2020年4月25日土曜日

沼津城の変遷 浜悠人


沼津城の変遷 浜悠人

 沼津には沼津城の前身として三枚橋城(沼津古城)があった。
 三枚橋城は天正五(一五七七)年、武田勝頼の命により、家臣高坂源五郎によって後北条氏(北条早雲から四代目の北条氏政の時)に対するものとして築城された。
 その規模は大きく実戦的な城で、現在の上土(城の堀を揚げた土からの地名)を中心とした市街地が城域であった。武田氏滅亡後、徳川領となり、慶長六(一六〇一)年、大久保忠佐が城主となった。忠佐には跡継ぎがなく、慶長一八(一六一三)年、忠佐死後に廃城となり、城は取り壊された。
 徳川家康は天下を統一してから奉行衆に命じ、東海道各宿に三十六疋ずつの伝馬(てんま=交通手段としての馬)を常備させ、宿駅を整備させた。
 五代将軍徳川綱吉の元禄年間(一六八八ー一七〇四)には沼津も三町(三枚橋町、上土町、本町)一宿の宿場となり、山王前から出口(幸町)まで人家が続き、東海道でも有数の宿場町に発展した。
 安永六(一七七七)年、水野出羽守忠友は十代将軍徳川家治から、百七十年余、城のなかった沼津の地を与えられ、新たに沼津城(別称看潮城)を築いた。当時は泰平時代ともなり戦略的構築は全く不必要で、沼津新城は平地に築かれた平城であった。これが沼津藩の始まりである。
 忠友は老中田沼意次と親しく、幕閣に重きをなし、後に筆頭老中になった。
 初代城主水野忠友には男子がなく、娘八重姫の婿になった忠成(ただあきら)が本家の跡を継ぎ、沼津藩の二代藩主となり、文政元(一八一八)年、老中に任命された。
 彼は幕府財政救済のため貨幣改鋳を行い、文政十一(一八一一八)年には倹約令を出し、さらに十一代将軍家斉には多くの側室があり、その子女五十六人の養子縁組や降嫁(嫁入り先)の世話をした。文政八(一八二五)年には将軍の命を受け上洛している。
 それらの功により沼津藩は加増を受け五万石となり沼津城の拡張、侍屋敷二万坪の拝領ともなった。この土地が、それまでの侍屋敷の片端(かたは)の地に添って西側に続く地域であったので添地と称されるようになった。
 日光東照宮日光東照宮は徳川家康の廟所で、元和二(一六一六)年、家康は七十五歳で没すると静岡の久能山に葬られたが、翌年、天海大僧正が座主を務め日光山へ改葬された。
 さらに、三代将軍家光が大造営を行い、一年五カ月を費やして寛永十一(一六三四)年、今見るような華麗な社殿を完成させた。表門から神厩舎へ。ここの長押(なげし)に有名な〃見ざる、言わざる、聞かざる"の三猿の彫刻がある。
 そこから次に陽明門に向かう。この門は東照宮のシンボルで、極彩色が配され、まばゆいばかりに美しく、一日中見ていても飽きないというので、"日暮門"と呼ばれている。
 正面階段の左右には大名から寄進された石燈寵が並び、一番内側の石段脇に銅製の燈寵が左有一基ずつ計二基あった。そこには、「駿河国沼津城主出羽守源朝臣水野忠成」と克明に刻まれていた。忠成は領地加増のお礼として、日光東照宮の陽明門に燈寵を寄進していたのである。私は、この発見に大変驚いた。
 明治維新により沼津藩、八代城主水野忠敬(ただのり)は上総国(千葉県)菊間に移封され、代わって十五代将軍徳川慶喜が駿河に入国し沼津城は徳川の兵学校として脚光を浴び、多くの子弟を育んだ。
 明治五(一八七二)年、沼津兵学校も東京に移され、廃藩置県により静岡県の手で同年十月、城は細分されて入札に付され、全て売却された。 その後、明治二十二(一八八九)年、東海道線の開通により沼津駅が開かれ、駅前から上土通りに通ずる道ができ、旧城祉は真っ二つに分断された。
 その後、市街地が発展するに従い、堀は埋められ、土塁は削られ、沼津城址も完全に市街地に変わっていった。そして今や、僅かに大手町の中央公園に、その足跡を留めるのみである。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2425日(土)寄稿文】

