2020年5月27日水曜日

200527アーカイブス海濟丸碑(ぬまづ近代史点描⑲)

200522アーカイブス沼津技研パワーポイント資料動画





海軍技研址(ぎけんし)の碑 (下香貫木の宮)
海軍技術研究所とは、大正12年(1923)に東京に設立された海軍の兵器開発・研究機関です。
沼津に設置されたのは同研究所の中の音響研究部という部門で、昭和16年(1941)11月のことでした。
場所は下香貫で、現在の第三中学校とその周辺地域約82,000坪が敷地でした。
この中に研究所・工員宿舎・実験用水槽・作業場・倉庫などが配置されました。
これ以外に江浦・淡島・大瀬崎・長井崎・多比・下土狩などにも用地・設備を持っていました。また、実験用の船舶も10隻以上ありました。
この研究所では、空中・水中聴音機、潜水艦探知機などの開発が行われました。
海軍の武官・文官をはじめ、徴用工員・女子挺身隊を含め多い時で約2,000名の人員が働いていました。
昭和48年(1973)には三中前に「海軍技研址」という記念碑が建てられました。当時の遺構として、三中の北東の山の上に配水槽が残っています。
また近年までレンガ造りの倉庫が残っていましたが、老朽化し危険なため取り壊され、平成17年にはその部材を使用して三中の正門東側にモニュメントが作られました。
(平和を考える戦争史跡めぐり:明治史料館)






海軍技研址碑陰刻文
(上段)
太平洋戦争中海軍技術研究所音響研究部は本拠をこの下香貫に基地を江ノ浦淡島牛臥大瀬崎等に置く 国を愛する若人一千八百各持場に心血を注ぎ 純情の学究南波醇三身を挺して南海の戦場に殉じ 又十七才の
(下段)少女菊地ひで等七名空爆の犠牲となりてこの処に散華す 往時を偲び記念碑を地元の有志榊原平作氏の好意によりこの地に建つ
昭和四十八年 桜咲く頃 音響会
碧洞 佃定雄撰井書

(平和を考える戦争史跡めぐり:明治史料館)



2020年5月26日火曜日

200526アーカイブス「聖上陛下静岡縣行幸・記念写真画報」昭和5年6月15日発行・東京朝日新聞社沼津編

アーカイブス記事「徹底破壊された沼津城跡」平成20年9月27日



徹底破壊された沼津城跡
 記者として掛川城再建などを目の当たりに接してきた経験もあってか、沼津市に赴任する前から「なぜ沼津城跡がどこにもないのか」と疑問に思っていた。
 聞くところだと、この地には武田勝頼が三枚橋城を、江戸期に水野忠友が沼津城を築いた。JR沼津駅前の繁華街がその場所というが、外堀石垣が一部残されているだけで、跡形もない。この状態を見た県外の歴史家が「ここまで徹底的に破壊された城跡は珍しい」とあきれたとされる。
 赴任して半年。沼津は史跡や歴史の宝庫にみえる。だが、何よりこうした歴史遺産への市民の関心の薄さが気になる。(東部総局・海野俊也)
(静新平成20927()「清流」)


街歩きしよう  匂坂信吾(沼朝令和2年5月26日「言いたいほうだい」)


街歩きしよう 
                  
沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)は、三年前から“沼津まちなかウオッチング”という街歩きイベントを開催してきました。
明治二年一月に沼津城二の丸御殿を校舎として開校した沼津兵学校や附属小学校や代戯館(だいぎかん、小学校の前身で長屋を教室とした)、沼津病院、馬場・厩舎など、幕末維新期の史跡の位置は、市民が目で見ることは困難でした。
本会では皆様に分かり易い歴史地図が必要と考え、江戸時代末期に沼津藩が作成した精密な沼津城絵図を現在の沼津駅南地区の市基本図の上にデジタル手法で重ね合わせた「沼津まちなか歴史MAP」を作り、昨年一月発行の『沼津兵学校記念誌』に掲載しました。
このほど、A3判フルカラー三つ折りで、実用的な「同MAP改定版・街歩き仕様(しよう)」三千部を試作したため、希望者に無料で提供します。
MAPは、六月一日(予定)から市立図書館二階の郷土史コーナー及び、マルサン書店仲見世店一階のレジ付近に設置させていただきますので、一人一枚厳守でご活用ください。今はコロナ禍を避けて、一人ひとりが街歩き学習を行う好機です。
本会では近く、沼津の歴史再発見のため“街歩きルポ”を試みることとしました。
そこでMAPを見ながら実際に街歩きを行い、地図への感想や新しい発見などを記事にする「まちなか記者」を募集します。
たとえば西条町の沼津情報・ビジネス専門学校前には代戯館跡の碑が最近設置され、八幡町では沼津病院頭取、杉田玄端の住居があった場所も先日判明しました。
また大手町のマルサン書店付近には明治初期、沼津兵学校の英語教授でイソップ物語の翻訳者として知られる渡部温わたなべおん)の住居があったと考えられます。
これらは街歩きルポの重要なポイントです。
年齢、性別は問いませんが、今回はご自分で歩ける方に限ります。ルポの参加申込みや問合せは、よろず相談所主人で本会の長谷川徹副会長までご連絡ください。
◆連絡先 上本通り柳屋内、よろず相談所☏055・962・2371 
                         (沼津史談会会長、小諏訪)

