2019年7月28日日曜日

玄奘三蔵描いた仏教国?


玄奘三蔵描いた仏教国?
アフガン中部 経典写本発見
古代遺跡「メス・アイナク」調査
 【カブール共同】アフガニスタン中部のメス・アイナク遺跡で、7世紀ごろに作られたとみられる仏教経典の写本の一部が見つかった。アフガン考古局が26日までに明らかにした。古代遺跡から写本が見つかるのは珍しく、栄えた仏教都市だったことを裏付ける発見。小説「西遊記」の三蔵法師として知られる玄奘三蔵が、旅行記「大唐西域記」で描いた仏教国「ブリジスターナ」である可能性が高まった。
 遺跡は首都カブールの南東約40㌔にあり、37世紀の都市とされる。2OO9年にアフガン政府が本格的な発掘を開始。仏塔や仏像、壁画が次々と出土し、大規模な遺跡であることが判明した。写本は遺跡の中心にある丘の斜面で1718年に見つかった。考古局は「経典の保管施設があったのではないか」と推測している。
 写本を解読した仏教大の松田和信教授(仏教学)によると、樹木の皮にサンスクリット語で大乗仏教の「般若経(はんにゃきょう)」や「弥勒下生成仏経(みろくげしょうじょうぶつきょう)」が書かれていた。玄 は西域から大乗仏教の経典群を持ち帰り、漢訳したとされている。
 メス・アイナク遺跡の保全、修復に協刀している東京芸術大の前田耕作客員教授(アジア文化史)は「初期仏典の発見は珍しい。大唐西域記に記述されたブリジスターナと大まかな位置関係も符合する。玄 が立ち寄った可能性がある」と指摘した。
 玄奘は大唐西域記で、ブリジスターナについて「気候は寒さ厳しく、人々の性格は激しい。深く仏教を信仰し、学を尚(たっと)び、徳行ある者に遵(したが)う」と記した。
 一方、遺跡の周辺には世界有数の埋蔵量とされる銅の鉱床が広がる。鉱山開発が重要な財源となっているアフガン政府は07年、30年間の採掘権を30億ドル(3250億円)で中国企業に売却。遺跡に及ぼす影響が懸念されている。考古局のヌーリ局長は「発掘が終わるまで数十年は必要だ」と説明。国連教育科学文化機関(ユネスコ)なども保全の重要性を訴えており、アフガン政府は開発との両立を図る方針だ。
【静新令和1727日朝刊】

2019年7月21日日曜日

 高速道路の父 秋野宣治(沼朝言いたいほうだい)



 令和元年526日は、東名高速道路全線開通(東京~小牧間)から50周年という記念日でした。中日本高速道路では、5月から9月にかけて県内のサービスエリアにおいてもイベントやキャンペーンを行っています。
 しかし、沼津インター南側にある、「高速道路の父」と呼ばれる田中清一翁の顕彰銅像があることを知る人は少ないようです。金岡コミュニティ制作の「金岡の宝50選」では、江原素六翁、山田源次郎翁と共に、田中清一翁(昭和48年、81歳で没)を紹介しています。
 敗戦直後の貧しい時代、田中翁は日本復興のために何が必要かを考え、「人口と食糧問題ではないか。そのためには、狭い国土の有効活用しかない。食糧や資源の自給自足ができれば、国民の暮らしが楽になる」と結論に至りました。そして、この考えを「平和国家建設国土計画大綱」としてまとめ、日本全土を高速道路でつなぐことを政府とGHQ(連合国軍総司令部)に提案します。自らジープに乗り、北海道稚内から鹿児島まで2年間に及ぶ現地調査、さらに経費積算まで行っています。GHQは、この日本再建マスタープランを「田中プラン」と名付けて動き始めました。
 この間にも田中翁は、GHQ総司令官マッカーサー元帥に直訴し、昭和24年には東京の三越で開催された「国土計画展覧会」において、昭和天皇、皇后両陛下に日本全土の石膏模型図を用いて自らご説明申し上げ、「理想的な国土計画の実現を期待する」との激励のお言葉をいただいています。
 今日の日本全国の高速道路網の進展を見ると、田中翁の努力が、脈々と継続していることに感謝と尊敬の念を禁じえません。
 現在、杉崎町の富士製作所資料館には、多くの資料が展示、保管されています。ガイドできるほどの知識もありませんが、子ども達の夏休みの自由研究の課題に選んでいただけるようなら、そのお手伝いをしたいと考えています。人間「田中清一物語」を一緒に学びましょう。
 期日は今月の27()28()の午前9時から11時頃までです。どちらか都合の良い日に参加してください。持ち物は、筆記用具と飲み物です。会場は杉崎町の富士製作所内資料館です。
 特に事前申し込みは要りませんので、直接会場へお出かけください。なお、小学生は保護者等の付き添いをお願いします。一般の方も歓迎いたします。
 問い合わせは電話080-42220513(秋野)まで。
(元「金岡の宝50選」編集委員)
【沼朝令和1721日(金)言いたいほうだい】

