2013年10月10日木曜日

歴史を生かした沼津のまちづくり 長谷百合

歴史を生かした沼津のまちづくり 長谷百合

 今年六月から沼津史談会主催の「沼津ふるさとづくり塾」が市民公開講座として始まりました。幸い講座の評判は上々で、全部で九回の予定のうち、既に四回が終わっていますが、九月末現在の実参加者数は一八八人、延べ参加者数は三〇一人に上っています。一回当たり平均七五人の参加があったことになります。
 講座の内容は、市史講座と地域講座の二本立てです。
 市史講座は昨年まで読書会形式で二年間続けた「沼津市史を読む会」を引き継ぎ、平成二十五年から三年間の計画で沼津市史通史編の「近世」「近代」「漁村」の執筆者から話を伺う形で進めています。
 地域講座では、沼津市及び周辺地域の様々なテーマを取り上げ、専門的な立場の講師の話、つまり市史執筆者のような歴史のプロとは違う目線の話を伺います。したがって地域講座は、どなたでも講師として参加することができます。
 来月、本紙に掲載させていただく予定の沼津史談会からの「お知らせ」では、地域講座の講師希望者を募集する予定です。
 どちらの講座にも共通するテーマは、小文の標題に掲げた"歴史を生かした沼津のまちづくり"です。このテーマが、そのまま演題となっているのが、次回の地域講座③です。ちょうど折り返し点に当たる次回の講座は、十月十九日()の午後一時から、市立図書館四階の視聴覚ホールで開催されます。
 事前に申し込みをしていない人も当日受講できますが、資料代五百円(会員は二百円)が必要です。
 講師は勝亦眞人氏。先日お会いして講座についての話を伺ったところ、同家のルーツは江戸・東京で、先祖は田安(徳川)家に仕えていましたが、戦争中に沼津に疎開したとのこと。
 勝亦氏は戦後、沼津で生まれ、東京大学入学を機会に横浜に移転され、卒業後は東芝に入社されましたが、平成十三年施行のいわゆる「官民交流法」により、経済産業省に移られ、国際標準に関する業務などを担当されました。定年退官後の現在は「勝亦国際標準経済研究所」を主宰されています。
 また、勝亦氏は二十年来、毎年のようにフランスを中心にヨーロッパの名だたる観光地を訪ねており、いつも気が付くと、その土地と沼津を比較していたとのことで、沼津の持つ観光地・保養地としての恵まれた条件を生かすための提案をしたいということです。
 日ごろから「沼津っ子」の眼と「旅人」の眼で沼津を見ており、今回は"複眼の視点"から日ごろ考えていることを話していただけるそうです。
 特に話の内容が具体的になるように、できるだけ「一次資料」や「定着した古典」を参加者と一緒に読み、そこに現れる時代背景と沼津の姿を紹介したいとのことです。勝亦氏ならではの斬新な論点に大いに期待したいと感じました。
 このような話に関心をお持ちの皆様の参加をお待ちしています。
(沼津史談会ボランティァスタッフ、常盤町)

《沼朝平成251010()号》

2013年10月8日火曜日

「続町名由来(十一)」 浜悠人

「続町名由来(十一)」 浜悠人

 西浦地区は駿河湾に面し、内浦地区に続いて伊豆半島の北西にあたる地域である。歴史的には縄文、弥生、古墳の各時代の遺跡がある。江戸時代、村々の多くは海岸線まで傾斜地が迫っているので農耕地に恵まれず、半農半漁の生活が営まれていた。
 明治に入ると伊豆国君沢郡の村々は韮山県、足柄県を経て静岡県に所属することになった。明治二十二年の町村制の施行に伴い、木負、河内、久連、平沢、立保、古宇、足保、久料、江梨の九力村は一つにまとまり、君沢郡西浦村として発足した。
 明治二十九年、君沢郡から田方郡に編入されて田方郡西浦村となり、昭和三十年、西浦村と沼津市が合併。それぞれ西浦木負~西浦江梨と呼ぶようになった。西浦なる地名は古くからあり、内浦の西に連なる海辺を指し西浦と呼ばれた。
 『木負(きしょう)
 内浦地区に接し、長井崎に挟まれ(奈良時代の古文書には「吉妾郷」「棄妾郷」、室町、戦国時代には「木負」なる地名が出てくる。木負とは山中より木を伐出し、背負い下ろしたことより名付けられたとあるが定かではない。
 『河内(こうち)
 河内川の中流に位置し、西浦では海に面していない唯一の村落である。地形的に河内とは、川の中流に沿う小平地を指し、また、この地ゆかりの源頼政の孫、源太夫顕綱の後窩である大河内氏に由来して付けられたとも言われるが定かではない。
 この地にある臨済宗の九華山「禅長寺」は昔、真言宗の寺で大きな伽藍を持っていたと言われる。
 治承四(一一八〇)年、源頼政が宇治で敗死した後、妻の菖蒲(あやめ)が伊豆国に逃れ、剃髪して西妙と号し、この寺に入り故人の冥福を祈ったと伝えられる。境内にある「頼政堂」は元禄十一(一六九八)年、頼政の子孫にあたる高崎藩主、松平右京大夫輝貞によって改築された。
 『久連(くづら)
 戦国時代の古文書に出てくる地名で、昔、津波によって土地が崩壊したので「崩(くずれ)」と称し、後に美字をあて久連と記し「くづれ」から「くづら」と託ったと言われる。
 海岸沿いの道路傍らには渡瀬寅次郎夫妻のレリーフをはめ込んだ顕彰碑が建っている。この地に昭和四年、渡瀬の遺言に従い、「興農学園」が開校した。渡瀬は沼津兵学校附属小学校から札幌農学校を経て事業家となり、デンマーク式農業教育に共鳴し、農学校をこの久連の地に設立した。
 『平沢(ひらさわ)
 久連の西隣にあり、地名は海に面した砂浜が半輪形をなし平砂勾(ひらさわ)と称されていたが、砂勾を沢にあて「平沢」と改めたと言われるが定かではない。今日、人工の砂浜「らららサンビーチ」が賑わいを呈している。
 『立保(たちぼ)
平沢の西隣で駿河湾に面し、立保川下流に位置する。
 立保は南北朝から室町時代の古文書に見える地名で、「保」は平安末期より中世を通じての地方行政単位で荘、郷、保となり、地方の土着有力者によって拓かれた土地と思われるが、立保なる地名については定かではない。この地の神明神社には「四方(よも)の回文」と言われる奇妙な作品がある。
 『古宇(こう)
立保の西隣。地名の由来は判然としない。「宇」は家を指し、昔から古い家が多くあった村落のため名付けられたとも言われ、また公領であったから「公」が呼び名から土地名に転じ当て字されたとも言われるが、定かではない。
 「太子堂」の木造伝月光菩薩立像は一木造りで、藤原後期の作と推定されている。
 『足保(あしぼ)
古宇の西隣。古文書に「葦保」とあり、葦の生えていた土地で、足は葦が転化したと思われる。
 『久料(くりょう)
足保の西隣。昔、公田で公田料を納めた土地で公料(くりょう)と呼び、後に「久料」に転化したと言われているが定かではない。
 『江梨(えなし)
戦国時代の古文書に「江梨郷」とみえる。この地に入り江がないので「江なし」と称され、「なし」が「梨」に転化したと言われるが定かではない。西端の突き出た砂洲は「大瀬崎」と呼び、海の神の大瀬神社が祭られている。近くには伊豆七不思議の一つ、真水の湧く「神池」がある。
(歌人、下一丁田)

《沼朝平成25108()号投稿文》