2015年12月13日日曜日

沼津自由大学 匂坂信吾

 沼津自由大学 匂坂信吾
 去る十一月三十日に満百歳となられた矢田保久氏は、沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)の最高齢会員です。同氏は小山町出身で、旧制沼津中学を昭和八年に卒業され、同窓会「昭八会」の幹事を長く務められました。
 昭八会の有志が、昭和二十一年から三年余りの間、六期三十六回にわたって行った文化活動が「沼津自由大学」という名前の連続講座です。
 昭和二十一年七月の講師には、当時五十歳の芹沢光治良や、四十五歳の元逓信院総裁、松前重義がいました。同年十一月には、当時四十二歳の法政大学教授、美濃部亮吉や国務大臣の金森徳次郎の名前があります。
 女性講師には、昭和二十二年六月に作家の宮本百合子、二十三年五月に作家の林芙美子がいました。このほかにも有名な大学教授、研究者や政治家、評論家、全国紙の論説委員など、錚々(そうそう)たる講師陣が四十人程、名を連ねています。
 当時の昭八会員は沼中卒業後十三年目、三十歳を迎えたばかりの若者連で、このような企画がなぜ実行できたのか、矢田氏が七十年間、大切にしていた当時の写翼やガリ版刷りの資料、味わい深い印刷の古いポスター」などを講座の会場に展示して、若き日の熱い想いを語られます。
 また本会会員、大中寺の下山光悦住職が、矢田氏との対談を会誌「沼津史談」に寄稿され、第六十六号と来年四月発行の六十七号に分けて掲載されます。
 なお、今回からは平成二十八年度の企画である複数講師制による初めての試みとして、矢田氏のほか、会員の三人が、それぞれのテーマで話します。
 ◇齊藤正巳氏「切手でたどる歴史の世界」=日本化学会会員、化学史学会の正会員で科学切手の収集家として知られる齊藤氏が切手の世界を語ります。
 ◇松村由紀さん「戦国マンガの世界」=十月の本会の史跡探訪バス旅行に参加した歴史漫画家すずき孔さんによる長篠合戦場ルポ作品を解説します。
 ◇渡邉美和氏「沼津に測候所があったころ」=NPO法人・東亜天文学会理事の渡邊氏が、明治十六年から昭和十四年まで市内にあった測候所を取り上げます。
 本会では、二十日に会誌「沼津ふるさと通信」の創刊号を発行します。A4判十六ページ、白黒印刷で、発行部数は一千五百部です。頒価は二百円ですが、今回の講座参加者には無料で提供します。すずき孔さんのルポ作品や渡邉美和氏の論文も掲載されていますのでご期待ください。
 市民公開講座・第9回「沼津ふるさとづくり塾」は今月二十日(日)、市立図書館四階の第一・二講座室で開かれます。午後一時に受け付け開始、一時半開講です。定員は百人(先着順)。資料代として五百円(会員は無料)。
 問い合わせは匂坂(電話〇九〇ー七六八六ー八六一二)まで。
(沼津郷土研究談話会副会長、小諏訪)
【沼朝平成27年12月13日(日)言いたいほうだい】

2015年12月10日木曜日

先進的だった静岡県東部の綴り方教育

先進的だった静岡県東部の綴り方教育
 沼津ふるさとづくり塾 高橋敏氏が講義
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)は、郷土史講座「第8回沼津ふるさとづくり塾」を、このほど市立図書館講座室で開講。国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏氏が「駿東文園と綴方教師たちー冨原義徳と杉山正賢」と題し、戦前の一時期、全国から見ても先進的だった静岡県東部地区における教育の様子を話した。
 北駿に誕生した「児童文苑」
 「駿東文園」に改称、「沼津文園」も系譜上に
 大正時代と綴方「綴方(つづりかた)」とは、戦前の小学校で実施されていた授業科目の一つで、作文指導が行われた。現在は国語科に吸収されている。
 講演冒頭、高橋氏は江戸時代には各地で独自の教育が行われていたことを紹介しながら、近代的教育のスタートとなった明治の学制は国家による教育統制のスタートでもあった、と指摘。その反動から大正時代には「大正自由教育」と呼ばれる新たな動きが起き、綴方の授業にも大きな影響が出たことを述べた。
 それまでの綴方の授業では、時候のあいさつなどの文章の型を教えることに主眼が置かれ、大人のような文章が書けるようになることが期待された。これに対し、子どもが身の回りの生活を題材に、子どもらしい文章を書けるようにしようという動きが起こった。
 嶽陽文壇 富士郡大宮町(現富士宮市)では、小学校教員の池谷佐一郎が大正七年(一九一八)に作又投稿誌「嶽陽文壇」を創刊した。我が国の児童文学に大きな影響を与えた児童文学雑誌「赤い鳥」の創刊四カ月後のことだった。
 嶽陽文壇は、地方資産家の子弟でもあった池谷が学校組織とは無関係に設立した出版社によって制作され、池谷は教員を続けながら編集した。
 投稿作品が掲載された子どもには景品を進呈するというアイデアなども盛り込まれ、最盛期には全国から投稿が寄せられ、数万部が発行されたという。その一方で、投稿の過熱により、他人の文章を丸写しした投稿や、それへの告発なども相次いだ。こうした投稿誌という形態は、郵便制度が全国的に整備されたことから可能になったメディアでもあった。
 大正十二年(一九二三)、富士郡で「一斉考査(学力テスト)」の実施計画が持ち上がると、池谷は「狭い学力偏重につながる」との理由から反対運動を展開。その結果、計画は中止されたが、教頭に相当するポストに就いていた池谷は処分を受け、教員を退職して上京した。
 池谷は東京で、「不二文壇」と改題し雑誌の発行を続けたが、その後、廃刊となった。
 駿東文園 子ども達が生活をテーマに作文する新たな綴方運動は、駿東郡にも波及。御殿場などの北駿地域で教員をしていた富原義徳と杉山正賢は、池谷が富士郡を去った三年後の大正十五年(一九二六)に駿東郡で作文集「児童文苑」を発刊した。富原と杉山は、池谷と同じく静岡師範学校を卒業していて、池谷は先輩格だった。
 富原は「田園児の創作は田園から生まれる」と提唱し、農村の生活や地域の行事について子ども達が見たこと感じたことを率直に文章に書くことの重要性を訴えた。当時、方言は矯正の対象となっていたが、富原は子ども達の文章中に方言が登場することも許容したという。
 富原は「創作鑑賞 土の綴方」と題する書籍を出版し、同書は全国的な評価を得ている。
 戦後、「児童文苑」は「駿東文園」と改称し、北駿地域や清水町、長泉町の小中学生を対象に現在も続いている。沼津市内の小中学生を対象とした「沼津文園」も児童文苑の系譜上にあるという。
【沼朝平成27年12月10日(木)号】

2015年12月1日火曜日

強く、りりしく、戦国時代を生きた静岡の女性リーダー 静岡大名誉教授 小和田哲男さんに聞く





強く、りりしく、戦国時代を生きた静岡の女性リーダー
【静新平成27年11月6日(金)夕刊】
静岡大名誉教授 小和田哲男さんに聞く

今年8月、女性活躍推進法が成立したが、時をさかのぼれば戦国時代の静岡と浜松にも「女戦国大名」「女城主」の異名を持つ女性がいた。今川義元の母・寿桂尼(じゆけいに)(生年不詳~1568年没)と、2017年のNHK大河ドラマの主人公に決まった井伊直虎(同~1582年没)。戦国時代をたくましく生き抜いた女性たちの実像について、"歴女、記者が戦国史研究の第一人者である小和田哲男静岡大名誉教授にインタビューした。いざ出陣。(塩沢恵子)

寿桂尼 領国支配に手腕発揮

―男たちが合戦に明け暮れた戦国時代、女性はどんな立場だったのでしょうか。
「合戦は男だけが戦ったのではないと最近分かってきた。沼津市の千本松原に、武田氏と北条氏の戦いで亡くなった人の首を埋めたと伝えられる首塚がある。骨を分析すると、3分の1は女性だったそうだ。しかも至近距離で後ろから鉄砲で撃たれたとみられる女性の頭蓋骨があった。確認された105体の骨は全て成人。老人や子供はいないことから、合戦に女性も加わっていたと考えられる。私も驚いたが、史料を読み直すと、日尾城(現・埼玉県)の妙喜尼など、女性が城を守って戦った例は結構ある」




ー女性が戦場で戦っていたとは驚きました。寿桂尼にいたっては「女戦国大名」と呼ばれているそうですが、その理由は。

「寿桂尼は夫の今川氏親が亡くなった後、病弱だった子の氏輝の後見役となり、1526年から6年間、自分の印判を押した文書を出した。男の戦国大名と同じように領国支配に手腕を発揮した」

-女性が当主の後見役を務めることに周囲の反発はなかったのでしょうか。
「夫の氏親は亡くなる10年ほど前から中風で寝たきり状態だったという。戦国大名が領国支配のために作った分国法として名高い『今川仮名目録』は氏親が亡くなる直前に制定したもの。作成には寿桂尼が関わっていたのだろう。だからこそ重臣たちも彼女の能力を認めたのだと思う」

ー寿桂尼が静岡に残した功績は何ですか。
「1982年、現在の駿府城公園の発掘調査が行われ、今川館跡から茶道具などが見つかった。京都の公家出身だった彼女の存在があってこそ、今川文化が花開いたのではないか」

ー女城主の井伊直虎は、大河ドラマの主人公に決まりました。直虎とはどんな人なので
すか。
井伊直虎 男になりきった城主
「直虎は井伊谷(現・浜松市北区引佐町)を治めていた井伊氏の当主直盛の一人娘。元の名前は分からないが、家督争いで一族の男性が次々と殺される中、出家して次郎法師を名乗った。父直盛は今川軍の一員として桶狭間で戦死。次の当主直親も殺され、一族に成人男性がいなくなった際、次郎法師は直虎を名乗り、元婚約者でもあった直親の遺児虎松(のちの井伊直政)を育てながら、1565年から4年間、井伊谷城主を務めた」

ー女性が城主になるのは珍しいのでは。
「女性が家督を譲られた例は、九州の戦国武将立花道雪の娘の誾千代(ぎんちよ)など他にもある。しかし、直虎が特殊なのは、署名代わりのサインである花押を使っていた点だ。特別に地位が高い女性を除くと、一般の女性は当時、花押は持てないという不文律があった。寿桂尼も花押は持っていない。直虎は男の名前に変えただけでなく、男になりきっていた。周囲もそれを認めていたということが面白い」

ー直虎の功績は何ですか。
「今川氏が没落した後、浜松城主だった徳川家康に直政を仕えさせるという決断をしたことだろう。後に直政は『徳川四天王』と呼ばれる名将になり、井伊氏は彦根城主となった。そして幕末に日本を開国させた大老井伊直弼(なおすけ)につながった」

ー戦国時代の女性というと、政略結婚の悲劇を思い浮かべがちですが、たくましく生きた人もいたのですね。
「政略結婚と言っても、当時は親が決めた相手と結婚するのは当たり前なので、彼女たちは『好きな相手と結婚できなくて不幸だ』とは思っていないだろう。政略結婚で嫁ぐ女性は、国の平和のために外国に派遣される、いわば大使だ。家督を継ぐのが男性に限られたのも江戸時代以降。戦国時代は女性の役割が非常に大きかった時代だと言える」




首塚(沼津市本字千本1910の186)沼津市教委によると、1900年5月、暴風雨の翌朝、千本松林で見つかった頭蓋骨を集めて弔ったという。鈴木尚東京大名誉教授が89年、調査報告書を出した。本光寺の北側西隅にある=写真①=。

