2019年5月28日火曜日

写真で振り返る五輪(仲見世アーケード)


写真で振り返る五輪
1964年東京大会県内聖火リレー・東部①
最終日走者西島詮さん(裾野)に聞く
自転車、機運醸成「もっと」
 1964年東京五輪の本県聖火リレー。106日の最終日、静岡・神奈川県境まで残り約5㌔地点を走った西島詮(さとる)さん(74)=裾野市=は、「この火が(開会式会場の)国立競技場まで行くんだ」。箱根に続く緩やかな上り坂をものともせず、大役を務め終えた。
 幼い頃から走ることが好きで、裾野高時代は器械体操部に所属しながら、陸上の大会にも出場した。卒業後に入社した会社では、仲間と協力して陸上部を創設したほか、町民体育大会(当時)でも活躍して正走者に選ばれた。
 少しだけ心残りがある。続くリレー隊に聖火を渡す"儀式"の際、到着後すぐに次の正走者に向き合うはずが、段取りを忘れて一呼吸遅れた。「誰にも気付かれないことだけど、忘れられなくて」半世紀以上たち、再び巡る五輪は地元の一部が自転車競技のコースになった。偶然にも60歳を超えて始めた趣味が自転車だった。「風を切って走る心地よさ」に魅せられ、ほぼ毎日2030㌔を走る。祭典まであと1年と少し。「それまでにはもっと盛り上がってほしい」と期待する。
 沼津市の仲見世商店街も、迫る五輪の機運高揚を願う。当時、聖火を一目見ようど商店街のアーケードの上にまで大勢が詰めかけた。同商店街振興組合事務局の瀬戸浩一さん(62)は、「違う歩道の屋根によじ登った記憶がある」と、小学校1年生時の思い出をたどる。アーケードは約4年前に改修し、LED化も進んだ。あの人出、熱気に再び街が包まれるのを心待ちにする。
写真説明

㊨聖火を一目見ようと・観客がアーケードの上にも詰めかけた=1964106
1964年の東京五輪本県聖火リレーは、沼津市の仲見世商店街前の旧国道1号を通過した。アーケードがトレードマーク=21
【令和元年527日静新夕刊】

2019年5月19日日曜日

沼津御用邸の変遷をたどる(沼朝記事)


沼津御用邸の変遷をたどる
 沼津御用邸は、当時の皇太子(大正天皇)の御静養のために1892年に本邸の建設工事が始まり、1893年に御座所、御学問所など日本建築の木造平屋建て1200平方㍍の本邸が竣工。
 1896年に本邸新御座所、玉突所、侍医の詰め所、女官室などが増築され、皇太子の成婚を前にした1899年に用地を増地。1900年に洋館、玄関車寄が造られ、本邸建物と苑地が完成。1903年に学問所として赤坂離宮東宮大夫官舎を移築した東附属邸が造営された。
 1905年に海軍大将(死後昇進)の川村純義伯爵の別邸を宮内庁が買い上げ、西附属邸を設置。06年に皇居内賢所の附属仮建物を移築した後、08年に御車寄、御料浴室、廊下などを増築。敷地を拡大して22年には御玉突所を増築して完成した。

 終戦を目前にした457月、沼津大空襲で本邸が焼失。戦後も皇室による利用は続いたが、それまでのような長期間の利用は減り、昭和天皇と香淳皇后が滞在する際には主に西附属邸が利用され、本邸が再建されることはなかった。
 69年に沼津御用邸が廃止され、宮内庁から当時の大蔵省に移管されて沼津市に無償貸与。翌70年に文化教養、休養のための都市公園として沼津御用邸記念公園が開園し、一般公開が始まった。74年には市歴史民俗資料館が本邸跡地の中心に開設された。
 91年には沼津・牛臥海岸CCZ(コースタル・コミュニティーゾーン)整備計画が国に認可され、公園再整備事業として御用邸建造物の改修を進め、93年から西附属邸を御用邸時代の建物そのままの形で改修、96年に始まった東附属邸の大規模改修では建物の外観に変更はないが、茶会などで活用するため}内部の間取りを一部変更し、99年までに整備を終えた。
 2006年、都市公園法施行50周年記念事
業で「日本の歴史公園100選」に選ばれ、16年には近代日本における近郊海浜保養地の優れた風致景観を伝える事例として、「旧沼津御用邸苑地」の名称で国の名勝に指定されている。
【沼朝令和元年519日(日)号】


