2021年2月27日土曜日

210227アーカイブス沼津フォーラム10周年記念誌平成5年11月9日発行

牧之原の戦国山城 勝間田城

 

牧之原の戦国山城 勝間田城


森林環境譲与税で整備

県内初自然と史跡保護両立

 森林を保全しながら山城を整備する事業が、牧之原市勝田の県指定史跡「勝間田城」で本格化している。市によると、森林環境譲与税を文化財関連の保護にも活用する取り組みで、県内初という。市教委相良文化財調査事務所の松下善和調査官は「雑不を放置していると山も遺跡も傷めてしまう。自然と歴史の両方を保護する」と意義を語る。

 勝間田城は、地域や学校の名前になっている武将の勝間田氏が戦国時代初期に築いたとされる山城。近年の城ブームで訪れる人が増えているものの、雑木が生い茂っていて山城本来の形状が不明瞭になっている。山の手入れをしなければ樹木が堀や土塁を傷めるほか、倒木や土砂崩れの危険性も高まる。

 勝間田城の整備は202011月に始動。本年度中に国から配分される森林環境譲与税約600万円を投じ、三の曲輪(くるわ)周辺約2千平万㍍の範囲にある木を伐採する。1月下旬に開いた現地見学会では地元住民約30人が参加し、伐採したことで見えてきた城の形状を松下調査官が解説した。

 事業期間は25年度までを予定し、総事業費は約3千万円。全額を国の森林環境譲与税で賄う。ほかの市町では森林の整備や木材利用の促進に充てられることが多く、文化財の保護を目的の一つとした事業は全国的にも珍しいという。整備が完了すれば、戦国時代の景色が復活する。松下調査官は「すでに部分的に景観が取り戻されてきた。最終的には戦国武将が見た眺望を味わえるようになる」と話す。(榛原支局・相松孝暢)

【静新令和3226日(金)夕刊】

2021年2月23日火曜日

210223五十川長屋古井戸遺物資料プラス編イラスト修正as

210223五十川長屋古井戸遺物資料プラス編as

小田急ロマンスカー 人気の車内販売70年の歴史に幕

 

小田急ロマンスカー

人気の車内販売70年の歴史に幕


 小田急電鉄の特急ロマンスカーの車内販売が、新型コロナウイルス禍で約70年の歴史に幕を下ろす。ダイヤ改正前日の312日まで続ける予定だったが、緊急事態宣言で1月以降中止。再開の見通しは立たない。人気商品をいくつも生み出したが、1990年代半ばから売り上げが落ち込み、ひっそり役目を終える。

 ロマンスカーは主に東京・新宿と、箱根湯本などの観光地を結ぶ。小田急によると、49年の特急専用車両「1910形」導入時に「走る喫茶室」として飲料などの注文取りをしたのが同社の車内販売の始まりだ。91年からはワゴン販売に姿を変え、特製のテレホンカードなど乗車記念の土産が人気に。近年は車両の形をした容器の駅弁がヒットした。

 だが売上高は95年をピークに下がり、巻き返せなかった。駅内外の店舗の充実や、通勤客が増えて観光客向け商品の需要が減ったことが響いた。

 昨年以降はコロナ禍で長期間のサービス中止や規模縮小を迫られた。312日がワゴン販売の「ラストラン」の予定だが、緊急事態宣言の発令と延長で先行きは不明だ。

 販売を担ったグループ会社従業員は、系列飲食店に配置転換する。小田急は「ロマンスカーで働きたくて入社した人もいる。継続を模索してきたが、コロナ禍で乗客自体が減り、諦めざるを得ない」と説明している。小田急ロマンスカー人気の車内販売70年の歴史に幕 小田急電鉄の特急ロマンスカーの車内販売が、新型コロナウイルス禍で約70年の歴史に幕を下ろす。ダイヤ改正前日の312日まで続ける予定だったが、緊急事態宣言で1月以降中止。再開の見通しは立たない。人気商品をいくつも生み出したが、1990年代半ばから売り上げが落ち込み、ひっそり役目を終える。

