2016年2月28日日曜日

第3回高尾山古墳・道路整備両立協議会終わる


第3回高尾山古墳・道路整備両立協議会
平成28年2月2日(火)10:00~12:00
プラザヴェルデ401会議室
最終協議会が開催された。

6案提出、尚、学者3名B案を推薦して会議が終わる。





古墳北にT字交差点検討
沼津高尾山
道路と両立市長意向

都市計画道路「沼津南一色線」の建設予定地にある3世紀前半築造とみられる前方後方墳「高尾山古墳」(沼津市東熊堂)の現状保存と道路建設の両立策について、栗原裕康沼津市長は2日、古墳の北側に丁字交差点を設け、西側に4車線の道路を造る案を検討する意向を明らかにした。
同案は、沼津市が同日、市内で開いた有識者を交えた協議会(議長・大橋洋一学習院大法科入学院法務研究科長)の最終会合(第3回)で、大橋議長ら3人の学識経験者が実現可能性が高い案として推奨した。
渋滞や事故の防止策を講じる必要はあるものの、事業費が約5億円と市が示した全9案の中で最も少ない上、建物補償が3件と比較的少ないことを理由に挙げた。古墳の保存後に史跡として活用しやすいことも重視した。
栗原市長は協議会終了後、「推奨をもらったので、そこから取りかかるのが筋」と語った。昨年6月に市議会が可決した一般会計補正予算に盛り込んだ墳丘の取り壊しを前提にした古墳の調査費5100万円は来年度に繰り越すと述べた。今後、両立策の財源を確保するため、ふるさと納税や寄付金を募る考えも示した。
【静新平成28年2月3日(水)朝刊】

有識者3委員がT字路線案
高尾山古墳と計画道路両立協議会

「高尾山古墳保存と都市計画道路(沼津南一色線)整備の両立に関する協議会」の最終回となる第3回会合が二日、プラサヴェルデ会議室で開かれた。今回は、古墳迂回道路の再御設計案についての詳細な検討が行われ、委員五人のうち有識者委員三氏連名という形で「T字路四車線」案が推奨された。栗原裕康市長は協議会後、同案採用への強い意欲を表明した。
副知事の頑強な異論も
栗原市長は賛意を見せる
三氏連名で推奨された「T字路四車線」案は、上下四車線一体で古墳を迂回して沼津南一色線を開通させるために庫角のカーブを設けるというもので、カーブ部分が一T字型の交差点となる。国道一号と国道二四六号を結ぶ沼津南一色線が〃「〃形でカーブし、そこに北側から在来の市道一六七二号線が交わる。
この案は、朝夕の通勤ラッシュ時における交差点付近での渋滞発生や、交差点を曲がりきれない車両による事故発生などの可能性が指摘される一方、事業費が約五億円で諸案の中では最少であること、古墳と隣接神社が史跡回遊エリアとして活用可能になることなどの利点が挙げられ、有識者委員の評価を受けた。
ただし、整備事業のためには約一、四〇〇平方㍍の土地取得が必要で、三件の建物が立ち退きによる補償の対象となり、そのうち一件は再補償。
T字路案以外にはS字力ーブによる道路迂回案、トンネル案、これらを組み合わせた案など八案が市側から提示されていた。
他案については、トンネル案は、上下四車線を全てトンネル化した場台は事業費が五十億円を超えて高額となること、S字力ーブ案は建物補償が十件(うち再補償五件)となり近隣住民への負担が過大であることなどがそれぞれ非現実的と見なされた。
協議会には、大橋洋一委員(学習院大学法科大学院法務研究科長)、久保田尚委員(埼玉大学六学院理工学研究科教授)、矢野和之委員(文化財保存計画協会代表取締役、日本イコモス国内委員会事務局長)の有識者三氏と県幹部の難波喬司委員(副知事)、杉山行由委員(県教育次長)が出席。議長は、これまでと同様、大橋委員が務めた。
また、国土交通省街路交通施設課長の神田昌幸氏と、文化庁主任文化財調査官の禰宜田佳男氏がアドバイサーとして同席した。
今回の協議会終盤、大橋議長は協議会全体の結論としてT字路案を推すことで委員各氏の合意を取り付けようとしたが、難波委員が「判断は市長が行うことになっている。この場で判断のようなものを下すべきではない」などと頑強に異を唱えたため、大橋議長、久保田委員、矢野委員の三委員による推奨という形になった。
大橋議長は競技会終了後、報道各社への会見に応じ、「沼津市からは情報が洗いざらい出てきたので驚いた。今回はシナリオなしのぶっつけ本番で議論を進めた。市民に情報を公開しながら進めてきたので、(公共事業のあり方としては)画期的なモデルケースとなるのではないか」と話した。
票原裕康市長も会見に応じ、推奨案に対しては「この案から考えていきたい。誰が見てもそうだろう。五億円というのは決して安いとは言えないが、この案から取り掛かるのが基本だ」とした。
さらに、今後の課題については、都市計画決定の変更手続きや、委員からも指摘されたT字交差点実現のための県公安委員会との協議などがあることを示しながら、条件が整えば推奨案を「一気呵成に進めたい」「早ければ早い方がいい」との考え方を示した。
道路整備事業費に必要とされる五億円のうち、半分は国土交通省などからの補助金が使用されるため、市の負担は約二・五億円となるが、今後の史跡整備などに追加投資も必要となる。
財政面の問題について市長は、「(高尾山古墳には)多くの関心が寄せられた。沼津の一つの宝として、その整備のために、ふるさと納税によつで市内外から広く寄付を集めることを真剣に考えたい」と語った。
【沼朝平成28年2月3日(水)号】