2019年5月18日土曜日

沼津朝日新聞コラム昭和四三年一月一日「まど」ことしは明治百年



沼津朝日新聞コラム昭和四三年一月一日「まど」
 ▽一九六八年;:ことしは明治百年。長い封建制に別れをつげる鐘とともに迎えた、近代日本の夜明けに、わたしたちの沼津が果した役割は、あまりにも大きく輝やかしく、誇り高いものであった。ひたひたと迫る封建制度解体の波の中で、あらゆる苦難と闘いながら沼津兵学校、沼津病院という西洋文明の結晶を沼津につくり出した江原素六先生たちの偉業は、日本近代化の原動力となった。
 ▽兵学校はその真価を中央政府がとりあげて、後の士官学校、幼年学校となり、その付属小学校は日本最古の歴史をもっていまの沼津市立第一小学校として残されている。沼津病院は頭取杉田玄端が兵学校移転後も済生救民の初志を貫き、経営難と闘いながら、地元の人たちの保健厚生につくし、会社組織、郡立、私営と変せんしながら昭和二十年まで駿東病院としてその存在を誇り日本の社会福祉の先べんをつとめたのである。
 ▽一方、没落士族の生活救済のための経済活動として江原先生らによっておこされた「沼津商社会所」は、蒸気船を持って回漕業を営なみ、金融と保険の元祖としての成果をあげ、また、牧畜、養蚕、製茶、製紙、製靴等の産業開発が計画的にすすめられた。養蚕は近代において故名取栄一翁の手で日本の生糸相場をきめた沼津繭市場にまで引きつがれ、牧畜は「牧牛社」によって生産から加工まで営まれ、明治六年牛乳が東京にまで売り出され、バターも製造された。
 ▽このように、百年前、教育、社会福祉経済にわたって、日本近代化の開発始動のボタンを押し、国民総生産世界第三位という今日の日本の繁栄を築きあげた沼津の、現在の姿はどうだろうか。そこには、いま、先覚者の誇りなどみじんもなく、戦後の見通しの誤りと政策の貧困の累積が、市民を不安と苦しみに追いこんでいるようだ。明治百年を期して、ことしこそ、百年前の誇りをとりもどし、勇気と英知と努力をもって百年の未来と真剣にとりくまなければならないと思う。
(沼津朝日新聞社長 井上章久)(平成二年一月十五日出版「まど 沼津朝日」より)

昭和43年10月23日コラム↓

沼津朝日新聞コラム「まど」昭和四三・一〇・二三
 ▽きょう、明治百年記念式典が行われる。百年前近代日本の夜明けにわたくしたちの沼津が果たした誇り高い輝かしいその功績をかえりみながら、いまの沼津の姿をみると、無量の感にうたれるのは私ひとりではあるまい。
 ▽百年前の沼津にうちたてられた沼津兵学校、沼津病院沼津商社会所は、教育と社会福祉と経済の広い分野にわたって、日本近代化へのたくましい始動ボタンとなった。しかも、この偉業は、崩壊と没落の中に打ちひしがれた徳川家の人たちが、あらゆる苦難の中に闘いながら、ひたすら将来への光明を求めてやりぬいたものだけに、心から頭のさがる思いがする。
 ▽この至難の業をやりとげたものは、勇気と英知と将来への希望をかけた努力だったと考えるが、いまの沼津でも指導者たちが勇気と英知と努力をもてば、すぐにでも苦難を打開し、明るい将来を見出すことができるはずである。沼津の現状が、都市問題で行きずまり、繁栄への道がふさがれているとはいうものの、発展し繁栄する都市としての条件には恵まれている。ただ、勇気と英知と努力が不足しているだけなのではあるまいか。
 ▽沼津の当面する問題は、都市開発と都市改造をいかにすべきかであるが、現在に於けるその方向づけが、沼津の将来の明暗を決定するものだげに異常な勇気と英知が必要である。開発については市議会も積極的な協力推進体制を打ち出すようだが、単に陳情のお先棒だけでは役に立たない。
 ▽開発については、市長の諮問機関的なものとして民間の知織を集めた懇和会というものがあったはずだが、これもつくっただけで、全然生かされていない。この際、民間、市、議会の力を結集した開発審議会をつくり、沼津の総知総力をあげて計画し、推進する体制をつくるべきではあるまいか。百年前の沼津をかえりみて、新たにした勇往邁進が欲しいものである。

(沼津朝日新聞社長 井上章久)(平成二年一月十五日出版「まど 沼津朝日」より)


