2020年1月26日日曜日

第33回沼津あれこれ塾山田源治郎 講師大庭晃先生 録音動画





↓当日配布資料


↓当日配布資料抜粋


義民 山田源次郎について
 2020年1月
 1.江戸時代の西熊堂村
 *安永6年(1777)の「村明細帳」によると(領主は旗本久世より沼津藩水野に)
 ア.村高498石余…田高410石余(面積39町余)、畑高81石余(面積17町余)、屋敷6石余(面積6反余)、戸数57軒(本百姓53軒・水呑3軒・庵1軒)、人数224人(男117人、女107人)、馬5疋。
 イ.用水…当村用水は松沢水を利用、用水井組は東熊堂村、三枚橋町、上ヶ土町、当村の4ヶ村用水。天水場は堀合に9反5畝余ある。その他に門池掛り1町余。
 ウ.畑作物…大麦・小麦。夏は粟、稗、大豆、小豆、菜、大根、綿等。
 エ.農業の合間…肥やし支度、農間や雨天は男は莚縄作り、女は綿仕事。
 オ.百姓夫食…雑穀ばかり。
 カ.御年貢付加税…本石3斗5升に出目5升入れ4斗俵にて納める。
 キ.御口米…3斗5升入れ1俵に1升ずつ納める。
 2.石碑よりみた山田源次郎(慰英魂 山田源次郎之碑)
 ①石碑より
 文化年間(1804~1818)、飢饉がしきりに起こるが領主(水野氏)の収奪重く、郷民は生活に困窮。苛法の改正願うが、領主は聞かなかった。

→郷民は、三分の一・五升高廃止の紛擾を起こす。代表として源次郎は・領主に減租を要求。
→郷民は蜂起して、領主城下に逼り強訴しようとする。

→源次郎は、軽挙事を誤る、と強訴を止める。

→領主は大いに怒り、首謀者を探し出す。

→源次郎は自ら首謀者として名乗り出る。郷民は一揆の罪を免れる。領主は減租する。

→源次郎は24年間入牢、出獄してまもなく、天保11年(1840)1月20日、73歳で病没。永信寺に葬る。戒名は「寂静院宗閑日迢信士」。

→明治45年(1912)、郷民は翁の業績を永久に遺そうと、旧邸に石碑をたてた。



 ②文献よりみた功績
 ア.『駿東郡誌』(大正5年1916)
源次は文政、天保年間の人。長く名主を勤め、領主の年貢の過酷を憂い、減税を願うが聴かれず、同僚江藤茂七、川村半左衛門と謀り、領民数百人を率いて訴願した。領主は3人を留置し、農民を解散させた。2人は放免されたが、源次郎は数年拘禁。藩主は税法を改正し、領民の希望はかなった。明治45年村の有志者は碑を源次の旧邸地に建設しその功を表した。
 イ.『金岡村誌』(大正13年1924)
西熊堂山田家に生まれる。世々名主たり。文政・天保の頃、課税過酷で農民の苦一方ならず。これを憂いて減税を強訴す。為に入獄、数年の罪を蒙るが減税される。有志相謀りて翁が霊を慰めんと明治45年に碑を旧邸地に建設す。
 ウ.『沼津市誌』下巻(昭和33年1958)
文化年間、農作物の不作に加え、領主水野家の課税取立厳しくく村人の窮乏を救うため領主に願い出たが聴かれず、村人は強訴しようとした。これを「三分一・五升高騒擾」という。源次郎は首謀者と目されて投獄され、獄中で病気となり、家に帰されてまもなく没した。
 ③源次郎の名前について
 ・石碑の表には「山田源次郎之碑」と書かれているが、石碑の裏には「翁名源治郎姓山田氏…」となっている。
・永信寺の過去帳は「天保11年正月寂静院宗閑日迢 山田源次郎」と記載。
・「西熊堂村区有文書」の文化9年(1812)の「組合村方取極定書」には「名主源治郎」と記載。
・『駿東郡誌』や『金岡村誌』は「山田源次」・『沼津市誌』は「山田源次郎」
・「金岡村役場文書」の「煙火打上願」(明治45年)として、「故山田源次郎翁建碑式挙行に付16日に西熊堂字開戸畑中で花火を揚げるのを許可して欲しい」
 ④「三分一・五升高」とはどういう意味か
 *天保2年(1831)、沼津藩領だった五泉役所(現新潟県五泉市)は領内村々に対し年貢・諸役の方針をだした。(五泉は文政13年(1830)に沼津藩)その中に・年貢米本途は天保2年より陣屋元払米値段に五升高をもって三分一を金納とする。ただし、米納のできない村には皆金納を認める。などの記載がある。沼津でも三分一金納が行われていたので、年貢米の三分一をお金に換えて納めるときに一両に五升余分に納めさせたものと思われる。