 千本首塚(静岡県沼津市千本浜)
 天正八年三月、甲州武田勝頼と小田原の北条氏政軍が激突した遺跡。この時、北条方の優秀な軍船に制圧された武田軍は、なすところなく砲撃をうけて塹壕にひそみ、陸戦隊にふみにじられて敗退した。
 この首塚に首なし武者の伝説が発生したことは、前述したとおりだが、明治三三年五月の暴風雨で欠崩し、おびただしい頭骨を露出させて村民を驚かせている。
そのため村人は、ここを発掘して頭骨を集め、俵につめて長谷寺にもちこんだ。しかし間もなく本光寺の角地に塚を築き、石碑をたてて祀ってやった。
 昭和二九年におよび、東大の鈴木尚氏によって正式発掘が行なわれると、これが伝承の如く戦国時代の首塚であることが確認され、すっぽりと刀で切り割られた頭骨などで歴史のあとが実証づけられた。
 まず石碑を脇によせ、石積みを除去してから、砂地を掘りすすめると、間もなく寄せ集められた頭骨が、寄りそうようにいくつか露頭した。土をよけると、いずれも北向きに安置してあって、このひとかたまりの頭骨の下部には、平板石が敷かれていた。そこで頭骨をとりあげ、石を除くと、再び人骨があらわれてきた、掘ると、これらは大きな甕に納められた分ですべて破片であった。頭骨の破片が、ぎっしりとつめられていたのである。明治時代の扱いであろう。
 これら破片はきれいに水洗いされて、やがて調査計測されて、次のよう事が判明した。頭骨のなかに一刀のもとに鉢を割られたものが混っていて、激戦のあとを物語っていたが、それにもまして平均年令が、意外にも若い十代後期に集中していたことは、きびしい戦国の現実を物語っていた。その数は、数百人、という漠然とした表現しかできないほど、破損骨片の多いこととが、ありし日の犠牲者を彷佛とさせていた。なお明治時代には、まだ完全な形のものも多かったようだが、発掘と移動でくずれ、さらに埋葬時点で破損したものも多く、写真で見るような程度になぞいたのであった。
(遠藤秀男著「日本の首塚」)





龍雲寺(りゅううんじ、静岡市葵区沓谷3の10の1)寿桂尼の菩提寺で、遺言に従って今川館の鬼門に当たる東北方向に建てられた。墓所=写真②=のほか、寿桂尼没後430年に建てられた石碑がある。<電054(261)4861>


龍潭寺(りょうたんじ、浜松市北区引佐町井伊谷1989)井伊家の菩提寺で直虎の墓所=写真③=がある。国指定名勝の庭園は小堀遠州作。紅葉まつり・寺宝展が12月10日まで開かれている。<電053(542)0480>

2015年11月29日日曜日

2015年11月19日第2回高尾山古墳・道路整備両立協議会画像資料↓


↑当日配布画像資料クリックして下さい

沼津市役所資料URL

第2回高尾山古墳・道路整備両立協議会議事録



第2回 高尾山古墳保存と都市計画道路(沼津南一色線)整備の両立に関する協議会
日時 平成27年11月19日(木)10:00~12:00
会場 プラサヴェルデ4階407会議室
資料説明
・(都)沼津南一色線の推計交通量について(資料1)
・古墳保存及び活用の手法について(資料2)
・空間的に整備可能性のある街路線形について(資料3)
・考えられる整備案の総合的評価について(資料4)


今日の会議で「高尾山古墳」現状保存と道路整備提案が絞られてきた。
車線4線でB案(西側T字4線案)・E案(西側S字2車線、東側トンネル2車線案)・G案(西側T字2車線、東側トンネル2車線案)それにD案・F案・H案も捨てきれない。
次回の会議までに市民の意見を収集し、協議会委員にに報告して下さい。と大橋会長より纏めがあり、閉会となった。


古墳回避へ4ルート
道路建設有識者協議 沼津市が提示
沼津市は19日、都市計画道路の建設予定地にある高尾山古墳(同市東熊堂)の墳丘などの現状保存と、道路建設の両立を模索する有識者協議会(議長・大橋洋一学習院大法科大学院法務研究科長)の第2回会合を、同市のプラサヴェルデで開いた。
市は墳丘を回避する街路線形について、①平面で西側を通過②平面で東側を通過③高架で上を通過④トンネルで下を通過ーの検討結果を公表した。4ルートについてそれぞれ、これまで時速60㌔としてきた設計速度を同50㌔にした場合、車線数を4から2に減らした場合も検討し、建物補償件数や用地買収面積を試算した。平面西側案ではS字カーブ、用地買収面積を減らせる可能性があるT字交差点を採用した場合を示した。
市は9、10月に2回実施した周辺道路の交通量調査の結果も報告し、沼津南一色線の2030年の推計交通量を1日約2万5800台と見積もり、2車線と4車線の境界として国が定めた1万2千台を大きく超えることから、「計画通り4車線が必要」と結論つけた。委員もこれを了承した。
同古墳は3世紀前半の築造とみられる前方後方墳で、当時としては東日本最大級とされる。日本考古学協会は5月、保存を求める会長声明を出したが、地元自治会は渋滞解消などのために道路の早期完成を要望する。市は9月、有識者7人を交えた協議会を設置し、実現可能性のある両立策を模索している。協議会の結論と市民への意見聴取を踏まえ、栗原裕康市長が最終判断を下す。
【静新平成27年11月19日(木)夕刊】


道路整備3案を軸
高尾山古墳回避 有識者協が方針 沼津
沼津市は19日、高尾山古墳(同市東熊堂)の現状保存と、道路建設の両立を模索する有識者協議会(議長・大橋洋一学習院大法科大学院法務研究科長)の第2回会合を同市のプラサヴェルデで開き、古墳を回避する三つの道路整備案を軸に検討する方針を決めた。協議会の委員は周辺道路の歩行者の安全性や史跡整備への道筋を再検討するよう市に要請した。
委員は市が示した九つの道路整備案について、用地買収費を含む事業費用、古墳区域内の車道の有無、建物補償の件数などの視点で比較した。片側2車線を前提に、実現可能性のある案として、①古墳北西の丁字交差点を経由する西側4車線②古墳西側にS字の2車線と古墳下にトンネルを掘り2車線③古墳北西の丁字交差点を経由する古墳西側2車線と古墳下にトンネルを掘り2車線ーを挙げた。
協議会終了後、大橋議長は「多角的に検討し、各案の問題点を指摘できた。ある程度、案を絞り込んで市に提示したい」と語った。栗原裕康市長は検討案に対して市民の意見を聴くパブリックコメントを実施する考えを示した。
【静新平成27年11月20日(金)朝刊】

古墳の現状保存、道路4車線
両立に関する協議会で方針確認
「高尾山古墳保存と都市計画道路(沼津南一色線)整備の両立に関する協議会」の第2回が十九日、プラサヴェルデ会議室で開かれた。協議会の方針として、古墳の撤去・移設の可能性は除外すること、沼津南一色線は上下四車線で整備することを確認。また、市側からは、S字力iブの道路で古墳を迂回する従来の案に加えて、古墳の北西にT字交差点を設けて古墳の迂回を可能にする方式が新たに提出された。
道路側各案に一長一短
T字交差点新設案に優位性か
協議会には、大橋洋一委員(学習院大学法科大学院法務研究科長)、久保田尚委員(埼玉大学大学院理工学研究科教授)、矢野和之委員(文化財保存計画協会代表取締役、日本イコモス国内委員会事務局長)の有識者三氏と県幹部の杉山行由委員(県教育次長)が出席。前回出席した難波喬司委員(副知事)は欠席し、意見書を提出した。議長は前回と同様、大橋委員が務めた。
また、国土交通省街路交通施設課長の神田昌幸氏と、文化庁主任文化財調査官の禰宜田佳男氏がアドバイザーとして同席した。
前提方針 協議会では、初めに前回に市側が実施を約束した沼津南一色線の交通量推計が報告され、一日二五、八〇〇台であるとされた。この推計は、道路を二車線にするか四車線にするかの判断基準として実施され、一万二千台以下なら二車線化も可能になるとされていた。しかし、推計値は基準値を大きく超えたため、二車線化による道路設計は否定されることになった。
続いて、古墳の現地での現状保存については、文化庁の禰宜田氏から「移築では史跡指定の対象とはならない」との意見が出され、古墳移築は検討対象から除外された。
代替案 前回協議会で委員達が要望していた新たな道路設計の代替案について、市側から九案が提出された。
この九案を設計するに当たり、市側は「古墳北側部分の高く盛り上がっている墳丘部を壊さない」「道路用地取得のための建物再移転は可能な限り避ける」「追加の用地買収は最小限に抑える」などの原則を設定。
これに従い、①道路がS字力ーブで古墳を迂回する、②信号のあるT字交差点を設けて道路を直角的にカーブさせて古墳を迂回する、③道路の設計速度を六〇㌔から五〇㌔に下げて古墳の下にトンネルを設ける、の三方式が提案された。
九案は、この三つの方式を組み合わせて生み出されたもので、四車線を一体的に造るもの、二車線ずつに分けて古墳の東西両側に分散して通すもの、二車線に分けて片方をトンネル化するもの、などが含まれている。
一長一短 各案には、それぞれ利点と欠点がある。
四車線が一体的にS字力ーブで古墳を迂回する方式では、用地買収面積が広くなり、過去に移転に応じた建物が再移転を迫られる件数が最も多くなる。
T字交差点方式は、事業費用が約五億円と九案の中では最少レベルであるのに対し、交差点の追加により、スムーズな車両通行に影響が出る。
トンネル方式は、四車線をすべてトンネル化した場合、事業費として最低でも五十億円以上が必要となる。事業費の半分は国負担となるが、平均の年間道路事業費が約八億円である沼津市にとっては重大な負担となる。
四車線道路を二つの二車線道路に分けて古墳を間に挟むように迂回させる案は、古墳と現在の神社との間に二車線道路が通ることになる。このため、歴史的にもつながりの深い古墳と神社を分断してしまうほか、古墳が車道の間に入ることで、古墳見学者が古墳にたどりつくのが困難になる可能性がある。
T字方式の利点 新たに交差点を設けることになるT字交差点による古墳迂回方式は、スムーズな車両走行の妨げになる可能性があると指摘されたが、新たな用地取得や事業費が比較的少なくなることから、委員達からも大きく注目された。
それに伴い矢野委員は、「自分は道路の専門家ではないが」と前置きした上で、交差点の設置により車両の走行速度が落ちることから、交通安全の面では有益であると指摘した。
都市計画の専門家である久保田委員は「T字方式は、道路の専門家が見ると『びっくりたまげた』案であろう」と述べて非常識的なアイデアだとする一方で、「しかし、この場合は可能性のある案だ。近くには国道一号との交差点があり、沼津南一色線の走行車両は、必ず国道一号で止まることになる。どうせ、すぐに止まるのだから、その手前で一時止まるようなことになっても、交通への影響は限られるのではないか」と話した。
国交省の神田氏は、信号機付きの交差点が設置されることは、児童の道路横断にとって都合が良いものであり、交通安全の観点からプラスになる、と意見を述べた。
今回の結論議長役の大橋委員は、各委員からの意見表明を受けた上で、①四車線を一体的にT字交差点方式で古墳西側を迂回させる案、②片側二車線を古墳西側地上でS字カーブさせ、残り二車線をトンネル化する案、③片側二車線を古墳西側地上をT字交差点方式で迂回させ残り二車線をトンネル化する案の三案が有力になるだろう、と述べた。
これに対し、神田氏は、古墳と神社を分断する東西迂回案については、市民の意見を反映した上で今後の検討対象として残すことを要望した。
この意見を踏まえ、大橋委員は市に対して協議会の第3回開催以前に、パブリックコメントなどの実施による市民意見の聴取を市側に要望した。
【沼朝平成27年11月20日(金)号】

全国の模範となるような手続きを
困難な課題だとしつつ市長
協議会の成り行きを主催者席から見守った栗原裕康市長は、終了後の記者会見で「いろいろな意見をいただいた。正直言って想像していたよりも難しい課題だ。古墳の扱いは、当初の計画が市議会での承認を得ていながら、全国的な反響と市民からの要望を受けて再検討することになった。全国の模範となるような手続きを進めていきたい。今回の流れが、価値観や意見の対立を乗り越えるための手法の模範となるよう努めたい」と述べた。
また、市民意見の扱いについては、まずはパブリックコメントという形式で募った後、専門家を交えた市民的議論の場を設ける考えを示した。そして(「あくまでも一私案に過ぎない」「行政の手法として正しいかは分からないが」などと断った上で、古墳や道路の整備費の一部を「ふるさと納税」などの形で広く募ることも有効ではないか、と話した。
一般傍聴席から協議会を見つめた「高尾山古墳を守る市民の会」の杉山治孝代表は、「我々にとっては良い方向ではないか。古墳の現状保存が大原則として確認されたことは、今回の大きな成果だと思う。これまでの活動に意昧があったと思いたい」と話した。
【沼朝平成27年11月20日(金)号】

