2011年12月14日水曜日

芹沢光治良生誕一一五周年記念講演会

気さくでスイス好んだ芹沢光治良
 作品研究者の鈴木吉維さんが講演
 パリ留学時代を解説
 聴講者が知る逸話紹介も
 市教委は、芹沢光治良生誕一一五周年記念講演会を、このほど市立図書館で開催。芹沢作品研究者で神奈川県立川崎北高校総括教諭の鈴木吉維さんが「芹沢光治良の欧州体験」と題して話した。
 講演に先立ち、沼津芹沢文学愛好会の和田安弘代表があいさつ。「半年間に二回も芹沢文学に関する講演会が開かれ、そこに多くの方が足を運んでいただいている。芹沢文学への市民の関心が高まりつつある証しだと思う。市役所の市長応接室には芹沢作品が揃って置かれている。市長が率先して芹沢文学への関心を広めようとしており、とても心強く感じている」と話した。
 また、芹沢四女の岡玲子さん(東京都在住)が「生前の父が、リンドバーグが大西洋無着陸飛行をしてパリに到着した時のパリ市民の歓喜について私に聞かせてくれたことがありました。リンドバーグの飛行は大昔の出来事だと思っていましたが、芹沢光治良記念館に展示されていた父のパリ時代の手紙を目にした時、当時の父と今とが瞬間的につながったような気がしました。私達姉妹にとっての大切な宝が沼津にある。沼津市民の皆さんに深い感謝と御礼を申し上げます」と語った。
 講演に移ると、鈴木さんは自分が芹沢文学に向き合うようになったきっかけから話し出した。大学二年生の時、ライフワークとなる研究課題を檀一雄と芹沢のどちらにしようか悩んでいたところ、恩師から「ノーベル文学賞は川端か芹沢か、と言われていたこともある。ぜひ芹沢にしなさい」と勧められたのだという。
 そこで鈴木さんは芹沢を選び、研究会に出席することにした。すると、芹沢本人が研究会にやってきた。他の出席者からまばらな拍手があり、続いて芹沢が自作品の主人公などについて気さくに語り出したため、それを見た鈴木さんは「本当にこれが芹沢光治良なのか」と衝撃を受けたという。当時、現役の作家が読者の集まりに気軽に顔を出すのは珍しいことだった。
 それ以来、鈴木さんも研究会に足繁く通うようになる。
 「私は悪い読者」と自らを評する鈴木さん。研究会で芹沢に会うたびに、「なぜこの登場人物を、この場面で死ぬようにしたのか」などと、わざと意地悪な質問を浴びせ続けた。当時、芹沢は八十歳を過ぎていたが、二十歳そこそこの若者の失礼な質問に対し、すべてまじめに答えてくれた。
 鈴木さんは芹沢宅も訪れたが、芹沢はいつもネクタイを締めて身なりを整え、来訪者を待っていたという。
 さらに鈴木さんは、自分と芹沢とのエピソードを紹介した後、芹沢の欧州留学と後の作品の影響について話した。
 大正十四年、官僚だった芹沢は、鉄道会社を経営する裕福な妻の実家の援助も受けて、フランスへと向かう。当時のフランと日本円の為替レートは、円高の状態で、渡仏する日本人が多かった。
 当時、九百人の在仏日本人の八割強がパリにいた。そのため、パリには日本人社会のようなものも形成され、日本人向けの店で味噌やたくあんを買うことができた。そのパリで芹沢は、画家の佐伯祐三や、ファーブル昆虫記の翻訳で知られる椎名其二らと出会う。佐伯との出会いは小説『明日を逐うて』に影響している。
また、妻が病気になった際は、留学中の日本人医学博士の診療を受けている。この博士の詳細については不明だが、鈴木さんは、小説『巴里に死す』の主人公が医学者であることとの関連を指摘する。
 一方で、芹沢は素行に問題のある日本人達も目にしており、それらの人達を「日本人ゴロ」と呼んでいた。
 そして、鈴木さんは、芹沢が長女宛てに書いた手紙の中にある「私は唯物論者になった」という記述に着目。信仰心の篤い家に生まれた芹沢がそのように変わった原因を芹沢の欧州経験の中から探った。
 芹沢の欧州行きは船旅だったが、船がシンガポールに寄港した際、乗客がコインを海に投げ、それを現地人の子どもが潜って拾いにいくという姿を芹沢は見ている。また、結核に冒されスイスで療養した際には、医学の進歩が一握りの富裕層にしか恩恵をもたらさなかったという感慨を抱いている。
 当時、日本国内ではマルクス全集の刊行が始まっており、こうした世相と欧州で見聞きしたことが、芹沢に「唯物論者」と名乗らせたのではないかと、鈴木さんは分析する。
 鈴木さんは欧州体験が芹沢に与えた影響について論じた後、改めて芹沢との交流を回想し、「芹沢は『文豪』と呼ばれることもあるが、とても気さくな人。芹沢先生との出会いは、今の自分を支える宝になっている。私は物事について考えるとき、『芹沢先生なら、どう思うか』と考えることがある」と語って講演を終えた。
 引き続き、質疑応答の時間となり、多くの質問があった。
 川崎市から訪れた男性は、芹沢が自作品の中で、自分の分身である登場人物が官僚に出世した後も故郷で村八分の扱いを受けたように書いていることを挙げ、それは事実を反映しているのか、と質問。
 鈴木さんは「官僚になったことは、地元にとって名誉なことだったが、その地位を捨てて作家になってしまったことに対し、批判的な目を向ける人もいたと思われる」と話し、当時は作家の地位が低かったことを説明した。
 この質問に関しては、市内の男性が発言を求め、芹沢の第二作『我入道』の存在を指摘。この作品の中における当時の我入道地区の描き方が、地元民の反発を招いた、とした。
 また、芹沢の自伝的小説『人間の運命』に自分の祖母と思われる人物が登場しているという女性が発言し、『人間の運命』の中では、祖母は売り飛ばされたことになっているが、現実では祖母は売られていない、というエピソードを紹介するとともに、「祖母は芹沢さんのことを『みっちゃん、みっちゃん』と呼んでいました」と話した(注・
本名では光治良を「みつじろう」と読む)。
 こうした我入道関係者らの指摘について鈴木さんは「フィクションは、あくまでもフィクション。でも、私は自伝的小説の中の主人公は芹沢本人だと思っても良いと思っている。その方が、感情移入できるし、これも一つの読み方だと思っている」とした。
 また、芹沢と面識があるという男性は、芹沢から欧州留学時代の話を直接聞いたことがある、と話し、「先生はスイスのことばかり話していた。スイスの国情について多く触れ、イタリア系やドイツ系、フランス系の住民が一緒に暮らしていることを評価し、『世界中がスイスのようになれば、なんと愉快な世界になるだろうか』と話していた」と回想した。
 これに対して鈴木さんは「小説『ブルジョア』の舞台はスイス。芹沢にとってスイスは理想だった。芹沢はイタリアも訪れたが、当時のイタリアはファシスト国家。芹沢は『ファシストは幼稚』という感想を持っている。そういうイタリアを見てきた芹沢にとって、スイスでの体験は鮮烈だったのだろう」と語った。
 郷土ゆかりの作家だけに、参加者からも貴重な証言が次々に出る中で講演会は終了した。
(沼朝平成23年12月14日号)