2013年2月28日木曜日

運慶作仏像国宝に

 運慶作仏像国宝に
伊豆の国 「願成就院」所蔵 文化審答申

 国の文化審議会は27日、伊豆の国市寺家の願成就院が所蔵する「運慶(うんけい)作諸仏」をはじめ、快慶の「木造騎獅文殊菩薩像(もくぞうきしもんじゅぼさつぞう)」などの仏像群と、平安時代から明治時代の史料「醍醐寺文書聖教(だいこじもんじょしょうぎょう)」の計3件を国宝に指定するよう、下村博文文部科学相に答申した。事務手続きを経て正式に指定される。「韮山代官江川家関係資料」と「江川家関係写真」(伊豆の国市)、「明ケ島古墳群出土土製品」(磐田市)の3件を含む50件の重要文化財指定も併せて答申した。
 「運慶作諸仏」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した仏師運慶が1186年(文治2年)、鎌倉幕府の初代執権として知られる北条時政の依頼を受けて制作した。いずれも木造の「阿弥陀(あみだ)如来坐像」「不動明王及二童子立像」「毘沙門天立像」の計5体で構成される。
 仏像の胎内から発見された木札などから、運慶の真作と判明した。運慶の優れた彫刻の技術を伝えるだけでなく、力強さと写実性を特徴とする鎌倉時代の彫刻をリードした「運慶様式」を確立した作品であることが評価された。
 彫刻の指定は中部地方で初めて。県教委によると、県内関係の国宝指定は2010年12月の「久能山東照宮本殿、石の間、拝殿」(静岡市駿河区)以来で、通算13件目。重要文化財は今回の指定を含め、計220件になった。
◎ 願成就院 創建は1189年(文治5年)。北条時政が源頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して建設したとされる。その後約半世紀にわたり堂塔などが次々と増築され、繁栄した。15世紀末、北条早雲が堀越公方・足利茶々丸を攻めた際に多くの建物を焼失。江戸時代に入ってから再興した。今回、国宝指定が決まった運慶作諸仏をはじめ、生前の北条政子の姿を模したとされる「政子地蔵菩薩像」などを所蔵している。
《静新平成25年2月28日(木)朝刊》

願成就院の仏像国宝に
 若き運慶の技躍動 力強さと写実性備え

 27日の文化審議会の答申で、国宝に指定されることが決まった願成就院の「運慶作諸仏」(伊豆の国市寺家)。美術の専門家は「運慶の確立した鎌倉彫刻様式の礎となった作品」と指摘する。
 穏やかな顔の阿弥陀如来坐像、引き締まった表情で前を見据える不動明王立像と毘沙門天立像。国宝指定を受けた5体の仏像は、いずれも運慶の代名詞となっている力強さと写実性を兼ね備える。県文化財保護審議会委員で、三井記念美術館(東京都)の清水真澄館長(73)は「阿弥陀如来坐像の全身のボリューム感や、毘沙門天立像の体の動きなどはさすが運慶と思わせる」と話す。
 運慶が北条時政の依頼を受けて仏像を制作した時期は、武士が政治を担った鎌倉幕府の成立期と重なる。上原仏教美術館(下田市)の田島整学芸員(42)は「当時は美術の中心が貴族から武士に移っていく過渡期だった。運慶はこの作品で初めて自身の様式を打ち出し、その後の潮流をつくっていった」と指摘する。
 全国的にも数少ない運慶の真作との判断には、仏像の胎内に納められた木札が大きな役割を果たした。江戸時代に不動明王と毘沙門天を修復した際、運慶と時政の名が書かれた木札が見つかっていた。さらに昭和30年代、二童子立像をエックス線で撮影したところ、同様の木札が胎内にあることが分かり、研究が大きく進展した。
 清水館長は「若い運慶の躍動感あふれ造形も魅力。大変に意義深い国宝指定だと思う」と話した。