2020年4月24日金曜日

杉原千畝・幸子夫妻資料



杉原千畝・幸子夫妻資料

今年は杉原千畝生誕120年・
「命のビザ」発行80年に当たります。
皆さん、千畝夫人や夫人の御両親が
沼津と深い関りのあることをご存じですか.
杉原千畝は、第二次世界大戦の最中、リトアニアの首都、カウナスの日本領事館の館長として赴任していた時、ナチスドイツの迫害でポーランドから逃げてきたみず知らずの難民たちを救うため、外務省の訓令に反しながらも、自らの外交官の職と自分や家族の命までも危険にさらして、昭和15年「命のビザ」と呼ばれる大量のビザを発行し、約6,000人の難民を救いました。
その後、抑留生活を経て、昭和22年帰国。しかし、帰国後まもなく外務省より呼びだされ辞表の提出を求められ、外務省官吏の職は解かれました。更に本人を含め家族は世間の誹謗中傷の嵐の中に晒されることになりました。
国外では、昭和44年(1969)イスラエル宗教大臣より勲章を受与されたり、昭和60年(1985)には、イスラエルの「諸国民の中の正義の人賞」、ヤド・バシェム賞を受賞するも、国内では、名誉が回復されず、千畝の名誉回復がなされたのは、帰国後44年経った平成3年(1991)の事でした。
このような千畝と苦楽を共にし、寄り添ったのが、母が町立沼津女子尋常高等小学校(現、沼津市立第二小学校)教師、父が現、県立沼津商業高等学校の教師であった御両親から生まれた幸子夫人でした。なお、夫人は現在の沼津市末広町(山神道)にて誕生しています。
今年「命のビザ」発行80年に当たり、ユダヤ人大虐殺の時代に自己犠牲のうえにたち、多くのユダヤ人を救い人道主義を貫いた、千畝と幸子ご夫妻の顕彰を、夫人の誕生地であるこの沼津で行い、この偉業を広く市民の皆さんにも知ってもらうと共に後世に伝えたいとの動きが今、始まっています。

大庭つる
母・みよ(旧姓、大庭)と父・杉山進の間に、明治21年に生まれる。
2歳の時、母の義理の兄・大庭松五郎(1日姓・勝又)の養子となる。
町立沼津女子尋常小学校教員(現 沼津市立第二小)
菊池文雄
明治15年、岩手県遠野に生まれる。
沼津町立沼津商業学校教師(現、県立沼津商業高等学校)
明治43年7月20日、大庭つると結婚、この時期つると文雄が在籍した学校は共に、山神道(一小校地)にあった。
杉原幸子(旧姓、菊池)
大正2年12月23日、父・菊池文雄と母・つる(旧姓、大庭)の間に、駿東郡沼津町山神道71(現、沼津市末広町)で生まれる。
杉原千畝
明治33年、岐阜県武儀郡上有知町(現、美濃市)に生まれる。
昭和11年、菊池文雄(香川県志度商業高等学校校長)の長女・幸子と結婚