2020年5月23日土曜日

200523アーカイブス長浜城史跡公園開園イベント

アーカイブス「長濱城史跡公園開園」画像平成27年・記事平成21年




「長浜城跡(国史跡)の整備始まる」
指定以来20年ぶり、24年度完了目指す
 まず長浜側から着工
 園路に魚見櫓風のデッキ
 国指定史跡の長浜城跡で整備事業がスタートした。現年度計画では長浜側園路の整備などが行われる予定で、懸案だった史跡としての形を整える事業が、指定以来二十年ぶりに緒についた。この後、重須側の整備、城本体の遺構整備などを行い、二十四年度末までに完了の予定。
 長浜城は内浦長浜と重須の間、内浦湾に突き出た高さ三〇㍍程の半島状の台地に築かれた。北条(早雲を祖とする後北条氏)水軍の根拠地だった重須湊を守るための城だったと考えられている。城と言っても天守を持ったような立派なものではない。
 城跡は通称城山と呼ばれ、廃城後、時を経て三井家の別荘が建っていたこともあったが、昭和四十年代に取り壊された後は荒れるにまかされていた。同六十年に市教委による詳細調査が行われ、曲輪(くるわ=城などで一画を囲った場所)や土塁、空堀などが確認された。
 小規模ながら四つの主な曲輪と十五の小曲輪で構成される「連郭式」と言われる城郭で、主な曲輪は土塁と空堀によって防備され、水軍城の特徴が示されている、という。また、小高くなった台地の上に築かれた山城として、二面性を持っている。
 さらに、城が存在した当時、操船技術を持った土豪らが漁業経営に乗り出し、やがて津元(網元)となって、その後の内浦、西浦の漁業の発展につながった、ともされ、沼津の漁業史上でも大きな意味を持つ。
 城主が替わるたびに修復されるなどして構築年代等が不明な城跡が多い中で、長浜城については、「築造期が短期間に限定できる」こと、「当初から水軍の根拠地として築造されている」ことなど、中世城郭研究に寄与する点は少なくない、とされ、昭和六十三年五月十三日に国の史跡に指定された。その後、平成十四年十二月十九日に追加指定された分も合わせて指定面積は約一五、五〇〇平方㍍。
 旧石器時代の炉趾が発見され昭和五十四年に国史跡に指定された「休場遺跡」に次ぐもので、同じ後北条氏にまつわる興国寺城跡は平成八年に国史跡に指定されている。
 長浜城跡の国指定を受け、市教委では平成八年、専門家八人による「長浜城跡整備基本計画策定委員会」を設けて整備の方向性を検討。これが定まった同十年、同委と並行し、一部委員が重複する形で七人による「長浜城跡総合調査委員会」を組織。策定委を発展的に解消しながら将来整備の具体的な方向を探った。
 同城については水軍の城として、通常は沖合の小島などに築造されるのに対して陸続きの場所に設けられたこと、山城と水軍城の二面性を持つことなどを含め歴史的な側面とともに(漁労との関わりを考えた民俗的な面からのアプローチが行われた。
 整備計画では、曲輪跡には芝を張り、建物跡には杭を打って示すなど遺構をイメージ的に表現し、土塁については当時の構造が分かるように、ある程度の復元を考えている。また空堀に関しては一カ所、堀障子(堀の中の仕切り)が確認されており、これをはっきりと示すほか、虎口(ここう=城の入り口)の跡にも杭を打つなどして表示していく予定だという。
 現在行われている工事は、長浜側からの園路整備と城の説明を行う案内板の設置などガイダンス整備と言われるもの。園路については城跡東側から頂上に向かう上り道のうち、上り口を従来の場所から東側に移動して階段を設け、途中で本来の上り道に合流する形にする。階段途中には、同城が漁労と関わりが深かったことから地上高五・五㍍の位置に魚見櫓(うおみやぐら)風のデッキを設けることになり、既に、その形を現している。
 現年度での具体的な工事はここまでで、このほかには城本体の遺構を復元するための実施設計が予定されている。
 長浜城この城が歴史上、明らかなものとして現れるのは天正七年(一五七九)。後北条氏が木負の農民に「長浜の船掛庭(ふなかけば)」の普請を命じた『北条家朱印状』に見られるのが初めて。同じ年に北条水軍の統括者であった梶原備前守が赴任している。
 ここを拠点に、駿河国に進出した武田氏と戦った「駿河湾海戦」が翌天正八年に行われている。
 北条側は「安宅(あたけ)」と呼ばれる大型船、武田側は「小早(こばや)」と呼ばれる小舟を使い、安宅が小早を追い掛けるという展開が続き、小早は浮島ケ原の方にまで逃げ込んだようだ。この時、武田勝頼が本陣を構えたのは北条早雲出世の城、興国寺城ではなかったか、と見られている。
 この後、長浜城は天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉が北条の本拠地、小田原を攻める際、北条水軍の主力ではなく土豪の大川氏が入城して守ったが、結局ここでは戦闘は行われず、北条氏の滅亡とともに廃城となった。(沼朝平成21年1月10日号)

