2016年1月28日木曜日

香貫用水の歴史たどる

香貫用水の歴史たどる
 郷土史講座「沼津あれこれ塾」
 NPO法人海風47は二十三日、郷土史講座「沼津あれこれ塾」の第9回を商工会議所会議室で開催。市明治史料館の大庭晃さんが香貫用水の歴史について話した。
 元の内膳堀は江戸初期に
 用水の建設には様々な工夫
 植田内膳 香貫用水は、狩野川の水を香貫地区一帯に流すための水路で、江戸時代初期に造られて昭和後期まで農業用水として使用された。現在は水路の一部が排水路などとして残っている。
 香貫用水の建設年代については、詳細は不明となっている。度重なる水害や戦時中の空襲などによって史料が失われたからだという。
 残された史料によると、江戸時代中期の一七七七年(安永六)の記録には、香貫用水の元となった「内膳堀」という水路の記述がある。そして、内膳堀建設の中心人物だとされる植田内膳は、一六三六年(寛永十三)に死去したとの記録があることから、これより前に水路が建設されたと推測されている。
 内膳堀が建設される以前の香貫地区では、雨水を溜めて農業用の水を確保していた。そのため、香貫山の周辺には、いくつもの溜め池が造られていたという。
 香貫用水の構造用水の取水口は、黄瀬川と狩野川の合流点付近に造られた。川の水を取水口に取り入れやすくするために、川の流れの一部を止めて水流を導く堰(せき)が川の中に石を積んで造られた。
 最初の取水口は土砂が堆積しやすかったため、一〇〇㍍程離れた下流部に移転。この頃まで取水口は一つだったが、その後、二つとなり、上香貫村と下香貫村で二本の水路を使い分けた。
 用水の建設には様々な工夫が盛り込まれた。
 土砂が取水口に入りにくくするために、堰は直線ではなく曲線状に造られた「袋堰」という構造。水路の底には、水漏れを防ぐために灰を混ぜた粘土が敷かれていた。灰を用いる方法は植田内膳によって採用されたといい、「旅の僧に教わった」「たき火跡を見てひらめいた」などの伝説が残っている。
 用水の効果とその後用水の整備により、江戸時代の香貫地区は「香貫二千石」と俗称される米の収穫量を誇り、明治以降はキュウリやナスなどの野菜の産地としても知られるようになった。
 ただ、用水の水面は田畑の地表面よりも低かったため、足踏み式の水車を使って水を汲み上げる必要があったという。
 昭和二十二年に取水用のポンプが設置され、その翌年に堰や取水口の使用は停止された。同四十年代に狩野川の堤防建設工事が始まると、堰や取水口は撤去され、現在は黒瀬橋の近くにポンプ用の取水塔を見ることができる。
 香貫地区の宅地化が進一むにつれ、用水路も次々に埋められたり、地下化されて暗渠となったりした。本郷町の霊山寺付近は堀端の景観が残されていて、植田内膳の墓も近く、香貫用水流域を代表するような地区であり、景観保全を求める声もあったが、同六十年代の工事により用水路の地下化が行われた。
【沼朝平成28年1月28日(木)号】

