会文教消防委員会で、市の都市計画道路「沼津南一色線」の建設予定地にあり、保存するか撤去して道路を建設するかの検討が進められていた高尾山古墳(同市東熊堂)について、道路建設を前提に古墳の大部分を取り壊す発掘調査を行う方針を明らかにした。古墳については同日、日本考古学協会が保存と活用を求める会長声明を発表している。
 市は古墳を保存するため、道路の迂回(うかい)案や陸橋案なども検討したという。栗原裕康市長は静岡新聞社の取材に対し「道路構造上不可能だった。周囲の道路の混雑を考えると、できるだけ古墳に配慮する形で道路建設を進める」と話した。
 市教委文化振興課によると、古墳の墳丘全体を調査の過程で削り取るという。担当者は文教消防委員会で「やむを得なく古墳の大半は失われる。市民に古墳があったことやその価値を伝えたい」と話し、古墳のレプリカなどの制作を検討する考えも示した。
 調査は古墳の墳丘を築くために土が積み上げられていく過程や方法などを調べるのが目的で、市教委の職員が手作業で実施する。調査期間は2年。年度内の調査着手を目指す。
 計画では都市計画道路の幅は25㍍ほど。本線予定地にある墳丘部分などは調査とともになくなるが、墳丘の周りにある周溝の一部は埋めた上で道路の歩道部分にする予定。
 地元「渋滞解消に期待」
 専門家「重要な価値ある」
 高尾山古墳を取り壊す沼津市の方針について、約20年前から毎年、市や県などに道路建設の要望書を提出している同市の岡宮自治会前会長の林祝充さん(75)は「学園通りと国道1号交差点の渋滞解消につながる」と早期完成に期待を寄せる。地元金岡地区の有識者会議「宝探し部会」元部会長で、3年前から中学生らの学習会を開く柿迫芳信さん(71)は「できれば古墳は残してほしいが、建設する場合は力のある王がいたことを地元の若い世代が知る方策を講じてほしい」と述べた。
 日本考古学協会の高倉洋彰会長は25日、都内で開いた高尾山古墳の保存を求める会長声明発表の会見で「古墳時代最初頭の重要遺跡」と強調し、「沼津市のみならず、日本の歴史において重要な価値がある」と訴えた。

(静新平成27年5月26日朝刊)



 高尾山古墳保存活用を日本考古学協会
 道路計画見直し要望 沼津

 日本考古学協会(高倉洋彰会長)は25日、沼津市の都市計画道路「沼津南一色線」の予定地にある同市東熊堂の前方後方墳「高尾山古墳」の保存と活用を求める会長声明を発表した。
 声明は同古墳を「日本列島の初期国家形成過程の、古墳文化形成を解明する上で重要」と説明し、道路計画事業の見直しと適切な保存、活用を要望した。
 同協会が25日に都内で開いた会見で、同協会の篠原和大理事(静岡大人文社会科学部教授)は「古墳時代の中でも古い段階のもの。この時期としては、日本列島屈指の規模」と解説した。
 同古墳は、道路の本格工事を前に沼津市教委が2008~09年に発掘調査し、230年ごろに作られた高杯(たかつき)などが見つかった。14年の追加調査では230年ごろに墳丘が完成し、250年ごろに当時の有力者が埋葬されたとみられることが分かった。古墳は本来は台形を二つ組み合わせた形で、東西の最大幅約34・2㍍、南北約62㍍と推計される。
 沼津市は同都市計画道路を建設中だが、古墳の部分については工事を中断している。
(静新平成27年5月25日夕刊)