2020年5月18日月曜日

アーカイブスシリーズ:戦後昭和の沼津の百貨店名簿


昭和36年商工名鑑より百貨店名簿

()百貨店 ㈱西武百貨店 大中悦 大手町5 5121
()百貨店 ㈱松菱沼津店 本多肇 町方町20 4500
()百貨店 ㈱マキバ百貨店 山田富三 上土町121 2447
()百貨店 ㈱フジヤ百貨店 杉山猪太郎 町方町20 589
()百貨店 ㈱松坂屋沼津出張所 大手町 2106
()百貨店 沼津百貨店 上土町 2064
()百貨店 ㈱栄屋百貨店 岡田吉信 町方町 307

昭和42年商工名鑑より
百貨店小 ㈱西武百貨店沼津店 吉野和夫 大手町5 (62)5120
百貨店小  ㈱松菱沼津店 又平三雄 町方町20 (63)3131
百貨店小  松坂屋沼津出張所 大石喜平 大手町98 (62)2106
月賦百貨 ㈱丸井沼津店 藤巻正雄 大手町86 (62)8521
土産品・食品・茶・玩具 沼津駅デパート 増田好平大手町官無番地 (62)4188

昭和48年商工名鑑より
百貨店業小 ㈱西武百貨店沼津店 佐藤勇 大手町5 (51)0111
百貨店・不動産業小 ㈱富士急百貨店 堀内光雄 大手町6 (62)7111
百貨店業小 ㈱松坂屋静岡店沼津出張所 小嶋満平 大手町98 (62)2106
百貨店業小 ㈱十字屋沼津支店 菊地英治 大手町82 (62)2764
衣料・食品・雑貨・家電小 ㈱関東ユニー・沼津運営部 加藤錫 大手町67  (51)2311
衣服・寝具小 ㈱長崎屋沼津店 鈴木徹也 大手町中央ビル (51)4545
綜合衣料小 ㈱ニチイ沼津店 有田勝之 三枚橋664-3 (51)2211
綜合衣料小 ㈱緑屋沼津店 小林一吉  大手町155  (62)8855
家具・洋装・電器製品・呉服・百貨割賦 ㈱丸井沼津店 町田実 大手町86 (51)0101

昭和53年商工名鑑より
☆㈱十字屋沼津店 湯浅勝男 大手町82 62-2764 百貨店
☆㈱西武百貨店沼津店 川瀬悦男 大手町5 51-0111 百貨店
☆㈱長崎屋沼津店 林直彦 大手町175 51-4545 総合衣料・寝具
☆㈱ニチイ沼津店 田中義男 三枚橋字上の段664-3 51-2211 総合衣料・家庭用品
沼津ステーションビル㈱ 滝川保 上土字七反田官無番地 63-4141 百貨店
☆㈱富士急百貨店 一之宮和則 大手町6 62-7111 百貨店
☆㈱松坂屋静岡店沼津出張所 時田国彦 大手町98 62-2106 百貨店
☆㈱丸井沼津店 大桃好栄 大手町86 51-0101 家具・洋装・電器製品呉服割賦


初期の魚河岸時代 宮町魚河岸時代  沼津港(アーカイブスシリーズ)


