2022年11月13日日曜日

東の王墓と考えられる沼津の高尾山古墳(わが徳川家康論 磯田道史(「文藝春秋」令和4年11月1日発行:令和4年11月号229頁230頁より)

 


わが徳川家康論 磯田道史(「文藝春秋」令和4111日発行:令和411月号229230頁)

・・・前略・・・ もともと日本列島は地質学的にいっても、二つの島から出来上がっています。その継ぎ目であり、裂け目が、本州の中央にあるフォッサマグナで、その西縁は糸魚川静岡構造線とよばれます。これが実は政治文化のうえでも、東西の境目になってきました。日本史上、このフォッサマグナのあたり、駿河、遠江、三河、尾張のエリアを境に、大きな衝突が起こり、文化的にも社会的にも東と西が分かれる傾向があった点は重要です。

それは邪馬台国の時代にさかのぼります。『魏書』や『後漢書』の東夷伝には、女王・卑弥呼の邪馬台国と、卑弥弓呼(ひみここ)と呼ばれる男王の狗奴国が「相攻撃」していたと記されています。これは文字で歴史に記録された日本列島最初の大規模戦争だと考えられますが、狗奴国の中心は巨大な初期古墳の立地から、駿河の国、いまの沼津付近とする説も有力です。

 西の邪馬台国は巫女王的な女性をリーダーとする、儀礼や文字などを重んじ、腕力よりも脳内の観念に訴える「儀礼と権威」を原理とした支配を行っていました。これに対し、東の狗奴国のほうは、武を司る男性王が支配し、縦型の命令系統にしたがうような「力と服従」を原理とした国家が想定されます。東の王墓と考えられる沼津の高尾山古墳からは多量の武器が出土しています。

 この境目の感覚は、その後も引き継がれ、初の東国政権を開いた源頼朝も、墨俣川、いまの長良川を境として、そこから東を自分たちの縄張りだと考えていました。例えば、平家を打倒した後、義経をはじめ、頼朝の許可なく朝廷の官位を受けてしまった御家人がいましたが、これに対し、頼朝は、墨俣川より東に入ったら領地を取り上げた上に斬首する、と申し渡しています。

三河を軸とするエリアは古来より、日本列島の「陸の潮目」にあたるホットスポットだったのです。・・・後略・・・


 



古墳時代とは 「高尾山古墳を守る会」フィールドワーク資料 足立副会長制作資料

 







2022年10月9日日曜日

 源頼家 浜悠人 【沼朝令和4年10月9日(日)寄稿文】

 





 源頼家 浜悠人

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」もいよいよ佳境に入った。

 鎌倉幕府二代将軍源頼家は頼朝の嫡男で母は北条政子である。生まれは寿永元年(一一八二)八月十二日で幼名を万寿と言い、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。政子が懐妊した際、頼朝は安産祈願のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、有力御家人たちが土や石を運んで段葛(だんかずら=葛石を積んで一段と高くした路)を造り、頼朝みずから監督した。

 建久六年(一一九五)二月、頼朝は政子と十三歳の頼家、十七歳の大姫を伴い上洛した。頼家は六月三日と二十四日に参内し、京都で頼朝の後継者としての披露が行われた。

 建久八年、頼家は十六歳で従五位上、右近衛権少将に叙任され、生まれながらの鎌倉殿は武芸の達人としても成長した。建久十年、父頼朝が急死、十八歳で家督を相続、名実ともに二代鎌倉殿となり、三年半後には征夷大将軍となった。

 頼家が家督を相続して三カ月後の四月には北条氏ら有力御家人により十三人の合議制が敷かれ、頼家が直(じか)に訴訟を聴断(訴えを聞いて裁くこと)することは停止された。これに反発した頼家は小笠原長経、比企三郎ら近習五人を指名し、彼等でなければ自分への目通りを許さず、これに手向かってはならないと命じた。

 合議制の設立から半年後の十月、侍所長官の梶原景時が追放され、頼家は景時を救うことが出来なかった。

 建仁三年(一二〇三)、頼家は弟、実朝の乳母にあたる阿波局の夫、阿野全成を謀反の罪で逮捕、殺害した。阿波局も逮捕しようとしたが、阿波局の姉でもある政子が引き渡しを拒否した。

 頼家は七月半ば過ぎに急病にかかり、八月末に危篤状態に陥った。この間、頼家が存命中にもかかわらず、弟、実朝を征夷大将軍に擁立する動きがあった。九月、北条時政は比企能員を謀殺し、比企一族を滅ぼした。