2016年1月25日月曜日

牧水に捧ぐ杯の輪

牧水に捧ぐ杯の輪
 ◇終焉の地、静岡・沼津で顕彰の宴文化発信の舞台に◇ 林茂樹
 旅を愛し自然を愛した歌人の若山牧水(1885~1928年)は、またこよなく酒を愛した。遺品として残る盃(さかずさ)は意外なほど小さいが、これこせが本当の酒好きの証し。ちびりちびりとやり、一日の量が1升を超えるのはザラ。朝起きると2合ほどの清酒で喉を潤し、自宅近くの松林の中へ散策に出るのが日課であった。
 千本松原に歌碑第1号
 宮崎県旧東郷町(現日向市)の山間に生まれた牧水の終焉(しゅうえん)の地は、静岡県沼津。東京での煩瑣(はんさ)な暮らしを避け、1920年(大正9年)に1、2年の静養のつもりで転居する。駿河湾に臨み富士の山を眼前に仰ぐ風光は、牧水をたいそう喜ばせ、いつの間にか5年の月日。ついには永住の気持ちに変わり、景勝地「千本松原」に隣接する土地を購入して、編集室付きの自宅を構えるのである。
 その千本松原に立つ歌碑は、全国に300余あるといわれる牧水歌碑の第1号。刻まれている歌は名高い、
 幾山河こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく
この歌碑は、牧水の門弟・鈴木秋灯いわく、牧水が座る姿そっくりの石の歌碑。牧水が亡くなった翌年、秋灯ら弟子たちによって建てられた。爾来(じらい)、沼津での顕彰の動きは途切れていない。
 牧水を顕彰する会「沼津牧水会」の設立は54年(昭和29年)。設立以来続く催しがふ毎年秋に行われる歌碑の前での「沼津牧水祭・碑前祭」である。碑前祭では牧水の歌の合唱や舞踊などのほか、酒を愛した牧水にふさわしく歌碑に清酒を注ぐ。ちなみに、牧水の旅の足跡は全国に及び、各地に歌碑が建ち顕彰会も存在するが、歌碑への献酒は碑前の定番である。
 74年の碑前祭から加わった「芝酒盛」(さかもり)は、その名の通り、芝の上での酒盛りである。沼津牧水会が二斗樽などの清酒を用意し、沼津名物のあじ鮨や干物を無料で振る舞う。毎年500人ほど集まる参加者は、碑前の芝に敷かれたゴザの上で車座に。沼津の文化や将来のこと、はたまた政治の悪口をつまみに酒を飲む。出し物としては詩吟あり合唱あり太鼓あり。無礼講の酒盛りを牧水に献ずるのである。
 菩提寺の縁で活動40年
同じく毎年開催するのが「短歌大会」。第一線の歌人による講演と一般に広く募集した短歌の選が行われる。終わったら酒席となるが、歌人との酒はとにかく楽しい。佐佐木幸綱さんや伊藤一彦さんは酒豪。馬場あき子さんも本当に楽しくお酒を飲まれる方で、「林さんと飲むと楽しい」なんてお世辞も飛び出す。天上の牧水はさぞ喜んでいることだろう。
 とはいえ、私自身は歌人ではないし、牧水の歌について語る術は持たない。それでも牧水を敬愛し、40年にわたって顕彰活動を続けるのは、私が牧水の菩提寺、乗運寺の住職であることに関わりがある。
 牧水が沼津の地で何よりほれ込んだのが、曲がりくねらず「矗々(ちくちく)と」そびえる千本松原の景観であった。皇室の御料林だった松原は26年(大正15年)、静岡県の所有となったとたん、財政難から一部を伐採する計画が持ち上がる。そこで敢然と立ち上がったのが、牧水。当時の新聞「時事新報」及び「沼津日日新聞」に伐採反対の檄文を投稿し、演説会で弁舌を振るう。この時、反対運動を共に展開したのが私の祖父、当時の乗運寺住職・林彦明である。
 自然保護のさきがけとも言えるこの運動は盛り上がり、計画は中止に。古く潮風から人や農作物穿守った松原は沼津の宝。宝を守ってくれた恩人の顕彰は、住職である私の務めだと考えている。
 酒盛りから記念館構想
 87年、千本松原の地に開館した沼津市若山牧水記念館は、遺墨や遺品など数千点を収蔵。牧水にゆかりのある短歌や俳句、書道の講座のほか、音楽コンサートを開くなど文化の拠点となっている。この記念館の設立も、実は芝酒盛がきっかけ。車座での、遺墨などを収める施設があればいいねという話から始まり、市への建設誓願運動へと展開。仲間たちと寄付金集めに走り、沼津ゆかりの作家、芹沢光治良や井上靖に競売用の色紙を書いてもらう、ということもした。支援の手は、数限りなかった。
 牧水は人間が大好きだった。そして人間のよい面を見いだそうとした。牧水にほれ込み顕彰に関わる人たちを見て、そう思うようになった。いなくなっても人を結び、楽しい酒を促す。そんな歌人はめったにいないだろう。(はやし・しげき= 沼津牧水会理事長)
【日経平成28年1月14日(水)「文化」】