高尾山古墳を考える:迂回3案を高評価 沼津市、意見公募実施へ 有識者協議会 /静岡
毎日新聞 2015年11月20日 地方版

高尾山古墳(沼津市東熊堂(ひがしくまんどう))の現地保存と道路建設の両立を検討する有識者による協議会(議長、大橋洋一・学習院大法科大学院法務研究科長)の第2回会合が19日、沼津市内で開かれた。市は古墳を迂回(うかい)する道路変更案を9案提示。協議会は、西に迂回しT字交差点を新設する案など3案を高く評価し、今後重点的に検討すると決めた。【石川宏】

協議会が評価したのは(1)4車線全てを西側に迂回させ、T字交差点を新設(2)西側2車線をS字状に迂回させ、東側2車線をトンネル化(3)西側2車線を迂回させT字交差点を新設。東側2車線はトンネル化−−の3案。

市は、古墳移設は価値を大きく損なううえ技術的に困難▽4車線の2車線削減は交通量の多さで困難▽4車線とも東にずらす案は神社の全面移転が必要で困難▽高架は古墳最上部を破壊する−−として案からあらかじめ排除。その上で4車線一体、もしくは2車線ずつ分離して、古墳を迂回させたり、下にトンネルを掘るなどした9案を提示した。

協議会は残り6案については、4車線全てをS字状に西側に迂回させると建物10件の移転が必要で補償費が過大▽上下2車線ずつ、もしくは4車線一体で全面トンネル化すると事業費が50億円を超え過大▽2車線ずつ東西に迂回させると古墳が道路に挟まれ活用しにくくなる−−などとして、低い評価をした。

市は次回協議会(時期未定)前にパブリックコメント(意見公募)をする方針。大橋議長は「傷のない案はない。多角的に検討し、各案の問題点を指摘でき非常に成果があった」と述べた。栗原裕康市長は「想像以上に難しい方程式。異なる価値観が対決した時の解決法として、全国の模範となるようなプロセスを踏みたい」と述べた。

傍聴した篠原和大・日本考古学協会理事(静岡大教授)は「かなりいい方向に向かっている。このままの方向で進んでほしい」と話した。

2015年11月28日土曜日

井上靖 中国出征の軌跡 「行軍日記」が単行本化

井上靖 中国出征の軌跡
「行軍日記」が単行本化
 長泉町の井上靖文学館は来年3月、開催中の「戦後70年井上靖と戦争・家族・ふるさと」展で紹介している作家井上靖の1937年の中国出征の軌跡をたどる単行本「中国行軍日記」(仮題)を発刊する。行軍ルート周辺の風景を、当時といまの写真で比較し、2等兵としての出征経験が戦後の井上作品に及ぼした影響も検証する。
11月上旬に井上の次女で詩人の黒田佳子さん(70)=横浜市=、同館の徳山加陽学芸員らが行軍ルートを車でたどり、周辺取材と写真撮影を行った。
 井上が手帳に記した記述などを手掛かりに、北京南西の町「豊台」から盧溝橋などを経由し、直線距離で約300㌔離れた町「元
氏」を訪ねた。
 黒田さんは「町や田園の風景に父の姿を重ねた。22日間の行軍は、さぞやきつかっただろう」と行程を振り返る。手帳の記録で綿畑の美しさをたたえていた保定市郊外では、父の詩を読み上げた。
 井上は1937年8月25日に召集され、大陸へ渡った。部隊の一員として行軍に参加したが、体調を崩して38年1月19日に帰国した。過酷な日々の記録は月刊誌「新潮」2009年12月号で初公開された。
 単行本はこの記事を再録し、11月の取材で撮影した写真、井上の湯ケ島小の同級生で同じ部隊だった西川喜三郎さん(故人)が持ち帰った現地の写真、作品論考も加える。同館長だった故松本亮三さん(9月29日死去、享年74)が企画し、徳山学芸員らが遺志を継いだ。
 西川氏の長男濃さん(75)=伊豆市=は「知られざる井上さんの姿が分かる。おやじもさぞ、喜ぶだろう」と刊行を心待ちにする。徳山学芸員は、井上が後に書いた行軍ルート周辺の町名を織り込んだ詩を例示し、「戦争体験がどう作品に昇華したかを示したい」と意欲を見せた。
【静新平成27年11月28日(土)朝刊】

2015年11月14日土曜日

百年後のために 匂坂信吾

百年後のために 匂坂信吾
 沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)主催の平成二十七年度・第8回市民公開講座「沼津ふるさとづくり塾」では、講師に国立歴史民俗博物館名誉教授高橋敏先生を迎え、「駿東文園と綴方教師たちー富原義徳と杉山正賢」をテーマに、大正から昭和にかけて駿東郡で始まり、全国的にもまれに見る綴り方教育をめぐる郷土の歴史を学びます。
 駿東郡では富原義徳と杉山正賢という、大正五年に静岡師範を卒業したばかりの二人の小学校教師が、御殿場方面を中心に、熱心に綴り方教育に取り組んでいました。彼らの努力の結果、郡教育会が大正十五年四月、公式に綴方誌「児童文苑」(戦時下に中断七、昭和二十二年「駿東文園」と改題して復刊)を発刊。富原が編集委員長に、杉山が委員になりました。
 富原の弟の薫は地元で小学校教師を務めるかた,わら、「汽車ポッポ」など童謡の作詞をしたことで知られていますが、兄義徳は、児童文苑の成功をもとに昭和三年、「創作鑑賞 土の綴方」を刊行して全国に知られる存在になります。
 富原の活躍の陰で地域の児童に直接がかわり、地道な指導を続けていた杉山は、当時の教育指導者を批判して独自の指導方法を貫き通しました。
 杉山は小学校教師として、児童の理解のために徹底して児童の生活に密着し、教育実践を思想として高めようとして懸命に努力を重ねましたが、昭和四年、病気により退職。沼津で入院・療養を続けましたが、翌年、三十五歳の若さで亡くなります。逝去の臥までペンを持ち最後まで綴り方教育にささげた人生でした。 このころ富原は、病気退職の後、請われて東京の学校に再就職し、綴り方に関する執筆活動などを行うようになり、児童文苑の発行は古見一夫が後任の編集委員長となり継承・発展させました。
 児童が現実の生活を直視して、ありのままを文章化する綴り方指導を通じて、ものの見方、人間としてのあり方を教えようとした彼らの志は、まさに百年後のために人を育てようとする信念に基づくものだったと思います。
 駿東文園は全国で唯一、当時から現在まで継続しています。当初、沼津を含む駿東の若き教師達が目指したものは何だったのか、講座の中で、地域教育の歩みを実感してみませんか?
 講座の日時=十一月二十一日(土)午後一時三十分開会。
 会場=市立図書館四階第一・二講座室。
 定員百人。資料代五百円が必要(会員は無料)。
 なお、会場として同じフロアの視聴覚ホールとして誤ってお知らせした,方面につきまして、同じ日に開催されます芹沢光治良文学講演会の会場と重なり、ご迷惑をおかけしたことをお詫びします。
 (沼津郷土史研究談話会副会長、小諏訪)
【沼朝平成27年11月14日(土)言いたいほうだい】

2015年11月12日木曜日

東海道こぼれ話 鈴川憲二

東海道こぼれ話 鈴川憲二

 志多町・川廓・水神社
 志多町と川廓は旧上土の一部として古くは三枚橋城の縄張の内にあって防備の重要な位置にあったが,名の示す如く低湿の地で,たびたび洪水に見舞われ,後に東海道の道筋にあたり人家が軒を連ねるようになるに従い,城地から外された。水神社は旧城時代の曲輪の守護祥であり狩野川洪水の守り神様でもあった。現在では極めてささやかな社殿が堤防の際にある。狩野川に添っている川廓の道は300年昔からの東海道そのままの道巾で旧市内では残っている唯一のところである。

 大手門前
 川廓から坂を上り静岡銀行沼津支店前が水野藩沼津城の大手門前にあたる。大手前広場といっても駅前通りの巾で銀行前から静銀代弁の前までの狭い所である。大手門は魚ぶんの天ぷら屋の所にあって東を向いていた。徳川の中期以後の太平の時代の大名の居館としての城のため,防禦は余り考慮する必要は無かったが,市街地に近接していたため,再度火災に見舞われた。

 上土通り
 東海道は大手前で左に折れて上土通りとなる。上土の地名は城の工事のため土を掘り上げたことから由来するが,大字の上土は町方・八幡町・片端・七反田までお城を取巻く全地域が含まれているが、最近古文書によって沼津古城すなわち三枚橋城の縄張りが七反田以南の大字上土全部にわたることが判明した。現在の上土町一帯は沼津古城内の町家から発展して城下町の宿場の商業中心地を経て今日に至ったのである。

 上土商人の系譜
 江戸末期から明治初年の上土は沼津城大手前にあって,東海道筋にあたり,裏に狩野川を背負っていたので,河岸の荷上げにも恵まれて,ことに東側は関西資本の商店によって殆ど占められていた。その国元をみると,阿波国から鹿島屋・阿波屋,近江国から日野屋,泉州堺から大坂屋等であった。その殆んどが本店が国元にあって,支配人番頭以下全員が同じ国から来ていて妻子は郷里にいて,盆暮年2回だけの休暇に郷里に帰えることになっていた。店は男世帯で飯炊き婆さんに炊事をさせた。古い番頭の言によると,たまに郷里に帰えるので子供は恐わがって,2,3日はそばに寄らないで,帰える頃になってやっとなれたという。年配者には新地の勘定は店持ちになっていたが,そう度々は帳面に書かれないので自前も多いとのことだった。
 当時最大の店は鹿島屋であって沼津藩のお金御用をして名字帯刀を許されていた。江戸の鹿島屋清兵衛は同じ一族であった。明治維新後,国元に引上げ店は支配人番頭等8軒に分割されたが現在上土に2軒だけ残っている。本会員と関係あるのは日野屋(山中君),阿波屋(石原君),大坂屋(鈴川)である。

 阿波屋のかっぱ薬
 石原君の店で大正の頃まで売っていた家伝薬で由来は阿波屋の裏の狩野川の河岸に大きな穴があって、先祖のお爺さんが風邪を引いて寝こんでいたときに河童が夢枕にでて,水出で大きな石が穴をふさいでいて出られないので,それを取り除けてくれればお礼に風邪薬を教えてくれるといった
ので,取り除いて教わったのが,その河章薬であったという,宣伝の妙。


 通横町
 上土から右折すると通横町となる。宿の主要機関である問屋場はここの北側におった。三町よりなっていた沼津宿では一か月のうち上旬は三枚橋中旬は本町,下旬は上土から問屋,名主,年寄と三役が勤務して公用の貨物の輸送や馬や人足の手配をしていた。
 問屋場の裏庭の一隅には人足部屋があった。俗にいう雲助たちの溜場である。駿河銀行西側の西島屋が茶飯屋で人足や旅人たちの大衆食堂であった。
 通横町から北に向う六軒町の通りが問屋小路で,西側に水野藩の町方役所があり郡奉行がいて町役人の支配をしていた。その隣りに町方御長屋が竝んでいて町方役人の住居であった。現在では町名にその名を残している。
 明治9年に港橋(現在の御成橋)が開通して通横町の道が河岸まで通じた。それ以前は上土と通横町の境の小路から河岸に下りて渡し船で香貫方面に渡った。
 問屋場の西に大黒楼や蓬莱屋等の遊廓があって上本町・下本町まで色街をなしていた。大門の通りは細い道で正見寺や本光寺に入る道として門前町として大門の名を残している。
 明治以後も有力な商店が軒を竝べていたが,大正2年の大火以後区画整理で本通りができて通横町は沼津の中心地となり,当時の珍らしいものとして勧工場と救世軍があった。勧工場はマーケットのようなもので店内にコの字形の通路があって自由に通り抜けができ座売りだけの商店の中にあって特に目を引いた。救世軍は駿河銀行の前あたりにラッパ太鼓の独特なメロディに夜の散歩客の足を止めさせていた。