古墳保存へ道路迂回
静岡・沼津 取り壊し免れる
都市計画道路の建設で取り壊される予定だった高尾山古墳(静岡県沼津市)の現地保存と道路の両立を検討していた同市の有識者協議会(議長=大橋洋一・学習院大法科大学院法務研究科長)は2日、古墳を迂回(うかい)する道路案を栗原裕康市長に提示した。栗原市長は協議会の結論を尊重する姿勢を示しており古墳の現地保存が確定した。
日本考古学協会が昨年5月25日、保存を求める会長声明を発表したが、市は同日、取り壊しを発表。保存運動が起き、栗原市長は8月6日に白紙撤回を表明し、協議会に代替案の検討を委ねた。
協議会はこの日、六つの迂回道路案を提示した。このうち、委員5人中3人が丁字交差点を新設して道路を全て古墳西側に迂回させる案を推した。ほかの委員からも異論はなかったが、道路建設は県公安委員会との協議が必要なため、絞り込みは避けた。他の5案も上下線分離やトンネルで古墳を避ける内容だ。市は県公安委と協議後、県と協議して都市計画決定を変更し、迂回道路建設を進める。「高尾山古墳を守る市民の会」の杉山治孝代表は「市民の力が委員に通じた」と喜んだ。【石川宏】
高尾山古墳
静岡県沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)にある前方後方墳。墳丘は全長62㍍、全幅推定34㍍。230~250年ころ築造と推定される。国史跡の弘法山古墳(長野県松本市)と並び、この時代では東日本最大級。1961年に計画決定された都市計画道路建設に伴う発掘調査(2005~09年)で古墳と判明した。
【毎日新聞平成28年2月3日(水)地方版】

沼津・高尾山古墳保存へ道路計画案
◆西側に迂回「丁字路4車線」

高尾山古墳保存と道路両立を考える協議会の最終会合=2日、沼津市大手町のプラサヴェルデで
写真
東日本最古級とされる高尾山古墳(沼津市東熊堂(くまんどう))の保存と都市計画道路の整備の両立を考える沼津市の協議会(議長・大橋洋一学習院大大学院教授)の最終会合が二日、市内であった。委員からは、古墳西側に丁字路交差点を設けて迂回(うかい)するルートの事業費が最小の上、実現可能性が高いと評価する意見が多く、市はこの案で古墳保存と道路整備を始める方針を示した。栗原裕康市長が「できるだけ早く」結論を出す。

協議会はこの日、昨年十一月の前回会合で市が示したトンネルや迂回ルート九案を、交通機能や事業費の観点から検討。多くの委員が「西側丁字路四車線」案を推した。事業費が五億円と最小で、古墳と神社一体での保存が可能であり、見学用歩道も整備しやすいなどの長所があるためだ。