2016年1月22日金曜日

牧水に捧ぐ杯の輪

牧水に捧ぐ杯の輪
◇終焉の地、静岡・沼津で顕彰の宴文化発信の舞台に◇ 林茂樹
旅を愛し自然を愛した歌人の若山牧水(1885~1928年)は、またこよなく酒を愛した。遺品として残る盃(さかずさ)は意外なほど小さいが、これこせが本当の酒好きの証し。ちびりちびりとやり、一日の量が1升を超えるのはザラ。朝起きると2合ほどの清酒で喉を潤し、自宅近くの松林の中へ散策に出るのが日課であった。
千本松原に歌碑第1号
宮崎県旧東郷町(現日向市)の山間に生まれた牧水の終焉(しゅうえん)の地は、静岡県沼津。東京での煩瑣(はんさ)な暮らしを避け、1920年(大正9年)に1、2年の静養のつもりで転居する。駿河湾に臨み富士の山を眼前に仰ぐ風光は、牧水をたいそう喜ばせ、いつの間にか5年の月日。ついには永住の気持ちに変わり、景勝地「千本松原」に隣接する土地を購入して、編集室付きの自宅を構えるのである。
その千本松原に立つ歌碑は、全国に300余あるといわれる牧水歌碑の第1号。刻まれている歌は名高い、
幾山河こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく
この歌碑は、牧水の門弟・鈴木秋灯いわく、牧水が座る姿そっくりの石の歌碑。牧水が亡くなった翌年、秋灯ら弟子たちによって建てられた。爾来(じらい)、沼津での顕彰の動きは途切れていない。
牧水を顕彰する会「沼津牧水会」の設立は54年(昭和29年)。設立以来続く催しがふ毎年秋に行われる歌碑の前での「沼津牧水祭・碑前祭」である。碑前祭では牧水の歌の合唱や舞踊などのほか、酒を愛した牧水にふさわしく歌碑に清酒を注ぐ。ちなみに、牧水の旅の足跡は全国に及び、各地に歌碑が建ち顕彰会も存在するが、歌碑への献酒は碑前の定番である。
74年の碑前祭から加わった「芝酒盛」(さかもり)は、その名の通り、芝の上での酒盛りである。沼津牧水会が二斗樽などの清酒を用意し、沼津名物のあじ鮨や干物を無料で振る舞う。毎年500人ほど集まる参加者は、碑前の芝に敷かれたゴザの上で車座に。沼津の文化や将来のこと、はたまた政治の悪口をつまみに酒を飲む。出し物としては詩吟あり合唱あり太鼓あり。無礼講の酒盛りを牧水に献ずるのである。
菩提寺の縁で活動40年
同じく毎年開催するのが「短歌大会」。第一線の歌人による講演と一般に広く募集した短歌の選が行われる。終わったら酒席となるが、歌人との酒はとにかく楽しい。佐佐木幸綱さんや伊藤一彦さんは酒豪。馬場あき子さんも本当に楽しくお酒を飲まれる方で、「林さんと飲むと楽しい」なんてお世辞も飛び出す。天上の牧水はさぞ喜んでいることだろう。
とはいえ、私自身は歌人ではないし、牧水の歌について語る術は持たない。それでも牧水を敬愛し、40年にわたって顕彰活動を続けるのは、私が牧水の菩提寺、乗運寺の住職であることに関わりがある。
牧水が沼津の地で何よりほれ込んだのが、曲がりくねらず「矗々(ちくちく)と」そびえる千本松原の景観であった。皇室の御料林だった松原は26年(大正15年)、静岡県の所有となったとたん、財政難から一部を伐採する計画が持ち上がる。そこで敢然と立ち上がったのが、牧水。当時の新聞「時事新報」及び「沼津日日新聞」に伐採反対の檄文を投稿し、演説会で弁舌を振るう。この時、反対運動を共に展開したのが私の祖父、当時の乗運寺住職・林彦明である。
自然保護のさきがけとも言えるこの運動は盛り上がり、計画は中止に。古く潮風から人や農作物穿守った松原は沼津の宝。宝を守ってくれた恩人の顕彰は、住職である私の務めだと考えている。
酒盛りから記念館構想
87年、千本松原の地に開館した沼津市若山牧水記念館は、遺墨や遺品など数千点を収蔵。牧水にゆかりのある短歌や俳句、書道の講座のほか、音楽コンサートを開くなど文化の拠点となっている。この記念館の設立も、実は芝酒盛がきっかけ。車座での、遺墨などを収める施設があればいいねという話から始まり、市への建設誓願運動へと展開。仲間たちと寄付金集めに走り、沼津ゆかりの作家、芹沢光治良や井上靖に競売用の色紙を書いてもらう、ということもした。支援の手は、数限りなかった。
牧水は人間が大好きだった。そして人間のよい面を見いだそうとした。牧水にほれ込み顕彰に関わる人たちを見て、そう思うようになった。いなくなっても人を結び、楽しい酒を促す。そんな歌人はめったにいないだろう。(はやし・しげき= 沼津牧水会理事長)
【日経平成28年1月14日(水)「文化」】

2016年1月21日木曜日

著名人来訪記録を復刻

著名人来訪記録を復刻
保存会 皇族や大名1000人超
国の登録記念物「帯笑園」(沼津市原)の魅力を発信する帯笑園保存会(鈴木邦親会長)はこのほど、江戸時代から明治時代にかけて同園を訪れた著名人の記録をまとめた「帯笑園撮録(さつろく)」を復刻した。
地元の大地主、植松家の植物園だった「帯笑園」は、代々の当主が多種多様な園芸植物を収集し江戸時代には「東海道随一の名園」とたたえられた。
撮録は、9代目当主季服が芳名帳から1798~1901年に来園した著名人の名を抜き出した420㌻の書物。大名や旗本、公家ら千人以上の名がある。同期間以後に訪れた皇族の名も記録され、皇太子時代の大正天皇が10回以上訪れたことも分かる。
保存会は月1回開催している同園の見学会の資料に使おうと、昨年4月に復刻を開始した。元高校教諭の牧島光春さん(71)=沼津市=を中心に作業を進め、年末に完成させた。植松家に残る別の資料も参照し、来園した人物の略歴、園を訪れた際の天候や開花していた植物など、詳細な注釈を付けた。
保存会は、復刻本を沼津市、同市立図書館、県立中央図書館(静岡市駿河区)などに寄贈した。大沢敏夫副会長(67)は「多くの要人が帯笑園に魅了されていたことを知ってほしい」と話す。
保存会は2月6日午後2時から、同市原地区センターで「帯笑園撮録を読む会」を開く。参加費は撮録を簡易装丁したテキスト(B5判200㌻)付きで2500円で、事前申し込みが必要。問い合わせは大沢さん〈電090(6761)3267〉へ。
【静新平成28年1月21日(木)朝刊】

