2021年1月26日火曜日

210126アーカイブス長浜城北条水軍まつり平成27年5月24日作品リニアル

興国寺城 浜悠人 画像入り寄稿文

興国寺城 浜悠人

 昨春、城めぐりの一環として興国寺城跡を訪ねた。46日が「城の日」に当たり、記念の証(あかし)として「御城印(ごじょういん)」集めがブームとか、そんな若者を多く見かけた。

 興国寺城は「続日本百名城」の145番目で、県内には146番目の諏訪原城(島田市)147番目の高天神城(掛川市)148番目の浜松城がある。ちなみに「日本百名城」は、県内では40番目の山中城(三島市)41番目に駿府城、42番目に掛川城の三城が当たる。

 御城印集めの若者と一緒に本丸から急坂を上ると大土塁と伝天守台がある。ここから南に駿河湾が一望のもとにあり、天守台の北側には幅約30㍍、深さ約20㍍の巨大な空堀(からぼり)が城を守っていた。

 興国寺城主の変遷 興国寺城は戦国大名北条早雲(伊勢新九郎長氏)が長享2(1488)頃、初めて城主となった城で、彼の旗揚げの城としても有名。早雲は、はじめ駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていたが、義忠の急死後、今川家の相続争いを収めた功績により興国寺城を与えられ、その後、伊豆の国を治めていた堀越公方(くぼう、伊豆の堀越にあった足利幕府)の内紛に乗じて足利茶々丸を滅ぼして伊豆の領主となり、戦国大名へと成長した。そのため興国寺城は早雲旗揚げの城であり、出世城と呼ばれている。

 興国寺城は駿河、甲斐、伊豆の境目に位置していたため、その後、今川、武田、北条の争奪戦の渦中に置かれ、城主が目まぐるしく替わった。

 天文18(1549)、今川義元は小規模な構造の城であった興国寺城を普請し城地を拡大。永禄11(1568)、武田信玄が駿河に侵攻、北条氏政も駿河に進出して興国寺城を占領。翌年、氏政は垪和氏続(はが・うじっぐ)を城主に任命した。

 元亀2(1571)、北条氏と武田氏が和睦すると武田方の城となり、穴山梅雪が城主となった。

 天正10(1582)、織田、徳川連合軍が武田勝頼を攻め滅ぼし、徳川方の城となり、天正18(1590)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻め滅ぼし、徳川家康は関東に移封となり、秀吉の家臣、中村一氏の重臣、河毛重次が城主となった。

 慶長6(1601)、関ヶ原の戦いで家康率いる東軍が勝利、徳川氏重臣の天野康景が一万石の城主となった。康景は三河三奉行の一人で、公平な人格を持ち、「どちへんなしの三郎兵衛」と称された。

 慶長12(1607)、家来の足軽が、城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害する事件が起きた。これが天領(幕府直轄地)の農民であったことから康景と代官井出志摩守正次の争いになり、家康の側近、本多上野介正純は康景に足軽を差し出すよう勧めたが、康景は足軽をかばって城を棄て行方をくらましてしまった。

 このため康景は改易(所領没収)となり、興国寺城は廃城となった。その後、康景は相模国沼田村(現在の神奈川県南足柄市沼田)で没し、沼田の西念寺に墓がある。

 以上、戦国時代の興国寺城主の変遷をたどってみると、その儚さを痛感するのである。 (歌人、下一丁田)

【沼朝令和3126日(火)号寄稿文】


 

興国寺城 浜悠人

 


興国寺城 浜悠人

 昨春、城めぐりの一環として興国寺城跡を訪ねた。46日が「城の日」に当たり、記念の証(あかし)として「御城印(ごじょういん)」集めがブームとか、そんな若者を多く見かけた。

 興国寺城は「続日本百名城」の145番目で、県内には146番目の諏訪原城(島田市)147番目の高天神城(掛川市)148番目の浜松城がある。ちなみに「日本百名城」は、県内では40番目の山中城(三島市)41番目に駿府城、42番目に掛川城の三城が当たる。

 御城印集めの若者と一緒に本丸から急坂を上ると大土塁と伝天守台がある。ここから南に駿河湾が一望のもとにあり、天守台の北側には幅約30㍍、深さ約20㍍の巨大な空堀(からぼり)が城を守っていた。

 興国寺城主の変遷 興国寺城は戦国大名北条早雲(伊勢新九郎長氏)が長享2(1488)頃、初めて城主となった城で、彼の旗揚げの城としても有名。早雲は、はじめ駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていたが、義忠の急死後、今川家の相続争いを収めた功績により興国寺城を与えられ、その後、伊豆の国を治めていた堀越公方(くぼう、伊豆の堀越にあった足利幕府)の内紛に乗じて足利茶々丸を滅ぼして伊豆の領主となり、戦国大名へと成長した。そのため興国寺城は早雲旗揚げの城であり、出世城と呼ばれている。

