2011年11月28日月曜日

東海道本線全線開通までの年譜


開業時の沼津駅



東海道線全線開通までの年譜
明治2年(1869)11月10日の廟議において,その建設が決定。
明治5年(1872)9月12日(新暦10月14目) 新橋・横浜間開通。
明治7年(1874)5月11日大阪・神戸間開通。
明治10年(1877)2月5日大阪・京都間開通。
明治13年(1880)7月京都・大津問開通。
明治16年(1883)7月上野・熊谷問開通。(日本鉄道株式会社により建設される)
明治17年(1884)4月16日大津・長浜間は琵琶湖を経由することとし,長浜・敦賀問開通。
明治18年(1885)10月高崎・横川間開通。
明治19年(1883)8月名古屋(仮)・武豊(知多半島)間開通。(中山道幹線鉄道建設の資材輸送線として)
明治19年(1886)12月1日沼津機関庫が設置され,沼津町の旧沼津城北側に木造機関車庫が建設された。
明治20年(1887)1月大垣・加納(現在の岐阜)間開通。
明治20年(1887)3月沼津資材運搬線(蛇松線)試運転。
明治20年(1887)4月加納・名古屋間開通。
明治20年(1887)7月11日横浜・国府津問開通。
明治21年(1888)9月1日浜松・大府間開通。
明治22年(1889)2月1日国府津・静岡間開通。
明治22年(1889)4月16日静岡・浜松間開通。
明治22年(1889)7月1日新橋・神戸間605.7kmが全通したのである。
明治23年(1890)2月沼津・御殿場間複線工事成る。

2011年11月24日木曜日

懐かし汽車土瓶 大阪で大量発見


「お茶は静岡」「山は富士」
 懐かし汽車土瓶 大阪で大量発見

 明治から昭和にかけ全国の鉄道駅で温かいお茶を入れて販売され、プラスチック製容器の登場で姿を消した小型陶器「汽車土瓶」が、旧国鉄吹田操車場跡地(大阪府吹田市、摂津市)で大量に見つかったことが23日、大阪府文化財センターの調査で分かった。同操車場で大阪駅終点の客車の清掃作業が行われていた昭和初期の1928~33年の製品で、数万点あるとみられる。
 正面にレールの断面をあしらい「お茶」の2文字を囲むデザインを基調に、金のしゃちほこの絵や「お茶は静岡」「山は富士」などと記されているものもあり、少なくとも24種類の図柄や形状を確認した。
(静新平成23年11月24日朝刊)

2011年11月22日火曜日

信長に降伏後埋めた濠?跡を発見


自治都市今井町:信長に降伏後埋めた濠?跡を発見 奈良


織田信長に降伏した後、武装解除のために埋めたとみられる濠跡(調査担当者が指し示している場所)=奈良県橿原市今井町で、高島博之撮影
 奈良県橿原市教委は21日、室町時代から江戸時代にかけ自治都市として繁栄した同市の今井町で、16世紀後半に埋められたとみられる濠(ほり)跡を発見したと発表した。今井町は石山本願寺(大阪市)とともに織田信長に対抗し、周囲に濠や土塁を築いて武装都市化したが、同寺が信長と休戦後、今井町も信長に降伏し、武装解除して埋めた濠の可能性があるという。【高島博之】

 発掘調査は、駐車場の整備に伴い、今井町の西側の約400平方メートルで8月から行われている。発見された濠は同町の西側に南北方向に延びるもので、幅は少なくとも2メートル以上、長さ約10メートル分を確認した。過去の発掘調査で、16世紀後半当時の今井町(東西約450メートル、南北約250メートル)の周囲を2重ないし、3重の濠が巡っていたことが確認されており、今回の濠跡は、最も外側の「外濠」だった可能性が高く、橿原市教委は幅約15メートルの大きなものだったと推定している。
 98~99年の調査では、今井町の南側で見つかった外濠が16世紀後半に埋められたことが、一緒に出土した陶器の年代から分かっており、同市教委は今回発見した濠も同時期に埋められたものとみている。

 今井町は16世紀、一向宗の拠点としての寺内町として発展。石山本願寺が信長と戦った際は、同町は濠や土塁を巡らして武装化を強めていたという。
 しかし、1575(天正3)年、石山本願寺と信長が休戦すると、今井町は信長軍の明智光秀に降伏し、土塁を壊して武器を捨てるなど武装解除に応じたことが、光秀から信長への書状に記されている。同市教委はこの時期に濠が埋められたとみており、調査担当の米田一・同市教委文化財課係長は「今井町が武装化していた寺内町から商業都市へと変化していく様子をうかがわせる発見」と評価する。

毎日新聞 2011年11月22日 10時49分

2011年11月17日木曜日

文学者・芹沢光治良生誕115周年


文学者・芹沢光治良生誕115周年
 欧州体験と影響解説 沼津で講演会

 沼津市出身の文学者芹沢光治良の生誕115周年の記念講演会が13日、同市立図書館で開かれた。芹沢文学を研究する神奈川県の高校教諭鈴木吉維氏が講演し、文学者の出発点となった欧州での体験と、後の作品への影響を解説した。
 農商務省を辞した芹沢は1925年に妻とパリに渡った。長女が生まれ、社交界にも出たが、肺結核でスイスなどに移り28年に帰国した。30年に療養時の日記をもとにした「ブルジョア」で文壇デビューを果たした。
 生前の芹沢から聞き取りを続けていた鈴木氏は「経済学を志望して渡仏した芹沢にとって、欧州滞在は文学の道を逡巡(しゅんじゅん)した時期だった」と位置付けた上で、「研究者として長期滞在したことで、庶民と上流階級の貧富の差や男女平等の意識を感受した。日本と異なる仏文学の論理性にも触れるなど、個々の体験が、作品に色濃く反映されている」と述べ、作家としての原点を強調した。
 約170人の来場者からは、作品についての質問が多数挙がった。
(静新平成23年11月16日朝刊)