↓この画像は7年前の発掘調査時の新聞画像










↓この画像は発掘地市民説明会時の画像








平成21年9月13日辻畑古墳発掘現場写真集

2015年5月26日火曜日

沼津街中歴史ウオーク講演動画・沼朝記事

三枚橋城に去来した武将ら
 沼津史談会第2回公開講座から・・・上
 沼津史談会による「沼津ふるさとづくり塾」の第2回市民公開講座が十六日に開かれ、市歴史民俗資料館の鈴木裕篤館長が「三枚橋城・沼津城・沼津兵学校跡地VS現在の駅南地区の街並」と題して話したほか、「沼津街中歴史ウォーク」として現地見学が行われた。講演会には約百人、見学会には約六十人が参加した。
 淀君滞在の可能性も
 最後の城主断絶で廃城に
 三枚橋城鈴木館長は三枚橋城について、歴代城主四人の事績を中心に解説した。
 三枚橋城は戦国大名の武田氏によって天正七年(一五七九)に現在の大手町一帯に築城された。当時、黄瀬川と狩野川より西の地が武田領、東の地は関東の戦国大名北条氏の領土とされていた。両者の関係は平穏であったが、天正六年に上杉謙信の跡継ぎを巡って武田氏と北条氏が対立すると、武田氏は防衛のために国境線付近の狩野川の岸辺に三枚橋城を築いた。
 武田氏滅亡後は徳川氏のものとなり、徳川氏が関東に移ると、豊臣秀吉配下の大名である中村氏のものとなった。関ヶ原の合戦で徳川氏が天下人となると、徳川家臣から大名となった大久保氏の居城となった。
 春日信達 武田時代の三枚橋城を治めたのは春日信達(かすが・のぶたつ)という武将で、武田信玄の優れた家臣として知られる高坂弾正(こうさか・だんじょう)の息子。
 信達は、三枚橋城では城の管理と守備隊の指揮を担当するだけだったので、厳密には城主ではなく、城将と呼ばれる立場だった。
 謙信の死後、武田氏と北条氏が争うようになると、三枚橋城周辺では北条側の徳倉城将である笠原新六郎が城ごと武田側に寝返るなど、武田側優勢の局面が続いた。
 しかし、天正十年(一五八二)に織田信長が武田氏への総攻撃を開始すると、それに合わせて北条氏も反撃を開始。押し寄せる北条軍を前にして信達は城を捨てて甲府へ脱出し、武田本隊に合流しようとしたが、その行動を疑われて合流を拒否され、やむなく故郷の海津城へ戻った。
 武田氏滅亡後は、海津城を領有した織田家臣の森長可(もり・ながよし=森蘭丸の兄)に仕えたものの、直後に信長が本能寺の変で急死したため、信濃国は大混乱となり、信達は信濃国を奪い合う北条氏と上杉氏の争いに巻き込まれ、上杉氏によって処刑された。
 松井忠次信達が脱出した三枚橋城は、北条軍によって占領された後、徳川氏に引き渡された。家康は、この城を四男松平忠吉(まつだいら・ただよし)に与えたが、忠吉は幼児だったため、名目上の城主に過ぎず、実務は後見人の松井忠次が取り仕切った。忠次は富士郡と駿東郡の「郡代」という役職に任命されていたという。
 信長の死後、徳川と北条が戦うことになると、忠次は忠吉の代わりに軍勢を率いて戦った。
 忠次の一族は家康の一族ではないが、後に家康ゆかりの「松平」姓を与えられて松平氏となり、子孫は大名となった。明治維新の際には武蔵国(埼玉県)の川越藩主だった。
 中村一栄 天下統一を進める豊臣秀吉は、抵抗する北条氏を討つため大軍を関東に派遣。東海道を進む豊臣軍は沼津に集結し、天正十八年(一五九〇)三月二十七日には、秀吉本人が三枚橋城に入り、北条軍の前線基地である山中城(三島市)攻撃を監督している。
 北条本拠地の小田原城を包囲した秀吉は、包囲が長期化すると妻の淀君を小田原に呼び寄せ、淀君も東海道を移動中に三枚橋城に立ち寄っているという。
 北条氏が降伏すると、秀吉は関東の北条領土を家康に与え、代わりに家康の東海地方の領土を取り上げた。東海地方の土地は秀吉の家臣達に与えられ、駿河国は山中城の戦いで活躍した中村一氏(なかむら・かずうじ)が支配することとなり、忠吉は、武蔵国の忍(おし)城に移った。
 駿河十四万石の大名となった一氏は駿府を拠点とし、三枚橋城には弟の一栄(かずひで)を派遣した。
 慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦で中村氏は東軍に味方したが、当主の一氏は病気で死の床にありき一栄が当主代理として参戦した。一栄は、関ヶ原前哨戦である杭瀬川の戦いで、石田三成の家臣で名将として知られる島左近(しま・さこん)と戦って大敗したことで歴史に名を残した。
 関ヶ原では最終的に東軍が勝利し、中村氏も勝者となった。死去した一氏の子の一学は伯耆国(鳥取県)の米子に移り、十七万五千石の大名となった。
 関ヶ原の合戦では松平忠吉も歴史に名を残している。忠吉は東軍による攻撃の一番手となり、両軍激突のきっかけを作ったことで知られる。その活躍が評価されて尾張国(愛知県)の清州五十七万石の大大名となったが、関ヶ原での傷がもとで、二十八歳で跡継ぎなしのまま死去している。
 大久保忠佐中村氏が駿河を去った後に三枚橋城主となったのは家康家臣の大久保忠佐(おおくぼ・ただすけ)で、沼津藩二万石の藩主となった。忠佐は兄の忠世(ただよ)や弟の忠教(ただのり)と共に勇敢な武将として知られ、織田徳川連合軍と武田軍が戦った天正三年(一五七五)の長篠の合戦では、忠佐は忠世と大活躍をした。
 髭を伸ばして目立つ風貌だった忠佐の戦いぶりは、信長も目撃して記憶していて、信長は後々も忠佐を「長篠の髭」と呼んで親しんだ。
 忠佐が沼津藩主となった頃、忠世はすでに死去していて、息子の忠隣(ただちか)が跡を継いでいた。忠隣は小田原藩主となっていて、箱根を挟んで叔父(忠佐)と甥(忠隣)の領地が隣り合う形となった。
 しかし、この一族には悲劇が続いた。忠佐は息子の忠兼(ただかね)が早世し、弟の忠教を跡継ぎにしようとしたが、断られた。
 忠教は軍談書『三河物語』の著者であり、彦左衛門という別名で広く知られている。
 慶長十八年(一六一三)に忠佐が亡くなると、跡を継ぐ者がいない沼津藩は廃止となった。
 一方の忠隣は二代将軍徳川秀忠の側近として活躍したが、慶長十九年、幕府内の権力争いに破れて失脚し、小田原藩も取りつぶしとなった。この時、三枚橋城の破壊命令も幕府から出されていて、大久保一族への迫害政策の一環だと見られている。
 後に忠隣の子孫は復権を果たして小田原藩主となり、この小田原藩は明治維新まで続いている。
 忠佐の死後、沼津の地は紀州藩領や幕府直轄領、徳川忠長(三代将軍家光の弟)領を経て、再び幕府直轄領となった。
 この間、破壊された三枚橋城の跡は、代官の住まいなどとして利用されたが、最終的には農地への転換が進められた。(以下、二十六日発行「の次号へ)
(沼朝平成27年5月24日号)