 上・下本町
 城下町の沼津の街道は見通しできないように何度も折返している。通横町から直角に曲って本町に入ると本陣を初め宿屋の多いのが目立つ。幕末の頃には上本町に脇本陣1,仮本陣1,下本町に本陣2,仮本陣2,旅籠数軒があった。清水・間宮両家は木陣として有名であった。明治にな東毎道線が開通すると交通の変化によって廃業するものが多くなった。大正2年の大火災以後街の様相は変わり,花柳界の発展と映画館や劇場によって本町の繁栄時代となった。
 本ブラ
 大正の頃には夜ともなると夜店が出てアセチレンの焔のもとに夏の頃はバナナのたたき売りや虫売り植木屋その他,素見客に賑って銀ブラならね本ブラが出現した。千本・牛臥・静浦には別荘が建並んで避暑の客も本ブラを楽しんだ。

 映画館
 その当時,本町の中程に金鵄館があり下本町に中村演芸館があった。こちらは寄席であった。
 金鵄館は映画専門で沼津にいちばん初めにできた映画館であった。その頃は活動写真といった。連続大活劇や目玉の松ちゃんこと尾上松之助の旧劇(時代劇)が人気を呼んでいた頃であった。活弁こと映画説明者がいて,新派大悲劇では全市の子女の紅涙をしぼった。楽師はヂンタで,その呼込みや市中の宣伝隊は街の景物でもあった。ピアノ・ヴィオリンの伴奏に変ったのは大正10年の頃であった。当時の映画館は男女が別々にされて,真ん中が同伴席であった。後方に一段高く警官席があって,お巡りがサーベルをかまえていた。

 新町と浅間町
 東海道は新町に突きあたり右折して浅間町となる。突きあたりに仁堅家と言う薬屋があった。門口が2間であったので,そう呼ばれたのが屋号となった。現在は下本町に移ったが沼津朝日の露木豊君の生家である。隣にあった菓子屋の塩坂は御用邸御用の有名な店であった。
 浅間神社は旧沼津の氏子を二分する神社であるが,社格は旧郷社で居候の丸子神社は県社であって,この方が社格が上であった。丸子神社はもと丸子町にあって式内社として立派なものであったが,戦国時代の兵火に焼かれて現在の有様となった。旧社地には小祠が祀られているが,付近には社に関係ある地名が多く残されている。また市道の地名は門前市の名残の地名である。

 出口町
 出口は沼津宿時代の宿のはずれで旧幕時代には往来を見張る見付のあった所であった。元市長の和田家はこの地の草分けで名主を代々やっていた。
 大正2年の大火は出口の団子屋が火元で,3月の節句の風の強い日で子供が焼芋を買いに来て戸口を開けると西風が吹き込んで釜の火口から焔が縁の下に吹き出して,燃し物の松葉に火が移ってたちまち火事になった。手伝に皆行っているうちに風下の上土に飛火して,次々に延焼して手のつけようが無くなった。焼失1,500戸,罹災者7,500人,焼死9名であった。

 蛇松線
 自動車の交通の多い街々を汽笛を鳴らしながら遠慮がちに走っている蛇松線は,明治22年東海道線の開通前に工事線として、材料運搬のため作られた。当時は郊外の水田の中を走っていたが,町の発展に従がい市街地を走るようになった。千本浜の牧水碑の巨石もこの線のレールによって運ばれた。昔懐かしい蒸気機関車も現在はディーゼル機関車に変わっている。

 間門
 東海道は市道を経て間門となる。間門は囚人堀を境に東間門と西間門に分かれる。この地名については,いつの頃か古い時代にここの海底からエンマ王の首が漁夫の網にかかって引揚げられ,その首に「天笠まかつ国」と記されていた。里人が胴体を継ぎ足し,お堂を建てて祀っていたが,いつか転訛して「まかど」の地名になったと伝えられる。このお堂も明治になって姿を消して,あとの敷地は囚人堀の河川敷となった。

 囚人堀
 西北部排水路が正式の名称で,浮島沼に連なる湿田の排水のため戦時中,海軍工廠によって掘さくされた。堀の東は海軍工廠の敷地になっていて工事に沼津と静岡の刑務所の囚人を使役したので囚人堀と呼ばれるようになった。

 六代松
 東間門地先に千本松原の浜続きに六代松と称する老松が百数十年前まであったと伝えられている。現在は沼津藩の典医駒留氏の書かれた碑が残されている。平家の公達六代が,この所で打首になるのを,文覚上人に救けられたという,平家物語に拠ったものであろうか。



 甲州街道
 千本公園入口の右の道を入り右に折れて本光寺前を海岸沿に松林の中を行くとやがて国道1号線と出会う。昔は細い道であった。この道が甲州街道で戦国時代に武田氏が塩を求めて,駿河に進出して千本浜で塩たきをして,できた塩を延々と松林の中を富士川の河口まで運んだのが,いつしか細い道となり甲州街道と呼ぶようになった。富士川の急流は船によって甲州まで運んだ。黄瀬川沿の御殿場街道は甲州への近道であるが北条氏との勢力の接点であるので危険を感じたので,海岸筋を運んだと思われる。
 その後徳川家康は甲州への交通の重要性を認め富士川の水運再開を大久保長安に命じた。長安は慶長17年(1612)角倉了以の協力によって川底の岩を除き,甲州鰍沢(かじかざわ)から中流の飯富を経て岩淵まで72キロの富士川水運が通じた。
 高瀬舟で下り半日,上り3日程かかった。下りの主な荷物は米で,岩淵から駄送で清水港に至り船便で江戸に運んだ。これは幕府の御用米であった。上りの主なものは塩と雑貨であった。鮮魚は富士裾野経由の中道街道や沼津方面からは御殿場経由で送られた。現在片浜から原を経て西へ向う国道を疾走すをトラックやバスの乗客で昔をしのぶものは殆んどないが,晩秋の中の櫨(はぜ)の紅葉の美しさは目をみはるものがある。松林の中の雑木を育てる方法として,櫨の苗木を植林したいものである。
 沼津領の榜示
 甲州街道から旧東海道へ戻り西間門に入ると八幡神社の前に半ば埋れた石の標柱がある。僅かに「従是東」の上の部分だけが現われている。東の大岡久保にある「従是西沼津領」の榜示と東海道沿の沼津藩の境界を示すものであり,安永7年水野藩が沼津の地に封じられた時に建てたものである。古老の話によると子供の時分には,さんざ乗っていたづらしたので埋められたらしいとのことであった。

 大諏訪・小諏訪
 間門の西方には街道沿に民家の続く部落大諏訪・小諏訪がある。この地名はここに鎮座する諏訪神社による。熊野神社が黒潮に乗って紀州から海岸伝いに広まったように。諏訪明神信仰は富士川と天竜川によって東海道方面に伝って来たものである。

 松長
 松長には史蹟として神明塚と松長陣屋がある。神明塚は前方後円墳で全長62m,頂上に神明宮が祀ってある。沼津の古墳は殆んど根方方面にあるが,海岸近くにあるのは珍らしい。5世紀頃には浜通りの開拓が進み有力な豪族が現われたことを示すものである。松長の陣屋はこの神明塚から旧東海道の街道にかけての附近一帯が旧趾地である。小田原大久保藩の支藩荻野山中藩(神奈川県厚木の北2粁)1万3千石の内駿河に2千5百石,伊豆7千5百石の地を支配した後所をこの地に置き陣屋と称した。明治維には徳川領となり,廃藩置県によって静岡県に含まれて現在では当時の姿は全然残されていない。

2015年11月2日月曜日

第23回唔学舎仏教文化講座「和紙と仏教文化」宍倉佐敏教授







唔学舎仏教文化講座
 和紙と仏教文化
 平成27年11月1日
 女子美術大学特別招聰教授 宍倉佐敏
 紙は文化のバロメーターと言われ、一人当たりの紙の消費量がその国の文化度として評価される、日本は他の国々と異なり和紙の文化と洋紙の文化があり消費量もアメリカに次いで多い。和紙は仏教と共に発展したと言われているので、研究してみた。
 ☆紙の発明
 2350年程前に中国の女性達は川や池の浅瀬で、笊(ざる)や篭(かご)に汚れた衣類や糸クズなどを入れ棒で叩いて洗濯をした。洗濯後に篭などの底に紙状物が残り、これを乾燥すると物を包むことができ、平らな面には簡単な文字が書けた、これが紙の始まりであった。
 ☆日本への伝来
 中国の「後漢書」によると105年に官人「蔡倫(さいりん)」が古い布や麻屑・樹皮などを切断・分散して紙を作り、表面を木槌などで叩いて文字の書ける紙として帝に提出して、喜ばれこれを「蔡候紙(さいこうし)」と呼んだ。この製法が610年に日本に伝えられたと「日本書紀」にある。
 聖徳太子は人民の意志統一を図るため仏教を取り入れ、文字の読み書きができる僧侶に写経の指導を依頼すると同時に、紙の原料になる楮(こうぞ)の殖産を奨励した。
 壬申の乱の後に一切経(いっさいきょう)の集団写経が行われ写経事業は大きく膨らみ、紙の需要は増大したが、原材料が調達できず麻や楮の代わりに、雁皮(がんぴ)・オニシバリ・マユミ.フジなどの繊維が紙に利用された。(五月一日経(ごがつついたちきょう)、賢愚経(けんぐきょう)(大聖武:おおじょうむ)、百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)などの紙)
 ☆日本の紙(和紙)の誕生
 中国から伝えられた紙は長い繊維を切断して叩き、網状物ですくい取り脱水して紙にして、表面を叩いて平らにする「溜め漉き法(ためすきほう)」であったが、日本では雁皮のヌルヌルした粘性からヒントを得て、粘性の高いビナンカズラやニレなどをネリ剤(繊維分散と沈澱防止)として使い、繊維液を竹や萱(かや)の簀(す)で漉く「流し漉き法」が生まれ、これを後世の人々は「和紙」と称した。
 和紙は薄いが表面が美しく、文字が書き易いだけでなく、染色などの装飾ができるので平安時代には美術的に優れた装飾経が多くつくられた。
 ☆武士社会と紙
 質実剛健を気風とした武士は貴族や僧侶が使用していた厚く大きい紙から、薄くて小型で安価の紙を求めたので、紙の品種は二種に大別された。
 主に中央都市部で生産されていた紙も職人が出身地に帰郷し各地に生産地が生まれ、独特の地方紙が作られた。貴族などが求めた厚紙は「半流し漉き法」で作られ、表の平らな面には貴族が命令や手紙などを書き、粗い裏面は叩いて平らにして僧侶達が写経や日記などを書写した紙背文書(しはいもんじょ)が多くの寺院に残され、この古文書は日本独特である。
 この当時の有名紙は陸奥紙(みちのくかみ)、美濃紙(みのし)、奈良紙(ならかみ)、高野紙(こうやかみ)などがある。
 貴族に独占されていた仏教は、親鸞・日蓮・一遍など多くの僧侶によって、民衆に広める目的でやさしく誰にも解り易い形で布教された、布教には般若経や曼茶羅など書写し多くの紙が活用され、書以外では一遍上人が紙で作った衣服(紙衣:かみこ)を纏い布教活動をした。紙衣は現在でも東大寺お水取りで使われている。
 遣唐使として留学した僧侶が帰国した際、中国の優れた紙と言われる竹紙(ちくし)を持ち帰りこれを広め、竹紙は書の巧みな人に喜ばれ多くの僧侶にも使われた。
 紙は書写用だけでなく建築物にも活用され、絵屏風(びょうぶ)・襖(ふすま)・明り障子紙などの紙が各地で盛んに生産され、美濃紙は薄く縦横差が少なく毛筆で文字が書き易いので書写用に、白く綺麗で強度もあるため明り障子用に寺院や神社に大変好まれた。
 和紙は各地で生産され伊豆や駿河でも独特な紙が作られ、寺院・神社などで使われた。
 ☆近隣の紙
 徳川幕府が成立し藩ごとの自由経済体制がとられ、紙は藩財政を支える重要な物品となり生産を強制された藩もあり、江戸後期には紙一揆などが発生した藩もあった。
 江戸幕府は人々が宗教を信仰して、幕府とは異なった思想で社会活動されることを恐れキリスト教だけでなく、仏教も制圧した為江戸時代の仏教に関する書物や文書は少ない。
 伊豆や駿河の紙で歴史の古い修善寺紙は平家物語の下学集(かがくしゅう)に記載されていて、500年以上も前から生産されていた。製法は越前から修善寺に修業に来ていた僧から学んだと言われ、最初は楮紙であったが、室町時代に天城山中に多く自生していた雁皮や三椏(みつまた)が原料として使われ「柿色にして横に筋目あり」と言われた。その後「色よし紙」と呼ばれた高級紙も作られ東日本の代表的な紙であった。近年重要文化財に指定された三島大社収蔵の北条家文書には修善寺紙が多く使われている。
 江戸で瓦版用紙や寺小屋の手習い帳に好評であった駿河半紙は約250年の歴史があり、製法は山梨県の市川大門で紙漉きを習得した清水市の住人が始めたと言われ、初期は楮の紙であったが後に江戸で評判が高く、生産単価の安い三椏紙に変わり、富士川沿岸で生産された紙も駿河半紙として出荷された。
 特殊な紙として江戸の文人墨客に愛された熱海雁皮紙は200年の歴史があり、五色に染められ巻紙・短冊・色紙・書道用紙などとして販売されたが、原料と水不足で明治初期に生産は中止された。