2019年7月15日月曜日

190715千本首塚施餓鬼法要



 千本首塚(静岡県沼津市千本浜) 天正八年三月、甲州武田勝頼と小田原の北条氏政軍が激突した遺跡。この時、北条方の優秀な軍船に制圧された武田軍は、なすところなく砲撃をうけて塹壕にひそみ、陸戦隊にふみにじられて敗退した。
この首塚に首なし武者の伝説が発生したことは、前述したとおりだが、明治三三年五月の暴風雨で欠崩し、おびただしい頭骨を露出させて村民を驚かせている。
そのため村人は、ここを発掘して頭骨を集め、俵につめて長谷寺にもちこんだ。
しかし間もなく本光寺の角地に塚を築き、石碑をたてて祀ってやった。
 昭和二九年におよび、東大の鈴木尚氏によって正式発掘が行なわれると、これが伝承の如く戦国時代の首塚であることが確認され、すっぽりと刀で切り割られた頭骨などで歴史のあとが実証づけられた。(遠藤秀男著「日本の首塚」)

2019年7月14日日曜日

沼津空襲 浜悠人 【沼朝令和1年7月14日号寄稿文】




沼津空襲 浜悠人
 昭和十九年七月、南太平洋マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グァムにアメリカ軍が進攻し、島に飛行場を建設、大型爆撃機B29で直接、日本本土空襲を企てた。
 この年の十一月五日、昼日中、突如としてB29一機が一万㍍の上空を、怪物が異様な煙を吐くがごとく、白い飛行機雲をなびかせ沼津の上空を去っていった。実は、これが日本本土の基地や軍需工場への偵察飛来であった。翌二十年一月九日、B29一機の爆撃により、大手町、上本通、死者五、重軽傷二十九、家屋全壊九。
 四月十一日の通横町、吉田町は死者十四、重軽傷三十九、家屋全壊十三。当時、旧制沼中一、二年の私は学校帰りに御成橋たもとの鰻屋や上本通の硝子屋に大きな穴を開けた爆撃跡を見、その悲惨さに驚くばかりであった。
 四月二十三日、下香貫宮脇の技研では死者九、重軽傷二十三、家屋全壊一で、この時、犠牲となった十七歳の少女、菊池ひで等七人の慰霊碑が、三中の傍らに建っている。
 五月十七日の三枚橋、平町は死者十一、重軽傷十七、家屋全壊九。この日、空襲警報で下校となった私は三園橋を渡っていた。強烈な爆撃音で橋の上に伏せたら、狩野川に水柱が立ち上っていた。
 平町の焼き芋屋は家が吹っ飛び、跡形もなかった覚えがある。
 七月十六日、この夜も、毎晩恒例になった薄気味悪い空襲警報のサイレンが長く尾を引き発令された。防空壕に退避していたら、B29は沼津上空を過ぎ、平塚方面に向かったとラジオは報じた。
 警報も解除となり、私は自宅の二階に戻り、うとうとしていると突然、「空襲、空襲」の叫び声。急いで飛び起き、窓を開けると、南の我入道、香貫方面の空は照明弾で、真昼のような明るさだった。