2016年1月17日日曜日

2016年1月17日第10回沼津ふるさと塾

家康の隠居と泉頭







2015・11・3第1回清水町・泉頭歴史文化フォーラム

「徳川家康の隠居と『泉頭』」 大嶌聖子
〈講師略歴〉
1968年生まれ。国学院大学大学院文学研究科を経て、現在、東京大学史料編纂所研究支援推進員。専門は戦国時代~江戸時代。最新の論文は「『家忠日記』の存在しない一日」(『無為&無為』26号、2014年)、家康の研究に「徳川家康の隠居一最晩年の政権移譲構想一」(『日本歴史』702号、2006年)ほかがある。
最新の書籍(共著)日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線ここまでわかった「天下人」の実像』(洋泉社2015年)がある。

はじめに(家康の隠居を考える前提として)

1 当時の隠居とは?
2 大御所としての家康
3 本光国師日記について

Ⅰ 隠居場所の選定~家康、泉頭を選ぶ~

Ⅱ 場所の変更~急遽、場所の変更~

Ⅲ 変更の理由~なぜ変更になったか~

主要登場人物
1徳川家康 一五四二~一六一六 75歳
2以心崇伝 一五六九~一六三三 47歳元南禅寺僧侶、側近
3板倉勝重 一五四五~一六二四 70歳京都所司代
4藤堂高虎 一五五六~一六三〇 59歳築城の名手、津藩初代藩主
5本多正純 一五六五~一六三七 50歳家康の側近の第一人者
6竹腰正信 一五九一~一六四五 24歳側近、母はお亀の方(家康側室)



史料(現代語訳)「本光国師日記」*すべて以心崇伝から板倉勝重へ宛てた書状
[書状1]元和元年十二月十七日
来年は伊豆三嶋へ御隠居をされるとのことですので、方角などのことを御尋がありましたから、詳しく申し上げました。来年、東は格別によい方角であるとおりに申し上げました。これについても御機嫌よくおいででした。場所泉頭ということです。三嶋のきわにあたるということです。
[書状1の原文]十二月十七日付
来年者、伊豆三嶋へ可被成御隠居旨ニ候間、方角以下御尋候故、具ニ申上候、来年東ハ一段と能方ニ而御座候通申上、是又御機嫌能御座候、所をは、いつミかしらと申由候、三嶋のきわにて御座候由候、
[書伏2]十二月十九日
一昨日の書状にも書きましたように、間違いなく伊豆泉頭が隠居所に定まるということです。
[書状3]十二月二十二日
伊豆三嶋泉頭は、間違いなく御隠居所に決まりました。来春早々から御普請を仰せつけられるということです。御普請は、日用で仰せ付けるという家康の指示です。(家康の)御子様たち、尾州衆などは、内々に御普請の用意をしていると、こちらではうわさになっています。
[書状4]元和二年正月二日
伊豆御隠居所の御普請は、日用で仰せつけられるということです。
[書状5]正月四日
一、(中略)来月初頃に、伊豆御隠居所の御屋敷の縄張りに出向かれるということです。(中略)
一、伊豆の御普請は間違いなく日用に仰せ付られるということで、日用に大将などが当地へ出向こうという詮索の最中です。藤堂高虎は、相応の御普請を行いたいということを色々と訴えているということです。いずれにしても、石垣などは、日用では出来上がらないということです。諸大名衆も、石場などを内々に下見されているということです。
[書状6]正月六日
昨日五日に、近所へ御鷹野に出かけられました。御機嫌よく戻られ、私を奥へ呼ばれ、本多正純と出仕しました。泉頭の縄張りなどの日取りのことについて御尋があり、すぐに考えを申し上げました。正月十九日に御鍬、初で、十七日に出発し、泉頭へ御成をするお考えでした。いまだ駿府では、右のことは誰も存じていません。心得としてお伝えしました。
[書状7]正月八日
一、上様は十五日か十七日に当地を出発され、豆州泉頭へ御成をされ、十九日に縄張と鍬初を指示されたということです。
[書状8]正月十三日
伊豆泉頭御普請のことは、以前の書状に度々様子を書きました。ところが、昨日の御定では、泉頭は場所もよくないので、選ばないという仰せがあり、中止になりました。竹腰正信の屋敷を今日十三日が吉日であるので、清水が出るか試掘させるように、仰せ付けられました。おおよそ駿府に後々までもおられる様子に聞こえてきました。
[書状9]正月十四日
十三日の手紙でお伝えしましたように、泉頭の御普請は中止になりました。当地の竹腰正信の屋敷にお移りになられることが決まり、はやくも昨十三日に屋敷の絵図が出来上がって中井正次が召し出されて、家屋の設計図など仰せつけられました。
[書状10」正月二十一日
一昨日十九日に竹腰正信の屋敷へ御成をされ、縄張をされました崇伝自身も出向きました。
【本光国師日記ほんこうこくしにっき〈国史大辞典より抜粋〉】
京都南禅寺金地院の僧以心崇伝(円照本光国師)の日記。慶長十五年(一六一〇)三月から寛永十年(一六三三)正月まで。四十七巻四十七冊。原本は金地院所蔵(重要文化財)。まま近侍の僧が代筆した部分もあるが、大部分は自筆と思われる。日常身辺のことも記されているものの、この記録の基調的性格は、原題が『案紙』であることからもわかるように、武家・寺社などからの書状と、崇伝がこれらに出した書状の留め書である。第一冊は慶長十五年三月七日付で徳川家康の側近の第一人者本多正純に充てて「昨夕罷り下り候」と駿府下着を報告する書状で始まっており、このことは五山僧としての学識を買われて家康の側近となるにあたって、崇伝自身がその役割を充分に意識して、この記録をつけ始めたことを示すものと評価されよう。事実、家康の死後しばらくまでは、寺社行政に関することだけでなく、大坂冬の陣直前の関東・大坂間の交渉の顛末、『公家諸法度』『武家諸法度』の起草など政治的重要事件についても、欠くことのできない情報をこの記録は提供している。全文翻刻は『(新訂)本光国師日記』(続群書類従完成会)がある。
【参考文献】
大嶌聖子「徳川家康の隠居ー最晩年の政権移譲構想ー」『日本歴史』第702号、二〇〇六年
大嶌聖子「近世初頭大名細川家の情報収集ー徳川家康隠居への対応ー」『地方史研究』第327号、二〇〇七年