 頼家は病状が回復し、病気中の事件を知り激怒、時政討伐を命じるが従う者はなく、九月、却(かえ)って鎌倉殿の地位を追われ、実朝が新たに鎌倉殿になった。頼家は修善寺に護送され、翌年の元久元年(一二〇四)、北条氏の手兵により殺害された。享年二十二歳。

 ところで頼朝死去後の鎌倉の大きな流れは二代将軍頼家の後ろ盾である比企一族と三代将軍実朝をかついだ北条一族との権力争いと考えられている。

 先日、暑い盛りに修善寺を訪ねた。修善寺には幽閉され殺された頼家の供養のため、政子が建てた指月殿と呼ばれる墓所がある。指月とは経典を意味した語とあった。

 明治の俳人であり歌人の正岡子規は、この地に幽閉され悲しい最期を遂げた、頼朝の弟の源範頼と頼朝の子、源頼家を偲ぴ

 此の里に悲しきものの二つあり

 範頼の墓と頼家の墓とと詠んでいる。

 私は沼津に近い伊豆修善寺の丘に立ち、遙か遠い鎌倉時代の将軍や武将に思いを馳せたのである。

 (歌人、下一丁田)

【沼朝令和4109日(日)寄稿文】




2022年10月6日木曜日

富嶽資料館所蔵 古文書 「申渡覚」水野沼津藩時代

 




注:現代語訳 茂木 克己氏(しげきかつみ)・出身沼津/沼津東高卒

(沼津史談会 鈴木隆義・長谷川徹氏友人)

【注釈】古文書の年代か「未六月」のみで不祥である。但し、文言の「殿様跡目相続…質素倹約の儀…長続きする…縫殿助」から推測すると老中松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革を想定する。「未六月」「殿様の跡目相続」「倹約令が長続き」から考えると天保期に3人の藩主(3代忠義・4代忠武・5代忠良)が代わっている。このことから断定できるのは、天保六年六月の古文書といえる。  注釈:沼津史談会 飯田




2022年9月26日月曜日

鎌倉だより 三木 卓 9月  洋学都市駿河 知的凝集力示す

 

鎌倉だより 三木 卓 9

 洋学都市駿河 知的凝集力示す



 目下、大相撲の秋場所中である、今場所おどろいたのは、静岡出身の翠富士が前頭の筆頭に昇進していたことだ。静岡のおすもうでここまで来た力士は、ぼくの記憶にはない。あっぱれである。

 この文章を読んでいただけるときは、もう場所は終っている。前頭の筆頭というのはきびしい地位で、横綱以下の強い力士に当らなければならないから、大変だが、若さの弾力でなんとか勝ちこし、番付を維持、あるいは昇進してほしい。

 出だしでは、大関の正代をやぶる殊勲があったが、今は五分五分だ。期待しているぞ。

 十両上位にいる本県出身の熱海富士も出だし快調、がんばってくれ。来場所はぜひ入幕してほしい。

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 沼津から「沼津史談」七三号(沼津郷土史研究談話会)がとどいた。創立六〇周年記念号で杉亨二・駿河国人別調特集である。

 ぼくは不勉強なので、杉亨二という人物の存在を知らなかった。杉さんは江戸末期に育ち、明治のはじめに日本初の人口センサスを行った人物である。かれが調査しまとめた「沼津政表」「原政表」は、当時は大きな理解を得られなかったが、やがて日本全土で行われる一億人をこえる規模の国勢調査となった。いわば先駆者である。

 杉さんの親族である松宮克昌さんの「杉亨二の生きた時代と沼津との縁」によると、かれはそもそも長崎の出身である。当時長崎は西欧文明の幕府への流入点であり、若い学問だった統計学もその一つだった。

 そこで学んだ杉さんは、やがて幕府洋学問所である「蕃書調所」の教授手伝いとなった。

 しかし、大政奉還となり、徳川の最後の将軍慶喜は、遠江・駿河に転封されるという大変なことがおこる。家臣は身のふり方をきめなくてはならないが、いっしょに無禄覚悟で駿河に移住するものも多かった。杉さんもそれに加わり、こうして沼津との縁ができた。かれは沼津兵学校でフランス語文法と万国地理を担当する。調査の足場も沼津にできた。

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 森博美さんの「わが国統計史における駿河国人別調の意義」によると、「調査への協力度は頗(すこぶ)る高かった」という。江尻、沼津、原、清水港と調査はすすめられ、駿府についても「九十六箇町」をしらべた。