2015年10月30日金曜日

「書籍・戦後史の正体」を読み終わって、

「書籍・戦後史の正体」おわり章から
アメリカと日本の国益の関係における戦後の首相
 自主派(積極的に現状を変えようと米国に働きかけた人たち)

 〇重光葵(まもる)(降伏直後の軍事植民地化政策を阻止。のちに米軍完全撤退案を米国に示す)
 〇石橋湛山(たんざん)(敗戦直後、膨大な米軍駐留経費の削減を求める)
 〇芦田均(ひとし)(外相時代、米国に対し米軍の「有事駐留」案を示す)
 〇岸信介(のぶすけ)(従属色の強い旧安保条約を改定。さらに米軍基地の治外法権を認めた行政協定の見直しも行なおうと試みる)
 〇鳩山一郎(対米自主路線をとなえ、米国が敵視するソ連との国交回復を実現)
 〇佐藤栄作(ベトナム戦争で沖縄の米軍基地の価値が高まるなか、沖縄返還を実現)
 〇田中角栄(米国の強い反対を押しきって、日中国交回復を実現)
 〇福田赴夫(たけお)(ASEAN外交を推進するなど、米国一辺倒でない外交を展開)
 〇宮沢喜一(基本的に対米協調。しかしクリントン大統領に対しては対等以上の態度で交渉)
 〇細川護煕(もりひろ)(「樋ロレポート」の作成を指示。「日米同盟」よりも「多角的安全保障」を前視)
 〇鳩山由紀夫(「普天間基地の県外、国外への移設」と「東アジア共同体」を提唱)

 対米追随派(米国に従い、その信頼を得ることで国益を最大化しようとした人たち)

 〇吉田茂(安全保障と経済の両面で、きわめて強い対米従属路線をとる)
 〇池田勇人(安保闘争以降、安全保障問題を封印し、経済に特化)
 〇三木武夫(米国が嫌った田中角栄を裁判で有罪にするため、特別な行動をとる)
 〇中曽根康弘(安全保障面では「日本は不沈空母になる」発言、経済面ではプラザ合意で円高基調の土台をつくる)
 〇小泉純一郎(安全保障では自衛隊の海外派遣、経済では郵政民営化など制度の米国化推進)
 他、海部俊樹、小渕恵三、森喜朗、安倍晋三、麻生太郎、菅直人、野田佳彦

 一部抵抗派(特定の問題について米国からの圧力に抵抗した人たち)

 ○鈴木善幸(米国からの防衛費増額要請を拒否。米国との軍事協力は行なわないと明言)
 〇竹下登(金融面では協力。その一方、安全保障面では米国が世界的規模で自衛隊が協力するよう要請してきたことに抵抗)
 〇橋本龍太郎(長野五輪中の米軍の武力行使自粛を要求。「米国債を大幅に売りたい」発言)
 ○福田康夫(アフガンへの陸上自衛隊の大規模派遣要求を拒否。破綻寸前の米金融会社への巨額融資に消極姿勢)

 ①占領軍の指示により公職追放する
 鳩山一郎、石橋湛山
 ②検察が起訴し、マスコミが大々的に報道し、政治生命を絶つ
 芦田均、田中角栄、少し異色ですが小沢一郎
 ③政権内の重要人物を切ることを求め、結果的に内閣を崩壊させる
片山哲、細川護煕
 ④米国が支持していないことを強調し、党内の反対勢力の勢いを強める
鳩山由紀夫、福田康夫
 ⑤選挙で敗北
 宮沢喜一
 ⑥大衆を動員し、政権を崩壊させる
 岸信介

2015年10月3日土曜日

「日ロ交流の原点」講師中尾千恵子氏・「戸田の石丁場」講師水口淳氏資料スライド


「日ロ交流の原点」講師中尾千恵子氏・「戸田の石丁場」講師水口淳氏資料スライド

画像資料



150919日ロ交流の原点・戸田の石丁場スライド from 河谷杯歩 on Vimeo.




戸田の歴史と石丁場テーマに
 沼津史談会と 戸田史談会共催で講演会
 沼津史談会(菅沼基臣会長)は先月、第6回沼津ふるさとづくり塾を開いた。今回は戸田地区に会場を移し、戸田史談会(水口淳会長)と共催で戸田の歴史に関する講演が行われたほか、長浜城跡を見学した。
 ロシアとの交流の歴史は財産
 石丁場も観光振興への活用を考え
 道の駅「くるら戸田」内の戸田地区センターで開かれた講演会では、東京で対露交易企業を経営する中尾千恵子氏が幕末のロシア使節プチャーチンと戸田地区のゆかりについて、また、戸田史談会の水口会長が、戸田産石材と江声城築城について話した。
 中尾氏は、プチャーチン一行の戸田滞在を扱った歴史小説『つるし雛の港』の作者。この著作では、ロシア兵と日本人女性との恋愛模様を軸に、日露交流のあけぼのが描かれている。
 講演で中尾氏は、作品の登場人物などは創作を交えているものの、戸田に実在した家や人物をモデルとしていることを解説。また、五年前から開催準備の協力をしている「戸田港まつりプチャーチンロードパレード」とロシア兵供養祭を撮影した映像を上映した。
 そして、「プチャーチンと沼津戸田との交流の歴史は一つの財産。プチャーチンの行事は参加者が増えつつあるが、広報などの面で、まだまだ拡大の余地はある」とし、戸田とロシアの間の特別な関係を国際交流や観光の面で大いに活用することの重要性を指摘した。
 続いて水口会長は、江戸時代に戸田に設けられた石丁場(いしちょうば)について話した。
 石丁場は採石場のことで、江戸城石垣の石材を得るために、建設工事を負担させられた大名が伊豆半島の各地に開設。切り出された石材は、船で江戸へと運ばれた。
 水口会長によると、戸田の石丁場は運び出されなかった残石が多いのが特徴で、こうした石には所有者の判別などの目的で様々な刻印が残された。刻印のデザインは文字を含むものやマークのみのものなど多岐にわたる。
 戸田史談会では戸田の山中を巡って刻印の拓本採取を続けてきたほか、市教委も調査を続けている。現在も皇居の一画に残る石垣には、刻印のある石が確認されていて、そうした刻印の中には戸田で発見された刻印と同一のものもあるという。
 最後に水口会長は、江戸城の天守閣再建の要望活動が全国的に進められていることを紹介し、戸田石丁場を通して天守閣再建と戸田の観光振興とをつなげていく意欲を語った。

【沼朝平成27104()号】

2015年8月23日日曜日

長浜城跡開園記念連続講座第1回

 長浜城設計の工夫、特徴学ぶ
沼津で講座 史跡公園オープン記念
沼津市教委は22日、同市内浦重須の国指定史跡「長浜城跡」に整備した史跡公園のオープンを記念した講座を市立図書館で開き、約140人が長浜城の特徴などを学んだ。
長浜城跡の保存整備事業の成果を紹介する連続講座(全3回)の初回で、城跡の調査などに携わった奈良大の千田嘉博学長と、名古屋工大大学院の麓和善教授が「長浜城の設計」をテーマに、それぞれ考古学、建築史の視点から写真や図面を示しながら講演した。
長浜城は16世紀後半、北条氏が築いたとされる水軍の城。千田学長は、他の水軍の城と比較した上で、「防御に非常に工夫を凝らしている。一般の水軍の城とは異なる特徴があり、山城と言ってもいい面白い城」などと説明した。
第2回講座は9月27日、第3回は10月11日に同図書館で行われる予定。両日とも午後1時半から。
【静新平成27年8月23日(日)朝刊】



2015年8月15日土曜日

榊原弱者救済所などの史実発掘

平成27年8月15日(土)
沼津史談会第5回沼津ふるさとづくり塾

郷土史研究と地域づくり

榊原弱者救済所などの史実発掘をめぐって
講師:吉田政文氏・西まさる氏

会場:沼津市立図書館第1第2講座室

当日画像資料

半田郷土史研究会



2015年8月9日日曜日

すばらしき街・沼津② 匂坂信吾

すばらしき街・沼津② 匂坂信吾
 沼津史談会は、八月三十日(日)午後一時から市民文化センター大ホールで開催される沼津駿河ライオンズクラブ創立三十周年記念事業「すばらしき街・沼津」に他の二団体と共に協賛し、私から郷土史の一端を紹介します。
 史談会では平成二十五年度から毎月、「歴史を生かした沼津のまちづくり」をテーマに市民公開講座「沼津ふるさとづくり塾」を開催しています。
 今、私たちが第一に考えているのは、明治二年一月開設の沼津兵学校が、平成三十一年一月に創立百五十周年の節目の年を迎えるため、二十八年度から三年計画により記念事業を実行することです。
 沼津兵学校附属機関として現在の西条町に設置された陸軍医局(医学所)は、兵学校閉校後は「沼津病院」「駿東病院」となって昭和二十年七月の沼津大空襲で焼失するまで八十年近く存続して地域医療発展のために貢献しました。
 しかし、このことについては今まで十分な顕彰活動が行われていません。そこで本会と沼津医師会とが中心となり、関係機関、団体の皆様と共に記念事業に取り組んでいくため、現在、その準備を始めていますので、当日は初めて、基本的な方針などについて話す予定です。
 もう一つ考えているのは、まちづくりを進める方法として、本会会員や会員以外の有職者の参加を得ながら、郷土史に関連する研究活動を積み重ね、地域資源の発掘や顕彰を進めることです。来年四月に始める新しい講座計画を作成する中で、具体的な進め万を検討しているところです。
 その契機となったのは、愛知県半田市の「はんだ郷土史研究会」の取り組みです。
 同会は発足後十年の若い組織ですが、地元の人たちが毎月第三日曜日の「ふるさと講座」に参加し、楽しく、真剣に活動を続けています。
 来たる十五日(土)午後一時三十分から市立図書館四階、第一・二講座室で「はんだ郷土史研究会」幹事の西まさる氏、吉田政文氏が講師となり、明治三十二年から昭和初期まで半田に存在し、約三十年間で一万五千人の社会的弱者を支援した「榊原弱者救済所」の史実発掘などに関する講話をされます。
 同旧才女は、日本の更生保護制度の歴史上、重要な一ページを飾るものですが、平成二十一年六月に事実を突き止め、関係者や地域住民、自治体や国に働きかけて保存・顕彰に至る原動刀となったのは、この研究会でした。
 今回の講話は、第5回「沼津ふるさとづくり塾」の講座として行いますが、福祉関係者をはじめ、皆様の積極的な参加をお待ちしています。
 先着百人、資料代五百円(会員無料)が必要です。
 問い合わせ先=匂坂(さぎさか)電話〇九〇ー七六八六ー八六一二。(沼津史談会副会長、小諏訪)
【沼朝平成27年8月9日(日)言いたいほうだい】

2015年8月8日土曜日

第4回沼津ふるさとづくり塾「帯笑園と江戸の園芸」

平成27年7月19日沼津史談会「第4回沼津ふるさとづくり塾」
「原・植松家の帯笑園と江戸の園芸」
講師:台東区立中央図書館専門員・平野恵
会場:沼津市原地区センター





