2016年5月9日月曜日

沼津街中ウオッチング(沼津史談会・フレッシュ150沼津ふるさと講座)

好天の中、平成28年5月8日(日)行われた、街中ウオッチング。




当日スライド資料




平成28年5月15日沼津朝日新聞記事

維新後の沼津の町並み形成
 史談会企画で市街地歴史探訪も
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)による「フレッシュ150沼津ふるさと講座」の第2回が八日、市立図書館講座室で開かれた。「沼津街中ウォッチング」と題し、同会会員の長谷川徹氏による講演の後、市街地の歴史探訪が行われた。
 講演で長谷川氏は、明治初期まで残っていた沼津城の構造や、城跡が民間に払い下げられて田畑となり、鉄道開通によって市街地形成が進んだ歴史などを話した。
 また、現在の西条町にあった沼津病院(駿東病院)についても紹介。
 同病院は沼津兵学校の関連施設として開業し、杉田玄白の孫の杉田玄端が頭取を務めた。沼津史談会創始者の故大野虎雄氏は、病院記念碑を建立するために玄端子息の六蔵氏揮毫の碑文を得るところまで事業を進めたが、記念碑の建立は実現しなかった。
 長谷川氏の講演の後、参加者一同で沼津城ゆかりの場所や、沼津兵学校附属小学校跡地、沼津病院跡地、三枚橋城主大久保忠佐を祀った道喜塚などを巡った。
 
再び沼津病院をテーマに
 沼津ふるさと講座の第3回、講師3人で
 「フレッシュ150沼津ふるさと講座」の第3回は、六月十二日午後二時半から市立図書館四階の視聴覚ホールで開かれる。
 二〇一八年の沼津兵学校創立百五十周年の記念事業の一環で、四月の第1回に続いて「沼津病院」がテーマ。
 内容は、教育史家で元国士舘大教授、四方一彌氏による講演「沼津の医と文化」、順天堂大教授の酒井シズ氏による講演「杉田玄端とその時代」、国立民俗博物館教授で元明治史料館学芸員の樋口雄彦氏による講演「沼津病院顕彰の意義」の三部構成。
 参加費は資料代として五百円。
 申し込みは沼津郷土史研究談話会の上柳晴美さん(電話〇九〇・一四一八・〇四三五)。
【沼朝平成28年5月15日(日)号】

2016年5月3日火曜日

史談会記念講演:「明治文化史のなかの沼津病院」樋口雄彦教授

明治文化史のなかの沼津病院
記念講演:樋口雄彦教授










2016年4月10日沼津病院樋口講演画像資料


平成28年5月3日(火)沼朝関連記事


一流の医師集めた沼津病院
静岡藩陸軍医局として開院
沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)による「フレッシュ150沼津ふるさと講座」の第1回が先月十日、市立図書館視聴覚ホールで開かれた。2018年に沼津兵学校百五十周年を迎えるにあたっての企画で、国立歴史民俗博物館教授で元明治史料館学芸員の樋口雄彦氏が「明治文化史のなかの沼津病院」と題して話した。
斯界リードする医師輩出
井上靖の祖父も学ぶ
沼津病院は沼津兵学校に併設された病院。建物は現在の西条町にあった。明治維新に伴い、徳川将軍家が江戸から駿河に移されて静岡藩が成立すると、藩士の軍事教育のため、一八六八年十二月に沼津兵学校が開校。開校時に陸軍医局が設けられ、これが翌年、一般人も受診可能な沼津病院となった。病院利用者は薬代の支払いのみで診察を受けることができたという。
沼津病院には、旧幕府に仕えた医師達が勤務していて、代表である頭取には杉田玄端が就任した。玄端は西洋医学書を翻訳して『解体新書』を著したことで知られる杉田玄白の孫に当たる。
また、地元出身の平民医師も在籍し、旧沼津藩の嘱託医師だった荻生洪斎のような人物もいた。
樋口氏によると、沼津兵学校を創設した西周(にし・あまね)は、兵学校を、軍人だけでなく官僚などの文官も養成する総合学校にする構想を持っていて、沼津の病院には医師養成機能も持たせようとしたが、教育機能は現在の静岡市に設けられた駿府病院に一本化された。
しかし、沼津からは多くの医師が誕生した。
兵学校附属小学校を卒業して医師への道を進んだ人物の中には、日本の精神医学の草分け的存在である榊淑(さかき・はじめ)や、荻生洪斎の子で後に現在の千葉大医学部の幹部となった荻生録造などがいる。
勤務医の杉田玄端らは当時一流の医師であったため、その弟子になろうとする人達もいて、そこから医師となった人物も多いという。その中の一人に作家井上靖の祖父井上潔がいる。
甲斐(山梨県)などの遠方からも患者が来るなど、その名が知られた沼津病院だったが、一八七一年の廃藩置県で静岡藩が消滅し、兵学校も閉鎖されると、病院も組織の改変を迫られた。以後は杉田玄端が経営する私立病院となり、経営安定のために会社化も行われ、運営資金の寄付も募られた。
さらに一八七九年、駿東郡長だった江原素六により郡立の公立病院となり、駿東病院と改称され一九四五年まで存続した。
沼津病院の意義について樋口氏は、一八六〇年代初頭の文久年間に長崎で国内最初の近代的病院が設立されて以降、江戸幕府が整備しようとした医療制度が本格的に始動したものであると指摘。また、当時一流の医師と最新の医療設備が沼津に集まっていた点についても触れた。
【沼朝 2016年(平成28年)5月3日(火曜日)】