 その調査表を見ると、夫婦・こども・使用人、生国・年齢・家持借家・田畑山林・出稼・入稼・宗旨というように書きこむ欄があり、一家の人間が一人ものであるかどうかと精緻をきわめる。

 森さんは、幕府時代の人別帳は名主のもとに台帳として保管されているが、その情報が、実際の人□統計の出発点となっていた、という。これに対して杉さんの駿河国調査では「集計処理過程においても依然として個体情報としての情報特性を維持している」と指摘している。

 樺山紘一さん「杉亨二と西周、または旧幕の知性たち」は、慶喜とともに移動したそういう杉さんを含んだ知識人たちが、静岡学間所と沼津兵学校へ結集したことを指摘している。樺山さんはいう。

 「沼津と静岡。このふたつの徳川家の学校は、ともに当時の洋学者の粋を集め、教授、学生をあわせ数百人の陣容をもって明治初年を代表する機関となった。実際には、現実の政局に翻弄され、一八六八年から、七二、三年までのごく短期間、機能しただけであるが、しかしその数年のあいだに駿河の二都市が示した知的凝集力は、おどろくべきものがある。疑いもなく、日本最大の洋学都市であった」

 すごい時代だったのだ。その前には長崎があって、日本の飛躍を準備していた。杉亨二さんは直接的にその知的嵐のなかで己れの志を実現したすごい人々の一人だったのである。(作家、鎌倉市在住)

【静新令和4926日(月)朝刊「文化 芸術」】


2022年7月11日月曜日

◯民主主義は  政治家から  與えられるものではない ◯家庭から生れるものである!!

 


 聯合軍総司令部民間情報教育局・.納本

◯民主主義は

 政治家から

 與えられるものではない

◯家庭から生れるものである!

 

「昭和21年、GHQ納本の民主ポスター」

◯昭和21年復員した者が昭和22年~23年の間勤務していた“日通”時代の所有ポスターを令和45月に75年間眠っていたのを発見。




2022年4月27日水曜日

桃介橋 長野県南木曽町 国内最大級の木製つり橋(ニッポン橋ものがたり)

 


桃介橋 長野県南木曽町

国内最大級の木製つり橋







 建設時あつれき 今はシンボル まちとまち、人と人をつなぐ橋。新聞12社連合が各地でよりすぐった橋のものがたりや歴史、橋と共に暮らす人たちを紹介する。

 ◇

 長野県の木曽川は、急峻(きううしん)な木曽谷の底をえぐるように流れる。そこに架かる木製のつり橋「桃介(ももすけ)橋」は、木曽谷の最南端に位置する南木曽町(なぎそまち)の中心部にある。長さ247㍍で木製のつり橋としては国内最大級。大正時代に水力発電所建設の資材を運ぶために造られ、現在は生活路や通学路に使われている。

 橋の名前は、施工した大同電力(現関西電力)の創業者、福沢桃介(1868年~1938年〉にちなむ。福沢は「有限の石炭に対し、水は無限」と水力発電に着目。木曽川水系の長野、岐阜両県の計7カ所に水力発電所を建設して「電力王」と呼ばれた。

  その一つ「読書(よみかき)発電所」(南木曽町)の建設資材を運ぶために1922(大正11年に造られたのが桃介橋。近くの駅からトロッコを走らせ、橋を経由して発電所まで資材を運んだ。橋は、一帯で最も川幅が広い場所に架けられた。3基のコンクリート主塔、石積みの橋脚。「桃介」の名を冠すからには立派な橋にしたい一との福沢の思いが感じ取れる。

 デザインは細部まで凝っており、主塔は西洋風のたたずまい。橋のたもとにある「福沢桃介記念館」案内人の西尾典子さん(74)は「米国へ留学経験がある福沢が、ゴシック風のブルックリン橋に似せたといわれている」と教えてくれた。南木曽町教育委員会で文化財を担当してきた宮川護さん(48)は「いきなり異文化の大きな橋が架かって住民は相当驚いたでしようね」と話す。

 福沢は地域が誇る偉人かと思いきや、橋の建設当時、水利権を巡って福沢と地域にはあつれきが生じていた。記念館が展示するパネルは「(福沢は)反対する村や住民を寄付金で懐柔し、果ては脅迫まがいのことまでして手中に収めていきました」と随分と率直に説明している。木曽ゆかりの文豪島崎藤村の兄、広助(ひろすけ)は、水利権の重要性を訴えて抵抗したが、仲間の切り崩し工作にあい、失意のうちに手を引いたという。