 ⑤源次郎が果たした役割…二つの見解
 ・石碑…郷民の軽はずみな行動を戒め、自ら首謀者として名乗り出た。
 ・文献…名主として江藤茂七、川村半左衛門と謀り郷民数百人を率い強訴した。
 ※いずれにしても郷民から犠牲者を出さず、自分一身の責任とした。
 ⑥一揆が起こった時期はいつか。
 ・『駿東郡誌』は文政・天保の頃、『日本歴史大辞典』は天保8年、石碑は文化年間と様々な記録があるが、文化13年(1816)年と考えられる。
 ※文化13年の根拠は
 ・西熊堂村は村高498石余の村で、その内、田は410石余あった。文化13年には風損で177石余の田が収穫が皆無となり、課税される田高は231石7斗余だった。この年の「年貢割付帳」をみると田に対して108石4合を納めるように書かれている。実に4割6分余という高率の年貢が課されている。その上に11パーセントほどの斗立(はかりだて)と3パーセントの口米が課せられたので、6割もの年貢がかかったことになる。
 ・文化9年(1812)の「村方取極定書」(西熊堂区有文書E5)に西熊堂村名主に源治郎の名がある事。
 .・文化9年の「乍恐書ヲ以テ願上候」(岡宮持田家文書A8)に岡宮名主茂七の名がある事。
 ・明治45年(1912)の石碑も文化13年を根拠にしている事。
翁獄中にあること24年、病で家に帰され、じきに亡くなった。実に天保11年(1840)正月20日なり、と記載されている。
 ⑦年貢は下がったのだろうか。
 ・三分一・五升高がなくなったのかは文書からば判明しない。
 ・定免法のときは田方の税率は37.8パーセントほどだった。
 ・田方の税率は一揆が起こったとされる文化13年(1816)は46.6パーセントと極めて高かった。その後飢饉等で税率は年により上下変動が大きい,が、天保11年(1840)よりは定免法となり、税率も27.7パーセントと、以前の定免法よりも10パーセント下がっている。
 4.その他
 *源次郎の孫山田源太郎は嘉永4年(1851)より西熊堂村の名主になり、明治7年(1874)に第一大区六小区副戸長となる。
 *沼津藩主のこと
 ・初代藩主水野忠友…安永6年(1777)…三河大浜から沼津に移封。2万石の大名に。翌安永7年1月韮山代官江川より城地受取。後3万石に。
 ・2代藩主水野忠成…享和2年(1802)家督相続。将軍家斉のもと、奏者番、寺社奉行、若年寄をつとめ、文化9年(1812)西丸御用人、文化14年(1817)老中格に、文化15年(1818)勝手掛、文政元年(1818)老中になる。文政4年と文政12年(1829)に各1万石加増され、5万石の大名となる。
 *年貢は下がってきたか
 ・天保11年(1840)4月に村役人は定免願の次のような文を役所に提出。
 乍恐以書付奉願上候
 私共村方退転仕程の極難渋仕、十五年以前より検見願ったが、刈旬に手が廻らず、諸帳面仕立方も手廻り兼ね、諸費相掛り難儀、是非定免願う。
 ・グラフをみると天保11年より願い通りに定免になつており、田の年貢率も27.8パーセント程と以前より大分下がっている。
 5.用語の解説
 ・石盛…田畑や屋敷の反当り収量。検地で田畑を上・中・下・下々などの等級に分け、収穫量を算出した。たとえば、西熊堂村の上田の石盛が13というと、一反につき米が1石3斗収獲できるということ。
 ・斗立(はかりたて)…年貢米を計るとき、1俵あたり3升などの余米を加えること。延米・出目米と同義。
 ・口米…田畑の本年貢にたいする付加税。1石に3升の例が多い。お金の場合は口永。
 ・込米…欠米とも。年貢米輸送や保管の際に生ずる欠損分を補うため余分に入れた米。
 ・定免…過去数年間の平均年貢率や年貢高に基づき豊凶に関わらず定率または定額で貢を納める方法。
 ・検見取…その年の収穫量から年貢高を決定する方法。
 ・山手役…領主の御林に立ち入り、落葉や薪を採取する代償として賦課された小物成。
 ・見取…新開地や収獲不安定な土地に対し、反別を計測して年貢を賦課すること。
 〈補足〉
 百姓一揆の形態には、大別すると
 ①越訴…手続きをとらずに上級機関に訴願する事。
 ②強訴…集団の圧力で要求を強いる。
 ③逃散…訴願を貫徹するため居村を立ち退き、集団的に移動する(隣領等へ)。
 ④打ちこわし…集団で家々に乱入し、家財や書類等を破壊する。
 6.金岡・大岡地区の村の変遷
 ・大岡地区…上小林・下小林・上石田・中石田・下石田・木瀬川・日吉・高田の8ケ村。
 明治6年に上小林村は北小林村に、下小林村は南小林村になる。
 明治7年(1874)に8ヶ村は合併して大岡村の成立。
 ・金岡地区…岡一色・岡宮・東熊堂・西熊堂・東沢田・中沢由・西沢田・沢田新田の8ケ村。
 明治22年(1889)に合併して金岡村の成立。
 ・両村は昭和19年(1944)に沼津市と合併し、沼津市金岡、沼津市大岡となる。


『山田源次郎石碑解読 (発起人は金岡村長植松久二・大岡村長井口熊次郎)
 慰英魂 翁、名は源治郎、姓は山田氏、駿河国駿東郡西熊堂村の人にして、当主順作氏の曽祖父也。幼にして聡慧、最も仁義に篤く、長じて里正に挙げられ、郷民信頼す。文化年間、飢饉頻りに起こるが領主の年貢の取り立てやまず、郷民衣食給せず、飢え凍える日多く、因って苛法の改正を請う事再三、而して聴かれず。役人と里民の間に紛争連年、当時之を「三分一、五升高廃止の紛擾」と称し、今尚口伝えになっている。此の時に当たり、翁推されて郷民の代表となり、村内では頻りに窮民救済の策を講じ、出てはしばしば領主に訴え、減租を請う。日夜奔走、家を棄て食を忘る。家の仕事は傾廃し、妻子は飢渇す。しかし顧みる暇あらざる也。一日翁外に在り、たちまち伝者有、郷民蜂起、将に領主の城下に迫り、強訴する所有らんとす。翁驚愕、走り帰れば則ち既に民衆城に近づく。翁身を挺して道を遮り、諭すに軽挙は事を誤るの理を以てし、嘆いて涙を流す。郷民固より篤く翁を信ず、よって以て事無きを得たり。然るに領主変を聞き大いに怒り急ぎ首謀を求む。翁謂う、事既に是に至る、身を以て衆の代わりに如かずと、乃ち独り城中に至り、自ら首謀と称し、罪を請い獄に投ず。郷民皆免を得たり。翁在獄二十四年、其志益々堅し。領主始めて税を減じ又免ず。翁獄を出ず。翁たまた病有り、家に帰り未だ幾ばくならずして残す。実に天保十一年(一八四〇)正月廿日也。享年七十有三、永信寺の墓域に葬る。戒名は寂静院宗閑日迢信士という。鳴呼翁の如きは深学の者と謂うべきではない。而して義を重んじ難に赴き、身を殺して仁を為す、古のいわゆる仁人義士也。翁歿後未だ其事の表章有らざるは洵(誠)に郷民の遺誤也。今茲に郷民相議して碑を翁の遺跡に建て、以って其の状の不朽を伝えんと欲し、銘を請う、乃ち銘に曰く富山の麓 駿海の浜 秀麗積気 時生偉人 行仁救衆重義忘身 牢につながれるは罪にあらず 無実の罪自ら伸ぶ 山は欠けざるに非ず 海非不烟 英魂不朽 長く石に刻んで残す
 明治四十五年三月八日 東京 三木貞一 駿河 本多藤江』(当日配布資料より)


