2019年3月31日日曜日

図書館が新たな役割を模索 協議会で運営状況などを報告




図書館が新たな役割を模索
協議会で運営状況などを報告
 

二〇一八年度の第2回市立図害館協議会が二十二日、同図書館講座室で開かれた。七委員が出席し、新年度の図書購入費や今年度の運営状況などについて図書館側から報告を受けた。
 同協議会は図書館法で規定された組織で、図書館の運営に関して館長の諮問に答えるとともに、館長に対して意見を伝えることができる。協議会の委員は教育関係者や公募に応じた市民などで構されている。会長は沼津郷土史研究話会(沼津史談会)会長でもある匂坂信吾氏。
 報告によると、新年度における市立図書館や地区センター図書室などでの図書購入費予算の総額は約三三二六万円。前年度より約二六六万円の増額となった。図書購入費が増えたのは、郷土資料として沼津宿清水本陣の関連文書の購入費三〇〇万円が計上されたため。
 今年度に始まった取り組みとしては、飲料の自動販売機設置やボランティア室開設などが挙げられた。
 自販機は昨年十二月から四階に設置されている。今年二月末時点で約六万四千円の売り上げがあり、売上額は増加傾向を示しているという。設置業者との契約により、約三分の一が図書館側の収入となる。
 ボランティア室は、読み聞かせ活動などのボランティアを支援するため、今月に開設された。三階のグループ室が充てられた。
 部屋を利用できるのは、ボランティアとして登録した個人や団体。活動の打ち合わせなどのために使用することを想定している。
 このほか、同図書館玄関の北側にある屋外灰皿を撤去し、敷地内全面禁煙を五月一日から実施することが報告された。健康増進法の改正や、県受動喫煙防止条例の施行を受けての措置だという。
 報告後の意見交換では、図書館に求められる役割が変容していく中で、市立図書館が今後の戦略を打ち出していくことを望む声が委員から上がった。
 図書館当局からは、国が図書館を「にぎわいの場」として位置付けようとしている状況を説明した上で、市立図書館も基本的な役割を維持しつつ、新たな役割を模索していくという考えが示された。
【沼朝平成31331()号】

2019年3月30日土曜日

力石 浜悠人



力石 浜悠人

 狩野川の河口、我入道側に突き出た小山があり、山上に不動尊の小洞がある。さらに隣り合わせの南側の石段を上り詰めると八幡神社が鎮座し、そこからの周囲の眺めは素晴らしいものだ。
 そして両方の石段の上り口の中間点に一つの力石を見つけた。傍らの説明文には「福島正則力出石二十貫(七十五㌔)天正時代豊臣秀吉の小田原征伐にあたり三島世古本陣に寄宿した武将福島正則がこの石を持ち上げたという伝承から『福島正則の力石』と呼ばれている」と記されていた。
 一五九〇(天正一八)年、豊臣秀吉は小田原を本城とした北条氏政、氏直父子を攻撃し滅亡させた。世に言う小田原の出陣である。
 その折、秀吉、家康軍は三島の山中城を攻め、一日にして落城させた。一方、福島正則は織田信雄の軍に加わり韮山城を攻め、包囲した。
 大力の福島正則が出陣前に我入道を通り、力石を持ち上げたのは、この時であろうと推測される。
 ところで、戦国の世から今日まで、およそ四百三十年を経、この石は何を見続けてきたのだろう。福島正則の力石は語ることなく、今日までじっと坐し続けている。
 先日、大岡上石田の諏訪神社を散策した。ここにも力石がある。戦後、地中に埋められていたのを昭和四十四年、公民館建設により掘り出され、再び昔の力石として脚光を浴びた。
 傍らの「上石田力石の謂(いわれ)」から引用すれば、「明治六(一八七三)年、富国強兵を目指す政府は徴兵令を公布、二十歳以上の男子はすべて兵役につかせることにした。この力石は大(約二十七貫、百一・七㌔)、中(約二十五貫、九十四・四㌔)、小(約二十二貫、八十五・五㌔の三個で、明治二十九(一八九四)年頃より使用されていた。徴兵前の若者が集まり石を持ち上げたり担いだり力くらべし体力向上を図ったと伝えられる~」
 ところで、石を持ち上げて競うのは、現代スポーツのウエイトリフティングに当たるのではなかろうかと思った。だが、力石は持つための手掛かりもなく、持ち上げるには大変苦労したであろう。日本人は石を持ち上げることにより修業・鍛錬の道を求めたのであろうか。(歌人、下一丁田)
【沼朝平成31330()寄稿文】


2019年3月14日木曜日

2つ目の首くび塚づか(西間門にしまかど)    加藤雅功(資料館だより220号平成30年12月25日発行)