 そんな経緯をたどりながらも橋の完成は住民に多くの恩恵をもたらした。地元に木曽川の両岸を結ぶ本格的な橋がなかったため、発電所完成後は住民たちが生活路として利用し、大いに重宝。50(昭和25)年には関西電力から旧読書村(現南木曽町)に譲渡された。

 78年には老朽化で通行禁止となり、廃橋の危機を迎えたが、住民は復元を求めて運動。93年に造り直され、再び開通した。橋の近くに住む松原正導(まさみち)さん(84)は、昔は通学で、今は散歩で橋を渡る。「仲間と合唱曲も歌って通った青春の思い出が詰まった橋。町民の誇り」と話す。橋は、近くの県立蘇南(そなん)高校の生徒たちが通学路として使い、住民はランニングやウォーキングのコ一スとして親しむ。夜間はLEDでライトアップされ、ちょっとしたデートズポットでもある。大正時代に反発と羨望(せんぼう)が向けられた橋は、今は多くの人に愛される「町のシンボル」になった。



 信濃毎日新聞

 文・河井政人

 写真・米川貴啓橋


 




メモ  福沢桃介は埼玉県吉見町の生まれで、1883(明治16)年に慶応義塾へ入学。桃介を見込んだ福沢諭吉は、次女と結婚させた。桃介は米国留学後、名古屋電灯の経営に参画。1921(大正10)年に大同電力を発足させ、本曽川水系の電力開発を進めた。挑介橋は94(平成6)年、読書発電所などとともに近代化遺産として重要文化財に指定された。

【静新令和4(2022)427(水曜日)

2022年4月3日日曜日

「沼津垣」 資料館だより Vol.43No.2(通巻219号 )2018年9月25日発行

 



沼津市歴史民俗資料館

 資料館だより Vol.43No.2(通巻219号 )2018925日発行

 沼津垣

 今回は資料の中から、沼津垣という、竹を網代に編んだ垣根を紹介します。年間を通して海から南西の風が吹く沼津地域では、冬の強い潮風や砂を防ぐために、隙間のない丈夫な網代編みの垣根がよく使われました。

 沼津垣は、江戸後期には普及していたとみられます。

文政10(1827)に出版された、秋里離島(あきさとりとう)著『石組園(いしぐみその)生八重垣伝(うやえがきでん)』には庭づくりのための垣根と石組みの種類などを図解しており、沼津垣が紹介されています。

また、その後発表された歌川広重による浮世絵には、沼津の特徴のひとつとして沼津垣が描かれています。

 明治中期から昭和初期にかけて、保養の適地として千本から内浦までの海岸付近に別荘や旅館が次々と建てられました。大正中期から昭和初期頃の絵葉書では、旅館などで沼津垣が使われている様子がみられます。

 沼津垣の材料は、アズマネザサの一品種であるハコネダ歳(箱根竹)を用います。ハコネダケは直径1㎝程・稈の高さは23mになる多年生常緑笹で、箱根山周辺に自生しています。節の突起が少なく、編むのに適しています。竹を網代に編む際は、材料の幅と厚さをそろえること、編み目を詰めて隙間なく編むことが大切です。竹の皮を払い落として磨き、十数本ずつ束ねて編みますが、竹は先端にいくほど細いので、一束のうち半分を逆さにして幅を均等にします。頻繁に編み目を整え、縁は折り返して強度を持たせます。


江原素六とゆかり 名主の子孫沼津訪問 【静新令和4年4月3日(日)朝刊】

 

江原素六とゆかり 名主の子孫沼津訪問


 明治から大正期に沼津の教育や産業の振興に尽力した江原素六が旧幕府軍として戊辰戦争で重傷を負った際、素六を助けた名主の子孫石井秋弘さん(68)ら千葉県船橋市の山野町内会の関係者らがこのほど、沼津市を訪れ、頼重秀一市長に当時の状況を説明したり、市内のゆかりの地を巡ったりした。

 素六は1868年、千葉県船橋市、市川市で起こった市川・船橋戦争で重傷を負い、山野町の村人に助けられた。名主石井金左工門などに1カ月間かくまわれたという。郷土史家新川博さんが調査して詳細が判明した。

 石井さんは「先祖が名主ということも知らなかった。これから交流を深められたら」と話しだ。頼重市長は「かくまってくれた人がいたから沼津も素六先生と縁を持つことができた」と感謝した。

 同町内会の関係者は素六の功績を紹介する明治史料館(同市西熊堂)や、江原素六先生記念公園()などゆかりの地を訪れ、歴史に思いをはせた。江原素六先生顕彰会に寄付も行った。

【静新令和443日(日)朝刊】