ただ、「県の認可がおりない場合もあり、一案に絞るべきではない」との意見も出たことから、立ち退きを求める建物の再補償などの課題が少ない六案を候補と結論付けた。



会合後、栗原市長は西側丁字路四車線案について「まずこの案から取り掛かる」と述べた。都市計画の変更や信号設置の可否などについて県や県公安委員会との協議を始めるとした。

傍聴した古墳保存派の学者や市民からは、丁字路四車線案に賛成する声が上がった。日本考古学協会理事の篠原和大(かずひろ)静岡大教授は「古墳がしっかり利活用できる案。実現できるよう努力してほしい」と話した。高尾山古墳を守る市民の会代表の杉山治孝さん(82)は「古墳が残ったあとの活用にも配慮されていて良かった」と評価した
【東京新聞webニュース平成28年2月3日(水)】


公式議事録

2016年2月25日木曜日

御成橋の歴史振り返る 郷土史研究家の医師、仙石規さん

御成橋の歴史振り返る
 郷土史研究家の医師、仙石規さん
 NPO法人海風47は、沼津の歴史を学ぶ「沼津あれこれ塾」を十三日、市立図書館四階講座室で開き、郷土史家で医師の仙石規さんが御成橋をテーマに講演した。
 沼津あれこれ塾で講演
 手持ちの史料公開しながら
 仙石さんは昭和三十一年生まれ。御成橋近くの市場町で育ち、原に耳鼻科の「はら仙石医院」を開いて、診療にあたるとともに、郷土史研究家としてインターネットオークションなども活用しながら沼津市に関する史料を収集している。
 特に愛着のある御成橋の研究に力を注ぎ、御成橋をテーマにした著書に『時を駆けた橋ー井上靖も愛した沼津御成橋の謎』『沼津御成橋未解決事件』『沼津御成橋河童怪事件』がある。
 仙石さんが御成橋について講演するのは三年ぶり七回目。明治九年に狩野川に初めて架けられた木製の橋「港橋」の完成から、御成橋の歴史を振り返った。
 港橋は、和田伝太郎さんと原大平さんの二人が中心となって有志約百人から資金を集めて架けられ、通行料金を徴収していたが、洪水で流失、落橋を繰り返し、その都度、架け直され、明治三十一年に沼津町と楊原村に寄付されて無賃になった。
 三十八年にはレンガ積み橋脚で架橋し、四十五年、県東部初となる鉄橋に改築。大正天皇が皇太子時代に沼津によく来ていたことなどから、大正元年に「御成橋」と命名された。
 昭和九年から三年間かけて御成橋の改築工事が行われ、一二年に現在の二代目御成橋が完成し、「軍国主義の道を進む日本にあって、ギリギリで完成が間にあった」と仙石さん。
 太平洋戦争中の二十年に、爆撃で吹き飛ばされた建物の瓦礫が御成橋に当たって出来た傷跡は今も残り、仙石さんも協力して案内板が同所に設置されている。
 仙石さんは二代目御成橋の開通式など、報道写真として出版された貴重な絵葉書や当時の風景写真を見せながら解説し、御成橋に関する様々な情報を歴史に交えて紹介。
 昭和三十六年に撮影されて明治史料館に保存されている御成橋の上を車が通過する写真を示し、「この車に乗っていたのは私達家族。父親が運転し、姉がオープンカーに立って上から顔を出している」という偶然撮られたエピソードを話した。
 また、御成橋西側で狩野川右岸沿道に下りる石段は「明治四十五年に初代御成橋が完成した当時からある。この石段を保存して後世に残してほしい」と願った。
 講演後には、御成橋竣工を記念した特製の消印が押された郵便はがきをはじめ、絵はがきや写真など御成橋に関する史料を公開。参加者達は史料を手にし当時を偲んだ。
【沼朝平成28年2月25日(木)号】

