2018年7月28日土曜日

沼津兵器のこと(沼津市明治史料館通信第128号)


ぬまづ近代史点描76沼津兵器のこと
 『沼津市史 通史編近代』(二〇〇七年)において、沼津兵器は「芝浦工作機械は、昭和一七年(一九四二)七月に沼津工場隣接地において子会社として沼津工業株式会社を設立し機関砲などの兵器製造を行なった。(中略)同社は「沼津兵器」と呼ばれることが多いが、創立挨拶状を見る限り「沼津工業株式会社」が正式名称である」と記されている。また同社は、昭和二〇年六月に陸軍に買収され名古屋陸軍造兵廠駿河製造所となったと記されている。
 ここで紹介する資料は、当館が最近古書店から購入したもので、「沼津兵器」の事業計画書、創立総会議事録、敷地図、工場計画図、写真などが一括になっていたものである。これまで知られていなかった資料である。まず、事業計画書はタイプ打ちされた罫紙一三枚と「芝浦工作機械株式会社」と印字された封筒がホチキスで綴じられている。表紙に「沼津兵器株式会社事業計画書」とあり、「兵器」が赤鉛筆で「工業」と訂正されている。また、本資料中「三、会社ノ名称及所在地」の項の会社の名称も同様に「沼津兵器株式会社」とタイプ打ちされた「兵器」が「工業」に赤鉛筆で修正されている。当初は「沼津兵器株式会社」という呼称であったが設立直前に「沼津工業」となったと考えてよいだろう。
 内容目次は一、設立趣意、二、資本金額、三、会社ノ名称並ニ本社及工場所在地から十一、所要資材数量まで項目立てされ、添付書類として敷地附近図、工場配置図が記されている。ここで紹介する敷地(予定)要図、工場配置図を指しているであろう。
 内容を順に見ていく。一、設立趣意は「大東亜戦争勃発以来皇軍ノロ々タル戦果ニ依リ既ニ南方ハロ定セラレ今ヤ印度洋ヲ制圧スルニ至レリロ従而大東亜共栄圏確立ノ為ニハ愈々軍備殊ニ空軍ノ整備拡充ノ必要ハ言ヲ俟ザル所ニシテ是ニ伴フ航空機搭載用機関砲ノ大量生産ニ付陸軍御当局ノ御從慂ニ従ヒ左記計画要領ニヨリ重要機械製造事業法並ニ兵器等製造事業特別助成法ノ摘用ヲ受ケ御要望ニ応ゼンガ為兵器製造株式会社ヲ設立セントスルモノナリ」と記されている。四、工事計画として、工事着手は「御許可アリ次第」、作業一部開始予定時期は昭利十八年九月」、工事完成予定は「昭和十九年十二月」となっている。五、製品の種類は「航空機搭載用機関砲其他」、(※「関砲」が赤鉛筆で「銃」と修正されている)七、工事費予算書では、土地は約一三〇〇〇〇坪が見込まれ、建物は第一工場から第四工場、倉庫、事務所、青年学校及寄宿舎、射場、労務者住宅などが計画されていた。八、従業員では技術者一九五名、事務員三〇〇名、工員が一九九〇名、合計二四八五名を計画していたことが知れる。十、事業収支目論見書では、収入二四一〇〇〇〇〇円、支出二〇一五〇〇〇〇円、差引三九五〇〇〇〇円、純利益一五〇〇〇〇円とされている。
 次に、創立総会議事録は、タイプ打ちの青焼き六枚がホチキスで綴じられている。開会は昭和十七年七月二十三日午後二時、仮議長の発起人総代藤島亀太郎(芝浦工作機械株式会社の常務取締役)が総会の成立を宣言し、そのまま議長に選任された。議案は第一号会社創立ニ関スル事項報告ノ件、第二号 定款承認ノ件と順調に承認され、第三号 取締役及監査役選任ノ件は久保正吉氏の発案で議長一任とされ、取締役として石光眞俊(芝浦工作機械取締役兼沼津工場長)、藤島亀太郎、野口専太郎、田邊輝一郎(芝浦工作機械事業部長)、並木寅雄が、監査役として久保田實、大澤貞治が選任された。第四号議案 取締役及監査役ノ報酬決定ノ件、第五号議案 商法第百八拾四條ノ規定ニ依ル事項報告ノ件と問題無く承認された。
 敷地(予定)要図は表紙に掲げた。芝浦工作機械沼津工場の東に隣接し、現在の上石田交差点辺りまでの広大な敷地を予定していたことがわかる。ちなみに現在の「沼平町」自治会の名称の由来は沼津兵器の略称「沼兵」であるという。
 工場計画図は青焼きの縮尺二千分ノ一図面である。敷地の北西部に青年学校が見える。この校舎は名古屋陸軍造兵廠駿河製造所に引き継がれ、戦後、国有財産を経て、昭和二二年七月、沼津市に払い下げられ新制沼津市立第七中学校(昭和二三年四月より大岡中学校と校名変更)として転用された。