 山田源次郎めぐる当時の状況
 あれこれ塾 大庭晃さんが解説
 NPO法人海風4725日、郷土史講座「沼津あれこれ塾」を市立図書館で開催。元中学校教諭で市史編纂事業にも携わった大庭晃さんが「山田源次郎をめぐって」と題して話した。

 山田源次郎(17681840)は、今から約200年前に沼津藩で起きた年貢減免運動で奮闘したとされる人物。西熊堂村の名主で、現在の金岡地区西熊堂に顕彰碑が建っている。
 この碑によると、相次ぐ不作で生活が困窮した村人が、藩の増税政策である「三分一・五升高」制度(*)の廃止を求めて一揆を起こそうとした際、源次郎は村人を説得して一揆を中止させた。藩が一揆騒ぎの捜査を始めると、源次郎は村人の身代わりとなって自首した。源次郎は罪人として投獄されたが、年貢は減免されたという、源次郎は24年後に釈放され、まもなく病死した。
 西熊堂では源次郎への感謝の念で、明治45(1912)に源次郎宅跡に同碑が建立された。建立の発起人として、当時の金岡村長と大岡村長が名を連ねている。
 この一方で、大正期に編纂された地方誌では、一揆は未遂ではなく実際に決行され、源次郎が一揆のリーダーとなったと記されている。
 大庭さんは、当時の様々な資料に基づきながら、源次郎の事績の実縁に迫った。
 それによると、約200年前の西熊堂村に源次郎と見られる名主がいたことを示す史料は存在するが、源次郎が関与した年貢減免運動を記録した史料は未発見であるため、一揆の実像については様々な史料を組み合わせて推測することになるという。
 その1つとして、年貢減免運動が起きた年の確定がある。年についての明確な記録はないが、大庭さんは西熊堂村の年貢納入記録に基づいて当時の年貢率や不作の状況を分析した上で、これは文化13(1816)の出来事だったと推測する。なお、源次郎の没年から入獄期間の24年を引くと1816年となるので、一致する。
 ただ、文化13年以降の年貢率の記録を調べても、年貢率が下げられた形跡は見られないという。年貢率が明らかに低下したのは天保11(1840)で、これは村人の要望によって年貢徴収方法が変更されたことによるものだった。
 年貢減免運動の規模について大庭さんは、西熊堂村は現在の金岡地区や門池地区、大岡地区にあった村々と組合を作っていたことから、こうした村々と連携して運動が行われた可能性を挙げ、源次郎顕彰碑の発起人に大岡村長が加わっているのは、そうした一面があったからであると指摘した。
 (*)年貢の3分の1を米ではなく現金で納付させ、その際に金1両につき米5升分の価格に相当する金額を上乗せする制度。
【沼朝令和2年1月30日(木)号】

2020年1月18日土曜日

大正時代の大火跡か 焼失陶器店近く多量の器片発見


大正時代の大火跡か
 焼失陶器店近く多量の器片発見
 市がきょう調査 沼津の工事現場
 沼津市魚町の県道工事現場で、地下約八十㌢の層から多量の陶器のかけらが発見された。現場前にある陶器店が明治-大正暁代の大火で焼失した時に捨てられた陶器の破片とみられ、当時の町並みなどを示す資料として二十二日、市文化財センターが収集、調査することになった。
 陶器のかけらが見つかったのは、狩野川と平行した県道・沼津港線(通称・さんさん遡り〉で行われている道路舗装・補修工事現場。破片は深さ約七十-八十㌢の層で見つかり、周囲の土は焼けたように赤くなっている。
 かけらが見つかった通りの前には明治元年創業の陶器店「いせう」(須歴満代表)があり、現場からは当時の陶店の名「伊セ卯」が焼き付けた萬古燒のせん茶茶わんも見つかった。
 沼津市内では明治から大正にかけて数回の大火に見舞われた記録があり、「(かけらは)大正二年の沼津大火の時のものでは」と須磨さん。
 調査では、同店の当時の品ぞろえから当時の流通の様子なども推察できるとみられ、
調査の成果が期待されている。

【静新平成8(1996)522(水曜日)



2020年1月14日火曜日

沼朝昭和39年6月7日号記事「国道地下道完成 十日から開通」今は蓋がされ塞がれている


旧国道地下道関連記事
 国道地下道が完成:十日から開通
地上横断歩道の存続か、廃止かでもめ、長びいた大手町の国道横断地下道はこの程ようやく完成、八日朝九時から国と県係官立合いで竣工検査を行なった上、十日午前十時から完成式を行う。
 岡地下道工事は昨年十月十五日、工費三千百二十万円で藤田組が請負って着工した。鉄筋コンクリート造りで昇降道(四つ)は巾二㍍、長さ八・七㍍、地下道は深さ六・四㍍で巾六㍍、長さ十六㍍。地下道添い両側に各四店舗、計八店舗(十九・八平方㍍、モルタル床、フレキシブルボード天井、防水モルタルビニールペンキ仕立てのカベ、電気、水道、ガス付)があり南側に男女別の水洗便所電気機械室が設けられている。
 このほか階段通路には螢光燈八〇ワットが十六カ所空気調整設備(三十馬力、クーリングタワー方式、冷房つき)などがある。地下街の八店鋪は銀座商店街と仲見世商店街から各四店舗が入ることになっている。寄付金二百万円に家賃は一万五千円ぐらいが予定されている。
(沼朝昭和3967日号)