石橋湛山と名取栄一



「対談:湛山を支えた沼津:田中秀征・林茂樹」↓




名取栄一翁小伝「石橋湛山を立てる」の章↓




ラジオカルチャー石橋湛山↓




カルチャーラジオ石橋湛山2↓



石橋湛山動画↓



その時歴史は動いた「石橋湛山」↓



その時歴史は動いた「石橋湛山」2↓



その時歴史は動いた「石橋湛山」3↓



昭和34年9月訪中記念の手ぬぐい↓




沼津朝日新聞コラム「まど」昭和四九年十一月二日
 ▽沼津に育ったーというより"沼津を育てた"偉大な人・名取栄一翁が亡くなったのは、昭和三十三年十一月五日。きょうはその十七回忌の法要が営まれる。
▽甲州に生まれた翁が、はじめて沼津の土を踏んだのは、若冠十七歳、明治二十二年の秋だった。それから八十六歳で亡くなるまでの七十年間、沼津の大地に根をおろし、腰をすえてすごしたその生涯は、まさに、沼津の近代史そのもの。苦難と栄光を織り交ぜながら、明冶・大正・昭和の三代にわたっての激しい変遷の中に、常に前向きの逞しい姿勢で、新しい道をきり開いてきた先達者だった。
▽多彩にいろどられた、その輝かしい足跡の中でも最も偉人な遺業といえば、沼津の名を日本中にそして世界中にとどろかせた春繭初取引所の創設だろう。沼津は名取さんの英知と努力で、後進資本主義国日本の産業革命の波に乗り、生糸王国の中の王座におさまり、春繭の出る五月は〃沼津の月”といわれ、名取商会のつくる相場は日本だけでなくロンドンやシカゴの市場まで動かしたのである。
▽沼津に春繭の初取引所をつくろうという翁の遠大の理想を達成するまでには、底知れぬ苦労と苦難に満ちた険しい道のりと時闇がかかったが、それは、私心のない誠意と熱意によって大正六年みごとに結実した。そして、胆っ魂のすわった大きな勇気は、悪徳ブローカー的な存在だった繭の仲買人を全部排除し、生産者と市場を直結するという、驚くべき流通機構の改革を断行し、東静地方の繭を名実ともに世界一のものにしたのだった。
▽大正はじめから昭和のはじめにかけて、日本一の繭を育てた翁は、敗戦後にも、もうひとつの日本一をつくった。戦後の政界でもっともスジの通った清廉な総理大臣石橋湛山を沼津から生み出したことである。不幸にも短命に終わったが、石橋さんが金脈だの人脈だのと微塵もいわれずに政治生命を全うしたのも、翁が私財をはたいてまで応援した賜であり、石橋さんが自ら本籍を大手町八四の名取邸に移したのも、その男気に感銘した所以だろう。
▽私は、若いころから、翁にお世話になったひとりだが、そのスケールの大きな偉さの中で、特に感じいっているのは、八十歳をすぎても、衰えなかった、時代の先取りに見せた高邁な英知と鋭い感覚である。亡くなる二年ばかり前「これからの沼津がかかえる難しい問題は」とお尋ねしたとき「まず道路だね。特に東海道線で分かれている南北の交通。放っておくと、いまにつまってしまうよ」とズバリ言われた。
▽この予言が適中したことは言をまたないが、私にとってこの一言は痛いくらい胸の中に突きささって、二十年もたった今でもうずく思いがする。沼津朝日が、全国にさきがけて都市問題をとりあげ、都市対策に取り組んできたのも、この一言の教訓によるものだが、当時、この感覚と見通しのひとかけらでも、市政担当者が身につけていたらーと果てしない悔みがにじみでてくる。
▽名取のおじいさんのように、沼津の土を踏み沼津の土に埋もれるまで、七十年もの長い間、これほどひたすらに沼津を育て沼津を愛した人はないだろう。また、悲しいかな、こんな人が再び現れることもないだろう。まさに、沼津における不世出の偉人である。十七回忌に当って、その偉業を偲ぶとともに、その深い英知と温かい心を、これからの沼津にぜひ生かしたいものである。
(沼津朝日新聞社長 井上章久)

2019年5月13日月曜日

正田美智子さんご成婚(NHKニュース)