(沼津史明治史料館通信第128号「ぬまづ近代史点描76:沼津兵器のこと」平成29125日発行)



2018年7月23日月曜日

「三枚橋石板 本光寺へ移転 」記事


 伝「三枚橋石板」の石板が、平成30523日、三枚橋町橋爪稲荷境内から本光寺境内へ移設された。
 去年の夏、三枚橋町自治会館を立て直す事が計画された。その際、自治会役員会議で、自治会館前に設置されている昔の歴史的遺物の三枚橋石板を撤去する事になった。
 著者はその事について市役所の地域自治課職員から相談を受け、破棄してしまうのは大切な歴史的遺物が無くなることになるので、向かいの市立図書館に移設したらと提案。
 間もなく、図書館でも沼津文化財センターでも石板を預かることが出来ないとの話しが来た。それでは本光寺さんにお願いしたらと再提案。
 「本光寺さんは、元々「車返の里」に創建された寺院で、古東海道車返(三枚橋)にあり、元亀元年(一五七〇)武田勝頼三枚橋城築城時、第七世日出上人の代の元亀三年(一五七二)に三枚橋築城の拡張の際、車返の地より旧境内地八幡町に移転再興した。この地と御縁があり、その地の檀家さんが創建のころより続いています」と話した。
 職員から本光寺さんに話して頂けますかと依頼され、直ちに光正住職にお話した。住職からは「当寺で保管します」の快諾を戴いた。
 暫くして、三枚橋町自治会長さんからも「本光寺さんのお檀家さん」とのことで直接に住職に連絡しますと喜ばれました。
 今年に入り、松原三枚橋町自治会長さんがお寺にお越しになり、移設の段取り等を打ち合わせた。
 その後、光正住職から連絡があり、523日午前9時から移設作業を眞嶌光敏(石清眞嶌石材)さんが行うと連絡あり。当日記録するために現場に向かう。
 作業経過
 午前830分、三枚橋町 橋爪稲荷境内の三枚橋石板をクレーンでつり上げトラックに載せる、続いて台石も載せる。
午前9時、石板・台石が本光寺駐車場に着、クレーンにて下ろす。
午前10時 境内、墓地入り口の彼岸サクラの下に設置作業。
午前1040分ごろ、移設安置供養の経を唱え奉る。

 石板は 巾約65センチ 長さ約2メートル55センチ 厚さ約25センチ。


三枚橋石については。
 間宮喜十郎の「沼津史料」に
 『小流(即チ狢川)二石橋ヲ架ス、十数年前マデハ石三枚ヲ架シタルモノニシテ三枚橋ハ此ヨリ名ケタルナリトとあり、また同じく間宮喜十郎の「沼津小誌」には而シテ国道ハ今ノ三枚橋ノ西端高札場橋ノ東十数間ノトコロヨリ北ニ折レ(今鉄道停車場ニ通スル捷径タリ)城背ヲスギテ市道ノ辺ニ出テタリ、此路高札場橋ヲ距ル北一町ニシテ一ノ小石橋アリ、十余年前マデハ架スルニ三枚ノ石ヲ以テセリ三枚橋ノ名是ニ因ルト云フ』とある。
(長谷川徹 記)