 初期の魚河岸時代
 沼津の港は狩野川の河口から三枚橋町辺まで、約二キロにわたって一定の施設もなく、もっぱら河岸がその役割を果たしてきた。江戸時代から明治にかけ狩野川の水運は、上流の田方郡下におよび、物資は底の偏平な長艘・半艘と称される小舟で運ばれていた。また、河岸は、川を遡行できないで沖待ちしている大型帆船との問の物資の中継や保管場所としても賑った。
 三枚橋町から魚町・仲町にかけての河岸には土蔵が立ち並んで、河岸に荷揚げされたものはそれぞれ倉庫に運ばれた。
 魚町.仲町は、魚を商う商人たちの集まっていた町である。江戸時代になると小売・仲買・問屋などが分化発達していった。同業者は同一地域に集まり、独占的な商業を営むようになった。そして明和五年には魚問屋や仲買人からなる沼津宿五十集組合が結成された。

 宮町魚河岸時代
 宮町は、昔から狩野川沿いに開け、明治十六年永代橋ができ、さらに、魚河岸もできるにおよんで鮮魚の売買で賑わった。宮町が急速に発展した主な原因としては、次の二つが考えられる。一つは、狩野川が大雨洪水のたびに土砂の堆積甚しく年々浅くなったため、永代橋から上流への船舶の遡行が不可能となった。二つには、鉄道が開通したことである。明治五年九月、新橋~横浜間が開通した以後、東海道本線の建設に伴い、明治十九年には蛇松線が敷設された。蛇松線は、東海道本線の資材運搬が目的で、狩野川河口(蛇松)から沼津駅に至る二・七キロの距離であるが、天城の木材(枕木)を運ぶ重要な役割を果たした。
 明治二十二年二月一日、沼津駅が開設された。こうした革命的な交通の発達によって鮮魚などが東京・横浜さらには名古屋・大阪方面へも迅速輸送することが可能になった。
現在、沼津市宮町に三星屋酒店がある。大正十年以前、沼津魚類市場はこの店の裏にあった。明治維新の頃、三星屋は海産物問屋を営み大きな船を持っていたが、ある時その船が難破してしまい、狩野川の岸辺に三星屋専用の荷揚げ場(桟橋)だけが残った。宮町の一画は問屋や仲買人が多かったので、この人々が三星屋から荷揚げ場を借りた。それが宮町の魚河岸の始まりといわれ、魚介類はすべてここで水揚げされるようになった。
この時代は問屋の全盛期で、どこの問屋でも大きな船を持っていた。漁があれば若衆を使っては、問屋の庭先へ魚を運ばせた。問屋は仲買人や小売人に対し羽振をきかせ、各問屋の庭先で売買された。まだ、せりなどはなく話し合いで値段を決めており、仲買人は、旦那のご機嫌を伺いながら魚を買った。
問屋は仲買人に呼びかけ、「魚のほしい人はこい。」といって、仲買人のうち魚がほしい人だけが申し込んでいた。問屋は、見込みやお金の支払いのよい仲買人を選んでは帳簿に載せ取り引きをしたが、逆に支払いの悪い仲買人には売らないという不合理さが出てきた。仲買人の中には有利な取り引きをするため、問屋の魚台帳へどんどん先払いをする人まで出てきたので、問屋の力はますます増長されていった。
魚問屋時代の宮町には、活気がみなぎっていた。耳白半天に絣(かすり)の股引、のめりの下駄履で長籠を天秤棒の先に突込み、肩に掛けて急な石段を上下し、大八車に水樽を積んで石畳の坂道を"エイヤ、ホイヤ"と威勢のいい掛声で沼津駅へ運んだ問屋の若者たち、そこに当時の模様が偲ばれる。
しかし、いつまでもこのような問屋全盛時代が続いたわけではない。大正十年三月一日になると魚問屋、仲買人によって大十魚会社が設立され、やがて問屋自身が問屋の機能を失い、衰退していく運命となっていった。

