2022年2月9日水曜日

沼津藩の海防

 


 海防

 江戸時代も末期になってくると、外国船が、日本近海に出没し、それに対する対策が大きな問題となりました。海沿いの各藩は外国船に対する警備を任務として課せられました。下田付近の警備は韮山代官江川太郎左衛門が命ぜられ、沼津、掛川、小田原の各藩に協力要請があり、伊豆の白浜、稲取や西海岸一帯を藩領としてもつ沼津藩も、手兵をさき費用を支出して外国船に対する警備に努めなければなりませんでした。

 弘化(こうか)3(1846)に下田沖に外国船が来航したときには、白浜、稲取などに警備のための人数を差し出しています。その後も外国船が下田に来航するたびに下田や稲取に出動しました。ロシア船ディアナ号の修理が、沼津藩領の戸田村で行われていたときにも、沼津藩兵が警備にあたっています。

また、砲術にも力をいれ、天保14(1843)に、白浜、稲取、富戸に台場(砲台〉を築きました。弘化4(1847)には藩士を韮山代官江川太郎左衛門のもとに派遣し、高島流の洋式砲術を会得させ、嘉永4(1851)には領内の口野村で対船実砲射撃訓練を行いました。

(「沼津藩とその周辺」14頁 平成元年8月1日発行)

 

『水野忠武(みずのただたけ)(第四代水野沼津藩城主)(利根川・印旛沼普請 稲取・白浜・富戸に台場をつくる)江戸時代(天保13年)

水野忠良(みずのただなか)(第五代水野沼津藩城主)(海防を命ぜられる、大地震により沼津城壊滅)(安政1年 藩士、稲取・川奈・富戸へ海防のため出動)           江戸時代(天保15年)』(沼津市市制100周年向け「人物100人」編集案途中原稿より