 利用されぬ地下道
 地上横断は危険倍加

 大手町の商工会議所前国道横断地下道は、国道の交通混雑から市民を守るため、多額の費用と半年余の時間をかけて去月はじめやつと開通したが、出入口の設計が悪く歩行者の目に止まらないことや、施設も完備していないため、利用者が少く、同所の歩行者のほとんどが国道上を横断しているため、いぜん危険な状態がつづいている。このままでは、交通事故を続発させる危険が大きいだけに、地下道を利用させるための対策を早急に行う必要が痛感されている。
 市民を交通事故から守る一ため三千百二十万円で建設された大手町の国道横断地された大手町の国道横断地下道は、開通後二カ月になろうとしているにもかかわらず利用者がほとんどなく歩道もない国道上を危険を犯して横断する人達が後を断たないだめ、地下道を利用させるための根本的な対策が強く望まれている。
 地下道は予算不足や立地条件の悪さのため、仲見世ー銀座通りの通行者に利用させるためつくられたにもかかわらず、四ヵ所の出入口はいずれも両通りとは反対側に向ってつくられているため、利用しにくいこと地下横断歩道を示すわかり易い標識などの施設がないため気付かないこと、中に収容されることになっている八店舗の開店が遅れチンピラなどがうろついていること、などの原因で通行者の中には地下道をあえて避けて通る人達まで出ている通行者のほとんどが、国道上をしっ走する多数の車の間を縫う危険を犯しているだけに、交通事故が起きる可能性は、地下道ができる前以上に高い。最近では子供連れの母親が車にはねられけがを負う宴故が現実一に発生しているほか、間一ぱつ事故から逃れているきわどい事態が一日に何回となく続いているため、付近の人達は「危ぶなくて見てはいられない」という。
 現状のままでは大金を投じた施設も宝の持ち腐れになってしまい、市民をあえて危険にさらすことにもなるので、地下道内部に収容する八店舗の開店を早め、魅力ある地下道をつくるとともに、国道上を歩いて渡らせないように指導する。
(沼朝昭和397月 号)

 味のちか道 本日開店
 ありがとうございました
 味のちか道(国道地下街)は皆様の御力のおかげをもちまして本日新装開店の運びとなりました。
 本当にありがとうございました。
 これからは常にお客様への感謝の心をこめて良いものを少しでも安くご利用いただけます様努力致しまナ。
 今後共よろしく御引立の程をお願い申し上げます。
 味のちか道 八店の店主 従業員一同
 開店ご案内
  志るこ あんみつ コーヒー
ニユーいせや
  そばうどん ラーノン 生ジユース
 味のマルトモ
  おにぎりは,
喜久屋
  ベビーふとん ママの夢がいっぱい
 すぎやまふとん店
  うな井 蒲焼
 うなぎの いな岡
○ あなたの洋服なら
 テーラートガシ
  鯉各種 金魚 熱帯魚
 川口養魚店
  たばこジユース 公衆電話
 仲見世商店街事務局
(沼朝昭和40320日号広告)