 沼津港
狩野川の河口は風が強くなると、波浪によって漂砂が押し寄せたり、また、大雨などで狩野川上流から流出する土砂のため推積を防ぐことができなかった。したがって河口は、漁船や観光定期船にとって難所のひとつであった。ある程度まで浚渫工事は行われていたが、自然の力には勝てず、狩野川は徐々に浅くなっていった。
他の港と違って沼津の場合は、河口から御成橋までの河岸が、港としての役割を果たしていたが永代橋の下、右岸に沼津魚類市場があったにもかかわらず特定の港がなくて、一番困ったのは水産業に携わる人々であった。このため昭和七年魚類会社の社営で漁港建設が企画された。常に出漁水揚げができる港を建設に乗り気だったのは、鮮魚仲買人の有志であった。歳月を経ていくなかで港の重要性が叫ばれ、港は狩野川の右側に県営事業としての工事が始まった。
沼津港はこの間、沼津市千本耕地整理組合などの相当な圧力で迂余曲折を経て、昭和八年十二月着工、工費三十八万二千百円、同十二年五月竣工にこぎつけた。しかし、やがて太平洋戦争に突入したために、港の機能は一時中断し、軍用港に変わり昭和二十一年ようやく開港の運びとなった。
沼津港(内港)は湿地田を掘削して造った人工港で、その後、観光船や漁船の基地となり重要性を高めた。
(沼津魚仲商協同組合30年史)

明治・大正時代の下河原(沼津魚仲買商協同組30年史)


 明治・大正時代の下河原(沼津魚仲買商協同組30年史)
 明治時代までは狩野川河口一帯は葦のはえる沼地であった。明治二十年代、下河原農家は各自舟を有し手ぐり網漁を行っていた。手ぐり網は二人から四人で漁ができたので、一軒または二軒で手ぐり網を三ケ持ち合わせ、農業は農閑期の合間に行う、いわば半農半漁の生活であった。当時の下河原の戸数は六〇軒程度で、漁業のみでは生計が立たず、桑畑をもち養蚕業も兼ね営んでいた。

 旧下河原といわれた入町から新玉神社までの裏一帯は桑畑で妙覚寺・妙海寺・西光寺などのお寺さんに囲まれており、さらにお寺の裏が下河原の田ん圃であった。また子持川は下河原田ん圃の農業用水として引かれていた。
 新玉神社から先は、竹藪や雑木が狩野川の堤防添いに生い茂って、いまの姿からは想像もできないが、昼なお暗い雑木林が狩野川河口の大松林までずうっと続いていた。そのためよく狐や狸が人家に姿をみせたので、次来、この通りを狐道(きつねみち)と呼ぶようになった。㈱田藤水産から先は、三軒家と呼んで三戸の農家しかなかった。それから先は桑畑が蛇松から狩野川河口まで続いていた。

 明治四十年、子持川添いには如来堂の丘・妙見堂の丘・観音堂の丘があって、それぞれ沼津の三名松が生い茂り丘添いにかけては桑畑であった。長谷寺観音堂から子持川下流までは広い田ん圃になっており、その中を蛇松線が走っていた。
 千本浜では漁師二〇人から三〇人が天王網(てんのうあみ)(地引き網)を引いていた。