2018年7月16日月曜日

沼津史明治史料館通信第133号「ぬまづ近代史点描80:一九六東京オリンピック 沼津市の聖火リレー」


Metushin133 from 徹 長谷川


ぬまづ近代史点描80
一九六四東京オリンピック 沼津史の聖火リレー
二〇二〇東京オリンピックの開催が二年後に迫ってきた。聖火リレーについても、種火を東日本大震災の被災三県(岩手・宮城・福島)に運んでイベントを行った後、沖縄県からリレーをスタートする方針が決まり、また都道府県別の日数が確定し、静岡県には三日間が配分されたなどの報道が出ている。さて、最近、昭和三九年東京オリンピックの開会式の時の静岡県内の聖火リレーに関する資料が見つかったので、この資料から五四年前の聖火リレーについて紹介したい。
 昭和三九年(一九六四)八月二一日、聖火はアテネを出発し、途中イスタンブール、ベイルート、ダマスカス、テヘラン、ラホール、ニューデリー、カルカヅタ、ラングーン、バンコク、クアラルンプール、マニラ、ホンコン、タイペイの十三都市を経て、それぞれ一泊しながら全日空のチャーター機で空輸され、九月六日、那覇(沖縄)に到着した。当時の沖縄はアメリカの占領統治下で、本上復帰運動が盛んだった。沖縄に到着した聖火は島内をリレーした後、九日早朝に沖縄を発ち、鹿児島・宮崎・札幌に到着・点火した。南からは鹿児島を出発して九州の西側から本州の日本海側を通るーコースと宮崎を出発して九州東側から四国、本州の太平洋側を通る2コース、北からは札幌から青森で分かれ日本海側を通る3コース、太平洋側を通る4コースという4つのコースで(1参照)、各コースとも一○日に出発した。静岡県は2コースに含まれていた。ちなみにリレー参加者は計一〇万七百十三人であったという。
 静岡県のリレーコースは概ね当時の国道1号線を通るルートで、一八五・一㎞・百十四区間となっていた。コースが通過している二十五市町村は原則二区間、人口一〇万人以上の都市は一区間増、通過市町村以外は単独もしくは二町村以上で一隊を編成したほか、学校関係で特殊学校、通信教育、高等学校関係で隊を編成し、前年度、前々年度に国体、インターハイで活躍した学校を選出、団体でスポーッ少年団、青年学級、勤労青少年団体とし、種目別競技団体が東・中・西で三隊が編成された。リレー隊は、正走者一人、副走者二人、随走者二〇人以内、一六~二〇才の日本人(随走者は中学生可)で編成され、服装やアマチュアであること、毎時一二㎞を標準として走ることなどが定められていた。
 静岡県に聖火がリレーされたのは、一〇月三日の一五時五〇分、愛知・静岡県境でのことである。ここを一番目として92番目の中継地点「吉原・原町境」で、一〇月六日一二時三八分、現在の沼津市域に聖火がリレーされた。92から93「東海ガス充填所前」までの区間一・八㎞は土肥町・戸田村で編成された隊が走り、正・副走者、随走者とも二三名全員が松崎高校土肥分校の男子生徒で、第93中継所までを走った。
 93から95までの二区間は原町で編成した隊であった。93から94「原中学校正門前」まで一・五㎞の区間は旧浮島村で編成されたようで、正走者は山田政和(沼津商高)、副走者は堀内美秋(沼津商高)、殿岡豪(日大三島高)、随走者は浮島中学校の生徒二〇名であった。94から95「図書印刷正門前」までの一・八㎞は、正走者杉山学(沼津商高)、副走者赤池実雄(日大三島高)、深沢正和(日大三島高)、随走者は原中学校の生徒二十名であった。
 95から96「沼津加工紙正門前」まで一・八㎞の区間は、東伊豆町・河津町の隊が、96から97「静岡スバル沼津営業所前」までの区問一・二㎞は、松崎町・賀茂村・西伊豆町の隊が、97から98「沼津商業高校正門前」まで一・三㎞の区間は南伊豆町・下田町の隊がリレーした。
 98から101「黄瀬川橋東詰」までの三区間三・九㎞が沼津市の隊の担当であった。
 98から99「平町バス停」まで一・六㎞の区間は、正走者は大島正義(沼津市役所)、副走者は堀江進(自営)・鈴木雅樹(不二石油)、随走者は中島忠男(土佐谷鉄工)ら社会人八人、沼津商業高校の男女生徒八人、一中、二中の生徒四人であった。
 99から100「東京麻糸紡績沼津工場前」の一・一㎞の区間は、正走者は井上泰秀(県土木事務所)、副走者は早川昭男(国産電機)・加藤晴祥(神田製作所)、随走者は東芝沼津の社会人二人のほか中学校・高校の生徒一八人(沼津四高三人、沼津女商高五人、沼津市高二人、五中四人、金岡中四人)で、男女比が半々の隊であった。
 100から101「黄瀬川橋東詰」まで一・二㎞の区問は、正走者折戸慶四郎(あみや酒店)、副走者茂呂嘉幸(加藤車体)、初又信好(漁業)、随走者は海福潔(日産自動車)ら社会人五人、高校生一五人(沼津東高一人、沼津市高六人、沼工一人、沼津工業高専五人、沼津北部高二人)であった。「黄瀬川橋東詰」で聖火は清水町の隊にリレーされ、その後115中継所「静岡・神奈川県境」までリレーされた。ちなみに、静岡県内の最終正走者は、後にハンマー投げでオリンピヅクに三度出場した室伏重信(日大三島高)であった。
 一〇月九日、日本列島を四つのコースでリレーされてきた聖火は当時有楽町にあった東京都庁前に集まった。翌日の十月一〇口、一九歳の坂井義則(早稲田大学)が最終ランナーを務め、国立競技場の聖火台に聖火が灯されたのであった。
(本・文中敬称略。所属・町村名・場所等は当時)【沼津史明治史料館通信第133号 平成30425日発行】