2016年2月24日水曜日

歴民講座「徳川家康の沼津支配」資料画像

2016年1月30日徳川家康の沼津支配









徳川家康の沼津支配
 三枚橋城代松井忠次を通じて〈上〉
 市歴史民俗資料館による「歴民講座」が先月、市立図書館視聴覚ホールで
開かれ、歴史学者の芝裕之氏が「徳川家康の沼津支配三枚橋城代松井忠次を通じて」と題し、戦国時代最末期に三枚橋城に駐在した武将松井忠次(一五二一~一五八三)と戦国沼津の様子について話した。約二百人の来場者があり、会場は満員となった。芝氏よる講演を二回にわたって掲載する。
 まず戦国沼津を概観
 市歴史民俗資料館歴民講座
 東洋大学非常勤講師で千葉県文書館嘱託でもある芝氏は、徳川家康の家臣団などについて研究している。徳川家臣が、どのように領地を支配したかという研究を行い、その中で松井忠次について調べていたという。
 戦国沼津 講演を始めるにあたり、芝氏は戦国時代後期の沼津の情勢について解説した。
 永禄十一年(一五六八)以降の武田信玄による駿河侵攻により、沼津を含む駿河国一帯は今川領から武田領となっていた。
 今川時代、駿河東部の河東二郡(駿東郡と富士郡で構成される地域)は、葛山(かつらやま)氏という国衆(*)が治めていた。今川氏に従っていた葛山氏は武田氏にも従う姿勢を見せていたが、信玄は最終的に葛山氏から河東二郡を取り上げた。
 信玄は代理人となる家臣を派遣して河東二郡の管理を行わせることにしていて、興国寺城の城代が行政を担当した。過去の歴民講座で取り上げられた曽根昌世(そね・まさただ)も歴代城代の一人。
 当時、伊豆国は関東の有力戦国大名である北条氏の勢力範囲に含まれていた。「駿豆の境」とも呼ばれた沼津は、古来より関東地方への玄関口として交通や流通の重要地点となっていたが、武田氏と北条氏との対立により軍事的にも重要な場所となっていた。河東二郡を治める役所となる城が沼津にあったのは、こうした理由によるものだという。
 城主・城代・城将 城にいる武士達のトップを何と呼ぶか。歴史学では三つの専門用語で呼び分けている。
 城とその周辺の領土を所有する者は「城主」と呼ばれる。
 主君に命じられて城に赴任し、城周辺の主君が所有する領土の行政管理を任された者は「城代」。
 城に赴任し、城の防衛や維持管理は担当するが、行政には関与しない者は「城将」となる。
 このため、河東二郡の行政担当者として沼津に派遣された曽根昌世や松井忠次は、歴史用語では「城代」に分類される。
 松井忠次と松平康親 
忠次は、通説では「松平康親」と呼ばれ、『沼津市史』にも松平康親として登場する。
 江戸時代になってから編纂された系譜などによると、忠次は永禄七年(一五六四)の東条城(愛知県西尾市)の戦いで活躍した褒美として、家康の実家の姓である「松平」姓を名乗ることを認められた。
 そして天正三年(一五七五)には、諏訪原城
(島田市)の戦いで活躍した褒美として家康から「康」の宇を与えられて「康親」と名乗ったとされている。
 しかし、当時の古文書史料によると、忠次は諏訪原城の戦いの後に「松平」姓を名乗っていて、「康親」へと改名した証拠は見つかっていない。忠次が署名した文害や忠次宛ての沓状などが現在も残っていて、その中には天正四年以後の「松井」姓による署名の入ったものが含まれているが、「康親」名義のものは見つかっていないという
 ただ、忠次の息子は天正十「年(一五八三)に元服した際に家康から「康」を与えられて「康次」と名乗っていた。芝氏は、忠次が「康親」と名乗ったという伝承について、息子の出来事と混同して生まれたのではないか、と推測している。
 松井氏と松平氏
 松井忠次の実家である松井氏は、家康の先祖達に仕える武士の家柄だった。
 徳川家康は何度も改名していて、元々は松平姓だったが、松平氏には多くの一族がいて、様々な分家があった。
 そうした分家の一つに東条松平氏があり、忠の姉妹が東条松平氏に嫁いだことから、両者は親戚の間柄でもあった。
 家康が駿河の今川氏に従っていた時代の天文二十年(一五五一')、東条松平氏が今川民を裏切って尾張(愛知県西部)の織田氏と手を結ぶという事件があり、忠次は裏切りを今川義元に通報することで事件の解決に貢献した。その活躍を認めた義元は、忠次を松平本家から東条松平氏に出向させた。
 東条松平氏の家臣となった忠次は、同氏の度重なる混乱収拾に尽力し、幼少の当主(後の東条松平家忠)の名代(後見人)としての地位を認められるようになる。
 永禄三年(一五六〇)、今川義元が桶狭間の戦いで戦死し、今川氏の勢力が弱まると、家康は独立を果たした。東条松平氏と忠次も家康を支持し、忠次の名代としての地位はこれまで通りに認められた。
 (*)ミニ大名のような存在で、自分の領地や城を持っていた。多くは有享大名の支配下に軍事などの面で協力した。(以下、次号)
【沼朝平成28年2月23日(火)号】