2020年1月12日日曜日

「豊臣大名中村一氏の駿河支配と沼津地域」講師:柴裕之先生 録音動画


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豊臣譜代大名中村家の駿河支配と沼津地域
①中村一氏
・中村家の本国は尾張国と伝わり(『断家譜』ほか)、一氏の生まれも尾張国とされる(「本荘元子氏蔵中村系図」『新修米子市史』第8巻資料編近世1)。
・生年は不詳。通称は孫平次。
・羽柴秀吉の家臣として、その活動がみられだすのは、天正10年(1582)6月13日の山崎の戦いで惟任(明智)軍を打ち破るという奮闘した一人として管見(「金井文書」『豊臣秀吉文書集』512号文書)。
・天正11年(1583)の伊勢攻めや賎ヶ岳の戦いに従軍。戦後、和泉岸和田城(大阪府岸和田市)の城主として活動する(「中村孫平次岸和田城主」『貝塚御座所日記』天正11年7月16日条)。
→秀吉居城の摂津大坂城南面の守衛を担当する。
・天正12年(1584)には、敵対する紀伊根来寺衆・雑賀衆を岸和田で迎撃する。→翌天正13年の紀伊攻めでは、秀吉軍の主力として活動。
・天正13年5月、和泉国岸和田から近江国甲賀(滋賀県甲賀市)へ移封(『貝塚御座所日記』天正13年5月8日条)、近江水口岡山城の城主となる。
・同年7月11日、秀吉の従一位関白叙任に伴い、従五位下式部少輔となる(『歴名土代』)。
・同年閏8月、羽柴秀次が近江八幡城(滋賀県近江八幡市)の城主となり、秀次付の武将となる(『四国御発向並北国御動座記』)。
・天正18年(1590)の小田原合戦では、総大将の秀次のもと伊豆山中城(静岡県三島市)の攻略に戦功をあげる。
②中村家の駿河支配と沼津地域
・天正18年(1590)7月、小田原合戦後、中村一氏は尾張国に入封することになった豊臣一門大名の羽柴秀次に附属された豊臣譜代大名として駿河国を与えられる。
・豊臣政権期の駿河国(15万石)は、一氏の領国(14万5000石)と羽柴家蔵入地(5000石)で構成(『当代記』)。
→文禄4年(1595)7月には蔵入地分が加増され、駿河一国が中村領国となる。
・居城は旧徳川家の居城でもあった駿河国駿府城(静岡県静岡市)。
・秀吉による領国内の徳川期の債務破棄(徳政)の実施(「尊経閣古文書纂編年文書」『愛知県史』資料編13織豊3所収)。また重要寺社領については、天正18年(1590)12月に秀吉から所領・権益保証がなされる(池田照政を除く他の秀次付東海諸将の豊臣譜代大名も同様【史料6】)。
・領国における家臣への所領給与(【史料4】)、寺社領の給与・権益保護、国役(主として普請)賦課1職人統制、通行管理(【史料5】)などを、中村家が領国大名として実施。
・秀吉とその側近(豊臣政権中枢)は、中村家に重要寺社領や領国外の活動について指示を下すが【史料6~8】、領国支配は中村家の判断に基づく統治=自治に委ねられる。
基本的に政権の領国運営への介入は支障のない限りおこなわれない。
・豊臣大名の特徴
…領国運営の一方で、臣下として軍事・在京奉公を勤める。このため大名当主不在の状況が出現。→後継者の代行、宿老や吏僚的家臣らによる領国支配の遂行。
・中村家の場合も、前述のように当主一氏は秀次付東海諸将の一人として活動し、秀次が関白となると在京奉公が求められる。
→一族や重臣が領国運営を担う。そのなかでも中心的に担ったのが、宿老の横田村詮(よこたむらあきら)。
・横田村詮
…阿波三好家の家臣、一氏に才能を見出されて登用され、妹婿となったうえ、領国運営を担当する宿老として活躍(『中村一氏記』)。また、駿河田中城(静岡県藤枝市)の城代も兼任。
・一氏に代わり、不在時の領国運営を主導。その活動による発給文書数は100点以上におよぶ。
→中村家による駿河支配は実質は横田村詮主導のもとで実施。
・中村家による沼津地域支配
…三枚橋城に弟の中村氏次(うじつぐ)(のち一栄(かずよし))、興国寺城に重臣の河毛重次(かわげしげつぐ)が配置される。
→それまでの地理的・歴史的事情や羽柴領国の最東端にあたることから、沼津地域は中村家の統治期も一門や重臣が配置される領国の重要地域としてあった。
・中村氏次・河毛重次の活動
…城代として管轄地域内の寺社領の給与と権益保護(【史料9~13】)。【史料11】発給者の矢野種次は氏次の代官か。
・その一方で、長澤秀綱の活動が管見【史料14】。秀綱は村詮のもとで活動する代官か。
→沼津地域は三枚橋領と興国寺領のほかに、中村家の直轄領で構成されていたか。
それぞれの範囲は不明だが、沼津地域の東部が三枚橋領、西側が興国寺領で、北部が中村家直轄領か。今後も検討が必要だが、併せて関ヶ原戦い後の徳川権力下の沼津地域支配との関連があるのかもしれない。
・検地などの領国政策は他の地域と同様に実施されるが、その地理的・歴史的事情から領国内でも独自の地域運営が展開。
*中村家の領国検地
・・天正18年(1590)と慶長(けいちよう)4年(1599)に実施。このうち慶長4年の領国検地は政権奉公などに伴う疲弊状況に対する領国改革のなかで、宿老の横田村詮主導のもとで本格的に実施。村詮は検地の実施とともに、6~8月に領国内の各村に今後の支配方針としての法度を発給。
*慶長4年(1599)6~8月横田村詮法度【史料15】
…現在42点が確認。【史料15】は、中石田村(静岡県沼津市)の惣百姓中に出されたもの。沼津市内には、このほかに上石田村の惣百姓中に出されたものがある(「井口亘生氏所蔵文書」『沼津市史』史料編近世3p241)。
村詮法度の内容
…年貢と夫役(ぶやく)の規定(年貢・夫役の賦課率制定)、給人の恣意的な徴発禁止、米・大豆の交換比率、大名権力への直訴の保障など今後の支配関係を整備。米・大豆の交換比率を定めたところでは、駿東郡は沼津における相場(和子(わし))で実施を明示。
「米与大豆之わりハ、駿東郡之分ハ沼津にての売買之わしを以可相済候、其外之郡ハ府中之売買を以可相立候」(【史料15】とは別記載の村詮法度)