 家の中も明かりを点けたくらいに明るく、父が「防空壕に大切な物を収め、土をかぶせているから先に逃げろ」と言うので、私は母と姉と一緒に、ひとまず逃げようと外に出た。
 香貫山や千本浜の方は真っ赤に燃え、町にも火の手が上がった。焼夷弾は豪雨のようにザァーという音を立てて落下し、時折、ヒューという異様な音が混じり、肝が冷やされた。私達は、まだ燃えていない平町から日枝神社裏の日吉へと逃げた。
 その頃、田圃越しに東京麻糸工場の建物が真っ赤に燃え、火の海と化しているのが見えた。既に時刻は十七日の午前一時から三時間ほどが経ち、短い夏の夜は白々と明けてきた。
 この夜の状況は次のように発表されている。
 B29百三十機が駿河湾を北上して沼津を空襲。九千七十七発、千三十九トンの焼夷弾を投下し、死者二百七十四人、焼失家屋九千三百四十一戸。
 沼津は文字通り焼け野原と化した。
 この夜、須田病院一家六人が犠牲となり、現在、聖隷病院傍らに戦災犠牲者記念碑が建っている。
 八月三日、焼け跡に立ち、東の箱根山に目をやると、エンジンを止めて私の方に向かって来るグラマン艦載機が目に入った。近くの掩蓋(えんがい)のない防空壕に飛び込むと、一瞬遅れてダダダダと機銃音がし、私の二、三㍍近くを玉がかすめた。
 グラマンが飛び去った後、沼津駅方向を見ると黒煙が立ち上っていた。聞いた話では、駅構内にあったガソリンタンクが機銃掃射を受けて爆発炎上したのでないかとのことだった。この時の被害は死者三、重軽傷三。
 ところで先日、アメリカ公文書館に保存されていたグラマン艦載機の機銃掃射を記録したガンカメラの映像(カラー)を観る機会を得た。当時、グラマン艦載機の翼には戦果を記録するためガンカメラが付けられ、機銃の引き金を引くと同時に録画が開始される仕組みになっていた。
 前述の八月三日、私を襲ったグラマンと並行して、線路上からプラットホームを襲ったガンカメラ装填のもう一機がいたことが画面から分かった。その機は焼け跡に立つ藤倉電線の二本の煙突を掃射し、さらに駅機関区の転車台を襲った。
 画面には転車台の扇形車庫が映り、機銃掃射の白煙が焼け跡に立ち、さらに、その先には千本松原も映っていた。
 私は命拾いした八月三日の昼時に襲って来たグラマン艦載機が機上から克明に写していたことに唖然とした。戦後七十三年を経て、あの戦時の恐ろしい体験を画面で観ることができ、興奮し一晩眠れなかった。
 最後に、私は戦時中の代え難い体験を幾度でも書き、平和の尊さを市民に訴え続けていきたいと思っている。(歌人、下一丁田)
【沼朝令和1714日号寄稿文】