 「後世に伝えたい」関係者ら喜びの声
 中部地方で初となる彫刻の国宝指定の答申を受け、「運慶作諸仏」を所蔵する伊豆の国市の願成就院は喜びに包まれた。観光関係者の間からは今後の観光振興に期待の声が上がった。「度重なる兵火や災害を免れ、5体の仏像が今も残っていることが奇跡。国宝指定は本当にうれしい」ー。答申の知らせを受けた願成就院の小崎祥道住職(76)は、晴れやかな表情で語った。
 鎌倉幕府の執権を務めた北条一門が造営し、隆盛を誇った同寺も15世紀以降の北条早雲の堀越公方攻めや豊臣秀吉の小田原攻めなどに巻き込まれ、何度も焼失した。小崎住職は「仏像は当時の人々が持ち出すなどして、守り抜いたのだろう。後世までしっかり伝えるため、護持管理に一層努めたい」と力を込める。
 国宝指定を機に、仏像ファンなど参拝客の増加も見込まれる。伊豆の国市観光協会の安田昌代会長(69)は「伊豆の国の宝が知られる良い機会になる。北条氏や源頼朝ゆかりの地として、あらためてPRに取り組んでいきたい」と話した。

 江川家関係資料と写真/明ケ島古墳群土製品 県内3件の重文も誕生
 「運慶作諸仏」の国宝指定と同時に、県内に3件の重要文化財が新たに誕生した。
 「韮山代官江川家関係資料」と「江川家関係写真」は、江戸時代に歴代当主が韮山代官を務めた江川家に伝わる文書や洋書、武器、古写真など約3万9千点からなる。
 江川家は、平安時代に現在の伊豆の国市韮山地域に定着したとされる武士の家系。特に幕末期の第36代当主江川太郎左衛門英龍(坦庵)は海防政策に関心を持ち、西洋の知識の収集に取り組んだ。資料には、英龍の自画像と伝えられる肖像画や品川沖に築かれた台場の絵図、近代的な大砲の模型、韮山反射炉に関する文書などが含まれる。写真は全461点。いずれも幕末から明治前半に撮影された。中浜(ジョン)万次郎が撮影した第37代当主江川英敏や旗本小沢太左衛門、江川邸と韮山製糸場の遠景写真などがある。
 明ケ島古墳群出土土製品は磐田市明ケ島原の区画整理による調査で、5世紀後半に造られたとされる方墳の下から見つかった。
 5世紀前半の祭祀(さいし)に用いられたとみられる。過去に例のない多種多量な上に良好な状態の土製品で、時期や祭祀の実態を把握できるーとして、1064点のほか、破片計4千点以上が県指定有形文化財から格上げされた。人のほか犬やイノシシなどの動物、武器・武具、楽器、農具などを模した素焼きの立体像で、大きさは1~15㌢。人形は目や鼻、耳だけでなく男女を区別し、中には武器を装備しているものもある。琴は板琴(いたこと)や槽琴(そうごと)などの違いを細かく作り分けている。
《静新平成25年2月28日(木)朝刊》