当日画像資料



帯笑園 江戸の植木屋と同様の活動
 それに通じるもの現在に残す
 沼津史談会は、第4回沼津ふるさとづくり塾を、このほど原地区センターで開いた。東京都台東区立中央図書館の郷土・資料調査室専門員、平野恵氏が「原・植松家の帯笑園と江戸の園芸」と題して話した。約八十人が聴講した。
 海外品含む珍種や温室
 植物園の機能持ち専門家に評判
 平野氏は、江戸時代に原の植松家によって造営された帯笑園と、江戸で発達した植木屋業界との比較を行い、帯笑園が持っていた植物園の機能について解説した。
 記録上の帯笑園と温室
 はじめに平野氏は当時の医師や学者の旅行記などに登場する帯笑園の記述を取り上げ、そこには海外輸入品を含む珍しい植物があったこと、帯笑園の存在は当時の専門家の間で評判になっていたことなどを紹介した。
 そして、帯笑園について書かれたシーボルトの文章に登場する「温室」に着目し、解説した。
 それによると、当時、帯笑園には複数の温室があり、植松家では「窒(むろ)」と呼んでいた。温室と言っても現代的なガラス張りのものではなく、開閉できる棚を壁などで囲ったものだった.寒さに弱い植物を寒気から守ったり、早咲きをさせたりするために用いられていた。
 帯笑園の窒は一種の名物になっていたようで、「常春房」や「蔵春洞」などの名が付けられ、見学者が窒で和歌を詠んだり茶を飲んだりした記録が残っている。
  植木展と帯笑園 江戸時代には江戸で植木屋が登場し、繁盛していた。植木屋は植物の売買だけでなく、観覧目的の花屋敷(植物園)の運営や菊人形などの菊細工の展示を行い、現代で言うところの遊園地のようなアミューズメントパークとしての機能を持っていた。さらに、花屋敷を出版物で広報したり、植物品評会などの行事を開催していた。
 平野氏は、こうした植木屋と同様のことが帯笑園でも行われていたと指摘。植松家でも近隣の植物愛好家と共に「植木会」などと呼ばれる行事を開いていたことを説明。また、当時の著名人だった学者の海保青陵(かいほ・せいりょう)に園についての文章を書いてもらったことは、園の格式を高めるための広報の側面もあったのではないか、とした。
 さらに平野氏は、植松家が大名に貴重な植物を献上する代わりに「御挨拶」という名目で金銭を受け取っていた記録や、明治の植物学者が日記の中で植松家を「有名なる植木屋」と呼んでいたことなどを取り上げ、帯笑園においても植物の販売が行われていたことにも触れた。
 江戸の植木屋と帯笑園との共通性について解説し終えた平野氏は、まとめの言葉として、江戸時代に流行した園芸文化の担い手だった江戸の植木屋の庭は現存していないが、帯笑園はそれに通じるものであり、帯笑園が現存していることの意味は大きい、と話した。
【沼朝平成27年8月8日(土)号】

歴史とは・・・・ 鈴木数雄(沼朝投稿記事)

歴史とは・・・・ 鈴木数雄
 『昭和天皇実録』が第二冊まで刊行されている。明治三十四年のご誕生から大正九年(十九歳)までの動静が記されていて、驚くのは沼津御用邸滞在が頻繁で、長期にわたったこと。ほぼ毎年、暮れに沼津にお越しになって新年を迎えられ、春になると東京へ御帰還という日程が繰り返されている。
 滞在中の生活など知る由もなかったが、今回分かったことの一つが「御運動」。桃郷や我入道、千本の松林や海岸に精力的にお出かけになる。貝拾い、クラゲ捕り、松露採り、凧揚げなどもされた。ご成長とともに徳倉山、鷲頭山、香貫山と行動範囲は広がる。
 七面山、土筆が原、雷山、大平越え、香貫山の十三本松などの地名が詳しく記されている。現在、沼津アルプスと呼ばれる山々だが、昭和天皇ほど何度も足を運ばれた方は珍しいと思われる。本邸の馬場で練習に励まれ、馬で重寺や黒瀬方面にもお出かけになった。
 また、牛臥山と海の景色など沼津滞在中は、しばしば水彩画を描かれたという。
 大正七年、御用邸前の浜で採集された緋色のエビが新種とされ、和名ショウジョウエビと命名されたこともあった。
 沼津の海、山、川が、昭和天皇の自然観を育んだ可能性は高い。十二歳の時には博物博士になりたいと希望されている。しかし、その願いは叶わなかった。大正十年、大正天皇の摂政となり、昭和の激動に巻き込まれていったからだ。昭和天皇にとって沼津は、まさに揺籃(ようらん)の庭であった。
 今回、「実録」が公になったことで昭和天皇と沼津との絆が想像以上に強く、興味深いものになった。昭和天皇に限らず、沼津御用邸に出入りしていた人々や、そのつながり、縁の場所を「御用邸文化」と、ひとくくりにすれば、非常に多彩で歴史的にも価値のある「沼津の宝物」となる。
 敗戦後の一九四六年に「人間宣言」された後、昭和天皇は全国を巡行された。沼津巡行の際に「沼津は小さい時から馴染みの地だが、こんなに焼けては感慨無量だ」と述べられたという(沼津広報沼津市史)。

 平和憲法の下で象徴天皇となられてからは、公務の傍ら、ヒドロ虫類やウミウシ、貝類の研究で業績を挙げられた。「博物博士」という少年時代の夢は、平和な時代になって叶えられた。
 その平和憲法も、戦後七十年にして揺らいでいる。開戦を回避しようとされた昭和天皇なら、どうお考えになるだろう。

 昭和天皇のほかには、沼津に縁の人物で国家の存亡に関わった例はない、と思っていた。ところが、高尾山古墳が「日本国家誕生時の重要遺跡」で、「卑弥呼のライバルというべき東国の王の墳丘」の可能性が出てきた。日本考古学協会会長による、保存を求める異例の声明も出された。
 西暦二一二〇年頃に築造され、被葬者は二五〇年頃に埋葬されたという。三世紀前半と二〇世紀に日本の国の歴史に深く関わる人物が、沼津という風土の中で生活していた。予想を超えた歴史の展開は実に面白い。
 高尾山古墳の価値は今後の研究で、さらに高まるだろう。道路建設のために破壊するなど断じて許されるものではない。昭和天皇没後二十五年経って刊行された「実録」から新たな事実が分かり、市民にとっての御用邸文化の価値も大いに高まったのだから。
 歴史とは、そういうものらしい。(大岡)
【沼朝平成27年8月8日(土)投稿記事】

2015年8月7日金曜日

木簡にみる古代地名

木簡にみる古代地名
沼津あれこれ塾で変遷たどる
 NPO法人海風47による郷土史連続講座「沼津あれこれ塾」の第3回講座が、このほど商工会議所会議室で開かれた。元市教委学芸員で日本考古学協会会員の瀬川裕市郎さんが「堅魚(カツオ)木簡からの情報カツオ製品づくりと沼津周辺の古代地名」と題して話した。
 内浦のカツオ、税で都へ
 納税者の住所など解読
 奈良時代、全国各地から特産品が税として平城京の都に運ばれていた。これらの品々には荷札として木簡(木札に字を書いたもの)が添えられていた。こうした木簡が平城京の跡地などから多く見つかっていて、それらには現在の沼津市南部一帯から運ばれたカツオの加工品に関するものも含まれている。
 かつて内浦周辺では、入り江の入口を網で封鎖してマグロやカツオなどを捕える「建ち切り網漁」が行われていた。捕えたカツオは、煮たり、火であぶったりして加工し、「荒堅魚」や「煎」という品目で都へと運ばれた。「煎」とは、カツオを煮た汁から作られる煮こごりのようなものだと考えられている。
 都への税の木簡には納税者の氏名や住所が記されていて、カツオ木簡には駿河国駿河郡宇良郷の「榎浦里」「菅浦里」、伊豆国田方郡棄妾郷の「瀬埼里」「御津里」「許保里」などの地名があったことが確認されている。
 瀬川さんは、これらの地名を現在のものと照合させた結果について、「榎浦」は江浦、「菅浦」は志下、「瀬埼」は大瀬、「御津」は三津、「許保(こほ)」は古宇(こう)に相当する、と説明。また、「田方郡棄妾「(きしょう)郷」については、現在の西浦地区には木負(きしょう)という地名があり、棄妾郷が木負の由来になっているとの説に言及する一方、当時の棄妾郷は現在の内浦地区と西浦地区を含む広い地域一帯の名称であることから、西浦の一部地域の地名である現在の木負と棄妾は一致しないとする説もあることを話した。
 そして、後者の説の場合、木負という地名は古代の行政単位である「保(ほ)」と関係していると話し、同じ西浦地区の古宇が、かつては「許保」であったことから、木負もかつては「○○保」という地名だったのではないかとする説を紹介し、同じ西浦の久料(くりょう)も同様であった可能性についても触れた。
 これらを踏まえた上で、かつて西浦の地には「きし保」や「くり保」と発音される地名があり、これらがなまって「きしょう」や「くりょう」となったのではないか、という仮説があることを述べた。
 木簡に残された記述から地名の変遷についての解説を終えた瀬川さんは、講座の最後に「地名は変わってしまうことが多い。現代でも区画整理などによって新たな地名が誕生しているが、地名が変わってしまうと、かつての地名は失われ、そこに込められていた意味も忘れられてしまう。これは古墳も同じことで、古墳は一度その場所から失われると、その存在までもが忘れ去られてしまう恐れがある」と指摘した。
 次回の講座は二十九日午後二時から同会場で。市教委学芸員が「沼津城と三枚橋城」をテーマに話す。
 参加費は資料代として五百円。
 申し込みは、田村寿男さん(電話〇九〇ー三三八九ー〇五六七)、または瀬川さん(電話〇九〇ー四七九三ー○七九七)。
【沼朝平成27年8月7日号】

2015年7月28日火曜日

2015年7月12日日曜日

高尾山古墳が語るもの:篠原和大教授

高尾山古墳が語ること:篠原教授 from 河谷杯歩 on Vimeo.



当日配布画像資料

講演会の一部ですが動画です。当日配布資料は静止画像です。


高尾山古墳を解説
 沼津市民向けに勉強会

 都市計画道路の建設予定地にあり、沼津市が発掘調査で墳丘などを取り壊す方針を示している高尾山古墳(同市東熊堂)の現状維持を求める3市民団体が11日、同市の第5地区センターで初の市民向け勉強会を開いた。
 市民ら約220人が集まった。静岡大の篠原和大教授が同古墳の概要や価値を解説した。形状や立地、出土品を挙げ、「日本列島の政治、社会の成り立ちを知る上で重要な遺跡」と強調した。
 主催団体の一つ「高尾山古墳を考える会」の瀬川裕市郎代表(76)は「市民の関心の高さに驚いた。今後は署名活動などを通じて市に声を届けたい」と話した。
 同市原の女性(74)は「2009年の発掘調査時に出土品を見に行った。古墳を大切にしたいという気持ちが一層強まった」と感想を語った。
【静新平成27年7月12日(日)朝刊】