◆ぬまづ点描「2つの首塚」②
2つ目の(くび)(づか)(西間門(にしまかど))    加藤雅功

『静岡県名勝誌』(明治36年刊)に掲載の「髑髏(どくろ)(づか)の原典は『沼津雑誌』(明治16年刊)であり、「髑髏塚」として紹介され、「間門の北端に在り、金山(しん)()の前の塚上に古くは、両手で抱えるほど太い一本の古松が有った。去る年の秋に強風が吹き、塚を壊し松が倒れた。土の中からうず高く積もった、百余の頭蓋骨(ずがいこつ)が露出した。地元民は未だ何の遺跡であるか知らないという。しかも(おそ)れつつしみ、そしてこれを元のように復原した。自然にこの塚の呼称は「髑髏塚」と名付いた。」(原文は漢文)と記されている。明らかに発見の経緯からも千本松原の東側の首塚とは異なるものであり、明治14(1881)914日の暴風雨かで倒木したことが推定される。
江戸前期の『東海道分間(ぶんけん)延絵図(のぶえず)』では、西間門村には「金山」と記した神社と(しゃ)(そう)が描かれており、また大正期の『駿東郡片浜村全図』でも旧東海道の北、字北側の中央部に神社として描かれている。東間門に接した沼津本町の古社の丸子(まるこ)神社と関係して、(かな)山彦(やまひこの)(みこと)を祭神とした金山神社は西間門の旧村社であった。
明治前期の金山神祠は、現在八幡神社に合祀(ごうし)されている金山神社のことで、大正3年頃に編纂(へんさん)された『片浜村誌稿』では「西間門にあり、松樹一本残すのみ。武田勝頼(たけだかつより)が丸子神社を攻め、守兵を捕らえてこの所において打ち首とした。(こう)(けつ)穿(うが)って葬ったという。先年髑髏(頭蓋骨)20有余掘り出したという。」との内容が記されている。明治の末期で、既に神社が合祀されてしまって確認できないが、明治前期に塚を復
原しており、弔った後の髑髏は追善供養の対象となった。ただし、金剛寺には埋葬されていない。


神社の跡地には古い松がたった一本残っただけであるが、首を埋める墓の穴を掘って葬った時期は、未だ街道整備がされていない頃で、千本松原の広がりがこの付近にまであったのであろう。後北条の時代に武田勝頼の信仰・祈願が厚く、かつて小田原攻めの際の戦勝祈念を丸子神社で行ったという。しかし、勝頼は戦に破れて敗走し、丸子神社の社殿ほかを焼き払い、守っていた敵の兵を殺戮(さつりく)し、その際に、捕虜を金山神社の地で斬首(ざんしゅ)の刑に処したという。金山神社が八幡神社に合祀されて移った後、空閑地(くうかんち)の西側は新たに公園となり、今では西間門公会堂が建って地域コミュニティの中心となっている。東側は金剛寺の所有する土地で、空間的にも塚や松が有ったスペースの可能性がある。松や塚も残っていないが、通り寄りの東側に庚申堂(こうしんどう)東海道分間延絵図にあり、西側の松が塚であろうか。既に該当する付近は住宅地となり、確認する(すべ)もない。
東間門には「六代松」の旧跡が松原の内にある。平六代を弔う首塚(供養墓)ではあるが、地元では「首塚」とは呼ばない。かつて「六代御前」の石塔(供養塔)と「六代松」の大樹があり、やがて松が枯れてしまったので、その跡に天保年間に石碑が建立されている。史実は別として守り伝えてきた六代(妙覚)伝承の地である。ただし、「六代松碑」付近には首塚の伝承もなく、また、塚の位置も集落の南側である。

余滴(よてき)ながら、祭神の金山彦命に絡めて、武田の「金山(かなやま)(しゅう)」は戦国期から(あら)(かね)の採掘に従事し、その鉱石採掘技術を生かして城攻めや用水工事にカを注いだ。武田氏と丸子神社の関係や接点が、そこに見えてくる。
また、武田氏に限らず、千本浜の戦いでは北条氏も同様に蛮行を振るい、結果的に首塚の土盛りとして埋葬された。首塚には今回の多数合葬(群集)塚のほか、姓名の判明する個人塚などもある。さらに群集塚の事例でも、分類的には千本浜(千本郷林)の首塚と同様に「地元民の協力による祭祀(さいし)や築塚」に該当する。
なお、蛇足ながら、むしろ奇遇(きぐう)と言うベきか、筆者の祖父の菩提寺である三島の林光寺は、武田勝頼の弟の家臣が残党として落ち延びて開いた寺であり、その七人衆の一人を先祖に持つのが私である。

(資料館だより220号平成301225日発行)

沼津兵学校記念誌チラシ完版(頒価1,000円(税込み)A4判188頁)


2019年3月5日火曜日

「はやぶさ2」搭載小型モニタカメラ撮影映像 / Images from CAM-H

2015年7月9日公開「静岡県ニュース速報」TV

いだてん 浜悠人(沼朝平成31年3月5日寄稿文)