 三枚橋城代松井忠次を通じて〈下〉
 諏訪原城と忠次 桶狭間の戦いで今川義元が急死したことにより、それまで今川氏に従っていた徳川家康は、念願の独立を果たした。
 しかし、当時の三河国には依然として今川氏を支持する勢力もあった。東条城を本拠地とする吉良(きら)氏も今川派で、忠次は吉良氏との戦いに従事した。この吉良氏は「忠臣蔵」に登場する吉良上野介の先祖に当たる。
 最終的に吉良氏は降伏し、松井忠次は家康によって東条城の城代に任命された。忠次は城近くに領地をもらいつつ、自分の領地以外の土地の代官にも任命され、家康に代わって管理を行った。
 駿河国と遠江国の二国を支配していた今川氏は急速に衰退した。遠江国は家康に奪われ、駿河国は武田信玄のものとなった。これ以後、徳川氏と武田氏は国境を接する仲となり、領土を巡って戦いが続くことになる。
 現在の島田市にあった諏訪原城は、遠江進出の拠点として武田氏によって築かれた城だったが、天正三年(一五七五)八月に徳川軍が占領した。この戦いの中で、大きな活躍をしたのが忠次だった。
 諏訪原城の戦いは、武田軍が織田徳川連合軍に大敗した長篠の合戦の直後に起こった。それまで武田氏相手に不利な戦いを強いられていた徳川氏にとって、同城の占領は武田氏に対する反撃の第一歩であり、家康の人生にとっても重要な戦いだった。
 この戦いでの活躍の褒美として忠次が「松平」姓を与えられたのは、家康が勝利をとても喜んだからだという。忠次の一族は、他の松平氏と区別するため「松井松平氏」とも呼ばれる。
 この戦いの後、諏訪原城は牧野城と改名され(*)、今川義元の子の氏真(うじざね)が入城した。家康は信玄によって駿府から追われた氏真を保護していて、氏真のために武田氏を攻めるという大義名分を得ていた。
 この時、忠次は家康によって牧野城の城将に任命され、氏真を補佐して税金徴収や武田から徳川に寝返った者の管理などを担当した。
 三枚橋城へ 織田軍の侵攻によって天正十年(一五八二)三月に武田氏が滅亡すると、織田信長は家康が駿河国を領有することを認めた。
 そして、家康は忠次を河東二郡(富士郡、駿東郡)の「郡代」に任命し、三枚橋城に駐在させた。この郡代就任により、現代の歴史学者は忠次の立場を「三枚橋城代」と呼ぶ。
 郡代とは行政担当者を指す言葉で、忠次は二郡における徳川家領地の管理と税金徴収、交通や流通の管理、戦略物資でもある竹木の伐採取り締まりなどの業務に従事していたという。
 さらに、同年中に信長が本能寺の変で急死し、旧武田領を巡って争いが起こると、忠次は駿河に侵攻する小田原の北条氏の軍勢を現在の清水町徳倉や三島市で迎え撃っている。
 その翌年の天正十一年(一五八三)六月、忠次は死去し、息子の康次(後に康重と改名)が跡を継いだ。
 その後の松井松平氏 忠次は東条松平氏当主の補佐役という立場にあった。