 興国寺城は駿河、甲斐、伊豆の境目に位置していたため、その後、今川、武田、北条の争奪戦の渦中に置かれ、城主が目まぐるしく替わった。

 天文18(1549)、今川義元は小規模な構造の城であった興国寺城を普請し城地を拡大。永禄11(1568)、武田信玄が駿河に侵攻、北条氏政も駿河に進出して興国寺城を占領。翌年、氏政は垪和氏続(はが・うじっぐ)を城主に任命した。

 元亀2(1571)、北条氏と武田氏が和睦すると武田方の城となり、穴山梅雪が城主となった。

 天正10(1582)、織田、徳川連合軍が武田勝頼を攻め滅ぼし、徳川方の城となり、天正18(1590)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻め滅ぼし、徳川家康は関東に移封となり、秀吉の家臣、中村一氏の重臣、河毛重次が城主となった。

 慶長6(1601)、関ヶ原の戦いで家康率いる東軍が勝利、徳川氏重臣の天野康景が一万石の城主となった。康景は三河三奉行の一人で、公平な人格を持ち、「どちへんなしの三郎兵衛」と称された。

 慶長12(1607)、家来の足軽が、城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害する事件が起きた。これが天領(幕府直轄地)の農民であったことから康景と代官井出志摩守正次の争いになり、家康の側近、本多上野介正純は康景に足軽を差し出すよう勧めたが、康景は足軽をかばって城を棄て行方をくらましてしまった。

 このため康景は改易(所領没収)となり、興国寺城は廃城となった。その後、康景は相模国沼田村(現在の神奈川県南足柄市沼田)で没し、沼田の西念寺に墓がある。

 以上、戦国時代の興国寺城主の変遷をたどってみると、その儚さを痛感するのである。 (歌人、下一丁田)

【沼朝令和3126日(火)号寄稿文】




【NHK】空海 至寶和人生 空海揭秘唐代文化對日本深遠影響P1

2021年1月24日日曜日

匂坂信吾会長 33年前の写真

 平成元年9月 沼津・ルート246研究会 調査会スタート時の記念写真です。


                      ↑若い匂坂信吾会長

2021年1月18日月曜日

210118三浦環銅象設立運動③as

210118三浦環銅象設立運動as

令和二年度 歴民講座「水軍から見た戦国期の駿河湾と沼津」講師小川雄 資料

 

◆沼津ヒラキ物語⑧ 「干物加工と伝統技術」その3  加藤雅功

 

◆沼津ヒラキ物語⑧

「干物加工と伝統技術」その3  加藤雅功

 今から60年近く前のことである。日本社会が高度成長に向かう頃、昭和34年の体験から始めよう。

●ナライの風 祖父がよく「ナライの風だ。雨が吹き付けるから早く雨戸(あまど)をしめろ。」と言っていたことを思い出す。不思議なことに、すぐ南東側の雨戸に強く吹き掛ける風と雨音(あまおと)を聞いたのを覚えている。

 天日干しに頼っていた当時、同じことが、近くの「マルセ」の露木仙吉さんの口からも出た。地方や季節により風向きは異なるが、特定の方角から強く吹くナライ(東の風)であり、冷涼(れいりよう)な「ナライ風」は雨を伴うので、時には台風などの災害にも直結するため、その印象は強い。西の風の卓越(たくえつ)する冬季の「ナライ風」は別として、沼津地方で東風や一部の南風が吹く時は、一般的に天気が悪くなる傾向が指摘できる。「観天望気(かんてんぼうき)」の指標としての雲の例であるが、沼津本町(ほんちょう)(下河原(しもがわら)など)から見た場合、南東側に位置する「象山(ぞうやま)(徳倉山)」の鼻の付近、「横山(よこやま)」の南側の小山方向に「霧が垂(た)れ込んだならば、風が強くなり、やがて雨が降り出す」傾向が強い。つまり天気が崩(くず)れる予兆(よちょう)を経験的に把握していた、先人の知恵である。この仙吉さんからの伝授話は「ヤマ中(なか)」の田代和豊さんから聞いた内容である。突然の降雨に対して、すぐに干し場からセイロを下ろし、取り込み終わらなければ、出荷する干物の製品が全て台無(だいな)しになるため、この「ナライ風」と湧(わ)き立っ雲による天気の予想(経験則)の「観天望気」の伝授は大いに役立ったという。



●乾燥機の導入天候や季節にとらわれず、一年中干物製造が出来る「乾燥機」による機械乾燥は、昭和30年代半ばから開始された。ボイラーによる乾燥機導入の初期段階の際、燃料を石炭とした時に、吹き付ける