 ロマンスカーは主に東京・新宿と、箱根湯本などの観光地を結ぶ。小田急によると、49年の特急専用車両「1910形」導入時に「走る喫茶室」として飲料などの注文取りをしたのが同社の車内販売の始まりだ。91年からはワゴン販売に姿を変え、特製のテレホンカードなど乗車記念の土産が人気に。近年は車両の形をした容器の駅弁がヒットした。



 だが売上高は95年をピークに下がり、巻き返せなかった。駅内外の店舗の充実や、通勤客が増えて観光客向け商品の需要が減ったことが響いた。

 昨年以降はコロナ禍で長期間のサービス中止や規模縮小を迫られた。312日がワゴン販売の「ラストラン」の予定だが、緊急事態宣言の発令と延長で先行きは不明だ。

 販売を担ったグループ会社従業員は、系列飲食店に配置転換する。小田急は「ロマンスカーで働きたくて入社した人もいる。継続を模索してきたが、コロナ禍で乗客自体が減り、諦めざるを得ない」と説明している。

【静新令和3年2月22日(月)夕刊】

秀吉と家康17世紀西欧で関心 イタリア書に人物像、肖像画

 

秀吉と家康17世紀西欧で関心

イタリア書に人物像、肖像画

「小さい体気性荒」




 豊臣秀吉は「気性が荒い」、徳川家康は「恰幅(かっぷく)が良く陰気な目」ー。1683年にイタリアで出版された本に、日本の天下人2人の人物像や肖像画が記載されていることが22日までに、国際日本文化研究センター(日文研、京都市)のフレデリック・クレインス教授らの調査で分かった。江戸時代の鎖国以降も西欧で日本への関心が高かったことを示す重要な史料という。

 本は、ナポリの弁護士で文筆家のロレンツォ・クラッソが、16~17世紀に活躍した世界の武将約100人の事績をまとめた「著名武将列伝」。クレインス教授が京都市内の古書店から入手した。 司書は秀吉を「TaicOSama(太闇様)」と紹介し「体は小さいが丈夫で気性が荒い」と記述。おい秀次の粛清やキリシタンの迫害から、恐怖政治を敷いた古代ローマ皇帝になぞらえ「日本のテイベリウス」と評した。


「恰幅良い陰気な目」


 家康は「DaifUSama(内府様)」で「恰幅の良い中背で陰気な目をしている」とし、秀吉の死の際には「顔で悲しみ、心の内では笑いが止まらなかった」と記した。2人の肖像画は帽子をかぶった西洋人風で、イタリアの画家が想像で描いたとみられる。

 クレインス教授によると、戦国期、日本に滞在したイエズス会の宣教師は政治状況などをローマの本部に詳しく報告しており、日本に関する知識は欧州で広く共有されていたという。

 17世紀半ばまでに鎖国が完成し、宣教師やポルトガル人らの来航が禁じられると、日本に関する情報の発信は長崎に商館を置いたオランダ経田のものに限られた。クレインス教授は、鎖国以降もそれまでの知識を基に同書が刊行された点から「日本への関心が依然高かったことがうかがえる」としている。

【静新令和3年2月23日(祝)朝刊】

保坂邸(五十川長屋)古井戸遺物記録

 

2021年2月17日水曜日

210217今川氏最後の居城王子城(函南塚本王子)広田和衛

210217今川氏最後の居城八王子城(函南塚本王子)広田和衛

函南町塚本の広田和衛さん(78)の自宅で、明治18(1885)年に田方郡塚本村が公文書として残した「村誌」が見つかった。

 