※沼津地域は、中村領国の中でも独自の地域として運営され、展開していた。
③豊臣政権内部の対立による情勢の展開と中村家
・「唐入り)長期化による国内の疲弊。そのなかで文禄(ぶんろく)2年(1593)8月3日の後継男子である拾(ひろい)(のちの羽柴秀頼)の誕生による太閤秀吉勢力と関白秀次勢力の対立、文禄4年(1595)7月に秀次事件(関白秀次が高野山へ出奔し自刃)が惹起【矢部2016】。
→事件鎮静の中で、秀次付東海諸将では、渡瀬繁詮が失脚し、有馬豊氏が代わって遠江横須賀領の譜代大名となる。中村一氏は駿河一国(15万石)の加増領有。
・政権は続けて天下人秀吉の病気と後継秀頼の幼少という政治危機を抱える。
・この事態に、それまで政権を支える立場にあった徳川家康ら有力外様大名が政権中枢の運営に参加へ。秀頼の成人まで秀吉の側近集団との協働で政治運営にあたることになる。これが、いわゆる「五大老」・「五奉行」の設置、豊臣政権の体制保持に努める。
・慶長3年(1598)8月の秀吉死後、五大老の一人でなおかつ羽柴家親類にあった家康は豊臣政権の主導者として活動。それに対する反発が政争を引き起こしていく。
・この事態に家康は従わない勢力に征討の対応を示す。
→慶長5年(1600)7月、不服従を示した陸奥国会津(福島県会津若松市)の上杉景勝(かげかつ)の征討(会津征討)が実施へ。中村家ら車海諸将の豊臣譜代大名も従軍。
・但し一氏は重病にあり、弟の氏次を「名代(みょうだい)」(代行)に軍勢を派遣。7月25日に一氏は死去(『藩翰譜』)。7月27日、.家康から中村家の領国運営と軍事対応は氏次と横田村詮に任される(【史料16】)。
・陸奥国会津へ向かう進軍の途次に、毛利輝元や石田三成らの反徳川勢力(いわゆる西軍)が蜂起し、豊臣政権の中枢を押さえれてしまう。この結果、家康と徳川方諸勢(いわゆる東軍)は、秀頼・豊臣政権に敵対する存在となった。
・反勢力を討つべく徳川方諸勢の西上→慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦いに至る。
・関ヶ原の戦いでの家康の勝利。しかしながら、この段階の家康は名目的には秀頼「名代」(代行)としての豊臣政権内の天下人でしかなかった。
・徳川家はその戦後処理を経て、機能を果たさなくなった豊臣政権から自立し、羽柴家に替わる天下人としての立場を固めていく。
→慶長8年(1603)2月、家康の征夷大将軍任官=天下人公認、江戸開幕へ。
・中村家は駿河国から伯耆(ほうき)国米子(鳥取県米子市)17万5000石の加増移封。一方、沼津地域は、徳川関東領国地の西境という地理的位置のもとで新たな展開をみせる(2017・2018年度歴民講座の内容)。
おわりに一豊臣政権下の沼津地域とその後_
・戦国期の沼津地域
・・関東への「東境目」という地域事情のもとに、独自の歴史的展開を歩む。
・豊臣政権期の沼津地域
…上記の地域的・歴史的条件を前提に、豊臣政権の関東・奥羽地方への事態に備えた要地へと展開。
・天正18年(1590)7月の徳川家康の関東移封、織田信雄の改易
…羽柴領国の最前線という状況も加味され、譜代大名の中村一氏の駿河国配置。
・中村領国下の沼津地域
…一族・重臣の城代が配置され、領国内でも独自の地域として運営。
・関ヶ原の戦い後の中村家
…駿河国から伯耆国へ移封。若年の忠一を叔父の中村一栄(氏次)と宿老の横田村詮が後見。一栄は慶長9年(1604)3月に死去。一方、忠一と村詮との間で対立が発生し、慶長8年(1603)11月14日の饗宴中に、忠一は村詮を殺害(享年50)。村詮の後継・主馬助は忠一に蜂起。忠一は出雲国松江(島根県松江市)の堀尾家の援護を得て鎮圧。だが忠一も慶長14年(1609)5月11日に頓死、享年20。無嗣断絶(『中村一氏記』ほか)。
・関ヶ原合戦後の徳川家の天下人化(徳川権力としての展開)と領国の拡大
→以後、沼津地域に、徳川関東領国地の西境という地理的位置を新たに付与する。
・その後、徳川頼宣・忠長の駿府藩期に駿河国のなかでの一地域として編成されるが、寛永9年(1632)10月、忠長期駿府藩の改易を経て、沼津地域=駿東郡は再び関東領国地の西境という地域事情を示し、それに伴い幕府領・旗本知行地・小田原藩の領地となるという、近世初期の支配展開をたどる(2017・2018年度歴民講座の内容)。
※豊臣期の沼津地域は、戦国時代の地域的・歴史的展開のうえに、豊臣政権の関東・奥羽地方の事態に備えた羽柴領国の最前線に位置、独自の地域運営を実施。
主要参考文献
池享「戦国・織豊期の沼津」(同『戦国期の地域社会と権力』、吉川弘文館、2010年)
黒田基樹『羽柴を名乗った人々』(KADOKAWA〈角川選書〉、2016年)
『近世初期大名の身分秩序と文書』、戎光祥出版、2016年)
柴裕之『徳川家康境界の領主から天下人へ』(平凡社、2017年)
「織田信雄の改易と出家」(『日本歴史』、2019年)
平山優「豊臣政権下の大名と甲斐」(『山梨県史のしおり通史編3近世1』、2006年)
藤田恒春『豊臣秀次の研究』(文献出版、2003年)
堀越祐一『豊臣政権の権力構造』(吉川弘文館、2016年)
本多隆成『近世初期社会の基礎構造東海地域における検証』(吉川弘文館、1989年)
矢部健太郎『豊臣政権の支配秩序と朝廷』(吉川弘文館、2011年)
『関白秀次の切腹』(KADOKAWA、2016年)
『静岡県史』通史編3近世1(静岡県、1996年)
『新修米子市史』第2巻通史編近世(米子市、2004年)
『沼津市史』通史編原始・古代・中世(沼津市、2005年)、『同』通史編近世(沼津市、2006年)
『山梨県史』通史編3近世1(山梨県、2006年)
『愛知県史』通史編3中世2・織豊(愛知県、2018年)
画像
羽柴秀吉の画像…名古屋市秀吉清正記念館『館蔵品目録』から転載。
羽柴秀次、中村一氏、横田村詮…東京大学史料編纂所肖像画模本データベースから転載。
中村一氏の花押…『駿河志料』から転載。