家康時代の「泉頭」に思い
清水町で歴史フォーラム
清水町と町教委はこのほど、「第1回清水町・泉頭(いずみがしら)歴史文化フォーラム」を町地域交流センターで開いた。徳川家康公顕彰400年記念事業。約200人が集まり、「泉頭」(清水町)で晩年を過ごそうと考えていた家康の時代の歴史に思いをはせた。
東京大史料編さん所研究支援推進員の大嶌聖子さんが「徳川家康の隠居と泉頭」をテーマに基調講演した。泉頭は現在の柿田川公園周辺を指す地名。家康が隠居の地に選んだものの、駿府にとどまったまま亡くなった理由などを解説した。
大嶌さんは家康の側近が残した資料を紹介しながら、「家康は1615年に泉頭への隠居を決めた」などと説明し、家康が隠居しなかった理由については「財政的な問題や家臣らの反応が悪かったことなどが考えられる」と述べた。
「歴史を未来に活(い)かす」をテーマに、大嶌さんら有識者によるパネル討論も行われた。
【静新平成27年11月11日(水)朝刊】

家康が隠居所に考えた泉頭城
未完に終わり幻のプロジエクトに
 今から、ちょうど四百年前の元和二年(一六一六)一月、時の天下人であった徳川家康が最後の大プロジェクトに取り組もうとしていた。現在の柿田川公園(清水町伏見)一帯にあった泉頭(いずみがしら)城を修築し、隠居所として余生を過ごそうというものだったが、未完に終わった。この幻のプロジェクトに関する講演会が昨年、清水町主催により同町地域交流センターで開かれた。
 余生の地として特別に選定
 沼津市、清水町で周辺の魅力創出
 講演を行ったのは、東京大学史料編纂所の大嶌聖子氏。大嶌氏は、江戸幕府初期の政治体制などを専門に研究している。今回の講演は、家康側近だった以心崇伝(*)が残した「本光国師日記」の記述を中心に進められた。
 天下人と隠居大嶌氏は最初に、当時の隠居の概念について解説。
 戦国の世を制して天下統一に突き進んだ織田信長や豊臣秀吉は、死ぬまで権力者の座にあったが、晩年は形式的には隠居状態にあった。信長は嫡男の信忠を織田家の当主とし、秀吉は甥の秀次に「関白」の職を譲った。
 当時の隠居とは、完全リタイヤではなく、政治的な役割を後継者と共に分担することを意味していた。
 徳川家康も征夷大将軍に就任して幕府を開いた後に将軍職を子の秀忠に譲り、江戸城を出て駿府城(静岡市)に移っている。しかし、家康は秀忠には政治権力の一部しか譲らず、朝廷や豊臣家との交渉など重要事項に関する権限は依然として握っていた。
 ただ、家康は信長や秀吉と違い、生前中の完全リタイヤを決めていた。大坂夏の陣が終わり豊臣家が滅亡した元和元年(一六一五)、政権運営の障害がなくなった家康はリタイヤ生活の開始に踏み切り、その住みかとして選んだのが泉頭城だった。
 泉頭城 戦国時代の後期、甲斐国の武田氏が駿河国を領有。その東には関東の大大名である北条氏の勢力圏が広がり、黄瀬川が双方の境界線となった。そして、北条側にとっての国境防衛拠点の一つが泉頭城だった。
 北条氏が滅亡すると、泉頭城は廃城となっていたが、家康は城跡を修築して再利用することとし方角の吉凶を崇伝に占わせている。
 「本光国師日記」によると、元和元年十二月十七日に崇伝が方角に関する諮問に答え、二十二日に泉頭城への移転が正式決定された。
 年が明けて一月六日には建設工事の日程が決まり、十九日に鍬入れ式を行うとされた。
 しかし、十三日になると事態は一変する。泉頭城への移転計画は中止され、家康は、それまで暮らしていた駿府城内にある家臣の屋敷を改装して隠居所とすることを最終
決定した。
 二つの「なぜ?」 家康が泉頭城を選んだ理由と、計画が最終的に中止された理由は何だったのか。
 大嶌氏によると、選定理由の一つとしては柿田川湧水の存在があるという。最終的に隠居所として決定された駿府城内の屋敷では、清浄な水を求めて井戸の試掘が行われていて、家康が水にこだわっていた様子がうかがえる。
 そして、計画が中止された理由については、従来は、その数カ月後に家康が死去したことが理由とされていたが、大嶌氏によると側近達の猛反対が最大の理由だという。
 家康は泉頭城の改修工事を、自己負担で労働者を集めて行わせようとしていた。江戸城造営などの大規模工事は全国の諸大名に命じて費用や労働力を提供させていたので、それまでの方針と大きく異なる。
 家康が自己負担で工事を進めようとしたのは、泉頭城はプライベート空間だったので、大名達に負担をかけることを避けようとしたからだと見られている。
 しかし、この方針には「待った」がかかった。当時随一の築城専門家であった藤堂高虎という大名は、石垣の建設など高度な技術が必要な工事は、にわかに集めた労働者には難しいと指摘。それに呼応してか、大名達の間には、工事協刀の準備を進める動きも出始めた。
 そして、駿府城で暮らしていた家康に仕える側近グループからも、移転計画そのものに対して異論が出るようになった。
 こうした状況を踏まえ、家康は最終的に泉頭城への移転計画を断念。駿府城内の新隠居所建設計画が始動した数日後、家康は鷹狩りに出かけた際の食事で食中毒になって体調を崩し、その数力月後に死去した。
 新隠居所が完成したかについては、記録がないという。
 終わりに幻の泉頭城移転計画について解説し終えた大嶌氏は「泉頭は、家康が余生を過ごすために特別に選んだ土地。この事実は地域の人々にとって大きな誇りになるのではないか。まちを自慢できることが、まちおこしにつながる」と述べ、歴史を学んで地域活性化につなげることへの期待を示した。
 講演を最後まで聴講した清水町の山本博保町長は「住民が生活しやすいまち、美しい環境のまちを目指し、この動きを県東部に広げたい」と話した。
 沼津市の取り組み 家康が泉頭城を最後の安息の地として選んだ史実は、沼津市も活用の意向を示している。昨年策定された「沼津市まち・ひと・しごと創生総合戦略」では、「海と水辺を活かすぬまづの宝の顕在化」事業の一環として、家康ブランドによる柿田川周辺の魅力創出を清水町と連携して進めることになっている。
 (*)以心崇伝(いしん・すうでん)=金地院(こんちいん)崇伝の名でも知られる。臨溶宗の僧侶で、家康の顧問を務めて政治上の補佐を行った。大坂夏の陣のきっかけの一つとなった「国家安康」の釣り鐘事件の黒幕とされる。
【沼朝平成28年1月17日(日)号】

