杉田家と芹沢家は隣同士 仁王一成
ー「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けてー
平成30年も残りわずかとなりました。
明治150年という節目の年でもあり、来年には改元も予定されるなど、平成最後の年.末を迎えました。
そうした中で、来年一月二十日(日)、市民文化センター小ホールで午後一時半から「沼津兵学校創立150周年記念式典」が開催されます。この式典に向けて、多くの市民の皆様方の参加を賜りだく、リレー随筆として様々な角度から関係するエピソードなどを順次紹介していきたいと思います。
今回は、その初回として、沼津病院初代頭取(院長)・杉田玄端(玄白の孫)の六男、杉里六蔵(実業家)と芹沢光治良との繋がりについて触れてみたいと思います。
六蔵は沼津で生まれましたが、その後、東京へ戻り、東京都中野区東甲野に自宅を新築されました。なんとその場所は、芹沢光治良(作家・沼津市名誉市民)宅の隣であったとのごとです。これは、六蔵の孫に当たる鈴木富子さん(東京都狛江市在住)から直接伺った話であり、現在も子孫が住んでおられます。
このことを芹沢家の四女、岡玲子さんにお伺いしたところ、確かに杉田家とは隣同士であり、戦前から若干の付き合いもされていたようです。岡さんのピアノ演奏会のチケットを何回かお渡ししたこともあるようです。
両家とも東甲野駅から徒歩数分、閑静な住宅地の一画にあり、近くには神田川が流れ、川沿いは、春の花見などには最適な場所です。光治良お気に入りの散歩コースとなっており、六蔵も恐らく散策したのではないでしょうか。
六蔵の人となりを表すエピソードとして、兄たちの医学勉強のために愛犬を解剖されたことに非常なショックを受け、医師になることを嫌ったそうで、父玄端はそれを許し、好きな生き方をさせたとのこと。
また、孫娘の富子さんを非常に可愛がり、「賀茂鶴」(広島の地酒)での晩酌をこよなく愛し、毎晩冨子さんが酒の肴を喜んで食べたので、おまえは将来、立派な酒飲みになれると言われたそうです。富子さんご自身も「文学座」へ入るなど、自らの好む道を歩んだとおつしゃっています。
一方、芹沢家では、光治良には四人の娘さんがおられましたが、幼少期から成人に至るまで、娘さん方を「○○さん」と「さん」付けで、決して呼び捨てにはされなかったようです。もちろん、明治生まれの日本男児として時には厳しい躾もされたそうですが、基本的には極めて心優しい父親であったとのことです。
ご両家とも、それぞれの家庭の根底には、「自由・平等・博愛」という崇高な理念が流れていたのではなかろうかと、想像いたしております。
(フレッシュ150事業担当・沼津史談会会員、白銀町)
【沼朝平成30年12月21日(金)「言いたいほうだい」】
駿東病院の薬瓶 長谷川徹
ー「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けてー
来年一月二十日(日)に開催される「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けて、実行委員会では、「沼津病院・駿東病院跡」記念碑の設置や『沼津兵学校記念誌』の制作準備が大詰めを迎えています。
記念碑チームは、沼津病院跡記念碑の設置予定場所として、旧国道一号(現県道富士清水線)の西条町地先、元鈴与商事沼津支社付近(明治二年三日へ沼津兵学校附属陸軍医局が設置された)を重点に調査をしておりました。
さらに、支社とガソリンスタンドの建物が撤去されたため鈴与本社に足を運び、記念碑の設置などについて協力をお願いしました。
今年六月初めに、鈴与から実行委の匂坂信吾事務局長宛てに、整備中の土地から病院関係の遺物が出土したとの連絡が入りました。
その土地は、明治二年八月に医局を引き継ぐ形で沼津病院が開院され、昭和二十年六月閉院、同七月の沼津大空襲で焼失した、私立駿東病院に至るまで、七十六年間にわたり存続して地域医療に貢献した由緒ある場所です。
六月十九日(火)午後一時、西条町の鈴与ガソリンスタンド跡地に実行委員の匂坂、仁王一成と私長谷川が集合しました。現場担当者の話では「先日、地面を掘削していたら昔の病院医療廃棄物(六・五立方㍍)が出てきた」ということで、そこには、駿東病院で使われていたと思われる病院名入りの薬瓶、薬差し、注射器、試験管などが掘り出されていました。また、「人髄消毒消毒
液」と読める薬瓶も発掘したとのことでした。
そこで医療関係の歴史遺産として、薬瓶などを提供願いたいと依頼しました。
鈴与から連絡があり、病院関係遺物の整理が終わったのでお渡ししたいとのことで、八月一日(水)、先の実行委員三人と明治史料館主任学芸員の四人で現場事務所を訪問。