 東条松平氏は当主の家忠が天正九年(一五八一)に死去し、家康の四男(後の松平忠吉)が跡を継いだ。それまで忠次は東条松平氏当主と行動を共にしていたが、忠吉は幼少であったため、三枚橋城ではなく家康と共に駿府城で暮らしていたと見られる。
 天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の天下統一に伴って徳川氏が東海地方から関東地方へ移転させられると、忠吉は武蔵国北部の忍(おし・埼玉県行田市)に移った。忠次の子の康重は、その隣の騎西(きさい・同県加須市)に移った。
 その後、関ヶ原の合戦を経て家康が天下人になると、合戦で活躍した忠吉は尾張国(愛知県西部)を丸ごと支配する大大名へと出世した。しかし、慶長十二年(一六〇七)に跡継ぎのないまま死去し、東条松平氏は断絶。尾張国は忠吉の弟に与えられ、徳川御三家の一つである尾張藩となり幕末まで続く。
 康重は、常陸国笠間(茨城県笠間市)、丹波国篠山(兵庫県篠山市)、和泉国岸和田(大阪府岸和田市)と相次いで領地が移った。その後、子孫は石見国浜田(島根県浜田市)に移された。これらの土地は徳川家に敵対的と見られた外様大名の領地に隣接する地であり、その見張り役を期待されてのことであった。幕末には、江戸を守るために武蔵国河越(埼玉県川越市)に移されている。
 国境警備の専門家 講師の芝裕之氏は、松井忠次とその一族は国境防衛のプロと見なされていたと指摘する。
 諏訪原城(牧野城)で武田領との国境警備を担当した忠次達は、徳川領が東に拡大すると、そのまま東方国境の担当者として沼津三枚橋城に配置された。
 三枚橋城での忠次は、家康の代理人として駿河東部の行政を担当した。この立場について芝氏は、今川時代や武田時代の制度に由来するものだろうと見ている。
 今川氏が駿河東部を支配していた時代は、現在の裾野市を本拠とする国衆の葛山氏が今川氏に従いながら駿河東部を治めていた。
 武田氏が駿河策部を占領すると、最終的に葛山氏は追い出され、代わりに武田家臣が興国寺城に城代として派遣され、信玄の代理として行政を担当した。
 忠次が家康の代理とて駿河東部の行政を担当したのは、こうした歴史的経緯によるものだという。
 講演の最後に芝氏は、徳川家康による沼津支配の本質について、東方警備の専門家である松井松平氏の存在と、河東二郡(駿河東部)の独特の支配体制が組み合わさったものである、とまとめた。
 そして、江戸時代を通して国境防衛のプロと見なされていた松井松平氏の出発点となった場所こそ、沼津であるとも話した。
 (*)「牧野(まきの)城」という名称は、古代中国の故事から採用されたという。周王朝が殷王朝を滅ぼした一大決戦に「牧野(ぼくや)の戦い」というものがあり、兵力に劣る周軍が七十万の殷軍を打ち破ったとされる。
 織田信長も、周王朝の故事を元にしている。周王朝発祥の地に「岐山(きざん)」という山があり、縁起の良い地名として知られていた。信長は美濃国の稲葉山城を占領すると、「岐阜城」と改名し自分の居城とした。
【沼朝平成28年2月24日(水)号】