2013年2月26日火曜日

続町名由来(七) 浜悠人

続町名由来(七) 浜悠人
 静浦地区は駿河湾の入り江に面し、特に江浦は奥深く入り、波静かにして水深もあり、天然の良港である。江戸時代には江戸や大坂を行き来する大型船が停泊し、積み荷の揚げ下ろしでにぎわった。
 明治二十二(一八八九)年の町村制施行に際し、志下、馬込、獅子浜、江浦、多比、口野の六力村が一つになり、波静かな浦に面しているので静浦村と名付けられた。そして、それまでの村名は大字となり、獅子浜に村役場が置かれた。昭和十九(一九四四)年、静浦村は金岡、大岡、片浜の三力村と共に沼津市と合併した。
 『志下』北は島郷に接し、昔、狩野川が現在より東の方に流れ砂嘴(さし)が伸びていたので、この地を嘴下(しげ)と称し、「志下」なる字が当てられたと言うが、定かではない。
 沖の瓜島(うりじま)は明治中期、西郷隆盛の実弟、従道(つぐみち)が島の対岸に別荘を建てたので「西郷島」と呼ばれるようになった。近くには明治二十六(一八九三)年、御用邸も設けられ、別荘地、保養地として栄えた。
 なお、志下には、この年、安藤正胤医師が開設した静浦海浜院と、現今ならリゾートホテルと呼ばれる静浦保養館があった。安藤は、乃木希典が院長を務めていた学習院の游泳場を誘致した功績により沼津市から表彰を受け、記念事業として志下峠に登る象山の一角に染井吉野の苗、百数十本を植えて桜の名所としたが、戦時中に切り倒され、今や雑木と交じり、その面影はない。
 登山道左手には、安藤正胤翁碑と佐佐木信綱歌碑「八千もとのこの山桜こ、にうゑしよき人の名は萬世までに」が、茂れる八重葎(やえむぐら)に埋まっている。
 『馬込』志下に接した地で、『駿東郡誌』によれば「治承四年源頼朝、黄瀬川在陣の折、馬をこの村に曳き寵めしを以て其の名となる」とあり、「籠」は「込」に通じ、馬込となった。
 集落入り口から奥深く入り、三方が山や丘に囲まれ、馬囲いには適した地形とみた。
 『獅子浜』この地名は、古文書によれば「昔この地を宍人郷(ししびとこう)と呼び、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の御時、上総の海にて弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)が入水し、其の屍がこの浜にあがったと云うが、その真否は分からず」と記されていることによる。
 先日出掛けた東京渋谷の白隠展で、禅画「鷲頭山」が展示されていた。
 「見上げてみれば鷲頭山、みおろせば しげ鹿浜のつり舟」の賛があり、この地の作業歌で「しげ」は志下、「鹿浜」は「ししはま」と読み、後年、「獅子浜」の字が当てられた。
 本能寺の後ろには獅子浜城址がある。戦国時代の北条方の出城で、天正十八(一五九〇)年、豊臣秀吉の小田原攻めに際し、将兵は退去し、以後、廃城となった。
 『江浦』海の入り込んだ入り江から名付けられた。実際、駿河湾が深く入り込み、波静かな良港で、昔、伊勢船が出入りしていた。
 徳川三代将軍家光が上洛の途中、三島宿で静浦の活鯛を賞味し、地元の網元に命じて志下や獅子浜で取った鯛を江浦の生簀(いけす)に入れ、船底で生かして江戸城へ運んだと言われる。
 『多比』江浦湾に接した漁業の地で、朝晩、漁の合図に手火(たび=松明)を使っていたので地名になったと言われるが定かではない。古文書には「多美」「多肥」「田飛」とも書かれている。
 この地は昔から鰹節の産地として全国に知られていた。その中には沖縄の出稼ぎ漁師もいたのだろうか、龍雲寺の石段左手に石敢當(せきがんとう)なる、沖縄で見かける"魔除けの石塔"が運ばれ、置かれているのを見つけた。
 『口野』駿河国から伊豆国への入り口を示す意昧で「口野」と名付けられた。この地にある「塩久津」の小字は「塩置津」が訛ったからで、昔は塩を積んだ舟がたくさん出入りし、塩の積み下ろし港が塩久津であった。
 口野の南、内浦重寺に接し日本武尊の金桜神社がある。奉納した絵馬には口野東組・西組両網中の建切網(帯状の大網で魚群を捕らえる)によるマグロ漁撈が描かれていた。
 なお、この地には昭和四十年に完成した狩野川放水路がある。(歌人、下一丁田)
《沼朝平成25年2月26日(火)号》

2013年2月22日金曜日

 地域の石仏で"人集め"

沼津・大平地区プロジェクト始動
 地域の石仏で"人集め"
交流拡大、中高年照準


 沼津市大平地区の住民が、地域に多く残る石仏に「健康」「歴史」「芸術」といった中高年を引きつけるキーワードを結び付けて人を呼び込む"石仏の里"を構築するプロジェクトを始めた。人口減少が進み停滞ムードが漂う同市に、交流人口を増やすことができるか、住民の取り組みに期待が集まる。
 鷲頭山や大平山などが連なる通称「沼津アルプス」と狩野川に囲まれている大平地区。主に江戸時代以降に造られた道祖神や馬頭観音、狩野川の氾濫に苦しんだ農民が立てたと伝わる「道免(どうめん)さん」など243の石仏が残っている。
 大平地区連合自治会の的場達雄会長(68)は「大平の歴史は『狩野川との闘い』と言っても過言ではない。開発の波にのみ込まれずに残った石仏は、当時の住民の苦労を物語っている」と話す。
 自治会は本年度から市と協力して散策路や案内看板の整備などに取り組んでいる。今後は、沼津アルプスの散策と石仏巡りを組み合わせた歴史ウオーキングや石仏が醸し出す懐かしい風景を題材にした写生大会、写真撮影会なども計画し、中高年が多彩な趣味を楽しめる地域を目指す。
 沼津市の人口減少は全国的に見ても著しい。総務省の人口移動報告によると、2012年の転出超過数が1439人と全国自治体で7番目に多かった。2年後には20万人を割り込むとの推計もある。
 大平地区もこの10年間で人口の約8%に当たる約350人が減少した。
 一方で、長年の懸案だった道路整備や治水対策が進み、住環境は向上している。定住人口を増やすために、まず交流人口の拡大を図る的場会長は「地域の魅力に光を当て、広く発信していきたい」と力を込める。
《静新平成25年2月22日(金)夕刊》