温風の火力は強かったが、期待に反して「余りにも石炭臭くて商品にならず」に終わり、投資効率面でも減価償却(げんかしょうかをく)できず、早々に重油やガスに転換している。そのことは、今でも笑い話のように語られている。沼津で機械乾燥が進むが、地元の干物業者が乾燥機の装置を工夫して、「沼津方式」の乾燥機が普及して久しい。現在「温風乾燥」は28℃で約1時間位だが、身が焼けてしまうので、弾力を手で確認して仕上げている。3035℃の温風で30100分乾燥させるのが主流だが、近年では身の表面をピンク色にするため、24℃位の低温の除湿乾燥をかける方法も増えている。本来「天日干し」が望ましいが、嗜好(しこう)面からは「好み」が分かれ、需要のあった昭和50年頃までやってい(しげ)たが、今や沼津では熱海の旅館に出すために、志下の業者が屋上で1軒やっている程度に過ぎない。

●沼津方式の「生干し」の登場 「和食」に秘められてきたカとして、その主役の魚は新鮮さが鍵となるが、魚を食べる上で刺身は最高の食べ方ではない。生(なま)が好きという人もいるが、刺身は歯応(はこた)えを楽しむものである。魚の食べ方といえば、「煮る、焼く、刺身」など、調理の多様な仕方の中で美味(おい)しさを追求すると、干物は生で食べるのとは違う「旨味(うまみ)」がある。干物には旨味が凝縮しており、「焼き魚」ゆえに乾燥させるため、魚を捌(さば)いた後、刺身に切り分ける、煮付けるのとは異なり、焼く前の下処理が不可欠である。そのまま干す風乾の「丸干し」、短時間塩水に漬ける「塩干し」、味付けした「醤油(しょうゆ)干し」や「味琳(みりん)干し」、さらに開いて処理した「開き干し(開乾) (ひらきぼし)」があり、そこで「干す」という調理法の実力が発揮される。

 今日のような輸送手段の変革や高速道路の整備以前は、新鮮な魚を干す際に、干物といえば「保存を利(き)かせる」ためカラカラに乾かす必要があり、「乾燥」とともに事前の「塩潰(しおつ)け」が不可欠ゆえ、干物は硬くてしょっぱいイメージが強い。新鮮な魚を干物にするのは確かに勿体(もったい)ない気もするが、あえて干すことで肉に弾力が富み、旨味が一層増し、滋味(じみ)、栄養のある食べ物となり、新たな可能性がそこに加わる。

★「余所(よそ)ではしょっぱかったりするが、塩分が程よく利いて美味しい。」「火に通すことによって、より一層美味しくなる。」「噛(か)めば噛むほど味が出て来る。」「肉厚で脂(あぶら)もしっかり乗っている。」「とにかく文句なく美味しい。」以上は、市内の焼き魚を扱う食堂で聞いたお客からの代表的な感想である。

 アジの干物の生産量が日本一を誇る沼津市ゆえに、これが「日本一の沼津の干物」という自負とともに、製造工程で機械化が進む中で、沼津では「ヒラキは全(ニだわ)

て職人の手で開く」ことに拘る。干物に仕上げる過程で素早(すばや)く開く職人の技も当然のことながら、急速冷凍で運ばれた新鮮なアジを代表に、さらにサバやカマス・タチウオ・キンメダイなど実に100種類近く、多種のヒラキが製造・加工されている。 今日流通しているヒラキの大半は、伝統的な従来型の「天日干し」ではなく、むしろ十分に干し上がって(ふっいく)

いない「生干し」で、イメージを大きく払拭する必要がある。そこには「沼津方式」として強化された新しい技術が生かされて定着し、沼津の地域に根付いている。そこでは市場の評判もまた良く、近年の客のニーズに迎合(げいこう)し過(す)ぎるやり方でもない、独特なスタンスでかっ各商店の特色さえも出せるメリットがある。沼津で編(あ)み出した独自の方式である「生干し」は、非常に画期的なものである。今の干物の主流は、一昔前とは全く違う処理、加工の仕方であり、水分が適度に残った状態となる。火に掛けて焼くと、外はパリっと、中はジューシーでふっくら、ふわふわとなる。それでいて旨味はしっかりしている。ただし乾燥は緩く、短時間しか干さないため、急速冷凍する。なお賞味期限は冷蔵で4日程度、冷凍で30日位である。

(沼津市歴史民俗資料館だより2020,12.25発行Vo1.45No.3(通巻228)編集・発行〒410-0822沼津市下香貫島郷2802-1沼津御用邸記念公園内沼津市歴史民俗資料館TEL O55-932-6206FAXO55-934-2436

この絵葉書の写真は、口野の塩久津(くちのしおくつ)の海岸を写したもの

 