 日清戦争以後、次第に社会万般の様相も変わっていき、日露両国の間に風雲急を告げると共に、若い者は徴兵に、あるいはまた工場へ働きに出掛ける者も多くなった。そのため農家は人手も少なくなり同士が相寄り組作りをして、千本浜海岸に網小屋や網倉を建設、西天王・東天王と二つの組が作られた。当時は組頭を大将と呼び、各世話役が選ばれ運営された。春の四・五月は鯛網、秋はいなだ・鯖網を用い、秋からは鰯漁を行った。
 千本海岸で水揚げされた魚は、籠に入れ荷車に積み込み宮町の魚河岸へ、大量に捕れた時は「エンヤ、エンヤ」と掛声も勇ましく狩野川を漕上って魚河岸まで運ばれた。
 大正初期、西天王網は沖引網漁法を取り入れ、当時としては大型の巾着網船二隻を新造、小取舟二隻引率用発動機船を導入、巾着網船団を設けた。湾内各所に出漁し、大漁織の旗も勇ましく、宮町河岸に乗り入れるようになった。鰯は九割までが加工用として取り引きされた。そのため河中で舟を錨止めして、沖取りという方法で取り引きが行われた。各加工屋は平板舟という川舟を持っていたので、漁船に平板舟を横付し、斗桶(水の抜ける穴がある丸い桶)や県認知の焼判のある計り桶(県知枡四貫一五キログラム)で受け取った。これらを一杯よ、二杯よと大声でいう数読の声が、朝早くから北風の吹く川面を伝って聞こえた。どういうわけかこの作業中には真冬でも漁師は裸であった。
 そのため宮町から下河原新玉神社近所までの河岸は、加工問屋で占められ栄えた。大鰮(おおいわし)の時は塩漬とし、船に積み込み日本橋まで運ばれた。脂の少ない時は煮干、脂の多い時は締粕(しめかす)とし、脂は燈油や各種の原料とし、締粕は飼料や肥料として販売された。それらは甲州や上州方面まで売られた。
 加工問屋は煮干釜や締台器などの取付工場となって工場の裏は石段で、船は干満の心配なく河岸に付けられ釜場に水揚げされた。宮町では山本庄八、下河原では大印大熊初次郎・「庄木村庄七・サ加藤定吉・よ大熊米吉・三金子虎吉・「エ増田亀太郎・六露木徳次郎他数氏が煮干締粕塩造物などを手掛けた。
 鰹節では旧下小路、旭町にⅢ印内村喜衛門、宮町に三綾部市郎・(や)増田弥平他五軒、中でも三綾市商店は煮干の削り加工を手掛けた。このように下河原には、魚の加工場を持った業者が多かった。
 明治時代には、仲買人の買い残した魚を漁師がひらきにし、自家消費の形で作っておかずにしたり、得意先に分けていた。
 すでに大正七~八年頃になると、下河原の地元漁師たちがひらきの製造をしていたともいわれている。
 当時の製法は、魚の腸を手で出し、水樽に塩を入れ掻き混ぜ、ひらいた魚を水樽の中に入れておいたために、夏場などは早く傷むことが多かった。
 大正十年、問屋制度に終止符がうたれ、沼津魚仲間も大きな変化をきたすのであった。
 丁度その頃、小田原から沼津の下河原入町に移り住んださ飯沼佐太郎氏が、大正十二、三年頃、小田原方式のひらき加工をはじめた。従来の製造方法との大きな違いは、①包丁で腸を出すようになった。②塩汁を使用した。③生ぼし天日乾燥であった。この方式が次第に普及し、下河原の農家の人々の副業となり、ひらき加工の商売の道が順次開かれていった。
 下河原の半農半漁民は、さ小田原屋が製品化して売り出す話を聞いて、ひらきならば家内工業として成り立つことを知り、夏は養蚕業、春と秋はひらき加工業として歩み出した。
 さ小田原屋がひらきを東京に出荷し始めてから「杉源商店など数軒が、ひらきの生産を研究して出荷するようになった。このようにひらきの加工は、さ小田原屋を中心として新玉神社付近まで発展していった。

 戦前までの狩野川は、水が綺麗で川底に落ちた釘でさえも見えるほど透き通っていた。旧魚河岸の宮町と下河原の間には、所々に"出し"があり、宮町の出しとか花月の出しなどとよばれるものがあった。出しと出しの問は、水の流れが一時的に止まって静かになり、魚の洗い場として好適であった。ひらき加工業者は、樽に入れた魚を長籠に移し変えて、長籠の両方の紐をもちごしごし洗ったので傷む魚が多かった。
 戦後は、八○岩本善作氏がこれではいけないといって桶を船大工に作らせ、蒸籠(せいろう)といわれる道具を使うようになった。 (加加藤角次郎氏談)

 下河原入町から新玉神社周辺のひらき業者は、広い桑畑や田ん圃を持っていたので、ひらきの干し場には苦労することはなかった。ひらきは桑畑や田ん圃に足場が作られ、よしずによって干された。その後は、三尺×六尺の金網の上に並べて干すようになった。
 ひらき製造は、一年のうちで三月から五月と十月から十二月の年二回、計六カ月間作業できた。残りの六ヵ月は、鰺などの原魚が水揚げされなかったので仕事にはならなかった。
 また、ひらきは天日干しだったため、天候に大きく左右され、急に雨が降り出すと家族総出で、ひらきを取り込むのに、猫の手も借りたいほどでまるで戦場のような忙しさだったという。こうしたことに対応するためひらき生産に乾燥機を使うようになったのは、昭和三十年代中半であった。(五鈴木房国氏談)
 ひらき製造業者はひらきをさ小田原屋製法(ひらきを塩水に漬け天日干し)で始めてから、むろ鰺が伊豆の棒受網や巾着網によって大量に捕れると共に、これを加工するひらき製造業者が次第に増えていった。
 戦前、沼津のひらきは主として東京・横浜方面に出荷していたが、生産量が次第に多くなり、関東一円では捌ききれなくなった。当時は沼津魚仲間組合があって、両毛線方面から三陸・名古屋・京都・大阪方面まで、ひらきの販路拡張を図るための宣伝が行はれた。そのような努力が実を結び、全国各地へひらきの販路が延びていった。
 戦後、沼津のひらきは、鮮魚を取り扱う組合役員の宣伝による効果も大きく、それが日本一のひものとして、評価される道を開いたものといわれている。(□■山内新助氏談)