2013年2月3日日曜日

興国寺城跡東側曲輪で確認

 興国寺城跡東側曲輪で確認


 国指定史跡の興国寺城跡(根古屋)の平成二十四年度発掘調査現地説明会が昨年末に開かれ、城の北東側にあった清水曲輪(しみずぐるわ)で発見された堀切や建物の跡について、市文化財センターの木村聡学芸員が説明した。
 堀切とは、山の尾根を分断するように作られた空堀のことで、尾根伝いに進んでくる敵兵の行動を妨害するためのもの。堀切は清水曲輪の北側にあり、建物跡は南側で発見された。当時の興国寺城は南に沼地が広がっており、敵にとっては攻めにくい地形だったことから、北からの襲撃に備えて堀切が造られたと見られている。
 また、同城内の他の空堀と、今回発見された堀切の構造比較から、清水曲輪の堀切は同城を武田氏が支配した元亀三年(一五七二)以降に造られた可能性が高いという。
 清水曲輪は絵図などには記載されておらず、当時の名称は不明。現在残っている地名(小字)から、清水曲輪と呼ばれている。
 興国寺城は、北条早雲(伊勢盛時)が駿河の大名今川氏の内紛解決に尽力した功績として、長享元年(一四八七)に周辺の領地と共に今川氏親(義元の父)から与えられた。氏親の母北川殿は早雲の姉妹、早雲は興国寺城を拠点に、伊豆や相模(神奈川県)に勢力を拡大。興国寺城一帯は今川氏に返還されたが、北条氏には、この一帯が本貫(本籍地)だという意識が残り、後に北条軍が駿河に侵攻する河東一乱の遠因にもなったという。武田氏や北条氏の争奪の対象となったが、最終的には徳川家康家臣の天野康景が城主となり、江戸時代初期の慶長十二年(一六〇七)に廃城となった。
 市教委では、平成十五年度から同城の発掘調査を行い、調査終了後は史跡公園としての整備を予定している。
《沼朝平成25年2月3日(日)号》

甲斐武田氏と沼津、三枚橋城上下(沼朝記事)

甲斐武田氏と沼津、三枚橋城
 城将高坂源五郎を探る歴史講座




 市教委は一月二十七日、歴史民俗資料館講座を三枚橋町の市立図書館で開いた。武田氏研究会副会長の平山優氏が「甲斐武田氏と沼津三枚橋城将高坂源五郎を探る」と題し、戦国大名の複雑な外交戦略が県東部地方に与えた影響と三枚橋城の関係について論じたほか、実質的な城主を務めた高坂源五郎の実像について、新資料を交えて話した。戦国時代ファンら約百六十人の市民が来場し、平山氏の話に耳を傾けた。