函南西端に城跡の記述

 今川氏真の寝小屋か

明治期の「村誌」発見

 函南町塚本の広田和衛さん(78)の自宅で、明治18(1885)年に田方郡塚本村が公文書として残した「村誌」が見つかった。村の西端に城跡の存在を示す記述があり、戦国期の武将今川家最後の当主今川氏真(15381615)が治めた大平古城の一部だった可能性もあるという。静岡古城研究会の水野茂名誉会長(76)は『今後の調査につながる貴重な史料」と期待する。

 村誌では「城跡 当村西端ニアリ字新城ト云()フ」と記述されている。場所は同町塚本の西側に位置し、現在は伊豆ゲートウエイ函南やめんたいパークなどの観光施設が並ぶ地域。広田さんによると、氏真が治めた大平古城跡からは尾根伝いに道がつながり「戦のない平時に氏真が寝小屋の館として利用していたのではないか」と推測する。

 1560年に桶狭間の戦いで当主の義元が織田家に討ち取られた後、敗走する氏真は北条家にかくまわれて大平古城に入った。82年には武田家の攻撃を籠城で防ぎきったとされるが、その後は当地にとどまったか離れたかは不明。ただ、大平古城は戦向きだが生活するには狭く、近くに生活用の寝小屋があったとされる。水野名誉会長は「村誌が示す城に氏真がいたかは分からないが、可能性は考えられる」という。広田さんの祖先は江戸時代の初期に現在の函南町に移り住み、村誌が記された明治18年には役場の戸長を務めていた。広田さんは歴史の教諭だった父がら、塚本地区にかつて城や空堀があったことを伝へ聞いていたという。今年5月に広田さんの倉から村誌が発見され、「父の話とつながった。地元の歴史が、一つ解明された」と喜んでいる。

(三島支局・金野真仁)

【静新 令和2(2020)813(木曜日)夕刊】

2021年2月9日火曜日

中央公園名称変更お願い 平成30年10月15日(月) 沼津史談会会員 長谷川 徹

 



中央公園名称変更お願い

 

「沼津兵学校書生寮公園」又「沼津城址公園」又「沼津城本丸跡公園」に

 

平成31年1月20日(日)に市民文化センター小ホールにて「沼津兵学校創立150周年記念式典」が開催されます。式典は、宗家第18代徳川恒孝さんをお招きして行われます、又、多くの兵学校關係者の御子孫方も出席予定されております。この機会に中央公園の名称を変えよう。

さて、皆さん、今の中央公園の土地は150年前、水野沼津城の本丸跡に沼津兵学校書生寮が建てられ、全国の他藩から沼津兵学校に留学するため來沼した藩士達が学生生活していた建物がありました。

50年前、昭和43728日号に大野虎雄氏(軍事俗務方頭取介大野寛一孫)が「言いたいほうだい」『今となっては沼津城のおもかげを偲ぶ何物も存在せず、・・・唯一の残された方法は目下市が沼津城本丸址に建設中のいわいる中央公園の名称も小田原等の例にならって「城址公園」と改め・・・』と提言されております。

沼津第一地校区と第二校区の皆さんが名称変更請願の書名約二千筆を故大沼市長に、署名約一千筆を頼重市長にお渡し、50年前の大野虎雄氏の願いをかなえていただけたいと面会いたしまし。

市民の皆様、中央公園では沼津の町の歴史文化を伝えることは出来ません。150年前、日本一優秀な教授や学生が集まり、総合大學的町だったのです。そうです、沼津は。

その歴史文化を端的に表現出来るのが「沼津城址公園」又は「沼津兵学校書生寮公園」なのです。

他都市では公園名称変更はかなりありますし、国の管轄役所では、市民(市長)が公園名称変更申請書(書類)を提出してくれれば当然受理するとの事です、市民の皆様、大きな声をあげましょう。

 頼重市長、役所内手続きが難しいかとおもいますが、市民の声を重く受けて頂きたい。

平成301015()

沼津史談会会員 長谷川 徹

 


210209アーカイブス別所彦四郎屋敷井戸探検平成29年10月19日作品as