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 先日、NHK大河ドラマ「いだてん」を見る機会を得た。そこには金栗四三を演ずる中村勘九郎が韋駄天となり熱演していた。
 日本初のオリンピック予選会のマラソン競技で優勝した金栗は明治二十四年、熊本県玉名郡春富村に生まれた。明治四十三年に旧制玉名中を卒業後、東京高師(現筑波大)に合格、上京して寄宿舎から通学した。
 その年の十月、金栗は東京高師の恒例行事の「秋の長距離竸走会」に意気込み参加。レース直前、立ち小便をしているうちにスタートの号砲が鳴って出遅れるも、持ち前の「すっすっはっはっ」の呼吸法で、ほかの学生をごぼう抜きし、途中わらじから裸足になり六里(二十四㌔)の道を走り、見事三着でゴール。表彰式では嘉納治五郎校長から銅メダルを受け取り、大感激した。
 明治四十四年、大日本体育協会(JOC)を設立して初代会長となった嘉納は、第5回オリンピック・ストツクホルム大会の参加選手選抜のため予選会開催を大々的に発表した。
 金栗は新聞でマラソン競技二十五マイル(四十㌔)を知り、挑戦しようと思った。熊本弁で「やれるか、いや、やるんだ。やってみらんと分からんばい」と口ずさんでいた。
 明治四十四年、オリンピック予選会の当日、東京高師の徒歩部(マラソン部)の面々は羽田で道に迷っていた。だが、最終競技のマラソンには無事、間に合うことができた。
 金栗は播磨屋の足袋を履きスタートした。競技場を出て多摩川沿いに土手を走り川崎へ。そこから東海道を南へ下り、東神奈川で折り返す、およそ二十五マイルの道程を突き進んだ。
 途中、沿道の声援を受けて懸命に走り続け、競技場に戻った時は一位に躍り出ていた。どしゃぶりをついて雨の中、ついに金栗はゴールテープを切った。
 二時間三十二分四十五秒、世界記録だ。嘉納校長はストップウォッチを手に興奮していた。力尽きた金栗がよろけると抱きかかえてくれた。これを機に金栗は未知なるマラソン竸技の探求にのめり込んで行った。
 明治四十五年、マラソンの金栗と短距離の三島弥彦は嘉納校長のもと校長室でオリンピックのエントリーシートに署名し、正式に日本代表選手となった。金銭の工面もうまく収まり、金栗と三島はストックホルムに向けて出発した。
 シベリヤ経田で八千㌔、十七日間の長い旅程であった。第5回オリンピック・ストックホルム大会に初めて、日本人の金栗と三島が「NIPPON」のプラカードを掲げて入場行進・・、このシーンは、これから放映されるので楽しみにしてください。
 大正八年、金栗四三は東京朝日新聞社の後援のもと、下関~東京間、千二百㌔を二十日間で走破した。当時の模様を伝える新聞から抜粋すれば「沼津に一泊せる金栗は出迎えの小田原中学渋谷教諭と新たに加わった旧制沼中(現沼東)徒歩部選手、高野、布川と共に午前七時沼津銀行前を出発し、七時三十五分三島に到着、十五分休憩し箱根に向った」と報じていた。
 たまたま沼中徒歩部で加わった布川は後年、出版界で名を馳せた布川角左衛門であった。
 彼は新聞社から、沼津~国府津の一区間の応援の伴走を頼まれ、同級生の高野と参加し、八月八日の朝、沼津を出発し三島へ。ついで旧東海道を走って箱根を越え、小田原を経て国府津に至り無事その役目を果した。
 金栗は汽車で沼津に戻ろうとする布川を、「君は、なかなかいい走りだ。東京まで一緒に行こう」と誘い、布川は一人残って国府津館で金栗と同じ部屋に泊まった。
 翌日、東海道を走って横浜の開港記念館に宿泊。翌十日、いよいよ東京へ出発。沿道の一段と賑やかな声援を受けながら終点の日比谷公園に到着した。
 新聞の見出しには「鉄脚三百里を走破
せる金栗・秋葉両選手の凱歌、一路歓呼の中を帝都に入りて新記録を誇るマラソン覇者の雄姿、到着点日比谷は人を以て埋る」とあった。
 当然、布川もその盛んな歓迎会の渦中にいたが、それが一段落した時、新聞社の人から「よくやってくださった。ご苦労さまでした」という挨拶と共に二円五十銭を手渡され、ランニングシャツとパンツだけの姿で沼津へ帰ることになった。
 後年、沼中を卒業した布川は岩波書店に入社、編集部長を経て退社。出版学会を創立して初代会長となる。当時、金栗に会った布川は「人生もマラソンと同じですね」と言われた一言が深く心に残っていると述べていた。 (歌人、下一丁田)
【沼朝平成3135()寄稿文】