古桜と暁斎 浜悠人

古桜と暁斎 浜悠人

 古桜こと佐々木古桜は、京都生まれの大和絵画家で、武者絵を得意としていた。戦時中、沼津市干本緑町に住み、昭和二十(一九四五)年七月十六日夜から十七日早朝にかけての沼津大空襲に遭遇し、その体験を絵にした『沼津空襲画日記』には、画家でなければ描くことのできない詳細な描写と、さらに、それに脱明文が付されている。
 八月十日の項では『焼け跡の絵』に「鳴呼、緑町の焼け跡見るもの総てが思い出の種になる。なつかしい我が家の姿も消えて残るのはただ焼野原になった姿である。香貫山、鷲頭山が近く見える。~毎日の如く敵機が上空を飛んで時には爆弾や機銃掃射をして行く。~」と記されている。
 また絵日記から、三嶋大社に必勝祈願の奉納画を沼津大空襲の三日前に納めていることを知った。私は、さっそく三嶋大社の宝物館を訪ねた。二階入り口から突き当たった所に古桜の、源頼朝が家来から夜討ちの進言を聞いている絵が飾られていた。
 絵の事実は、治承四(一一八〇)年十月十八日、平家軍は平維盛以下四千余騎が富士川の西岸に陣を敷いていた。翌朝、夜討ちを待たずして浮島が原の数万羽の水鳥が一度に飛び立ち、その羽音に驚いた平家軍は戦わずして敗走してしまったというもの。ところで今にして思えば、古桜の絵日記と説明文は戦時中の沼津を知る貴重なデータであることを改めて知った。
 暁斎(きょうさい)こと河鍋暁斎は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、日本画家で、多くの戯画や風刺画を残している。自ら「画鬼」と称し、海外でも高く評価されている。
 明治元(一.八六八)年、徳川家が駿府に封ぜられるや、母と甥の芳太郎が江戸から沼津に移り住むようになり、暁斎も沼津と縁か結ばれるようになった。暁斎の息、宇田雨柳は沼津に住み、雨柳の次女が古桜夫人なので佐々木古桜夫妻にとって暁斎は祖父にあたる。
 昨年六月から九月にかけ、東京駅近くの三菱一局館で「画鬼暁斎展」が開催されていた。副題として「幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」と書かれていた。展示品は暁斎の国内外の名品約百三十点に及ぶもので、他に弟子コンドルの作品も併せ展示されていた。
 ちなみに英国人建築家ジョサイア・コンドルは政府に招かれ、明治十(一八七七)年に来日、同十四(八一)年に暁斎の弟子となり絵を学び、暁英と号し、なかなかの腕前であった。
 本職の建築家として我が国に洋風建築を設計指導し、日本の近代建築史に大きな足跡を残した。旧東京帝室博物館、鹿鳴館、ニコライ堂などが彼の作品である。
 暁斎については、最晩年、ドイツ人医師エルヴィン・ベルツが「日本最大の画家」と評したほどの人気絵師となっていた。
 最後に、古桜と暁斎が奇しくも祖父、孫なる姻戚関係で結ばれ、沼津にかかわりがあるのに、いささか驚いた次第である。
(歌人、下一丁田)
【沼朝平成28年1月17日(日)寄稿文】

2016年1月13日水曜日

沼津史談会 第9回沼津ふるさと塾

第9回沼津ふるさと塾 平成27年12月20日(日)
平成27年度 第9回 『沼津ふるさとづくり塾』


平成28年度以降の新しい講座方式を試行する最初の講座として、初めて複数講師による連続講座を行いました。

沼津自由大学 矢田保久氏(講師都合により、匂坂史談会副会長代行)



