2016年5月1日日曜日

ナゾのマチ沼津 渡邉美和

 ナゾのマチ沼津 渡邉美和
帰り新参である。長く沼津を離れ、三年前に戻ってきた。あらためて気が付くことも多い。以前、沼津に住んでいた時には当たり前だったことが、再発見とナゾの連続に変わるのだ。
たとえば、市街地の道路。この規模の市にしては、道幅も広い。安心して歩くことのできる広い歩道もかなり完備されている。もちろん、一歩市街地から外れれば、道路行政に対する不満は、まだまだ多い。でも、三叉路は少なく、道はほぼ東西南北に走り、まっすぐである。
郊外型ショッビングモールに押され気味の商店街だが、アーケード名店街のマチも、改めて見ると建築当時のモダンさが感じられる。どうしてこのような様式を取り入れることができたのだろうか。
ナゾはつきない。帰り新参の目からは、かつての三枚橋城(後に沼津城)は、決して攻防に秀でた施設ではないように見える。そもそも狩野川の水害を受けやすい比較的平らな土地である。そこに単なる砦ではなく、石垣を備えた本格的な城として三枚橋城が築かれたのだ。なぜ?後の沼津城は、城地の脇を東海道が通るという、本来の城の機能を完全に放棄している。
そして、その城跡はどこに行ってしまったのだ。
明治維新により、沼津は城という軍事施設との関連をすっぱりと断ち切ってしまったように見える。その代わりに人材育成に励むことになる。もともと甲斐の武田氏が築いた城は、築城後へ数百年を経て、「人な石垣、人は城」という武田氏本来の形を復活させたようにも思える。
沼津兵学校、その附属施設での日本で初の小学校教育、さらに近代的な沼津病院(後の駿東病院)などが明治維新後に立て続けに沼津に設置されたことにも合点がいく。沼津は城でなく、人を育成することで近代への貢献の道を選んだのだろう。
軍事施設と縁を切れば、道はまっすぐな方がよほど便利である。そして、それが商業の近代化も促進させたのではないだろうか。
来たる五月八日(日)午後一時半から市立図書館四階、第一・二講座室で第2回「沼津ふるさと講座」が開催される。今・回の講師は、本会会員で上本通り商店街理事の長谷川徹氏。同氏の豊富な沼津のマチに関する情報による、「ナゾ解き」が楽しみである。同氏を支えるスタッフも多く参加される。講座の後、沼津の歴史を探訪する「沼津街中ウオッチング」と併せて楽しみたい。
なお、「街中ウオッチング」では、会員以外は資料代五百円とスポーツ保険料百円が必要。申し込みと問い合わせは、沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)研修部長の上柳晴美(電話〇九〇の一四一八の○四三五)まで。
(沼津郷土史研究談話会会員、南本郷町)
【沼朝平成28年5月1日(日)言いたいほうだい】