あさが来た 浜悠人

あさが来た 浜悠人

 寒い冬、今朝もテレビからはリズミカルな"朝の空を見上げて今日と言う一日が笑顔で暮らせるようにそっとお願いした時に雨が降って涙も溢れるけど 思い通りにならない日は明日がんばろう"のメロディーが流れてくる。NHKの連続テレビ小説「あさが来た」のテーマソング「365日の紙飛行機」の出だしだと知った。
 ストーリーのヒロイン、白岡あさのモデルは広岡浅子で、京都の出水三井家に生まれ十七歳の時に大阪の豪商、加島屋に嫁ぎ、明治維新を迎え、加島屋が危機に瀕するや、二十歳の浅子は女子(おなご)ながら、その経営の建て直しに凄腕を振るった。
 九州の炭鉱事業ではピストルを懐にヤマの男達と渡り合い、また、保険事業では大同生命保険の設立にかかわり、一方、日本女子大学の創設にも力を尽くしている。
 テレビ放映のこれからの進展が楽しみだが、彼女の履歴から二、三ピックアップし紹介する。
 一九〇一(明治三十四)年、五十三歳の浅子は実家三井家から東京目白の土地五千五百坪の提供申し出により、女子大開設の話は一気に具体化し、同年四月二十日、校長成瀬仁蔵、教職員五十三人、生徒五百十人をもって日本初の女子大、日本女子大学校は開講の運びとなった。
 〇四(明治三十七)年、浅子の夫、広岡信五郎が亡くなり、娘、千代(本名、広岡亀子)の婿、広岡恵三に家督を譲り、浅子は、それまで活躍していた実業界の第一線から退いた。
 二(同四十四)年、浅子は成瀬仁蔵の教会仲
間である大阪教会の宮川経輝牧師と出会い、六十三歳でキリスト教の洗礼を受けた。
 一四(大正三)年、浅子は御殿場二の岡で日本女子大学の学生を中心とした夏期勉強会を主催している。参加者の中には、市川房江(婦人運動家、政治家)、井上秀(日本女子大初の女性校長)、小橋三四子(読売新聞勤務、女性初ジャーナリスト)、村岡花子(児童文学者、『赤毛のアン』翻訳者)など、彼女らの若き日の姿があった。
 一五(同四)年、東山荘設立に当たり、当時景気も悪く、募金は思うように集まらなかったが、浅子の奔走により、三井男爵、岩崎男爵ら財閥から、また、浅子自身も多額の寄付を寄せたので御殿場二の岡に東山荘の開荘が成った。
 一九(同八)年、浅子死去。享年七十一歳。浅子の人生訓としていた「九転十起生」は彼女のペンネームでもあるが、「人が七転び八起きというなら自分は九回転んでも十回起き上がる人間になろう」という不撓不屈の精神をモットーとしたものである。
 また、次のような言葉も残している。
 「私は遺言はしない。常日頃、言う事が皆遺言である」
 ところで、御殿場市東山、YMCA東山荘本館展示場で広岡浅子展(入場無料)が三月六日まで開かれている。見学をお勧めする。
 (歌人、下一丁田)
【沼朝平成28年2月24日(水)投稿文】

2016年2月12日金曜日

沼津御用邸記念公園 国指定名勝へ市動く

沼津御用邸記念公園 国指定名勝へ市動く
 文化庁に意見具申 16年度前半見通す
 沼津市は、1893年に造営された沼津御用邸を起源とする沼津御用邸記念公園の名勝指定に向けた作業に入った。既に県を通じて公園の概要を記した意見具申書を文化庁に提出した。同庁の文化審議会の答申が得られれば、県内では1959年の「日本平」以来の国指定名勝となる。
 名称は「沼津御用邸苑地(えんち)」。03年に昭和天皇の学間所として建てられた東付属邸や、昭和天皇のかつての御用邸で22年に現在の形になった西付属邸、厩舎(きゅうしゃ)などの建物を含む。散策を楽しむ人が集うなど、御用邸と周辺は沼津を代表する観光、文化スポットとなっている。
 指定を日指すのは、石塀で囲まれたエリアを中心にした面積約9・5㌶の園地。クロマツなど約5千本の樹木が植わっている。市は2015年6~11月に同公園の調査を行った。宮内庁資料の写しを基に、御用邸が設置された明治時代から大正時代までの建物配置の変遷などを調べた。
 16年度前半の指定を見通し、市は16年度当初予算案に展示リニューアルを検討する費用も盛り込んだ。
 同公園は、1969年に旧大蔵省から沼津市に無償貸与された園地と建物を活用して70年に開園した。建物は飲食施設やギャラリーとして利用している。年間来場者数は、西付属邸改修後の1997年度の約29万人がピークで、2014年度は約18万人。
 市緑地公園課の担当者は「指定されれば、来園者が少ない夏冬のにぎわい増につながる可能性がある」と期待する。
※ 国指定名勝芸術上、鑑賞上の価値が高いとして国が指定した庭園や海浜、山岳など。特に重要なものは「特別名勝」に指定される。県内には1922年の「三保松原」以後、52年に待別名勝になった「富士山」を含め、10件が指定を受けている。
【静新平成28年2月12日(金)朝刊】