沼津尋常高等小学校と沼津商業学校の所在地を探る
1)杉原幸子(旧姓、菊池)の両親が結婚した時期と杉原幸子の誕生地について
●両親、菊池文雄と大庭つるが結婚した時期は、明治43年(1914)7月20日
●菊池幸丁が誕生した時期は、大正2年(1913)(沼津町山神道71に生まれる。)
●菊池幸子が、杉原千畝と結婚した時期はは、昭和11年(1936)である。
2)沼津女子尋常小学校と沼津町立商業学校の校舎の位置関係について
(学校変遷の歴史)
●明治元年附属小学校開校→→→明治19年尋常小学沼津費→→…・・→明治30年沼津尋常高等小学校(山神道)(男女別学)→昭和3年沼津第一尋常小学校→→沼津市立第一小学校(現在)
明治34年、沼津女子尋常高等小学校(山紳道)→昭和3年沼津第二尋常小学校(常盤町)→→・・沼津市立第二小学校(現在)
●明治32年4月沼津町立商業学校開校(蓮光寺) 明治33年11月、沼津町立商業学校移転(山紳道)→→大正10年6月県立商業学校移転(丸子町)→昭和42年県立沼津商業高等学校清水町移転(現在)
上記資料より、両親の結婚一菊池幸子の誕生(沼津町山神道71に生まれる。)に至るこの時期には、両親の勤務していた校舎は、共に山神道内にあった。

【杉原千畝】
明治から昭和にかけて活躍した日本の官僚、外交官。
第二次世界大戦の最中・リトアニアの首都、カウナスの日本領事館(館長)に赴任した際、ナチス・ドイツの迫害でポーランドから逃げてきた難民たちを救うため、外務省の訓令に反しながらも、自らの外交官の職と自分や家族の命までも危険にさらし、昭和15年(1940)7月9日~8月26日「命のビザ」と呼ばれる大量のビザを発行し、約6,000人の難民を救ったことで知られる。その避難民の多くは、ユダヤ系であった。早稲田大学高等師範部英語科中退

明治40年の地図に見る
現、市立第一小学校内
①沼津尋常高等小学校、沼津文庫
(明治30年建設)
②沼津女子尋常高等小学校、幼稚園
(明治34年建設)
幸子の母。大庭つる・教員として勤務
③沼津商業学校
(明治33年建設)
幸子の父・菊池文雄、教師として勤務
④菊池幸子(後に杉原千畝と結婚し、杉原幸子となる。)誕生地大正2年12月23日駿東郡沼津町本字山神道71に生まれる



アーカイブスシリーズ「沼津市を中心とした社会史」和田捷雄著パワーポイント資料動画


国難と国勢調査 匂坂信吾


 国難と国勢調査 匂坂信吾
 コロナウイルスの脅威は世界各国共通の国難です。

 沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)では、五月十六日に市立図書館で定時総会と記念講演会を開催する予定でしたが、緊急事態宣言に伴い中止とし、市民公開の「沼津ふるさと講座」は、六月以降の実施方法を慎重に検討致します。
 総会記念講演のテーマは沼津兵学校の員外教授だった杉亨二(すぎこうじ)に関するものでした。
 杉は沼津在任中の明治二年(一八六九)、「沼津政表(統計)・原政表」を作成しました。講師を務めることになっていた翻訳家の松宮克昌氏は、沼津藩士出身で東京工業大学創始者の手島精一と妻・春子(杉の長女)の曾孫に当たる伊佐子さんのご主人です。ご夫妻は東京在住で、沼津訪問を楽しみにしていましたが、この事態で見送りとなりました。
 杉は明治維新に際して徳川家と共に駿河に移り、フランス語を教える傍ら「駿河國人別調」を試み、沼津で、日本初の人口統計を手掛けて新政府に招かれ、初代統計局長に就任しました。
 その後も終生、国勢調査や統計学の研究に努めましたが、第一回国勢調査が実現したのは、没後三年目の大正九年(一九二〇)十月でした。
 今年はそれから百年目〉コロナの影響などから予定通りに実施できるかどうかは別として、第二十一回国勢調査の年に当たります。
 杉は長崎出身で、幼少時に孤児となり故郷を離れましたが、没後五十周年の昭和四十二年、長崎大学学長等が地元関係者に呼び掛けて長崎公園内に立派な胸像を設置しました。十二月四日の命日には、市・県の統計課が献花式を開いています。
 田上富久長崎市長は、前市長の射殺事件を受けて実施された市長選挙に立候補した時には、市統計課長の職にありました。一昨年、杉の没後百周年記念献花式に参列した松宮氏らと田上市長の集合写真が同市のホームページに掲載されています。
 今回、松宮氏が準備された講演要旨や資料は、来年の本会創設六十周年に際して発行する会誌『沼津史談』第七十二号に掲載する予定です。
 (沼津史談会会長、小諏訪)
【沼朝令和2424日(金)「言いたいほうだい」】