一枚の絵葉書から

 小型の写真機が広く普及し、個人でも手軽に写真を撮影して、記録として残せるようになる前は、特に風景などは絵葉轡として印刷されたものを購入することが一般的に行われていました。旅先では記念のお土産として買われることも多かったようです。それらには今では失われてしまった、かつてのこの地域の姿が記録されています。海岸の風景を写したその一枚を紹介します。

この絵葉書の写真は、口野の塩久津(くちのしおくつ)の海岸を写したもので、静浦村当時のものと見られます。絵葉書の名称は「古奈温泉名所・古奈海水浴場」とあります。海水浴が盛んになると、内浦三津には長岡館という海水浴旅館が建てられ、三津坂腿道(みとざかずいどう)を越えて長岡温泉の温泉客を誘客する施設として関係が深かったのに対抗して、古奈温泉が北江間(きたえま)の長塚(ながつか)との切通しを通り、口野の海岸を行楽地の一つとして紹介し、誘客していたものと思われます。

 右側には奥に大久保山の岬が、その手前にオオクラサンの岬と建切網漁(たちきりあみ)の御場(おんぼ)の網度場(あんどば)の入江の口が、そして海に向かって平坦な岩礁が延びています。地元で千畳敷と呼ばれる波食台(なみしよくだい)で、対岸のオオクラサンの先端には今も埋め立てられずに残っています。



中央の道路下には大きな岩があります。狩野川(かのがわ)放水路の出口に当たる御場の浜には笠石(かさいし)という大きな岩があったそうで、三島神社の絵馬などにも描かれていますが、それと同じ波食によって形成されたきのこ岩です。軟らかい凝灰岩(ぎょうかいがん)の一部に固いところがあり、そこが残されたものです。冬季の南西の強風による荒波(おらなみ)は江浦湾の最奥部である此処(ここ)にまともに当たります。

左側の道路は埋立地で、旧道と見られます。江戸時代に田方(たがた)地域の年貢米の津出(つだ)しに使われた塩久津の湊(みなと)は左側に深く湾入した入り江にありました。その面影(おもかげ)を残すように帆を備えた石材の運搬船が係留されています。

沼津市歴史民俗資料館だより

2020,12.25発行Vo1.45No.3(通巻228)

編集・発行〒410-0822沼津市下香貫島郷2802-1沼津御用邸記念公園内

2021年1月8日金曜日

日本初の鉄道 遺構を公開 東京・高輪築堤

 


日本初の鉄道 遺構を公開

東京・高輪築堤

 JR東日本は8日、1872年に日本で初めて鉄道が開業する際に造られ、東京都港区の高輪ゲートウェイ駅周辺で出土した「高輪築堤(ちくてい)」の遺構を報道陣に公開した。

 JR東や港区教育委員会によると、築堤は1870年着工で、現在の田町駅付近から品川駅付近の27㌔の間に造られた。幅は64㍍で、当時の錦絵には海上の築堤を走る蒸気機関車が描かれている。昨年7月、駅周辺の再開発工事中に発見。1㌔余りにわたって断続的に確認され、調査を進めている。

 公開された遺構は、斜面の下に石が整然と並んでいた。線路の下に船を通すための水路の跡もきれいに残り、付近は波消しのための材木が無数に突き出していた。

 JR東は築堤の映像を、10日午前10時から12日午後6時まで、ユーチューブで公開する。

【静新令和318日(金)夕刊】

鉄道開業時の構造物「高輪築堤」公開 東京湾へのレール敷設用

202118 1424

 

日本で初めて鉄道が開業した明治時代に、東京湾にレールを敷くために築かれた構造物が東京 港区で見つかり、JR東日本は、鉄道の歴史を伝えるための貴重な資料だとして保存や移築の方法について検討するとしています。

 

この構造物は、JR東日本などが進めている東京 港区の高輪ゲートウェイ駅の周辺の再開発工事などで、去年7月に地中から掘り出され見つかったもので8日、報道公開されました。

 

盛り土をして側面に石を積んだ構造で高さは4メートルほどあり、「高輪築堤」と呼ばれています。

 

JR東日本や港区の郷土歴史館などによりますと、明治5年に新橋と横浜の間で日本で初めて鉄道が開業した際、東京湾の海上にレールを敷くために築かれた長さ2.7キロあったうちの一部で、合わせておよそ770メートルあります。

埋め立てられる前は築堤を列車が走る姿が海の上を走っているように見えたということで、その様子を描いた色鮮やかな錦絵も多く残されています。

 

築堤のある場所は、2024年度末までに商業ビルなどを建てる予定になっています。

 

JR東日本の担当者は「築堤は明治初期の鉄道の歴史を後世に伝えるために大変意義深いものだと考えていて、有識者と連携して調査を行ったうえで一部保存や一部移築を検討したい」と話しています。