(令和2年1月11日歴民講座「豊臣大名中村一氏の駿河支配と沼津地域」柴裕之当日配布資料5・6・7・8頁)

下記沼津朝日新聞【沼朝2020(令和2)119(日曜日)】↓

豊臣大名中村一氏の駿河支配
 沼津地域との関わり歴民講座で

 市歴史民俗資料館による郷土史講座「歴民講座」が11日、市立図書館の視聴覚ホールで開かれた。歴史学者の柴裕之さんが「豊臣大名中村一氏の駿河支配と沼津地域」と題して、江戸時代直前の沼津の位置付けについて解説した。
 江戸時代直前の位置付け
 歴史学者の柴裕之さんが解説
 主役の経歴中村一氏は、尾張国(現在の愛知県西部)出身とされる戦国武将で、豊臣秀吉の部下として活躍し、出世を遂げた。記録が残っている最初の活躍は、本能寺の変の直後に秀吉が明智光秀を破った1582年の山崎の合戦だという。その後、和泉国岸和田(大阪府岸和田市)の城主となり、近江国甲賀(滋賀県甲賀市)を経て、同国水口岡山()の城主となる。この頃、秀吉の甥秀次の部下となった。
 1590年に秀吉が小田原の北条家を攻めると、一氏は秀次軍に所属して山中城(三島市)の戦いで活躍。その後、駿河一国を与えられ、駿府城主となった。
 家康の関東移封一氏が駿河の大名となったのは、それまで駿河を含む東海5力国を支配していた徳川家康が関東に領地替えとなったことに端を発する。関東一円を支配していた小田原の北条家が滅亡すると、秀吉は関東の元北条領を家康に与え、それまで家康が拠点としていた東海地方には秀次とその部下が入った。
 この家康の関東移封は、従来は家康を恐れた秀吉による左遷政策と見なされていたが、近年の研究では、異なる見方が示されているという。
 秀吉は、天下統一の障害となる東日本の諸大名との外交では家康の協力を必要としており、家康を通して外交を行っていた。一方の家康は、政略結婚によって秀吉の親族となることを選び、豊臣政権内での地位を上昇させていた。両者が敵対していたというのは、後世に作られたイメージに過ぎないと柴さんは指摘する。
 両者は緊密な協力関係にあったため、家康の関東移封は、秀吉が東日本を家康に任せるために実施されたと考えられるという。従来の左遷説では、家康の新本拠地となった江戸が田舎であることが強調されるが、実際の江戸は関東の経済の中心地として早くから発展していた土地で、北条家も江戸を新拠点とする構想を抱いていた。
 沼津の持つ意味 西から見て関東への入り口に当たる沼津の地は、軍事や経済の重要拠点と見なされ、戦国時代には武田、北条、今川の有力大名による争奪の対象となった。
 この3者の争いで最終的に沼津の地を確保した武田勝頼は、三枚橋城を築いて北条軍への備えとした。武田家滅亡後に沼津を手に入れた家康は、国境防備の専門家である松井忠次を三枚橋城の城代に任じ、関東の北条への備えとした。
 武田と徳川にとって沼津の地は東の国境地帯であった。
 中村一氏が沼津を含む駿河一国の大名となってからも、この状況は続く。一氏の上司の秀次は、家康と共に東日本の諸大名に備える立場にあり、秀吉や秀次から見ると、沼津は豊臣勢力圏にとって東日本との国境地帯であった。
 一氏の沼津支配 中村一氏は、豊臣政権の要人である秀次の側近として京都に滞在していた。
 このため、領地の管理や運営は重臣の横田村詮(よこた・むらあきら)に任せられた。横田は四国の戦国大名三好家の家臣だった武将で、一氏に才能を見い出されて家臣となったという経歴を持つ。その一方で、沼津の地では、興国寺城に河毛重次(かわげ・しげつぐ)という重臣が配置され、三枚橋城には一氏の弟である中村氏次(一栄)が派遣された。このほか長沢秀綱という代官の存在が史料から明らかになっている。
 横田は駿河国内の村々に法度(はっと)と呼ばれる規則集を出した。法度には、沼津を含む駿東郡に対しては特例が示されている。この特例は米と大豆の相場に関するもので、他地域では駿府の相場で取引することを求めているが、駿東郡は独自の相場で取引することを定めている。これは沼津が国境地域として独特の立場にあったことを示しているという。
 その後の秀吉・家康二氏 秀次と家康が協力して秀吉を支えるという体制は、秀吉に実子の秀頼が生まれたことで破綻した。それまで秀次は秀吉の後継者と見なされていたが、秀頼の誕生によって秀次と秀吉の間に対立が生じ、秀次は自害に追い込まれる。
 そして、秀頼が成長する前に秀吉が病没すると、豊臣政権は政権運営者が不在となってしまった。
 この権力の空白を埋めるため、有力大名による集団指導体制が作られ、秀吉の親族である家康がリーダーとなった。しかし、石田三成などはこの動きに反発し、新たな対立が起きた。関ヶ原の合戦で集団指導体制内の有力大名が軒並み没落すると、豊臣政権は維持できなくなり、家康は独自の新政権を樹立するに至る。
 この間の一氏は、秀吉と秀次の対立では秀次派から秀吉派に鞍替κした可能性があるという。この後、一氏が加増されて領地が増えているのが証拠となっている。
 秀吉没後の混乱が起きると、一氏は病床にあったため、弟の一栄を家康の元に派遣。一氏は関ヶ原の合戦の直前に死去した。関ヶ原後、中村家の領地は伯耆国(鳥取県西部)に一移った。
 伯耆の中村藩では、一氏の息子の忠一と横田村詮が対立して横田が殺害され、間もなく忠一も20歳の若さで子のないまま突然死し、中村家は改易された。
 終わりに 柴さんは講演のまとめとして、戦国時代から江戸時代初期に至る沼津の立場について振り返った後、「時代の流れを見てみると、私達は結論を知っているので後ろから見てしまうが、一つ一つの時代の流れを前から見ていくと、また違った歴史像が浮かんでくるのではないか。きょうの話を通して、皆さんが、これまでと違ったことを得られる機会になれば嬉しいです」と話した。この歴民講座には142人が参加した。
【沼朝2020(令和2)119(日曜日)