 駿東めぐる戦国大名の争い
 武田氏研究の平山優氏が講演

 「静岡県は(戦国時代研究で有名な)小和田哲男さんの本拠地。きょうの私は、(武田信玄のように)甲斐から駿河へ侵攻してきました」と冒頭で話した平山氏は東京都出身。大学院修了後、山梨県の教員採用試験に合格し高校赴任の辞令を交付されるが、そのわずか三時間後に同県埋蔵文化財センター赴任の辞令を受け、以後は文化財調査や県史編さんに携わり、昨年から高校の教員を務めている。武田氏について研究しており、架空の人物との説もある戦国武将「山本勘助」の実在性に関する研究で知られている。
 河東一乱最初に平山氏は、戦国時代の沼津を知る上で重要な言葉として「河東一乱」を紹介した。
 「河東」とは富士川より東の地域を指す言葉で、当時の富士郡と駿東郡。河東一乱とは、この二郡を巡る今川氏と北条氏の奪い合いのこと。
 天文五年(一五三六)、駿河(静岡県)の大名今川氏では、当主の氏輝とその弟、彦五郎が同時に急死した。この後、今川氏当主の座を巡って、出家して僧侶になっていた、氏輝の弟達が争うことになった。「花蔵の乱」と呼ばれるこの争いで勝利した栴岳承芳(せんがくしょうほう)が当主となり、今川義元と名を改めた。
 この当主交代によって、今川氏では外交上の変化が起こった。氏輝の時代は相模(神奈川県)の北条氏と友好関係を結んでいたが、義元は、甲斐の武田氏と友好関係を築き始めた。そして、義元が政略結婚で武田氏の当主信虎(信玄の父)の娘を妻に迎えたため、武田氏と対立していた北条氏の怒りを買うことになる。北条氏の当主氏綱(北条早雲の子)は、軍勢を送って今川領となっていた河東の地を占領した。
 これにより、今川・武田の同盟と北条の争いという図式となった。当時の北条氏は関東地方で上杉氏とも戦っていたから、北条氏は敵対勢力によって包囲されることとなった。
 第二次河東一乱と三国同盟この図式が崩れ始めるのは天文十年(一五四一)。武田氏では、信玄が父の信虎を追放して新当主となった。信玄は北条氏との戦いを停止し、信濃(長野県)への進出を始めた。北条氏では武田嫌いだった氏綱が死去し、子の氏康が当主となった。
 信玄は、武田、今川、北条の和解を模索する。この結果、幕府将軍足利義晴の指示を受けた京都の高僧が三氏を訪れて和平の仲介を行うが、北条の反対で破談となった。これに怒った義元は、軍勢を集めて北条に占領きれていた河東に侵攻。信玄は義元を支援し、善得寺(富士市)で両者が面会して同盟が結ばれた。
 平山氏は「大河ドラマなどでは、この時、善得寺に北条氏康も来たように描かれることもあるが、それは作り話」だと指摘する。
 この同盟により、武田軍は大石寺(富士宮市)へと進軍し、吉原城(富士市)の北条軍を攻めていた今川軍と合流する動きを示した。北条軍は吉原城から撤退し、長久保城(長泉町)へと引き上げた。今川と武田の連合軍は、岡宮(沼津市)へと進み、長久保城を攻撃した。
 戦いの間、信玄は今川を支援する一方で、北条とも秘密交渉を続けていた。北条はこの交渉に応じ、河東の地を今川に返還し、黄瀬川を国境とすることで和平が結ばれた。また、この後に武田、今川、北条の三氏は政略結婚を行って親戚同士となり、いわゆる三国同盟が結ばれることとなった。