そこには美しいガラス薬瓶が鎮座し、なんと「駿東病院」「室賀病院」「井手診療所」「人體消毒新薬」と鮮明に刻印されていました。
医療廃棄物は六月時点より増えていて、ドラム缶八十本分に上り、福島県に運んで処理をしたとのことでした。この発見は病院の建物や設備が失われた現在、ただ一つの歴史的遺産であると私は考えます。そして、合計十五本の薬瓶は、明治史料館に保管されることになりました。
この歴史的薬瓶は明年一月四日(金)~二十四日(木)、大手町の沼津信用金庫本店ぬましんストリートギャラリー企画展「沼津兵学校創立150周年記念展」で披露する予定
です。
市民の皆様、写真ではなく本物の駿東病院(佐々木次郎三郎が五十年間、院長を務めた)の薬瓶を始め、駿東病院初代院長の室賀録郎が大手町に開業した室賀病院の薬瓶、千本緑町の井出診療所(井手敏彦元沼津市長の父上、井手敏男氏開業の小児科医院)の薬瓶など、七十六年間の歴史資産を鑑賞していただきたいと思います。
(フレッシュ150事業担当・沼津史談会会員、大手町)
【沼朝平成30年12月23日(日)「言いたいほうだい」】
まんが「沼津兵学校物語」根木谷信一
ー「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けてー
来る一月二〇日(日)、午後一時三十分から市民文化センター小ホールにおいて「沼津兵学校創立150周年記念式典」が開催されます。
会場では『沼津兵学校記念誌』が初めてお目見えしますが、その中で、ひときわ注目されるのが、愛知県西尾市出身の著名な戦国まんが家・すずき孔さんによる、まんが「沼津兵学校物語」です。沼津兵学校創立百五十周年記念事業(フレッシュ150)実行委員会が、この人にこそ、と特別にお願いしたものです。
孔さんは、沼津史談会の故・松村由紀会員とは以前から歴女仲間として親交があり、数年前から史談会の講座や旅行に参加するため、自宅のある横浜から沼津に度々通い、松村さんと自転軍で市内の史跡や見どころ探索をしてこられました。松村さんが難病で闘病中には何度もお見舞いに来られ、平成二十九年八月に彼女が亡くなった後も、孔さんはお別れの会や追悼の集まりに参加されました。
今回の作品についても企画段階から取材や調査のため沼津に何度も足を運ばれ、今年九月二十三日には東京都狛江市の杉田玄端(げんたん)のご子孫、鈴木清作氏宅にも本会担当者三人と同行され、物語の核心部分の着想を得られたとのことです。
玄端は、「解体新書」で知られる杉田玄白の曾孫に当たる、極めて優秀なオランダ医学者で、徳川家と共に静岡に移り、沼津兵学校附属医局に着任しました。明治元年から六年間、沼津に踏み止まり沼津兵学校ゆかりの沼津病院頭取(院長)を務めました。
明治四年の廃藩置県に伴い沼津病院が廃止されようとした時、玄端は決意の「壁書」を表し、個人で病院経営を引き受けて、庶民のために病院を存続させました。
玄端は遥か後、昭和二十年七月の沼津大空襲で後身の駿東病院が焼失するまで、七十六年間にわたり地域医療に貢献するための素地を作ったと言えます。
物語は明治十五年、沼津から東京に戻った後、横浜に引っ越していた「杉田醫院」を舞台に、玄端の六男で、兄弟のうちただ一人沼津生まれの六蔵が十二歳のころ、愛犬タローをめぐる事件に始まります。そのころの横浜は新橋からの鉄道が開通して活気が増していた時期に当たり、杉田家は横浜で医院を開業していたという設定です。
孔さんは、九月下旬に再び沼津に来られ、市立図書館で映画「沼津兵学校」のビデオを細部まで丹念に鑑賞し、明治史料館で詳細な調査を行いました。その後も研究を重ねてストーリー展開などを検討され、十一月下旬には最初の下書きを拝見しましたが、孔さんの企画力と豊かな表現力に驚かされました。
さらに国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授や本会担当者の助言を受けて修正を重ね、期限内に仕上げられました。内容は小学校高学年以上なら理解は可能ですが、一番役に立つのは大人で、年齢や性別は関係ないと思います。
一月二十日は、午後零時半に受け付けを開始します。記念誌は、まんが以外にも見どころ満載で、一冊千円で.す。式典に参加され当日、記念誌をお買い上げの皆様には、沼津史談会が江戸時代末の沼津城絵図を活用して独自に開発した画期的なデジタル地図「沼津まちなか歴史MAP」の改定第三版"街歩きしよう(仕様)"を進呈します。
(フレッシュ150事業担当・沼津史談会副会長、岡一色)
【沼朝平成30年12月27日(木)「沼朝言いたいほうだい」】
花と緑のまちづくり 大石千鶴子