2018年7月11日水曜日

ふるさと検定 匂坂信吾




ふるさと検定 匂坂信吾
 愛知県岡崎市で平成二十二(二〇一○)年から二十八(一六)年まで七年間続いた「家康公検定」は、昨年は中断したものの、今年は改めて「新・家康公検定」として復活することになったそうです。
 その実施要項のパンフレット表紙には、家康公と家臣団ゆかりの地として全国十二の城の位置と城主の似顔絵が描かれています。
 家康公は江戸城の城主として大きめに描かれていますが、三河出身で小田原城主の大久保忠世と共に、弟で沼津城主の大久保忠佐も登場しています。
 今年の検定試験は、十月七日()午前十時三十分から岡崎商工会議所及び岡崎信用金庫本店で行われ、申込期間は八月六日()までとなっています。
 こうした「ご当地検定」は、二十六(一四)年七月三日付の日本経済新聞によれば、十五(〇三)年に始まり、ブームの火付け役となった「博多っ子検定」(福岡市)が最初とされますが、二年後には募集を打ち切ったとのこと。
 また、「明石・タコ検定」(明石市)や「倉敷検定」(倉敷市)も数年間で中断しているようです。
 一方では、「ナマハゲ伝道士認定試験」(秋田県男鹿市観光協会)や「京都・観光文化検定試験」(京都商工会議所)などは知名度が高く、現在も継続しているようです。京都の検定は、全国から毎年平均七千五百人が受験するとのこと。
 わが沼津で検定を行うとすれば、どんな目的や万法が考えられるでしょうか。
 今月十四日()午後一時半から市立図書館四階視聴覚ホールで開催する「沼津ふるさと講座」では、家康公検定の問題作成に関わった「おかざき塾歴史教室」主宰の市橋章男氏が、昨年に続いて講師を務めます。
 昨年は「大久保忠佐と岡崎」をテーマに素晴らしい話を伺うことができましたが、今回は、家康公検定や、小・中学生を対象に実施している家康公作文コンクールが、歴史・文化のまち岡崎のまちづくりの根幹をなすものとの観点から話されます。
 当日のテーマは「家康公の存在と歴史学習ー歴史の現場に立つことー」で、市橋氏が岡崎市や商工会議所の職員、報道関係者や岡崎城の観光ガイドさん達を対象に、ここ二年間で三十回あまり行ってきた勉強会の実績を基にした講座ですので、沼津での歴史学習のあり方を学ぶことができると思います。
 昨年同様、岡崎の様々な映像を交えた楽しい講座が期待できますので、多くの皆様の参加をお待ちします。入場無料で先着順です。
 なお当日は、本会が沼津市民間支援まちづくりファンド事業補助金を受けて三月に作成し、市内の小・中学校や市立図書館などに配布し、好評をいただいている「沼津まちなか歴史MAP」を参加者に提供します。
 また希望者には、市橋先生持参の「家康公検定パンフレット」を差し上げます。
(沼津郷土史研究談話会=略称・沼津史談会=会長)
【沼朝平成30711()言いたいほうだい】