2016年2月7日日曜日

平成27年度第10回『沼津ふるさとづくり塾』

 平成28年1月17日(日)
平成27年度第10回『沼津ふるさとづくり塾』
1 沼津の関係者が作った島田のパラボラアンテナ 渡邉美和
1 上土朝日稲荷きつねの嫁入り行列 峯知美
1 沼津の商店街一戦後昭和史① 長谷川徹
会場 沼津市立図書館4階第1・2講座室
主催 沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)後援沼津市・同教育委員会

当日画像資料


会員ら発表リレー式に
 沼津史談会沼津ふるさとづくり塾
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)による第10回「沼津ふるさとづくり塾」が先月、市立図書館講座室で開かれ、会員や市民による発表が行われた。
 まず、渡邉美和さんは「沼津の関係者が作った島田のパラボラアンテナ」と題し、戦時中の沼津海軍工廠から見た戦後科学史について話した。
 旧海軍は、現在の島田市に研究施設を設置し、様々な技術開発に取り組んでいた。パラボラアンテナの研究も行われていて、直径一〇㍍級の大型アンテナも造られていた。このアンテナの加工が沼津海軍工廠で行われていたという。同工廠では、レーダーや無線機などの電波関連装置を製造していた。
 渡邉さんによると、戦後の我が国における電波望遠鏡の開発では、旧海軍の技術が元になった部分もあり、昭和二十八年(一九五三)に東京天文台に設置された一〇㍍電波望遠鏡のパラボラアンテナも、島田のアンテナがルーツとなった可能性もあるという。
 上土商店街つじ写真館の峯知美さんは、同商店街で取り組まれている「あげつち稲荷市」や、「きつねの嫁入り行列」について話した。
 あげつち稲荷市は毎月十五日開催の特別販売の行事で、地元や各地か取り寄せた名品を扱う。きつねの嫁入り行列は、毎年十月に開かれる、にぎわいづくりの行事で、新郎新婦だけでなく参列者全員が狐面を模したメークをして結婚式を行う。
 いずれも過去に途絶えていたのを平成の世に復活させたもので、稲荷市は平成二十一年、きつねの嫁入り行列は二十二年に再興された。
 峯さんは、きつねの嫁入り行列にメーク担当として関わっていて、「地域のイベントを通して、子ども達など多くの人が沼津を好きになり、沼津との結び付きを強めるきっかけになれば」と話した。

 上本通り商店街理事の長谷川徹さんは、「沼津の商店街 戦後昭和史ー焼け野原から逞しく立ち上がった沼津の商人たちー」と題して話した。
 長谷川さんは、平成二十五年の西武百貨店の閉店セレモニーを見たことがきっかけとなり、沼津の商店街の繁栄を記録して後世に伝えようと思い立ったという。以後は市立図書館で様々な資料を調べ続けている。
 長谷川さんにとっての「戦後昭和」とは昭和二十年八月十六日から平成三年四月までを指す。平成三年は新宿駅発の特急「あさぎり」の沼津駅への乗り入れが始まった年で、乗り入れ要望活動に携わった長谷川さんにとって印象深い出来事であるから、特に同年までを昭和と連続する時代と見なしたという。
 講演で長谷川さんは昭和二十年七月の沼津大空襲で焦土と化した市街地が復興していく様子を解説したのをはじめ、終戦の翌年に映画館の建設ラッシュが始まったことなどや、沼津のランドマーク的な存在だった施設や工場どの来歴等、様々な話題を年表順に話した。

 井口省吾や商店街の戦後史
 次回の沼津ふるさとづくり塾テーマ
沼津郷土史研究談話会による「沼津ふるさとづくり塾」の第11回講座は、二十日午後一時半から四時ごろまで市立図書館四階の視聴覚ホールで開かれる。会員二人による講演が行われる。
 弁護士で史談会会員の井口賢明さんは「陸軍大将井口省吾の足跡その3」と題し、明治期に活躍した大岡出身の陸軍軍人井口省書の生涯を日記類から読み解く。今年で三年目のロングラン講演。
 長谷川徹さんは「沼津の商店街戦後昭和史」の続編を話す。
 定員二百人(先着順)。
受講料は資料代として五百円。
 申し込みは、匂坂(さぎさか)副会長(電話〇九〇-七六八六-八六一二)。または、同会事務局(電話。FAX九二一-一四一一一)。
【沼朝平成28年2月7日(日)号】