2020年1月10日金曜日

令和2年1月18日沼津ふるさと講座「田口卯吉・上田敏」講師:嘉冶憲夫



沼津ふるさと講座
令和元年度 沼津郷土史研究談話会
(略称・沼津史談会) 主 催

『田口卯吉・上田敏』
国登録有形文化財「田口家住宅」
     の歴史と関りのあった方々
         講師:田口家住宅の6代目住人
    嘉治 憲夫 (かじ のりお)
  昔の小石川、現在の東京都文京区にある西片(にしかた)町は、江戸時代は福山藩主・阿部家の広大な屋敷だった。
  明治5年、その千坪を借りた初代は桜井熊一2代目の弟・木村熊二乙骨太郎乙(おっこつたろうおつ) と終生の友だった。そこに幼くして父を亡くした田口卯吉がいて、二人に助けられて沼津兵学校に入学し多くの友を得た。そして沼津から東京に戻った田口は3代目の住人となり、乙骨の甥・上田敏も住むことになった。
4代目は卯吉の長男・田口文太で、輝かしい経歴の一方、卯吉の借金を30年で支払う苦労も背負い込んだ。
5代目は長男の田口親(ちかし)。その後、平成224月に国の登録有形文化財となった住宅を守るのは、親の甥に当たる嘉治憲夫氏で、妻・一子さんと共に6代目の役割を引き受けている。

  田口家は沼津兵学校との関りでは、地縁としては阿部正弘の福山藩士となって、この地に住み、維新に伴い静岡に移り兵学校で員外教授を務める一方、沼津で国勢調査に挑んだ杉亨二(すぎこうじ)がいる。杉の長女はるの夫手島精一は沼津藩士・田辺家の出身で西片に住み、晩年の杉亨二はここで過ごすことが多くあった。
血縁、学縁としては、乙骨太郎乙の妻・は医家・杉田家の出身で沼津との縁が深い。一方、上田敏の孫娘・玲子森鴎外の孫・小堀鴎一郎と結ばれ、鴎外の同郷で兵学校頭取の西周(にしあまね)と間接的に繋がる。
鴎外は統計にも造詣が深く、西周に学んだ杉亨二を始め大隈重信福沢諭吉などと同様に、統計学の歴史を歩んだ共通性もある。

本日の嘉治憲夫氏のお話しには、沼津兵学校の関係者の深い絆を探るために150年後の今日、初めての情報が数多く含まれており、これからの兵学校研究のために大いに役立つものと思われます。
<以上、解説はすべて主催者>
           令和2年(2020年)118日(土)1330分~
沼津市立図書館4階 第3講座室

足柄峠 浜悠人



足柄峠 浜悠人


 先日、足柄峠を訪ねた。峠は、小山と小田原を結ぶ箱根山の旧道に質峠の謂(いわ)れは次のようであった。
 「古代、足柄峠は都と東国とを結ぶ要路であった。大和朝廷の昔、日本武尊が東征の帰路、この峠に立ち弟橘姫をしのんで"あづまはや"と叫んだという記述が古事記にある。奈良時代東国の任地に赴く役人たちが、ここで都に最後の別れを告げ、また防人の任におもむく東国の農民たちも、この峠で故郷に残した肉親を思い、心の叫びを詠じている。こうした万葉人の痛切な声は時代を越えて今もなお私たちの胸をうつ…」
 峠から矢倉岳に向かう途中に万葉広場を見つけた。広場には点々として七カ所に万葉の東歌(あずまうた)の歌碑が刻まれていた。東国の人達が詠んだ歌を東歌といい、万葉集巻十四には二百三十首程がある。
 また、防人(さきもり)のため徴用されていた兵や、その家族が詠んだ歌は百首以上が万葉集に収録され、東歌と共に古代の生活様相を伝えている。
 防人なるものの成立や制度について記すと、西暦六六三年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍(日本軍)が、自村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に唐が我が国に攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のために設置された。
 「さきもり」という読みは、古来、岬や島などを守備した「岬守」や「島守」の存在があり、これに唐の制度であった「防人」の漢字をあてたのではないかとされている。
 防人の任期は三年で、往復の食糧と武器は自弁であった。大宰府が指揮にあたり、壱岐、対馬および筑紫の諸国に配備された。当初は遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除されることなく、農民にとって重い負担であった。徴集された防人は九州までは係が同行するが、帰郷の際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかった。
 足柄の万葉広場の東歌や防人の歌碑を紹介する。
 ○足柄の御坂(みさか)に立して袖振らば家(いは)なる妹(いも)は清(さや)に見もかも
 この一首は、埼玉郡(こごうり)の藤原部笄母暦(ともまろ)が詠んだもので、「防人として足柄山のみ坂に立って袖を振ったなら、家に残った妻は、それとはっきり見るだろうか」と妻への別れを惜しんだ痛切な思いが詠まれている。
 ○わが背子(せこ)を大和へ遣りてまつしたす足柄山の杉の木()の間か
 右の一首は、夫を勤番として大和へ送り出した妻の歌である。その意は、「夫を大和へ送り出してしまった私は足柄山の杉の木の間に立って待っています」というもので、「まっしたす」は「松」に「待つ」を掛けたのであろう。
 また、歌碑にはないが東国の任地に赴く役人の歌。
 ○足柄の箱根飛び越え行く鶴(たづ)の乏(とも)しき見れば大和し思ほゆ
 この歌の意は、「足柄から箱根の山を飛び越えて西へ向かう鶴の数少なく寂しげなのを見るにつけ、大和がひとしお偲ばれる」というもの。
 広場にある七つの歌碑を巡り、全てを紹介したいが、今回は、このあたりで結びとしたい。
 足柄峠の謂れの最後に、「ここ足柄峠は標高七五九㍍、当時の旅人たちは畏怖のあまり思わず"足柄の御坂かしこみ"と峠の神に手向けせずにはいられなかったというが、往時の森厳さと神秘感、寂寥.感は今もその名残りをとどめている」
 (歌人、下一丁田)
【沼朝令和2年1月10日(金)寄稿文】