 同盟崩壊の前触れ
 「大大名が長期間にわたって同盟を結び続けたのは、とても珍しく画期的なこと」と平山氏が指摘する武田、今川、北条による三国同盟は約二十年続いた。これが崩壊するきっかけとなったのは、永禄三年(一五六〇)の桶狭間の合戦だった。
 この戦いで義元が戦死すると、今川氏は弱体化していき、信玄は今川攻めを考えるようになる。
 ところが、信玄の息子の義信は義元の娘を妻に迎えており、今川との戦いに反対し、親子の対立となった。永禄八年(一五六五)には、義信の側近武将達による信玄暗殺計画が発覚し、義信は次期当主の座を奪われ、義信派の武将達は処刑された。義信は寺に監禁されていたが、翌々年に死亡する。
 この情勢を見た義元の子、氏真(うじざね)は武田氏を警戒し、信玄の宿敵である越後(新潟県)の上杉謙信と秘密交渉を開始。今川と上杉の接近を知った信玄は、三河(愛知県)の徳川家康と手を組み、今川を攻めることになった。
 信玄の駿河侵攻永禄十一年(一五六八)、武田軍が今川への攻撃を開始すると、娘が今川氏真に嫁いでいる北条氏康は激怒し、今川への援軍を送った。そして、武田との戦いに専念するため、宿敵の上杉謙信との和平交渉を開始した。
 徳川軍も遠江(静岡西部)の今川領を攻めたため、武田・徳川連合と今川・北条・上杉連合の戦いという図式が生まれた。信玄は駿府(静岡市)を占領したが、大宮城(富士宮)や深沢城(御殿場市)では北条軍との戦闘が続いた。
 一方、西では遠江の領土分割を巡って、武田と徳川の間で論争となり、関係が悪化していた。
 情勢の悪化を見た信玄は駿河攻略を一時諦め、北条氏との戦いに専念することとした。信玄は関東へ向かい、関東に点在する北条氏の城を攻撃。また、北条の本拠地である小田原城を攻撃して城下町を焼き払ったほか、三増峠(みませとうげ)の合戦で北条軍を打ち破った。こうして北条氏に大打撃を与えた信玄は、駿河攻略を再開。駿河各地を着実に支配下に置いた。
 元亀二年(一五七一)、北条氏当主の氏康が死去し、子の氏政が後を継いだ。氏政は外交方針を転換し、武田と和解。関東地方を巡って対立のある上杉と再び戦うこととした。
 北条と武田が駿河で争っている間、北条は上杉に武田の背後を攻めるように要請していたが、上杉がこれを無視していたため、北条は上杉の態度を不審に思い始めたことが外交転換のきっかけの一つになったという。この結果、北条と武田の間に再び同盟が結ばれた。
 信玄は、東の敵がいなくなったため、西に目を向けた。徳川家康や織田信長との戦いを始め、三方原(みかたがはら)の合戦で勝利するなど、戦況を有利に進めた。
 信玄と謙信の死 徳川・織田との戦いが続いていた天正元年(一五七三)、武田信玄が死去した。子の勝頼が当主となって戦いを続けたが、同三年(一五七五)の長篠の合戦で大敗し、情勢は逆転する。
 同六年(一五七八)には、遠くから駿河の情勢に影響を与えていた上杉謙信が死去。謙信は独身で子がいなかったため、養子を迎えていたが、この養子達が次期当主の座を巡って争うこととなった。「御館(おたて)の乱」と呼ばれるこの戦いでは、謙信の姉の子、景勝(かげかつ)と、北条氏出身の景虎(かげとら)の二派による内乱となった。
 北条氏が景虎を支援したため、景勝は武田に支援を要請。勝頼が、この要請に応じると、武田と北条は、またもや対立することに。勝頼が、あえてこのような危険な外交を展開したのは、父信玄が行ったように、武田が仲介者となって武田、上杉、北条の新三国同盟を結ふことが念頭にあったからではないか、と平山氏は分析する。
 しかし、内乱で景勝が勝利し景虎が敗死すると、勝頼の新同盟構想は崩壊し、武田と北条は完全に敵対することとなった。
《沼朝平成25年2月3日(日)号》