2020年5月17日日曜日

◆沼津ヒラキ物語⑤ 「発展期にむけての途(みち)」 加藤雅功


◆沼津ヒラキ物語⑤
「発展期にむけての途(みち)」その3
 加藤雅功

 ●干し場の情景 下河原しもがわら)の入町((いりちょうコ)から南部の新玉(あらたま)神社に至るヒラキ加工業者は、元々広い桑畑や田圃(たんぼ)を所有しており、ヒラキの「干し場」の確保にはそれほど苦労しなかった。初期には足場を造って葦簀(よしず)に干したが、後に畳大(3x6)の木枠に網を張り、開いた魚を日光に肉面を見せて並べた。網の目は2cm位で、水切れの良さと裏側(皮目)の風通しの良さを狙った「干し枠」の干し蒸籠(せいるう)が使われた。このセイロの上にヒラキを干し、トロ箱などの空箱を支えに、斜めに立て掛けるようになった。日光が良く当たり、風通しが良く、しかも砂などが被(かぶ)らないような場所を選んで干し上げる。
 最初は渋糸などを張った網だったが、汚れるのですぐに金網になった。ただし塩気で錆(さ)びるので、ビニール被覆やナイロン製も試されたが、今ではステンレス製が普及している。沼津では新規格の金網のセイロが昭和20年代末に導入され、取り扱い易い現在のような3x2,5尺余りの規格に変更されて定着している。
 コンクリート敷きの「ヒラキ場」を兼ねた場合もあるが、このヒラキ加工の作業場に接した場所の「干し場」では、杭(くい)や木製のウマ(脚立)などで足場を造り、水平に置かれた2本の角材(干し竿(さお))の上に干しセイロを何枚か広げる。次に塩汁(しょしる)桶で一定時間漬(つ)け込んだヒラキを水洗い後、漬け蒸籠から干しセイロ上に移し、開いた魚を短時間ながら丁寧に並べていた。昭和30年代半ばに至るまで、外での作業ゆえに、夏場などは上に長大な葦簀を張って日陰を作り、下には玉砂利などを敷き詰めて、地面からの照り返しを防いでいた。
 沼津で普及した干し方は、干し場所を立体的に使うことであった。伊東などでも一部で太い竹が使われたが、強度や耐久性のなさなどの点から、本場の沼津では角材
の普及が進んだ。傾斜角30度前後で、斜めに立てた角材の桟(さん)へ、セイロの干し枠を両手で持って運び、並列で組まれた複数の桟がある中で、2本の角材(1.5x3)の桟に5枚か6枚の干しセイロが押し上げられていた。時には屋根の上の桟にも並び、手仕事ならではの成果ゆえに、「日干しの開き」のその広がりは壮観であった。
 また土地が狭小な場合、少し離れた場所に干し場を新たに確保する家もあり、当時はヒラキで重い干しセイロを何枚もリヤカーに積んで引っ張ったり、開いた魚を漬け蒸籠ごと重ねてリヤカーで大量に運ぶなど、その準備に大わらわであった。このように昭和30年代前半は、外での大仕事が待ち構えていた。
 今のような作業過程で乾燥室を設置し、重油や電気での温風乾燥機の導入が進む30年代半ば以前は、天候に大きく左右される「天日干し」が主流の時代であった。急な雨の際、折角ヒラキを干したセイロを家族総出で取り込むのは、大変な労力を要した。セイロを20枚近く積み上げ、前もって用意したブリキの覆いでブタをする光景は日常的であった。元々晴天時でさえ「開き」の魚が満載のセイロを干す際も6枚ほどを押し上げ、さらにセイロを取り込む際も、桟から落下しないように慎重に滑らせて下ろす作業は重労働であった。
 とくに梅雨時の「干し場」では、一旦セイロを重ねて待ち構えることもあり、欠かせない繰り返し作業のために、急な俄雨(にわかあめ)などがあると慌てふためき、喧騒(けんモう)の中で「取り込み作業」が続いていた。
 その後、ヒラキ製品の選別と箱詰め作業が待っていた。水平に置いた2本の「干し竿」の上で、干しセイロが何枚も並べられ、「五合(ごあわ)せ」か「四合(しあわ)せ」用の薄い木箱に30枚から40枚位を、包装用の白紙(しらっかみ)へと丁寧に揃えて並べる作業が、前もってある程度選別して置き、基準に合わない大きな「体(てい)たらく」(ドタラク)をはねながらテキパキと行われていた。さすが欠陥品は少なかったが、技術面で製品の個人差があり、開き包丁での肉・骨への角度、当て方は工夫が必要で、時に包丁の柄の親指の当たる部分を削ったりもした。
 「切(き)り板(ばん)」の上で開く際に、魚への包丁の当て方から、各部位への切り込み方、さらに腸(わた)・鰓(えら)を引き出す、身を開く、顎(あご)を割(さ)く、頭を割るまでの一連の動きは経験で早く上手になった。魚の骨に当てることもあり、包丁の切れ味が悪くなると砥石(といし)を3つ用いて研ぐ必要があるが、摩粍(まもう)も早くて1年半位で交換した。ヒラキ包丁は地元の「正秀」製のほか、行商の業者が扱ったものとがある。アジ以外ではより大きな包丁も使用する。
 箱詰めの後、規定の高さの木箱を4段から6段、サンマなどでは8段を重ねた。そして横に固定用の細い桟の板を縦に2本ずつ打ち付け、蓋(ふた)に数量(枚数・合せ数) と出荷先の市場名を記し、表面には沼津の名と屋号など「荷印」を筆で墨を浸けて書くか、ブリキなどの金属製の「刷板」(すりばん)を当てて黒墨の着いたブラシで擦(す)ることをした。その後は荒縄で二重に縛って梱包(こんぽう)作業を終了した。
 秋口以降は日暮れ前から、干し場全体を大型の投光器で照らして、黙々とヒラキの選別や箱詰め作業、さらには出荷作業が進められていた。