ー「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けてー
今私が住んでいる西条町に、沼津兵学校ゆかりの「沼津病院・駿東病院跡」の記念碑が今月中旬に完成する予定です。
市立第一小学校北側の県道富士清水線(旧国道一号)沿い、静岡日産西条宮業所の東側で鈴与の支店やガソリンスタンドがあった土地が今は更地になっています。記念碑建立地は、その更地南側歩道脇の植栽帯で、現在、沼津兵学校創立150周年記念事業実行委員会が、県の許可をいただき、記念碑の設置工事を進めています。
長い歳月、多くの人達の生命や健康を守ってきた病院の記念碑が、間もなく、この地に姿を現します。
沼津市花の会と沼津史談会(記念実行委員会事務局)では、できれば記念碑の周辺を花や緑でお守りしたいと考えています。そのためには定期的に手入れをする必要がありますので、私達だけでなく、協力していただける仲間を募集します。
協刀願える方は、新宿町一九の四、天野出版工房内、沼津史談会事務所(電話・ファックス九二一ー一四一二)まで連絡ください。
なお、今月二十日(日)には市民文化センター小ホールで、沼津兵学校開設者の徳川家や兵学校関係者のご子孫をはじめ、自治会関係者や一般市民など多くの皆様の参加により、沼津兵学校素立記念式典が開かれます。
式典は、午後零時半に受け付けを開始、一時半開会、三時ごろに閉会の予定です。
終了後、三時四十分ごろから西条町の現地で記念碑の除幕が行われ、記念碑は沼津市に寄付されるとのことです。
除幕式の後は、添地町の馬場・厩跡や上本通りの附属小学校記念碑などの史跡見学を行い、ぬましんストリートギャラリーでの兵学校特別展を見学します。この特別展では、最近駿東病院跡から出土した病院名入りの薬瓶が注目されます。皆さん、どうか家族、友達誘い合わせの上、各行事に足を運んでいただきますよう、お願い申し上げます。
(沼津市花の会会長、沼津市談会会員、西条町)
【沼朝平成31年1月8日(火)号「言いたいほうだい」】
「沼津病院 駿東病院跡」記念碑
千野慎一郎
「沼津兵学校創立150周年記念式典」が行われる二十日(日)が近づきました。
この紙面においても先日、お知らせの投稿がありましたが、当日の式典後に「沼津病院駿東病院跡」の記念碑が除幕披露されます。
そこで、沼津兵学校創立150周年記念事業(略称・フレッシュ150)の柱の一つでもある記念碑建立の経緯を紹介したいと思います。
平成二十八年六月に実行委員会が設立され記念碑担当チームにより調査研究が行われました。
昭和十七年に沼津兵学校附属「沼津病院遺蹟」の記念碑計画があり、旧幕臣の子孫で郷土史家の大野虎雄氏が沼津病院の顕彰を目指し、当時の駿東病院前に建立の予定でした。
碑文の揮毫は、沼津病院頭取杉田玄端の六男杉田六蔵氏に依頼しましたが、戦争の激化などの影響により記念碑は建つことはありませんでした。近年、大野家から六蔵の墨書が発見されて計画の存在が明らかになりました。
当初は、沼津病院記念碑の建立が記念事業の趣旨でしたので、戦前の記念碑計画の復活を検討していました。そして、明治史料館に保管されていた墨書を写させていただき、幅六〇㌢、高さ一八〇㌢の御影石製の第一案を作成しました。
次に、設置場所が問題となり、いくつかの候補地が上がりました。病院跡地上を東西に走る県道(旧国道一号)沿いの歩道や東側に接する市道沿いの歩道、さらに近くの西条公園や第一小学校内の道喜塚周辺も検討され現地調査も行いました。
まず、歩道設置は大きさ的に第一案では難しく、西条公園は住宅地内で奥まり過ぎていること、一小案は学校管理地で出入りに課題があるなど場所選びは難航しました。
そんな中で、少し離れるが直線で見通すことができる大手町の中央公園内はどうかという提案がありました。環境的には申し分なく早速、沼津市に相談に伺いました。すると、公園は東海財務局の所有地で財務局の許可が必要だと分かり、市の文化振興課を通して打診していただいていましたが、設置条件も厳しく回答を得られない状態が続きました。
そうこうしているうちに事業が二年目に入り、各事業が具体的になると予算の見直しも必要となり、記念碑の予算も減額する方向で大幅に計画を変更することになりました。
まず、かつての計画案にとらわれることなく、新たに碑の材料や歩道上でも設置可能な高さが低く横長のデザインを検討しました。その結果、コンクリートのベンチに御影石を組み込んだイメージの第二案が出来上がりました。
そのような折、徳川宗家十八代当主徳川恒孝様とのご縁をいただき、趣旨に賛同して記念碑の碑文の題字を揮毫していただける話が急展開で進みました。
