「沼津病院 駿東病院跡」記念碑
千野慎一郎
「沼津兵学校創立150周年記念式典」が行われる二十日(日)が近づきました。
この紙面においても先日、お知らせの投稿がありましたが、当日の式典後に「沼津病院駿東病院跡」の記念碑が除幕披露されます。
そこで、沼津兵学校創立150周年記念事業(略称・フレッシュ150)の柱の一つでもある記念碑建立の経緯を紹介したいと思います。
平成二十八年六月に実行委員会が設立され記念碑担当チームにより調査研究が行われました。
昭和十七年に沼津兵学校附属「沼津病院遺蹟」の記念碑計画があり、旧幕臣の子孫で郷土史家の大野虎雄氏が沼津病院の顕彰を目指し、当時の駿東病院前に建立の予定でした。
碑文の揮毫は、沼津病院頭取杉田玄端の六男杉田六蔵氏に依頼しましたが、戦争の激化などの影響により記念碑は建つことはありませんでした。近年、大野家から六蔵の墨書が発見されて計画の存在が明らかになりました。
当初は、沼津病院記念碑の建立が記念事業の趣旨でしたので、戦前の記念碑計画の復活を検討していました。そして、明治史料館に保管されていた墨書を写させていただき、幅六〇㌢、高さ一八〇㌢の御影石製の第一案を作成しました。
次に、設置場所が問題となり、いくつかの候補地が上がりました。病院跡地上を東西に走る県道(旧国道一号)沿いの歩道や東側に接する市道沿いの歩道、さらに近くの西条公園や第一小学校内の道喜塚周辺も検討され現地調査も行いました。
まず、歩道設置は大きさ的に第一案では難しく、西条公園は住宅地内で奥まり過ぎていること、一小案は学校管理地で出入りに課題があるなど場所選びは難航しました。
そんな中で、少し離れるが直線で見通すことができる大手町の中央公園内はどうかという提案がありました。環境的には申し分なく早速、沼津市に相談に伺いました。すると、公園は東海財務局の所有地で財務局の許可が必要だと分かり、市の文化振興課を通して打診していただいていましたが、設置条件も厳しく回答を得られない状態が続きました。
そうこうしているうちに事業が二年目に入り、各事業が具体的になると予算の見直しも必要となり、記念碑の予算も減額する方向で大幅に計画を変更することになりました。
まず、かつての計画案にとらわれることなく、新たに碑の材料や歩道上でも設置可能な高さが低く横長のデザインを検討しました。その結果、コンクリートのベンチに御影石を組み込んだイメージの第二案が出来上がりました。
そのような折、徳川宗家十八代当主徳川恒孝様とのご縁をいただき、趣旨に賛同して記念碑の碑文の題字を揮毫していただける話が急展開で進みました。
また、碑の名称についても、沼津病院は沼津兵学校附属の陸軍医局に始まり、その後、駿東病院と名を変え、経営母体は変わりながらも昭和二十年まで七十六年間存続し、医学教育や地域医療に大きく貢献したことに鑑み、沼津兵学校ゆかりの「沼津病院駿東病院跡」と決めたのでした。
設置場所は駿東病院の敷地内に当たる県道(旧国一)の歩道が適所と考え、道路管理者の県の沼津土木事務所に相談しました。
原則的には無理ということでしたが、趣旨を理解していただき、交通障害にならないという条件で、現場での立ち会い指導により既存植栽桝の中で許可をいただくことができました。
碑の製作は歩道上の作業を少なくするために、コンクリート製の基壇を作業所で三つに分けて製作し、現場で組み立て、縦五〇㌢、横一六〇㌢、重さ一〇〇㌔のインド産黒御影石の銘板を取り付けます。題字脇には駿東病院の写真と説明文をステンレス板にフィルム貼りし、両袖のコンクリート側面にも、東面には当初計画の杉田六蔵揮毫の縮小版を、西面には病院の沿革をステンレスプレートにフィルム貼りしてあります。
二十日の除幕式当日は市民文化センター小ホールでの式典後、西粂町の会場で徳川様や沼津病院関係者子孫の代表、沼津市長ほかにより除幕式が行われます。その場で、碑は実行委員会から市に寄贈され、市に維持管理をお願いすることになります。また、碑の足元の植栽桝には、先にご案内の沼津市花の会と市民有志により花を植えていただけることにもなっています。
市民の皆様には近くにおいでの折にご覧いただければ幸いです。
最後に、記念碑建立に理解と協力をいただいた皆様に衷心より感謝、御礼申し上げます。
(フレッシニ150副委員長・記念碑担当、宮本)
【沼朝平成31年1月13日(日)寄稿文】
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