 ●千本・港湾地区への拡大 この時期になると下河原地区の男衆(おとこし)は魚を買い付ける仲買の資格を得たり、ヒラキ加工の商売の若(わか)い衆(し)が「見習い」から独立したり、さらに結婚を契機に分家したりして、より広い土地を求める必要に迫られていた。当時港湾整備の掘削(くっさく)に伴う砂利(バラス)が大量に得られ、旧水田の低湿地の埋め立て造成地が拡大した結果、総称で後に地区名となった「港湾」に進出した親類・縁者の商店も多く、港湾周辺では新興のヒラキ団地的な様相を呈していった。元の下河原地区から発展して、千本・港湾地区にまでヒラキ加工が拡大する中で、さらに水産加工業として専業化か進んでいった。
 下河原からの分家や縁者の多い千本中町・千本東町付近での事例を挙げると、昭和30年代半ば頃には、区画整理地の一画に個人で斡旋(あっせん)された砂利を1m弱盛り土し、150坪前後の土地を求め、自宅の家屋に接して加工場と広い干し場を確保するのが一般的であった。またボーリング掘削で「掘り抜き井戸」を得て、モーターポンプで常時汲み上げ、数段に分けた広い洗浄用の「池船」(いけふね)に直接流す方式は、下河原地区と同様であった。
 黄瀬川状地の扇端(せんたん)付近に当たる地域では、鉄管で打ち抜いた「掘り抜き井戸」が千本松下町から常盤(ときわ)町・緑町・下河原町にかけての住宅街に数多く分布し、今も土管が高く積まれて使用されている。南部の工業地域でも被圧地下水による「自噴」の後、水位低下でポンプの器械力c電力に頼るのは早かった。ヒラキ加工では開き(内臓除去)の後の洗浄、塩汁潰けやその後の「洗い」に大量の水を必要とする。黄瀬川起源の地(かじめようすい)下水の利用はやがて深井戸となり。その後過剰揚水により「地下水の塩水化」も深刻となるが、当時は資源の枯渇にはまだ関心が薄かった。ただし商店個々でのポンプアップは、当然経費もかさむことになる。
 あくまで基本は家族労働ながらも業務拡大で忙しくなると、ヒラキ加工の「開き手」や「干し手」の必要から、手伝う女性(「女衆」(おんなし))を確保する必要が出てきて、その後、慢性的な人手不足は続くことになる。
 またヒラキの生産拡大ブームの中で、流通に不可欠な木箱が大量に不足し始めた。梅雨時に限らず、ヒラキ製品の出荷用の浅い木箱を釘とカナヅチで組み立てる女衆の「箱打ち作業」が、個々の商店の作業用倉庫からトントンと軽快に響いているのが常であった。杉などの木の香りや高く重ねた浅箱の残映は、やがて断熱効果が優れ、衛生的で流通面でも利便性の高い、軽量の発泡スチロール箱に代替されていった。
【沼津市歴史民俗資料館資料館だよりVol44No.4(通巻225)2020.3.25