榎本武揚箱館戦争樋口4



榎本武揚説得した江原翁
 沼津ふるさと塾で樋ロ雄彦氏が解説
 沼津史談会による第2回「沼津ふるさとづくり塾」が先月、市立図書館で開かれ、国立歴史民俗博物館教授で元沼津市教委学芸員の樋口雄彦氏が「箱館戦争と榎本武揚(えのもと・たけあき)ー沼津藩・沼津兵学校とのかかわりを中心に」と題して話した。約八十人が聴講した。
 戸田出身船大工が榎本と行動共に
 箱館戦争後、兵学校入学者も
 榎本武揚(一八三六~一九〇八)は、幕末から明治にかけての政治家。元は幕臣で、オランダ留学を経て幕府海軍の指揮官となった。戊辰戦争では江戸開城による幕府崩壊後、幕府艦隊を率いて北海道に脱出し、新政府軍と最後まで戦った。戦後は、その才能や知識が評価されて明治政府に仕え、閣僚も歴任した。
 榎本と静岡と江原素六
 一八六八年に江戸城が開城し、徳川家が駿河に移ることになった際、榎本も艦隊を新政府に明け渡して駿河に移ることになっていた。現在の静岡市清水区に徳川家の「清水海軍学校」を設置する計画があり、榎本をはじめとする幕府海軍関係者も、そこに勤務することが想定されていた。
 しかし、榎本は北海道への脱出を考えていて、これを察知した徳川家では幕府陸軍幹部らによる説得を行った。この説得に参加したのが江原素六だった。
 江原は、北海道で戦い続けても勝つことは難しいこと、これからは海上貿易が盛んになるので榎本達はビジネスの場で活躍すべきことなどを話して説得したが、不調に終わった。
 江原の死後、その文章を集めて出版された書籍『急がば廻れ』には、江原の回想として、この説得工作の様子が記されている。
 樋口氏は、この文章を初めて目にした時、江原の自慢話の一つであると感じ、実際に説得の現場にいたのか疑問に思っていたという。しかし、その後、説得に参加していたことを裏付ける史料が発見され、回想が真実であると証明された。
 徳川家の北海道遠征計画榎本が艦隊を率いて北海道の箱館(函館)に脱出すると、新政府は駿河に移った旧徳川将軍家に責任を取らせようとした。
 徳川家は沼津で陸軍部隊を編成して北海道への派遣準備を始めたが、幕臣の身内同士で戦うことになるのを恐れた勝海舟は、徳川家による北海道遠征を中止させるための政治工作を行った。
 その後、新政府から罪人とされていた徳川慶喜の恩赦と引き換えに慶喜を遠征軍の指揮官とする案が出るなど、遠征計画は二転三転し、最終的に立ち消えとなった。
 戦後箱館戦争は新政府軍の勝利に終わった。降伏した榎本軍関係者のうち、旧幕臣は謹慎生活を経て、旧徳川将軍家の静岡藩に所属することになった。しかし、静岡藩には箱館帰還組を受け入れる職場が残っておらず、箱館組のうち、知識や才能のある者は「御貸人(おかしにん)」として他藩に派遣され、教官などとして勤務した。
 その一方で、沼津兵学校の生徒となった者や、兵学校教員の私塾で学んだ者もいたという。
 また、戸田出身の船大工の上田寅吉は、榎本と共にオランダ留学した縁で榎本軍に参加し、戦後は投獄もされたが、後に才能が評価されて新政府の海軍省に採用されることとなった。
 講演が終わって樋口氏の講演後に質疑。聴講者の「沼津兵学校が沼津に与えた影響は何か」という質問に樋口氏は、兵学校附属小学校が起源である一小などの例を挙げ、教育分野での影響や貢献があったことを話すとともに、江原素六などの人材と沼津が結ばれるきっかけを作った点について述べた。
 聴講者に講演の感想を聴くと、ある女性は「箱館戦争まで武士の本領を貫いた敗者達も学んだ沼津兵学校。その歴史が現在の日本につながっていることを知り、誇りに思います」と話した。
 また、ある男性は「箱館で敗戦降伏した後も、飽くことなく新使命を見つけ、新国家に貢献した武揚らの起死回生哲学に、新たな興味が湧きました」としていた。
【沼朝平成27年7月12日(日)号】

2015年6月22日月曜日

沼津の海とつわものたち:長浜城跡開園記念トークイベント

当日資料1「長浜城跡ガイドブック」です、クリックしてお読みください。




国指定史跡長浜城跡開園記念トークイベント
 時:平成27621()
 所:プラザヴェルデ沼津
北条水軍と武田水軍
 静岡大学名誉教授・文学博士
 小和田哲男


 1.北条水軍と長浜城
 「甲相駿三国同盟」の破綻
 武田氏に備え伊豆西海岸の水軍拠点強化
 御館の乱と「甲相同盟」破棄
 長浜の「船掛庭」普請












 2.武田水軍と三枚橋城
 武田水軍の構成
 武田水軍の海賊城
 三枚橋城の築城

 3.天正8(1580)の駿河湾海戦
 『北条五代記』が記す戦いの経過
 武田勝頼の感状
 女性兵士も戦った!?













千本浜沖海戦の項
 見しは昔、北条氏直と武田勝頼戦ひの時節、駿州の内、高(興)国寺と三枚橋は勝頼の城也。泉頭(がしら)・長久保・戸倉・志師浜(ししはま)、此四ケ城は駿河の国中たりといへ共、先年今川義元時代、北条氏綱切て取しより以来(このかた)、氏直領国となる。義元、信玄時代、此駿河領を取返さんと、遺恨やんごとなしといへども、つゐに叶はず。扨又沼津の浦つづき、香貫(かぬき)・志下(しげ)・志師浜・眞籠(まごめ)・江浦(えのうら)・多飛(たび)・口野(くちの)此等の浦里も、駿河領・氏直持也。志師浜には大石越後守在城す。此城の後にわしずと云高山あり。勝頼駿河へ出陣の時は鷲巣山に物見の番所有て、人しかと住し、浮嶋が原を見渡せば、勝頼の陣場の様子、目の下に手に取がごとし。されば駿河浦に、氏直兵船(ひょうせん)かけをくべき湊なきゆへ、伊豆重須(おもす)の湊に兵船ことごとくかけをく。沼津よりは二里へだたりぬ。梶原備前守・子息兵部大夫かしらとし、清水越前守・富永左兵衛尉・山角(かど)治部少輔・松下三郎左衛門尉・山本信濃守などと云船大将、此重須に居住す。氏直伊豆の国にをいて、軍舟を十艘作り給ひぬ。是をあたけと名付たり。一方に櫓(ろ)二十五丁、両方合(あわせて)五十丁立(だて)の兵船也。常にひとりさぐる鉄炮にて、十五間前に板を立、玉のぬけぬ程に、むくの木板をもて舟の左右艫舳をかこひ、下に水手(かこ)五十人、上の矢倉に侍五十人有て、矢ざまより弓・鉄炮はなつ様に作りたり。舳(へ)さきに大鉄炮を仕付をきたり。
然(しかるに)に、天正八年の春、勝頼駿河に出陣す。氏直も伊豆の国へ出馬し、三嶋にはたを立たたかひ有。重須の兵船駿河海へ働をなすべきよし、氏直下知(げち)に付いて、毎日駿河海へ乗り出す。勝頼旗本は浮嶋が原、諸勢は沼津千本の松原より吉原まで、寸地のすきまなく、真砂の上、海ぎは迄陣取。然に十艘の舟にかけをきたる、大鉄炮をはなしかくる。敵こらへず皆ことぐく退散し、へいへいたる真砂地白妙(しろたえ)に見えたり。扨又敵の諸勢浜へ来て、砂(いさご)を掘上(あげ)、其中に有て鉄炮を数百挺かけをき、舟を待所に、十艘の舟汀(みぎわ)をつたひ漕行。陸(くが)と舟との鉄炮いくさ雨のごとく舟にあたるといへ共、兼ての用意、板垣とをる事なし。敵船は清水のみなとにかけをくといへ共、小船ゆへ終に出あはず。日暮ぬれば伊豆へ帰海す。然所に腰頼下知して、三月十五日の夜いまだ明ざるに、敵船三艘、重須の湊へ来て、鉄炮をはなつ。すは敵船こそ来りたれ、と舟を出す。敵船は櫓二十丁立にて小船なり。此舟ををひ行所に、沼津河へも入ずして、勝頼の陣場浮嶋が原下へ漕行(ゆく)所に、又沼津川より舟二艘し、合(あわせて)五艘に成ぬ。浜辺に付て漕行(ゆく)くを、十艘の舟をひかくる。此五艘の舟、沖へこぎ出ては、叉浮嶋が原下へ漕帰る。勝頼は、舟軍(いくさ)見物として浜へおり下り、旗馬じるし見えたり。諸勢浜へ打出、塩水の中、腰だけに入て、弓・鉄炮をはなつ。十艘の舟あつまりて評定していはく「敵船清水・沼津へも逃ゆかず、又勝頼の旗本浮嶋が原の前梅に来る事、勝頼下知として、舟いくさ見物と知られたり。すべて、味方の舟二艘は浜辺の前後に有て、八艘の舟は沖より敵船を取まはし討とらん」と智略をめぐらすといへども、小船にてはやければをひつきがたく、広き海中に算(さん)をみだしをひめぐる。勝頼、五艘の舟共にぐるを見て、はらわたをたつ。其節持出たるはた・馬じるし・甲冑・ことごとく其仕場居(しばい)にて焼捨、本陳に帰り給ひぬ。
 (『北条五代記』第2期戦国史料叢書1北条史料集)