甲斐武田氏と沼津、三枚橋城下
 城将高坂源五郎を探る歴史講座
 書状に見られる三枚橋城
 江戸時代の沼津城とは別もの
 武田、北条、今川、上杉といった戦国大名達の外交戦略を解説した平山氏は、続いて三枚橋城の登場と、その城将となった高坂源五郎の実像について、当時の書状を紹介しながら論じた。
 三枚橋城の登場 天正七年(一五七九)九月三日。北条氏政は、関東地方の武将、千葉邦胤(ちば・くにたね)に書状を送った。その中で氏政は「武田勝頼は私と同盟を結んだはずなのに、上杉を巡る争いでは敵対行動をとっている。しかも、我々の境である『沼津』という土地に城を築いている。だから私も対抗して城を築くので、支援してほしい」と記した。
 平山氏は、同盟相手との国境地帯には城を造らないし、既存の城があっても破壊するのが当時の常識であった、と説明。勝頼が「沼津」に建設した三枚橋城こそが、武田と北条の同盟決裂のきっかけになったと指摘した。
 氏政が千葉氏への手紙を書いた二週間後の九月十七日、勝頼は上杉景勝に対して書状を送った。その中で、勝頼は三枚橋城が完成したことを知らせている。また、この書状と一緒に春日信達という武将による書状も届けられており、その中で信達は、自分が三枚橋城の管理を任されたことを述
べている。
 さらに平山氏は、二〇一二年春に発見されたばかりだという新史料を紹介した。それは天正八年(一五八〇)五月に勝頼が真田昌幸(幸村の父)らに出した手紙で、三枚橋城の修築を急ぐよう指示を出しているが、宛名の中に信達も含まれている。
 三枚橋城は狩野川を天然の堀とし、城の出入り口には「丸馬出し」という武田流の築城に特徴的な防御施設を備えていた。勝頼は、自分の新たな本拠地として天正九年(一五八一)に新府城(山梨県韮崎市)を築いており、これが武田氏によって最後に作られた城となった。三枚橋城は最後から二番目の城になるという。
 春日信達 ここで平山氏は勝頼から三枚橋城を任された「春日信達」という武将について解説した。
 信達は、武田信玄の優れた家臣で武田氏の事績を記した軍学書『甲陽軍鑑』の作者ともされる春日虎綱の次男。虎綱は「高坂弾正(こうさか・だんじょう)」の名でも知られる。もともと甲斐の大百姓、春日家に生まれた虎綱は、武田信玄に才能を見込まれて武士となった。その後、信濃の名門、香坂氏の名跡を継いだ。このため、本名は「香坂」だが、通称として「高坂」が用いられたため、高坂の名で知られるようになった。
 高坂弾正は、信濃北部の海津城を任された。この一帯は、川中島の合戦の舞台となった土地で、弾正は上杉氏への防衛や交渉を担当していた。弾正には昌澄(まさずみ)という長男がいたが、長篠の合戦で戦死したため、次男の信達が後を継いだ。甲陽軍鑑では、信達のことを「高坂源五郎」と呼んでいる。
 上杉景勝と同盟し、北条や織田・徳川と戦うことになった勝頼にとって、北条軍の進撃を食い止める役割の三枚橋城は、極めて重要な坂であった。そして、上杉に備える必要もなくなったため、これまで上杉対策という重要任務を担当していた高坂家の人間が三枚橋城に派遣されることになったという。
 武田の滅亡と本能寺の変 天正七年、北条と徳川が同盟を結び、東西から武田を攻撃し始めた。勝頼は、文字通り東奔西走して両軍と戦い、西の高天神城(掛川市)と東の三枚橋城が武田軍の拠点となった。
 そして、天正十年(一五八二)に、織田信長の軍勢が、いよいよ武田氏への攻撃を開始する。北条軍も三枚橋城に迫る中、春日信達は甲斐にいる勝頼の身が危ういことを知り、城を捨てて勝頼のもとに駆けつけるが、勝頼からは城を放棄したことをとがめられたため、かつての本拠であった海津城へと退散した。三枚橋城は北条に占領され、後に徳川に引き渡された。
 武田氏の滅亡後、信達は、新たに海津城主となった織田の家臣、森長可(もり・ながよし)に仕えた。しかし、同じ年に本能寺の変が発生。信長が自刃すると、織田に支配されていた旧武田領は大混乱となり、森長可は城を捨てて逃走。海津城一帯は北条と上杉の奪い合いとなった。
 この頃、上杉の家臣となっていた信達は、北条に味方した真田昌幸に勧められて上杉から北条に寝返ろうとするが、計画が発覚して処刑されたという。
 三枚橋城と春日信達について語り終えた平山氏は、「武田勝頼は三枚橋城を造ったことで、北条と争うことになった。北条との戦いで三枚橋城救援を優先したことで、西の高天神城の救援が遅れて落城した。高天神城の落城によって『勝頼は家臣を見捨てる』という評判が家臣の間に広がり、信頼を失った武田家は内部崩壊し、滅亡につながった」とし、武田氏滅亡など戦国時代後期の国内情勢に対して、三枚橋城や沼津の地が大きな意味を持っていたことを強調して講演を終えた。
 三枚橋城
 武田勝頼によって天正七年(一五七九)に、現在の三枚橋町一帯から、その南にかけて築かれた城。築城当の名称は不明だが、天正十八年(一五九〇)の記録では、「三枚橋城」の名で登場する。江戸時代、初期の慶長十八年(一六一一二)、当時の城主、大久保忠佐が跡継ぎなく死去したのに伴い廃城。
 安永六年(一七七七)の沼津藩成立により築かれた沼津城は、三枚橋城とほぼ同じ位置に築かれた別の城。
 高坂源五郎(春日信達)は、城や周辺の土地を支配する領主でないため、「城主」ではなく「城将」と呼ばれる。
《沼朝平成25年2月3日(日)号》