2020年4月22日水曜日

懐かしの映画館(映画館年鑑資料より)











映画館年鑑(沼津)
沼津市(六館)
 沼津映画劇場 木 新 上本町(沼津九七〇) 新東宝興行 荻野庄司
 沼津銀星座 木 宝 下本町一七二(沼津三七二) 渡辺好郎 山田忠治
 沼津セントラル劇場 木 米 大手町二〇〇(沼津一一二四) 加藤興行 村木浩
 沼津文化劇場 鉄 米 上本通一七(沼津一〇三〇) 文化事業 猪野英治
 沼津第一劇場 木 大・N 上本通四五(沼津六六三)  望月光雄 望月明
東海劇場 木 松 城内添地(沼津一五九三)     高木恵太郎 福田寿浪

沼津市 (九館人口一二九、二八七)
 沼津セントラル劇場 大手町二〇〇(沼津一一二四) 洋  村木志津子 端山孝木
 沼津第一劇場 上本通四五(沼津六六三) 日・洋  望月光堆 望月明木
 沼津文化劇場 上本通一七(沼津一〇三〇)洋 萩野庄司 鈴木実
 沼津宝塚劇場 上本通八(沼津四六四九) 宝・独立 沼津宝塚劇場 松本一巳
 沼津映画劇場 上本町七二ノ一(沼津九七〇) 大 静活 杉山七郎
 沼津東映 本町二二(沼津四七〇〇) 映 山建二 田村竹美
 沼津国際劇場 下本町二〇一ノ一(沼津五一五〇)松 田村武司 山健二
 沼津東海劇場  建築中           田村武司
 中央劇場    建築中           田村武司

沼津市(市外電0559) 9館 人口201,408
 沼津プラザ 410 上本町通り45 (62)1599東部事業岩村渉 村野千晶鉄6冷暖500
 沼津スカラ座 410 上本町通り45 (62)0663東部事業岩村渉 村野千晶鉄2冷暖500
 沼津宝塚劇場 410 上本町通り8(62)4649東部事業岩村渉 横田謙一鉄6冷暖420松宝
 沼津有楽座 410 上本町通り8 (62)4649東部事業岩村渉 横田謙一鉄6冷暖239
 沼津ミラノ座 410 上本町通り8(63)2125東部事業岩村渉 横田謙一鉄5冷暖300
 沼津文化劇場 410 上本町通り17(62)1030新文化興行荻野庄司 梶原康男鉄2冷暖360
 沼津東映劇場 410 城内添地町245 (62)5160東映岡田茂 渡辺富夫鉄4冷暖555
 沼津東映パラス 410 城内添地町245 (62)5170東映岡田茂 渡辺窩夫鉄4冷暖410
 ハラマチ劇場 410 原中町1561

2006
〈沼津市〉9館 人口207239
沼津シマネ10 大手町5-12-5 東部事業㈱ 岩村優 西村正広 鉄地 72 他
沼津スカラ座  大手町5-12-5 東部事業㈱ 岩村優 西村正広 鉄2 347 洋
沼津ピカデリー 大手町5-12-5 東部事業㈱ 岩村優 西村正広 鉄5 280 洋
沼津プラザ   大手町5-12-5 東部事業㈱ 岩村優 西村正広 鉄6 254 洋
沼津グランド劇場 大手町5-9-20 東部事業㈱ 岩村優 西村正広 鉄4 283 洋
沼津ミラノ座  大手町5-9-20 東部事業㈱ 岩村優 西村正広 鉄5 235 洋
沼津名画座   大手町5-9-20 東部事業㈱ 岩村優 西村正広 鉄4 69 邦洋
沼津有楽座   大手町5-9-20 東部事業㈱ 岩村優 西村正広 鉄6 148 洋