2018年7月8日日曜日

沼津空襲 そのⅡ 浜悠入



沼津空襲 そのⅡ 浜悠入
 昭和十九年七月、南太平洋マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グァムにアメリカ軍が進攻し、島に急きょ飛行場を建設。大型爆撃機B29で直接、日本本土空襲を企てた。
 それまで、日本国内は戦時中とは言え、日々穏やかな生活を送っていた。だが、この年の十一月五日昼日中、突如としてB29一機が一万㍍の上空を、怪物が異様な煙を吐くがごとく、白い飛行機雲をなびかせ、沼津の上空を去って行った。私は、これから始まる不運の前兆かと恐れ、おののいていた。
 実は、これが日本本土の基地や軍需工場への偵察飛来であった。それから翌二十年に入り、沼津はB29一機による爆撃を数度受けた。
 一月九日の大手町、上本通り、死者五、重軽傷二十九、家屋全壊九。四月十一日の通横町、吉田町は死者十四、重軽傷三十九、家屋全壊十三。四月二十三日の下香貫技研、宮脇は死者九、重軽傷二十三、家屋全壊一で、この時、犠牲となった十七歳の少女、菊地ひでら七人の慰霊碑が三中の傍らに見られる。
 五月十七日の三枚橋、平町は死者十一、重軽傷十七、家屋全壊九。この日登校していた私達、旧制沼中二年生は空襲警報で下校、ちょうど三園橋を渡っていた。強烈な爆撃音で橋の上に伏せたら、狩野川に水煙が立ち上っていた。
 七月十六日、この夜も毎晩恒例になった薄気味悪い空襲警報のサイレンが長く尾を引き発令された。防空壕に退避していたら、B29は沼津上空を過ぎ平塚方面に向かったとラジオは報じた。
 警報も解除となり、私は「やれやれ」と思い、自宅の二階に戻り、うとうとしていると突然、"空襲、空襲"の叫び声。急いで飛び起き、窓を開けると、南の我入道、香貫方面の空は照明弾で、真昼のような明るさであった。
 家の中も明かりを点けたくらいに明るく、父が「防空壕に大切な物を収め土をかぶせるから先に逃げろ」と言うので、私は母と姉と一緒に、ひとまず逃げようと外に出た。香貫山や千本浜の方は真っ赤に燃え、町にも火の手が上がった。
 焼夷弾は豪雨のようにザァーという音を立てて落下し、時折、ヒューという異様な音が混じり、肝が冷やされた。私達は、まだ燃えていない平町から日枝神社裏の日吉へと逃げ延びた。
 その頃、田圃越しに東京麻糸工場の建物が真っ赤に燃え、火の海と化していた。既に時刻は十七日の午前一時から三時間ほど経ち、短い夏の夜は白々と明けてきた。
 この夜の状況は、次のように発表されている。
 B29百三十機が駿河湾を北上して沼津を空襲。九千七十七発、千三十九トンの焼夷弾を投下。死者二百七十四人、焼失家屋九千三百四十一戸の被害を受け、沼津は文字通り焼け野原と化した。
 八月三日、焼け跡にぽつねんと立って、ふと東の箱根山に目をやると、エンジンを止め、私の方に向かって来るグラマン艦載機が目に入った。私は近くの掩蓋(えんがい)のない防空壕に飛び込んだ。一瞬遅れてダダダダと機銃音がし、私の二、三㍍近くを弾がかすめた。その後、グラマンは沼津駅を中心に機銃掃射し、構内にあったガソリン車に引火炸裂、黒煙が立ち上った。
 この時の被害は死者三、重軽傷三であった。
 ところで先日、アメリカの公文書館に保存されていたグラマン艦載機の機銃掃射を記録したガンカメラの映像を観る機会を得た。当時、グラマン艦載機の翼には戦果を記録するためにガンカメラが付けられ、機銃の引き金を引くと同時に録画が開始される仕組みになっていた。
 前述の八月三日、私を襲ったグラマンと並行して、線路上からプラットホームを襲ったガンカメラ装填のもう一機がいたことが画面から分かった。その機は、焼け跡に立つ藤倉電線の二本の煙突を掃射し、さらに駅機関区の転車台を襲った。
 画面には転車台の扇形車庫が映り、機銃掃射の白煙が焼け跡に立ち、さらに、その先には千本松原も映っていた。私は、命拾いした八月三日の昼時に襲って来たグラマン艦載機が機上から克明に写していたことに唖然とした。
 戦後七十三年も経て、あの戦時の恐ろしい体験を画面で観ることができ、興奮して一晩眠れなかった。そして、今さらながら、戦争は絶対にすまじきものであると思った。
(歌人、下一丁田)
【沼朝平成3078()号寄稿文】