2019年7月12日金曜日

沼津ふるさと講座「秋鹿見橘の足跡」令和1年7月13日市立図書館講座室 秋鹿敏雄講師










↓追加資料「明治14年1月の小学校寄付金書類」

沼津ふるさと講座「柳下家の歩み」









駿河柳下家の系譜 菅原姓
菅原道真の八男 常陸介兼重の三代目 伊豆守通雅の七代後胤に柳下二郎重俊(相州足柄郡柳下郷に居を構え、以後柳下を氏とする)その末孫 柳下左近丞為本の子供が柳下源吾本典である。
1.柳下源吾本典
小田原城主大森式部小輔氏頼の家臣として酒匂川下流に相州柳下郷柳下城の城主であったが北条早雲によって大森氏滅亡の為、早雲の家臣となり享禄3年(1530年)死亡。
2.柳下源太夫本長
本典の孫で北条早雲に仕え柳下城主となったが慶長6年(1601年)早世する。
3.柳下弥太郎本春
北条氏康に仕え駿州富士郡川鳴島の戦いで戦死する。
4.柳下玄藩本重
北条氏が豊臣秀吉の小田原城攻めで敗れ柳下城に蟄居して終わる。寛文6年(1666年)
5.柳下庄兵衛知直
領主の座を降り正保4年(1647年)駿州駿東郡沼津村三枚橋に居を構えた。これが駿河柳下家の祖となる。寛文9年(1669年)死去。
6.柳下源八郎知則(生国駿河)
貞享2年(1685年)死去。
7.柳下庄兵衛知章
享保2年(1717年)幕府の命により沼津三枚橋から香貫村へ居を移す。今の沼津市民文化センター全域を含み、東は霊山寺から内膳堀に沿って南二瀬川まで、西は県道に沿った香貫一帯を領地とする。寛保3年(1743年)死去。
8.柳下庄兵衛知栄(知章の弟)これより幕臣柳下家
幕臣として残り一橋候に仕えた。元文3年(1738年)死去。
9.柳下治右衛門知堅(沼津藩士柳下家の祖)
沼津藩主水野候に藩医として仕えた。天明6年(1786年)死去。以後以後代々医師となり藩医として水野候に仕えた。明治維新後は静岡県東部の医学界に貢献した三之助がいる。
10.柳下十助継宥
幕臣として江戸に残る。
11.柳下十助継孝
徳川慶喜候の静岡遷居に従い沼津柳下家に入る。
12.柳下駐忠左衛門有寿(早世)
13.柳下十助継賢(沼津兵学校で就学)
14.柳下継寧(沼津兵学校で就学)
教育者となり下田豆陽中学校校長の折・死去。弟の柳下鎮三郎は柳下本家後継者無く養子として入籍する。弟の山出半次郎も山出家に入籍。
御殿場農業高校の初代校長として奉職。薬草学を極める。霊山寺前に住み、長女雪様、長男富士男様に看取られて昭和19年(1944年)死去
★沼津本家の柳下は子供に恵まれず成人に至らず世を去り他家から養子を迎えて柳下家を継いで来た。11代柳下大蔵は放蕩三昧で殆どの土地を失い、勘当廃嫡となった。その後も養子を迎えて現在、文化センター東側の墓地・妙海寺の墓地を管理供養している。
15.柳下規矩男
楊原小学校から県立沼津中学校卒業後、二松学舎大学を卒業して楊原小学校教員として奉職。大正3~4年にかけて沼津少年団を立ち上げ、日露戦争に参加負傷し、退役して陸軍少佐木下秀四郎氏と協力して、沼津市内に広く声をかけて団員を集めた。大正5年8月日清戦争を退役することになった。大正6年10月沼津中学校同窓の後藤守一(註釈)の妹後藤つると結婚。大正8年岩下清周師のお導きにより温情舎(現不二聖心女子学院)設立に際し初代主宰として主事官舎も与えられ家族共に奉職することになる。昭和3年三島大社の記念館勤務から沼津市役所社会課で昭和7年12月消防署開設の住民理解為に地区訪問に明け暮れ、昭和8年1月死病。長男壱弐古(かずひこ)戦死。次男乙比古(おとひこ)戦死。長女佳子菓子問屋大黒屋に嫁ぐ。幕臣柳下家終わる。
 註釈'後藤守一は駿東郡大平村(現沼津市大平)出身。沼津中学校卒業後、東京高等師範学校卒業。国立帝室博物館に就職。考古学を究め監査員の資格を取りヨーロッパ各地の遺跡、発掘品調査。登呂遺跡の発掘調査は責任者となり昭和天皇に対面で地図を広げてご説明させて頂く栄を賜った。

2019年7月2日火曜日

横浜シルク博物館 浜悠人(沼朝7月2日寄稿文)