2020年4月21日火曜日

明治二十八年沼津町小字


明治二十八年沼津町小字
 幅員 東西十九町五十二間 南北 十九町廿間
 戸口 戸數二千十 入口 一万千四百九十九人
 町の小字
○上本(かみほん)○下本(しもほん)○鵰町(くまたかちょう)○魚町(うおちょう)○仲町(なかちょう)○新町(しんちょう)○宮町(みやちょう)○下河原(しもがわら)○下小路(したこうち)○出口(菖称上琵琶首村)(でぐち)○浅間(菖称下琵琶首村)(せんげん)○榮(さかえ)町○市道(いちみち)○西宮後(にしみやのうしろ)○東宮後(ひがしみやのうしろ)○大門(だいもん)○通横(とおりよこ)○沼津新田(ぬまづしんでん)○上土(あげつち)○川廓(三枚橋城ノ外廓也)(かわぐるわ)○志多町(したまち)○八幡(はちまん)○新裏(しんうら)○条内(でうない)○片端(かたは)○添地(そえち)○西条(さいでう)○町方(まちかた)〇三枚橋(さんまいばし)○平町(ひら)○新田(しんでん)
東淺間町より浪人橋に至るを大岡庄とし西出口町より市道に至るを金持庄とす今淺間社の西千本観音への道を熊の堂まで通じて庄境なり
(明治二十八年十一月刊行「沼津案内」)

 大正2年沼津町誌 町名・河川名
 宿内町々の小地名左の如し。
 五反田(宿より放れて西の方なり) 出口(宿の西の出口なり、故に出口といふ。昔は上びはくび村といふ。) 浅間町(昔は下びはくび村といふなり。) 本町(上下二町駅舎あり。) 横町 上土 川車輪(三枚橋城の外車輪なりしとす。今石垣残る。) 下町(今は志多町と書す。) 三枚橋(昔三枚橋城ありし頃も此町ありしと見ゆ。今の川廓上土等の町は城内にて今宿の後の方、車返の往来に通行せしなり。間門訪諏等の村の後の方に古道の跡あり。これ右の往還ならん。) 平 山王前(山王宮の社前なる故に名とす。)
以上官道に属す町並なり。
 新町 中町 魚町(豆州より積送る魚類を此町にて売買するなり。) 宮町(古浅間社あり。今浅間町に鎮座する社なり。) 鵰町 立町 宮ノ後 大門 裏宿 八幡前 下河原町   下小路 七反田 沼津新田

 元禄五年沼津驛と改称す。明治に至り沼津町と称し、
四區三十六町に別てり。

 三枚橋區
 平町 新田町 三枚橋町 横宿

 上土區
 志多町 川廓町 上土町 六軒町 八幡町 七反田 
   新裏町

 本町区
 通横町 大門町 上本町 下本町 鵰町 新町 
  下小路町 魚町 仲町 筥町 下河原町 浅間町
 出口町 市道町 栄町 沼津新田 西宮町 東宮町 緑町

 城内區
 条内町 追手町 片端町 添地町 町方町 西條町

 元禄年間の戸数は六百拾壱戸なりしが、現今猛かに増加し戸数二千六百,人口壱万四五千を以て数へられ、奮幕時代には東見附は新田町(山王前、今の杉山周蔵氏の前)西見附は出口町(栄町の入口)にありしが.今は其跡を存せず。
 沼津停車場は明治廿一年東海道鉄道の布設と共に設けられ、追手町の新道を造ちる。
 以後漸を以て隆盛に赴き伊豆西海岸地方には、常に汽船の往復絶えず、日に増し商業盛になれり。



陵香 號八十四第 月三年八十和昭 隊國報校學中津沼立縣岡静

陵香 
號八十四第
 月三年八十和昭 
隊國報校學中津沼立縣岡静




手選場出會育體校學等中子男國全會大宮神原橿回一第 上


手選場出會大宮神治明回十第 中


手選場出會大育體校學等中國全度年七十和昭 下