また、碑の名称についても、沼津病院は沼津兵学校附属の陸軍医局に始まり、その後、駿東病院と名を変え、経営母体は変わりながらも昭和二十年まで七十六年間存続し、医学教育や地域医療に大きく貢献したことに鑑み、沼津兵学校ゆかりの「沼津病院駿東病院跡」と決めたのでした。
設置場所は駿東病院の敷地内に当たる県道(旧国一)の歩道が適所と考え、道路管理者の県の沼津土木事務所に相談しました。
原則的には無理ということでしたが、趣旨を理解していただき、交通障害にならないという条件で、現場での立ち会い指導により既存植栽桝の中で許可をいただくことができました。
碑の製作は歩道上の作業を少なくするために、コンクリート製の基壇を作業所で三つに分けて製作し、現場で組み立て、縦五〇㌢、横一六〇㌢、重さ一〇〇㌔のインド産黒御影石の銘板を取り付けます。題字脇には駿東病院の写真と説明文をステンレス板にフィルム貼りし、両袖のコンクリート側面にも、東面には当初計画の杉田六蔵揮毫の縮小版を、西面には病院の沿革をステンレスプレートにフィルム貼りしてあります。
二十日の除幕式当日は市民文化センター小ホールでの式典後、西粂町の会場で徳川様や沼津病院関係者子孫の代表、沼津市長ほかにより除幕式が行われます。その場で、碑は実行委員会から市に寄贈され、市に維持管理をお願いすることになります。また、碑の足元の植栽桝には、先にご案内の沼津市花の会と市民有志により花を植えていただけることにもなっています。
市民の皆様には近くにおいでの折にご覧いただければ幸いです。
最後に、記念碑建立に理解と協力をいただいた皆様に衷心より感謝、御礼申し上げます。
(フレッシニ150副委員長・記念碑担当、宮本)
【沼朝平成31年1月13日(日)寄稿文】
フレツシュ150 匂坂信吾
ー「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けてー
平成二十八年六月、沼津史談会と沼津香陵ヲオンズクラブ、沼津医師会が中心となり、実行委員会を設立して、沼津兵学校創立150周年記念事業に取り組んできました。事業名が長いので「フレッシュ150」という略称を用い、この機会を生かして新しいまちづくりにつなげていこうとする狙いを込めてきました。
来る二十日には、全国各地からの参加者を迎え、市民文化センターで記念式典を開催しますが、まちづくりについては確かな手ごたえを得ることができました。
記念事業の柱は、兵学校ゆかりの「沼津病院・駿東病院跡」記念碑の建立、『沼津兵学校記念誌』の刊行、そして記念式典開催の三点でしたが、それぞれの事業の中に、当初の意図が十分反映されたと考えています。
特に二十九年度の「沼津市民間支援まちづくりファンド事業」に採択されて取り組んだ「沼津まちなか歴史MAP」の作製は、城下町・宿場町の時代から沼津城二の丸御殿を校舎として開校した沼津兵学校があった明治初期にかけて、現在の駅南中心市街地の、どこに、どのような施設があったのかを示す画期的な成果だったと言えます。
江戸時代末に沼津藩作事方役所の役人が、正確な測量を行って作製した巨大な「沼津城絵図」のおかげで、沼津には見えざる資産が数多くあることが分かり、この資産をデジタル手法により見えるようにしたのが、この歴史地図です。
この地図による新たな発見を踏まえ、さらに独創的な発想と実行力を持つことができれば、歴史を生かしたまちづくりが始まることは間違いないと確信します。
このMAPは昨年三月、国立歴史民俗博物館教授・樋口雄彦氏の監修を得て完成しました。その後も必要な見直しを続け、現在「街歩き仕様(しよう)」を作製しているところです。これはA3判フルカラーの両面印刷で、街歩きに便利な三つ折りの仕様となっていて、標準的な順路やチェックポイントも示されています。
記念誌はA4判フルカラー百九十ページ、単価千円で、寄稿文や講演録、まんが「沼津兵学校物語」や歴史MAPなどが収録されていますが、これを購入された方には「街歩き仕様」を無料で提供します。
この本は今月二十日(日)午後一時半開会の記念式典の受付で当、日の資料として発売します。受け付けの開始は零時半です。
当日、兵学校を開設した徳川宗家の十八代当主・徳川恒孝氏の講演を予定していたところ、体調に不安があるとのことで、長男の家広氏が代理を務める可能性が高いのですが、同氏の講演は興味深く、楽しい内容が多いという評判です。
一方、樋口氏は「沼津兵学校に学ぶべきもの」と題し、これまでの集大成とも言うべき講演を準備中ですので、大いにご期待下さい。
(実行委員会事務局長・沼津史談会会長、小諏訪)
【沼朝平成31年1月17日(木)「言いたいほうだい」】
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