切手でたどる歴史の世界 齊藤正巳氏


















戦国マンガの世界 松村由紀氏



















沼津に測候所があった頃 渡邉美和氏



















会場 沼津市立図書館4階第1・2講座室
主催 沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会) 後援 沼津市・同教育委員会

当日配布資料集


当日講師団写真集

各界の著名人招き沼津自由大学
 「戦後の再建に文化運動」と連続講座
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)による第9回沼津ふるさとづくり塾が先月、市立図書館講座室で開かれ、四人の会員による講演が行われた。
 沼津測候所の歴史なども
 史談会会員4人が講演
 沼津自由大学 昭和二十年代前半、各界著名人を講師に迎えた社会問題の学習会「沼津自由大学」が市内で開かれた。会を企画したのは、旧制沼津中学(現沼津東高)の昭和八年卒業者の同窓会である「昭八会」。そのメンバーだった矢田保久さん(100)に代わり、史談会副会長の匂坂信吾さんが、あらましを話した。
 敗戦翌年の昭和二十一年(一九四六)、昭八会の総会が旧海軍工廠跡地の沼津中学臨時校舎で開かれた。多くの会員が戦没した中で、生き残った会員達の間から祖国と郷土の再建を誓う声が上がり、文化運動こそが再建の根本となるとの考えから、有識者を講師とする連続講座が企画された。
 その第1回は同年七月七日から十四日に開かれた。市役所の会議室や第四国民学校(四小)が会場となり、十人の講師が登壇した。
 市内各所に張り出された開催告知のポスターには「文化が大都市偏在のままでは農民解放のなかった明治革命の不徹底さと同様、いつまでも日本の民主化は望まれないでせう」「中央も地方もともども国の隅々から挙(こぞ)って民主化の戦線に加はらねばなりません」などの文言が並んだ。軍国主義から民主主義へと変貌を遂げる当時の社会情勢が色濃く反映されている。
 講師陣には、沼津出身で当時のベストセラー作家だった芹沢光治良や、官僚出身の政治家で東海大学創設者でもある松前重義などが名を連ねた。講演テーマは、当時の世界情勢や国内経済、歴史観の問題などが扱われ、芹沢光治良は「民主主義と文化」と題して話している。
 第2回は同年十一月、第3回は二十二年六月、第4回は二十三年五月、第5回は二十四年十月に開かれた。
 これらの回では、理化学研究所所長で戦時中は日本軍による核兵器開発を担った仁科芳雄や、吉田茂内閣で国務大臣を務めた金森徳次郎、プロレタリア作家の宮本百合子、自伝的小説『放浪記』で知られる林芙美子、マルクス経済学看の大内兵衛、歴史学者で評論家の羽仁五郎、後に東京都知事となった美濃部亮吉など、様々な著名人が講師として登場した。
 番外編的に開催された農業問題講演会には、御殿場出身の元官僚で後に日本社会党委員長となった勝間田清一が講師の一人として出席し、農地開放政策について論じている。
 これだけ多くの有識者を招いて講座を開くことができた背景としては、昭八会のメンバーに朝日新聞東京本社の記者がいたことや、沼中教員で美術研究者でもあった前田千寸(まえだ・ゆきちか)の存在があるという。
 前田は昭八会メンバーの恩師であっただけでなく、芹沢光治良や井上靖にとっても恩師であった。