 沼津史談会第2回公開講座から・・・下
 沼津史談会の市民公開講座「三枚橋城沼津城・沼津兵学校跡地VS現在の駅南地区の街並」で大手町の三枚橋城の沿革について話した市歴史民俗資料館の鈴木裕篤館長は、続いて沼津城や沼津兵学校などについて話した。
 東海道に面した場所に本丸
 街道から丸見えの特異な形式
 水野氏と沼津城三枚橋城が廃城になってから百五十年以上が経過した安永六年(一七七七)、十代将軍徳川家治の側近である水野忠友が沼津藩主となり、翌年、沼津城の築城が始まった。
 水野氏は徳川家康の母親の実家で、江戸時代には名門として扱われ、一族からは複数の藩主家が生まれた。
 忠友の祖父の忠直は信州松本藩七万石の大名だったが、孫の忠恒(忠友のいとこ)が享保十年(一七二五)に江戸城松の廊下で長府藩主毛利師就に刀で切りつけるという事件を起こし、松本藩は取りつぶしとなった。ただ、忠恒の叔父の忠穀(忠友の父)は旗本として家名存続が許された。
 こうして旗本の家に生まれた忠友は、幕政を主導していた老中田沼意次に接近して幕府内で出世し、領地も増えて大名となった。
 水野藩の沼津城は、三枚橋城と同じ土地に築かれたが、その面積は半分程。通常の城では、最重要部である本丸が城の中心部に位置して厳重に防備されているが、沼津城は城の南東を通る東海道に面した場所に本丸があり、街道から本丸が丸見えになる特異な形式の城だった。本丸には三層櫓が建っていたが、幕末を迎える以前に失われている。
 歴代沼津藩主は江戸で暮らすことが多く、沼津城に滞在することは少なかった。
 明治になり、江戸徳川 家が駿河静岡に移り、それに合わせて沼津藩が上総国(千葉県)菊間に移ると、沼津城は静岡藩のものとなり、沼津兵学校が置かれた。
 廃藩置県後、兵学校も廃止となり、跡地は民間に払い下げられ、堀などは埋め立てられた。建物は移築れて建材となったが、はっきりと現存しりはなく、瓦が残っている。城の遺構調査は大手門や本丸周辺などに限られている。
 沼津兵学校と公園計画 
 兵学校は沼津城二の丸御殿を校舎として使用した。また、沼津には旧幕臣が多く暮らし、こうした人達は沼津城三の丸土塁の上にあった稲荷社に徳川家康を祭る東照宮を合祀。これが現在の城岡神社となった。
 東海道線沼津駅開業後の明治二十六年(一八九三)、沼津兵学校記念碑建立と記念公園建設の計画が持ち上がった。千五百坪の土地を購入し、観光施設として東京の上野忍ヶ丘公園を模した公園を建設する計画だったが、寄付金が集まらずに記念碑建立のみで終わった。この碑は後に破損したため、二代目が建てられ、城岡神社に現存している。
 昭和十五年(一九四〇)には兵学校創立七十周年記念の碑が沼津城二の丸跡近くの旧沼津郵便局本局前に建立され、これも現在は城岡神社に残っている。
 駿東病院 明治二年、現在の西条町に徳川家の陸軍医局が開設され、同年中に沼津病院と改称された。
 廃藩置県後は、私立病院となったが、経営困難に陥ったため、駿東郡長となった江原素六の計らいで公立病院となり、駿東病院と改称した。その後、再び私立病院となり、昭和二十年六月に閉院。建物は七月の沼津大空襲で焼失した。
 鈴木館長による講演後、紹介した場所の現在地を巡る見学会となり、沼津城ゆかりの中果公園や城岡神社、上土町の三枚橋城石垣跡、大久保忠佐ゆかりの碑が建つ一小の道喜塚などを見学した。

(沼朝平成27年5月26日号)


150516鈴木祐篤三枚橋城・沼津城蹤地 from 河谷杯歩 on Vimeo.







当日画像資料


150516歴史散歩スライド from 河谷杯歩 on Vimeo.