令和元年5月11日 沼津史談会定例総会記念講演「小田原城調査と整備」諏訪間順博士講演




令和元年5月11日 沼津史談会定例総会記念講演「小田原城調査と整備」諏訪間順博士講演

録音動画・当日プレゼンテーション資料・当日配布資料です。
特に録音動画は1時間20分ほどありますが、諏訪間順博士の講演録音です、お聴き頂けると幸せです。




諏訪間順博士講演録音動画です↓



当日配布資料↓


当日プレゼンテーション資料↓



↓当日PP資料

2019年5月10日金曜日

自決直前.バルコニーから自衛隊員に演説する三島由紀夫(45年11月25日)


▲自決直前.バルコニーから自衛隊員に演説する三島由紀夫(451125日)
 ノーベル賞候補作家三島由紀夫は、451125日午前1113分ごろ、楯の会のメンバー4人を引き連れて東京・市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に押し入り、総監室にいた益田兼利総監(当時)を監禁、その眼前で楯の会の1人とともに割腹自殺を遂げた。
 三島は自殺の寸前に本部バルコニーに出て、広場に集まった約1,000人の自衛隊員を前に「諸君、自分たちを否定する憲法を守るのか」と問いかけ、「自衛隊に失望した」と叫んだ。いわば治安活動に向かって行動を起こさない自衛隊に対する死の抗議で、全世界に大きな反響と論議を呼んだ。(静岡年鑑昭和46年度版 昭和467月発行)


2019年5月8日水曜日

司馬遼太郎雑談「昭和への道」1986年5月放映








司馬遼太郎の遺言1↓

日本史の中の沼津兵学校 匂坂信吾(史談会令和元年総会:記念講演会案内)






日本史の中の沼津兵学校 匂坂信吾
 去る120日、市民文化センター小ホールにおいて、沼津兵学校創立一五〇周年記念事業実行委員会主催の記念式典が開催されました。全国各地からの兵学校関係者ご子孫74人など県内外からの参加者も多数ありましたが、自治会関係者など市内からの参加者が大半で、会場は満員の盛況でした。
 式典では沼津兵学校を設置した徳川家・旧静岡藩を代表し、同家19代目に当たる徳川家広氏が、記念講演で次のように述べました。
 「本日は『日本史の中の沼津兵学校』という、少し大きいことを考えたいと思います。それには日本史の流れの中で、江戸時代と徳川幕府がどのような意味を持っていたのかということから入ります。(中略)幕臣たちは、静岡に移住して真っ先に沼津兵学校をつくり、未釆を託すべき若者の教育に努めた。また廃藩置県に際しても、直ちに(静岡藩を)解散して新政府を支える道を選んだ。つまり、与えられた場所で精一杯のことをする。これこそが江戸人の美徳であり、それは沼津の兵学校に見事に花開き、開いた花は今日の沼津に至るまで継承されている」
 この言葉により、沼津兵学創立一五〇周年記念事業の意義が設置者の立場から歴史的な位置付けをもって評価され、これまでの十年近い取り組みが報われました。
 記念事業では式典のほか、西条町の県道北側歩道上に兵学校ゆかりの「沼津病院・駿東病院跡」記念難建立し、『沼津兵学校記念誌』を発行しました。記念碑や記念誌の題字は、いずれも徳川家18代当主・徳川恒孝氏の揮毫によるもので、記念碑は地域医療に関する歴史モニュメントになりました。記念誌は多くの市民や子孫の方々、教育関係者などからも好評で"一家に一冊〃との声もあります。
 今月11()午後1時半から、市立図書館四階視聴覚ホールにおいて、令和元年度の沼津史談会総会があり、2時半からは同じ会場で記念講演会が開催されます。受付では『沼津兵学校記念誌』を1部1,000円(税込み)で頒布します。当日来場できない購入希望者は、末尾の問い合わせ先にご連絡ください。
 記念講演は、小田原市博物館・小田原城天守閣の諏訪間順館長(同市経済部副部長、博士・史学)による「小田原城の調査と整備のあゆみ」と題するもので、調査・整備の歴史と市民の関りなどを”まちづくり実践事例"として語られます。
 小田原城は北条早雲を始祖として江戸時代の初めには三河武士の大久保思世が城主、弟の大久保忠佐が沼津城主という間柄でもあり、沼津市民には親しみ深い城です。現在の城主(?)諏訪間氏の話を聞く貴重な機会ですので、皆様お誘い合わせの上、ご来場ください。先着200人、受け付け開始2時、入場無料です。
 問い合わせ先=天野出版工房内・沼津史談会事務所(電話・フアックス9211412)または匂坂(電話09076868612)
(沼津史談会会長、小諏訪)
【沼朝令和元年58日(水)号言いたいほうだい】