2012年10月16日火曜日

飽玉白珠比咩命神社


 飽玉白珠比咩命神社
 木負の鞄玉白珠比咩命神社は、その地区の氏神としてあがめられている。


 静岡県管下伊豆国君沢郡木負村赤崎〈書入「西浦村」〉
式内 村社 木負神社
 一祭神 鮑玉白珠比咩命
 合祀 御嶽神社
 祭神 大和国吉野蔵王社ニ同シト云
 一由緒 創立年月不詳延喜式神名帳ニ所載伊豆国田方郡鮑玉白玉比咩命神社是也中古ヨリ赤崎明神卜称ス明治六年九月村社ニ列ス同七年中同村上条ニ鎮座アリシ御嶽神社ヲ合併シ木負神社ト改称ス和名紗田方郡吉妾郷トアルハコノ辺ノ総称ナルヘシ赤崎ハ明崎ナリト云共ニ祭神ニ起因セシナルヘシ
 三島市の三島大社の妹神とも伝えられているが、江戸時代には「赤崎明神」という名称で知られたのが、明治以降に「木負神社」の社号をつけられてのちに、公式に「鮑玉白珠比咩命神社」の社号に改められたものであった。この神社のいわれについては、またその社前の石碑にも、


 ○鮑玉白珠比咩命神社碑

 伊豆国君沢郡木負村の北に赤埼といふ所あり。この所に神さびたてる御社あり。赤埼大神と称す。延喜式神名帳に載さえ給へる御社にて祭神は鮑玉白珠比咩命にませり。伊豆国神階帳に従四位上白玉の明神とあるもこの神にて三嶋大神に親しきみゆかりの神なりとなむ。かゝる尊き御社も乱世のまきれにうつもれ果てそれとたとる人もなきまてこそおとろへ給へりしか、明治とあらたまれる大御代のはしめ公よりしらへたたさしめ給ひてその故由を記しあけまつりしよりやゝやゝにその尊き事をもうかかひしりつつ敬ひまつる人なむ多くなれりける。そもそもこの神の御名を鮑玉白珠としもたたへまつれる所由は、国人萩原正平か伊豆国式社考証に神姿のことに麗はしくましますによりておふせまつれるなるへし、村名の木負を旧く吉妾とかきて和名抄にも見えたる御名なるを此吉妾すなはち与志豆麻とよみて白珠の麗しきにもとつきて起れる称と聞ゆるなとよしあれはなりといへるは従ふへき説なりけり。こを見ても此御社の鮑玉白珠比咩命にますといふ事のおほろけならぬをあかすへくなむ、こたひその縁由を名にしるして今の人にもしらしめ後のよよにも伝へまほしと氏子をはしめ遠近のまめひと等のおもひおこして、その文を予かもとにはるはるこひおこせたるまにまにききしれる説等を移しとりてかくものしつ
 明治十八年三月
 大社教管長従三位男爵千家尊福しるす

2012年10月5日金曜日

沼商県立九〇年 中野忠


沼商県立九〇年 中野忠
 沼津商業高校は、一八九九(明治三二)年四月に開校、今年一一三年になる。それが一九二二(大正一一)年四月、県に移管されて今年で九〇年。それまでは沼津町立で「沼津町立沼津商業学校」と称し、県への移管によって「静岡県立沼津商業学校」となった。
 この頃から校舎移転が、市内山神道から丸子町へ始まり、生徒募集も予科・本科制が廃され、尋常小学校六年卒業を入学資格とする五年制一貫体制の学校となった。
 翌一九二三年四月、丸子町全面移転も終わり、七月には、駿東郡沼津町が隣村の楊原村を併合して県下三番目の市へ沼津市となった。従って、沼商に市立沼商の時代はなかった。
 一九二五(大正一四)年四月、「陸軍現役将校配属令」により、陸軍現役の将校が各学校に配属され、教練が体操科目から独立して強化された。学校環境も整備された同年の秋には、校歌「駿河の入海…」を制定。
 昭和の不況期に入り、定員割れの学校が続出する中、沼商の入学難は続き、NCS三文字重ねの徽章に、二本の白線の帽子は、小学生憧れの的ともなっていた。以後、それも戦争の激化で、まず白線が廃されて帽子も戦闘帽に替わり、徽章も敵性文字追放から、漢字縦型の「沼商」と改められた。野球、篭球、庭球などの各部は敵性スポーツとして廃部させられた。
 一九四四(昭和一九)年四月、県内に静岡商業一校を残して、商業学校は工業学校に転換させられ、沼商は「静岡県立沼津第二工業学校」となった。この年一学期が終わると、三年生以上の学徒動労動員が始まり、四年五年は神奈川県の工場へ、三年は市内工場へ派遣されて軍需生産に携わった。秋からは、富士山目当てのB二九が昼夜、沼津の上空を飛び交うようになり、翌二〇年七月、沼津も大空襲に遭って焼土化した。
 やがて八月一五日に終戦。九月、授業が市内高田の仮校舎で始められた。学校も商業学校に復元した翌二二年、学制改革により生徒募集は中止、二三年、新制高校に昇格して「静岡県立沼津商業高等学校」と改称された。校舎も丸子町に二階建てで新築され、その後、生徒募集も再開された。
 二九年二月に新校歌「天に富士…」を制定。三一年四月から従来の商業教育を一新する、類型制導入による専門的商業教育が行われるようになり、今は、さらにそれを進めた小学科制による商業教育が定着している。
 沼商も隣町の清水町徳倉に移転して来年は四六年になる。丸子時代も四六年。学校は丸子時代の終わり頃から、ほどよい男女共学制となったが、今や女子生徒が大多数となり女子高化している。それに生徒数の減少で、どこの高校も学校振興に悩んでいる。「その名を誇る沼商」に一層の頑張りと成果ある教育の期待をしたい。(旧沼商四六回卒、竹ノ岬)

《沼朝平成24105()「言いたい放題」》