 沼津測候所 NPO東亜天文学会理事でもある渡邉美和さんは、昭和十四年(一九三九)まで市内にあった測候所について話した。
 測候所は、複数の県を管轄する管区気象台の下部機関。かつては国内各地にあったが、現在は、その大半が自動的に天候観測を行う無人施設の「地域特別気象観測所」に置き換わっている。
 明治十六年(一八八三)、内務省によって全国二十二カ所に測候所が設置された。沼津測候所もその一つで、現在の大手町付近にあった。
 二十年(一八八七).に国立から県立へと移管し、三十五年(一九〇二)に現在の末広町(当時・山神道)に移転した。周辺に人家が密集して気象観測に支障があるため、人家の少ない場所を選んで移転したという。
 昭和の初め、航空機向けに箱根周辺の気象観測をするため、中央気象台三島支台が三島に設置された。昭和十三年(一九三八)から翌年にかけて測候所の整理統合が行われ、沼津測候所は十四年十月に廃止され、三島支台が三島測候所となり業務を引き継いだ。その三島測候所も、平成十五年(二〇〇三)に地域特別気象観測所に移行している。
 明治期に沼津に測候所が置かれた理由として、渡邉さんは沼津兵学校の存在を挙げた。兵学校では理系教育が行われていたので、理系知識を持った人材を現地採用しやすかったのではないかと推測する。
 沼津測候所長を長らく務めた金田綾太郎は兵学校附属小学校の卒業生で、観測技手として沼津測候所に採用され、後に所長になった。金田は昭和十四年の沼津測候所廃止の直前に死去していて、それも沼津測候所の廃止につながった理由の一つではないか、と渡邉さんは見ている。

 切手と歴史漫画 切手収輿家の齊藤正巳さんは、「切手が伝える歴史の世界」と題して切手の図柄から読み解ける世界情勢について講演した。
 その中で、第二次大戦中に各国が宣伝工作のために敵国の切手を偽造したことや、切手の図柄から各国の原子力政策が見えてくることなどについて話した。

 松村由紀さんは、江戸時代初期の沼津藩主で三枚橋城主の大久保忠佐の生涯を描いた漫画家の「すずき孔さん」の活動を紹介した。
 すずきさんは愛知県出身で、徳川家康に仕えた三河武士をテーマにした作品を手掛けているほか、最新作として今年の大河ドラマの主人公である真田氏を扱った作品『マンガで読む真田三代』を執筆している。

 次回ふるさとづくり塾は17日に開催
 講師3人が研究成果や行事紹介
 「沼津ふるさとづくり塾」の第10回講座は、十七日午後一時半から四時ごろまで市立図書館四階の講座室で開かれる。
 史談会会員でNPO法人東亜天文学会理事でもある渡邉美和さんが「沼津の関係者が作った島田のパラボラアンテナ」と題し、戦時中に海軍が島田市で開発を進めた新兵器と沼津海軍工廠との関わりについて解脱。
 つじ写真館の峯知美さんは、あげつち商店街で取り組まれている「きつねの嫁入り行列」について話す。
 史談会会員の長谷川徹さんは「沼津の商店街ー昭和戦後史」と題して、市内商店街の歴史を映像を交えながら話す。
 定員百人(先着順)。
 受講料は資料代として五百円。
 申し込みは、匂坂(さぎさか)副会長(電話〇九〇の七六八六の八六一二)。または、同会事務局(電話・FAX九二一の一四一二)。
【沼朝平成28年1月13日(水)号】