国指定史跡長浜城跡開園記念トークイベント
沼津の海とつわものたち
長浜城跡総合調査の概要一保存整備までの足取り一
 長浜城跡総合調査委員会
 委員長服部英雄


 静岡県教育委員会が中世城館分布調査を行ったのは昭和5355年度で、55年度末(1981)に報告書『静岡県の中世城館跡』が刊行されている。市町村の協力を得て、調査員30名が取り組み、主として県教委・山下晃主事がとりまとめ作業を行った。当時わたしは文化庁記念物課に勤務しており、担当であったが、県内各地とも調査に熱心で、地域が誇るべき城跡の保存に向けて積極的な市町村が多かった。調査の結果、把握できた城館遺跡は県内669ヶ所である。沼津市域(合併前、旧市域)では16ヶ所が、現在の沼津市域に含まれた戸田村では1ヶ所が、この報告書にて紹介されている。この成果を受けて、文化庁に設置されていた中世城館保存検討会議にて、成果の検討が行われ、早急に国指定史跡としての保存を検討すべき城館遺跡がリストアップされた。沼津市域では北条早雲が戦国大名としてのスタートを切る興国寺城の知名度が高く、リストアップされた。同時に委員から知名度は低いが、長浜城も重要であるという発言があった。その理由は長浜城が立地する内浦が、日本の漁業史を語る上で欠かせない場所であること、その中心地に築かれた水軍城であるということにあった。背景にはアチックミューゼアム、渋沢敬三氏の日本常民文化研究所から『豆州内浦漁民史料』という史料集が刊行されていて、多くの史実が明らかにされていたことがある。
 長浜城の発掘調査が行われたのは昭和60年度からで、最初の年に東端部、堀切の調査が行われたが、岩盤を加工し、急峻な壁面を造成していたことがよくわかったし、また北東方向、海に向かってに延びる尾根にも段造成や多くの掘っ立て柱跡が検出され、城に関わる生活遺構と思われた。良好に城郭遺構が残存していると確認された。この成果を受けて沼津市が長浜城を国指定史跡に申請したのは昭和62年、文化財保護審議会の答申を経て官報告示されたのは昭和63513日であった。
 当時城跡は民有地で、三井グループの別荘になっていたが、すでに建物は老朽化して取り壊されていた。保存事業はその公有地化(買い上げ)から始まった。のちに重須側の田久留輪地区が追加指定され、これも公有地化された(国指定史跡のばあい、80%が国庫補助となり、残りにも県補助があるから、沼津市の負担は10分の1程度で、大きく軽減される。保存整備事業に対しての国庫補助は50%で、県補助もあった)
 内浦と北条氏のつながりは早くから確認される。北条氏が木負百姓中に対し、りうし御用(家永遵嗣氏によれば「りうし」は鯛)を勤めよ、毎日の御菜御年貢のほか、美物(ごちそう)を韮山に運ぶときは、この印判状と郡代(君沢郡代)の判物をあわせて見せて、命令せよ、後日、数を報告せよ、とした永正十五年(1519)の虎印判状がある。御菜はおかずであるから、内浦は毎日おかず(魚であろう)を年貢として韮山城に届けていた。長浜の海には魚が回遊し、とくにマグロ漁が重要であった。春先から秋までにやってくるマグロは、「天保三年伊豆紀行」によれば、一度に数百本()で、長浜は金千両余に相当するマグロがとれると記されている。およそ今日の金銭価値でいえば、千両は1億円である。明治生まれの古老は神野善治氏に語っている。「10代の時に一回で600本をとった経験がある、それが今までの最高だった」。大型のマグロは、一人では運びきれない大きさで、跨ると足が地面につかなかった。一本の価格を考えれば、莫大な富をもたらしたことがわかる。季節が来れば、魚の方から内浦の網場にきてくれるのだった。
 栄える地域の漁民は、時に船頭・水主にもなった。安宅船、関船、小早を総動員する際には、内浦漁民のかなりが漕ぎ手になったと考えられる。内浦の長浜には漁民史料の所有者であった大川家があったが、網元で漁業の中心となる家だった。
 天正七年(己卯、1579)、長浜が「船掛庭」として普請され、冬の間木負百姓七人が七日間(119日から15日まで)動員された。多くの船が一斉に停泊でき、また同時に多数の船が出船もできる場所は、磯ではなく、長い浜である。この場合、船掛庭になった「長浜」も、地形そのものである長浜だったと考える。長浜にて、船掛庭を普請したとあるから、施設をともなうものだった。船倉かも知れない。
 長浜城跡は長浜と重須の境界にあって、城跡のうち西側32が重須、東31が長浜である。江戸時代の地図には字ヲモス城山、ヲモス峯地、そして重須からの「古城道」が画かれている。長浜分は小脇とされている。長浜城の役割は、浜にあって船掛場である停泊地=浜を確保し、守り、海上合戦時には出撃の基地になった。
 またこの城は情報中継基地でもあって、のろし(狼煙、烽火)台のあったさなぎ(真城山)からのろしを受けて、湾内の各村や砦、そして韮山本城にも伝達する役割を担っていただろう。江戸時代になると魚の群れを見張る魚見が山上に作られていた。長浜城が機能していた時代はむろんそれより以前だが、長浜城の特色は水軍城であって、兵(つわもの〉のみならず漁村、漁民と一帯となって機能したことにある。
 さて沼津市は整備史料を得るために長年、発掘調査を行い、それをもとに総合調査委員会で検討を重ねてきた。理解がむずかしかった遺構として2ヶ所をあげよう。
 山上曲輪への入り口、三井別荘時代にも入り口があった位置になるが、門跡と推定される柱穴が検出された。一年目は岩盤を掘り込んだ巨大な柱穴が崖の下、通路のすぐ上に一ヶ所が見つかり、翌年度、それに隣接してもう一ヶ所、計二本の巨大な柱穴が見つかった。柱には大きな荷重がかかったと推定され、そのことから跳ね橋ではないかという仮説が麓和喜委員から提案された。跳ね橋はゴッホの絵にあるように西洋にはよくあって、城門にも使われている。日本の城では江戸城北桔橋門(きたはねばしもん)、西桔橋門が跳ね橋であった。検出された長浜城の柱穴が頑丈な橋脚であろうことは考えられることであった。ただしこの二本は通路に対して直角ではなく平行であったから、当時は通路ではなく堀だったということになる。さらに確認調査が行われ、次年度には直角になる位置にも柱穴一本が検出されたが、岩盤を掘り込んだものではなかった。左右対称というにはいくぶん構造に差がありすぎるように見えた。最終的な答えはまだ得られないが、復原された柱を見て、解説を読んでもらい、見学者に考えてもらうことにしている。
 もう一ヶ所は最上段曲輪に上がるための通路である。ここでは通路がみつからなかった。岩盤を掘り込んだ堀跡があって、そこには道はない。堀からわずかに離れた位置に、方形の約5メートル四方の岩盤に掘り込まれた四隅ほかの柱穴が見つかった。それも三時期にわたって、重なり合っていて、建て替えが確認された。重要な構造物と推定できる。ここに建物があって、内部に階段があって、そこから登ったという仮説に基づいて、櫓風建物内に階段を設置している。城跡の平面遺構だけからは登り口が見つからないことは時々あって、鳥取県若桜町鬼ヶ城には行き詰まりになって、前方を石垣にふさがれてしまう曲輪があった。階段施設があったものと推定できる。備中高松城には重要文化財の天守が残されていて、三重櫓と称しているが、実際は構造としては二階建てである。隣接して一段低い位置に付櫓があって、廊下から付櫓に入って階段を上る。この付櫓分とあわせて三重になっていて、たしかに登閣者は階段を三階分上る。外からは見方によって三重にも見えるけれど、建造物としては岩の上に建つ天守は二階であった。これも階段施設によって上にあがる一例である。長浜城もその類例と推定した。
 西の平坦地、田久留輪では安宅船の実物大復原を行った。沼津市が八王子市信松院にあった安宅船縮尺模型の複製を入手していたから、当初は船を立体的に復元し、船模型をそこに展示する案を検討していた。維持費が多額になることが懸念されたが、最終的に文化庁の了解も得られなかった。また船は本来立体であるし、航行中には帆を上げたり、あるいは下ろしたり、様々に形状も変わるけれど、まずは実物の大きさを実感してもらうことを優先している。四十挺櫓であれば漕ぎ手も40人必要となる。じっさいに船縁のセガイ(船椎、ふなだな=船棚)に立って並んで、各自が櫓を漕ぐつもりになってもらえれば、安宅船の大きさが実感できよう。なおこの地域では蔭野川(重須)との間に低い石垣が検出されている。小さな波止があったらしい。浜からスロープが続くわけではないから、巨大船が、このような形で田久留輪にまで引き上げられることはおそらくなかった。

 いくつかの課題を残しつつも整備は完成した。指定から二八年を経過してオープンの日を迎えた。多くの方が山にあがられて、整備された城跡と、富士山や淡島、内浦湾をはじめとする雄大な眺望にも満足され、また鉄砲隊をはじめ、甲冑隊多数の参加もあって、賑わいを見せた。長浜城開園が多くの方々の期待に、十分応えうるものになったことに、深い感銘を受けた。甲冑隊に少年少女甲冑隊多数がおられた。未来を担う若者が、誇るべき歴史を継承してくださることも語ってくれていた。

国指定史跡長浜城跡開園記念トークイベント
沼津の海とつわものたち
整備の成果と課題
 長浜城跡総合調査委員会
 副委員長 高瀬要一


 【成果(特色)
 1発掘調査を中心として関連する史料・民俗・現況植生調査などの成果を総合した整備ができた。
 城の全体構造が発掘調査によって解明され、旧に復することができた。どのような構造をもった城郭であるかが見てわかる整備ができたことは大きな成果、であった。
 2北条氏関係とりわけ武田氏との間で繰り広げられた海戦関係史料調査、廃城後の土地利用がわかる漁労関係民俗調査の成果は、長浜・重須の二ヶ所の入口に設けたガイダンス広場で情報発信されている。長浜側は民俗関係、重須側は海戦関係をテーマにしたガイダンス広場となっている。重須側ガイダンス広場に設けた安宅船の原寸大平面模型は、当時の大型軍船のスケールを体感できるすぐれた展示である。
 3通常、城跡の整備に民俗調査の成果が活かされる事例はほとんどない。長浜城跡は海に突き出した地形がもたらすマグロやイルカの好漁場であったこと、渋沢敬三による『豆州内浦漁民史料』の貴重な民俗調査の積み重ねがあったこと、神野委員の漁労民俗調査の成果などが長浜城跡のより深い理解を助け、それが整備に長浜側ガイダンス広場の形で反映できたことは大きな成果であった。
 長浜側から城跡へ至る見学路は木製デッキとして急な斜面を登ることになるが、途中の踊り場はマグロ漁の魚見櫓をイメージした形としたのも、民俗調査の反映である。
 4現況植生調査に基づいて、どのような森にすべきかを検討し、景観保全と城跡理解の両者の目的が共存する樹林とすることができた。
 3この門跡遺構は当初は第二曲輪と第三曲輪を連絡する東西2本の柱を用いた跳ね橋であったのが、後に南北2本の柱による門に変わったものと理解している。
 整備ではこの変遷をどのように表現するかが問題となった。最終的に計3本の柱をすべて同じように木柱を0.9mの高さまで立ち上げて展示し、遺構の変遷とそれぞれの構造を理解していただく、という思いのもとに今回の形を採用した。
 しかし、整備された状況を見ると、この意図は正しく理解し難いのではないかという感想を持った。学術的な良心に配慮し、橋と門という両案併記の整備案を選んだのであるが、ここはやはり見学する人のわかり易さを重視し、橋・門どちらかの案で現地では表現し、遺構の変遷は説明板で解説する方がよかったのでは、と反省している。
 4重須側ガイダンス広場の売り物として安宅船の原寸大平面模型を作製した。
この案も最終案に行き着くまでに紆余曲折があった。小さな失敗は、安宅船の大きな写真を展示した模型前面の説明板と原寸大平面模型の向きが逆になってしまったことである。
 5同じような間違いは重須側ガイダンス広場から城へ登る見学路の脇に設置したソーラーパネル付き照明灯にもある。見学路の中段に上から安宅船の平面模型を眺める平場を整備したのだが、ここから見るとソーラーパネルと安宅船が重なってしまい、ソーラーパネルが目障りな存在になっている。
 6長浜城跡では各曲輪にその曲輪を解説する立看板型の説明板を設けたが、第三曲輪や第四曲輪のような小面積の曲輪では説明板のみが目立ってしまいアンバランスな印象を拭い得ない。また、今回は立て看板型を多用したが、これもどうであったか、場所によっては地面に伏せるタイプが似つかわしいように思った。
 7成果の項に記した樹林の取り扱いである。樹木は常に成長・枯死等の変化の中にあるから、問題が生じる前に景観保全と城跡理解の両者を考えた管理を実施していく必要がある。整備直後である現況の写真を撮影しておき、マイナスの変化が認められる場合はもとに戻す方向で考えることが肝要である。
 8史跡の整備事業は一段落したが、長浜城跡の活用はここからが開始である。多くの人々に訪れてもらい、長浜城跡の史跡としての価値や歴史上の意味を現 5長浜城跡は海戦基地として作られた城郭の本格整備としては全国初の事例である。これから同種の海城を整備する際には、必ず先行事例として参考にされることであろう。その意味では整備された長浜城跡に対する期待も大きいし、責任も求められる。
 6長浜城跡の遺構整備で特徴的であったのは、第一曲輪と第二曲輪を遮断する掘切の遺構レプリカによる展示と、第二曲輪の平坦面から第一曲輪へ登る階段の機能を有した櫓建物を復原したことの二点である。
 以上が今回の整備の成果であり、特色である。次に整備の問題点と今後の課題を述べる。
 【整備の課題】
 1長浜城跡は今回の整備以前は別荘地として利用されてきた。このため、整備着手以前には城内に別荘の建物基礎、石垣、コンクリート擁壁、重須側から登る園路などが残っていた。整備では長浜城跡の理解に誤解を与えるこうした構造物は基本的に取り除く方針で臨んだ。
 ただし、最終的に残ってしまったものがある。一つは重須側から登る園路である。城郭が作られた当時も重須側からの登城道はあったと考えられるが、別荘に伴う園路造成ですでにその痕跡をたどることができない。重須側からの登城道は復原したくともできなかったのである。やむなく重須側からの見学路は別荘の園路をそのまま利用することとした。この園路にはところどころに法面を押さえる玉石積の擁壁が伴っていたが、これを取り除くと新たな土留施設が必要になることから、この擁壁も残ってしまった。
 園路や玉石積擁壁が長浜城跡の遺構と誤解される懸念が残ってしまったのは、他にいい方法がなくやむを得ないことではあったが、一つの問題点である。
 2もう一つの登城道である長浜側からの道は城跡西側を通る県道拡幅時の工事によって、これも途中から失われている。発掘調査では第二曲輪と第三曲輪の間の堀底を通る道(以下、ここを「大手口」と呼ぶ)に門跡遺構が確認されており、長浜側から登ってきた道はこの地点を通過したことが明らかであるが、ここから下の道が分からない。これもやむなく、長浜側からの園路は下の釣堀側から木製デッキで登り、第三曲輪と第四曲輪間の堀底を通り、門跡へ至る動線を整備することとした。物に接することで理解していただきたい。地元の人々にとっては地域の誇りであろうし、また観光拠点としての期待もあると思う。
 オープン式典ではさまざまなイベントもあり、見学者で賑わった。時にはこうしたイベントの企画も求められる。
 9史跡指定地内の発掘調査は一応終了しているが、周辺には関連する遺跡が存在する可能性は高い。機会を捉えて発掘調査を行い、新しい情報を発信することも長浜城跡が忘れ去られない方法の一つであるとともに、長浜城跡の意義を解明することにもつながるので、意識して実施していくことが求められる。
 10最後は駐車場の問題である。文化庁の方針として、史跡指定地内には原則として駐車場を設けることができない。指定地周辺に土地を求める必要があるが、長浜城跡ではその適地がない。マイクロバスや乗用車での来訪が通常の手段となるから、駐車場の確保は必須の課題である。
 以上、成果と課題に分けて述べてきた。事前に気がつかなかった問題点もあるが、多くの課題は毎年開いてきた整備委員会で協議し、結論に至った結果である。残された課題には近々に改善可能なものと、少し長期の問題がある。

 問題解決に向けた息の長い取り組みと、また時には臨機応変に対応できる体制も必要であろう。