 横浜の馬車通は明治時代、港に直結し、日本から外国への貿易、文化の通り道であった。当時は外国人がこの道を馬車で往来し異情緒が溢れていた。
 一八五九(安政六)年、横浜が開港すると次々と外国の船が来港し、居留地には多くの外国人商社が居を構え、日本人商社も設立された。商社を通じて横浜港の貿易は大きく発展したが、開港から昭和の初めまでの輸出品の多くは生糸(シルク)であった。
 蚕糸業は日本の経済を支え、近代化に大きく寄与した。同時に、シルクの街、横浜から日本各地に外国文化が波及していった。
 一八五四(安政元)年、日米和親条約が結ばれた場所に建つ横浜開港資料館の向かい側に横浜シルク博物館がある。この館は昭和三十四年、横浜開港百年記念事業として開設された。入り口には安田周三郎の「絹と乙女」像が建ち、その周囲には桑の木が植えられていた。
 一階には生糸、絹織物のコーナーがあり、四月から十月の間は本物の蚕が飼われ、蚕が桑の葉を食べて成長し、糸を吐いて繭(まゆ)を作る過程がよく分かる。
 さらに生糸が絹織物へと仕上がり、絹の着物や洋服へ作られていく、また機(はた)織り機を使って実際に絹を織ってみることもできた。二階には古代から現代に至るまでの日本の時代風俗衣装や、江戸時代前期からの能装束、草木染資料、養蚕関係錦絵などが展示されていた。
 皇室の養蚕は明治初めから百五十年の歴史を持つ。明治四年、渋沢栄一が紹介した群馬県の養蚕家の指導を受け、昭憲皇太后(明治天皇妃)が皇居に御養蚕所を設けた。明治六年、英照皇太后(孝明天皇妃)と昭憲皇太后は群馬県の富岡製糸場(世界文化遺産)を訪ねた。同四十一年、貞明皇后(大正天皇妃)は青山御所に御養蚕所を改築し養蚕を復活させた。
 大正三年、宮城(皇居)の紅葉山に木造二階建ての風入れ屋根付きの御養蚕所を新築、蚕の餌となる葉作りに宮城内千八百坪に桑畑を新設した。紅葉山での養蚕は昭和三年、香淳皇后(昭和天皇妃)が引き継いだ。
 平成に入ると、紅葉山御養蚕所は美智子妃に引き継がれた。忙しい公務の合間をぬって二十日以上、御養蚕所に入り、自身の手で蚕を扱い、飼育された蚕は約十三万頭といい、製糸された、しなやかな糸は平成六年に十力年計画で始まった御(ぎょ)(奈艮時代の絹織物「正倉院裂」)の復元修復に一役買っている。
 余談だが愛子内親王や悠仁親王の産着も美智子妃のはからいで皇居の生糸から織られたという。養蚕にかかわり詠まれた美智子妃の歌
 夏の日に音たて桑を
 食みゐし蚕()
 繭ごもり季節しつ
 かに移る
 沼津の繭市場は大正五年、名取栄一が現在の市立図書館の地に繭市場を開設して始まった。春繭の初取引が全国に先駆けて行われたので、その年の相場の基準となり、初値はいち早く全国に報道された。
 この繭市場開設により五月から六月には数百人の繭関係者が集まり、町はにぎわいを呈した。製糸工場も進出し、大正五年、合名会社林組や山十組、続いて翌年には東京製糸や東京絹毛織が高島町や下石田に建てられた。
 ために大正四年から十一年の七年間で町の人口は一万四千百四十九人から二万九百九十三人と約67㌫も増加。シルク産業により沼津の町も商業都市から工業都市へと移行した。昭和四年、ニューヨーク・ウォール街に株式大恐慌が起こり、生糸は大暴落。日本の絹製品は九割以上がアメリカ向けだったため、恐慌の影響をもろに受け、それ以後、慢性的な不況にあえぎ、やがて化学繊維工業が台頭するに及び、製糸業は再び好況に転ずることはなかった。
 (シルク博物館は、あす3日から12日まで工事のため休館)
 (歌人、下一丁田)
【沼朝令和1年72日(火)号寄稿文】