2020年11月17日火曜日

チンチン電車の思い出 浜悠人

 

チンチン電車の思い出 浜悠人


 明治三十九年十一月、沼津停車場から三島広小路までの約六・五㌔を結ぶ県下最初の路面電車が駿豆電気鉄道(現・伊豆箱根鉄道)により開通した。運行開始当日、沼津・三島の町民は、こぞって歓迎し花火や花電車、楽隊、山車と華やかな祝賀式を繰り広げた。そして終日、電車は運賃無料で沿線住民にサービスしたという。

 この電車が「チンチン電車」と呼ばれるのはチンチンと警笛(ベル)を鳴らしながら走ったのが始まりで、大正から昭和にかけてはバスとの競合もなく新車二〇形(後のモハ一〇形)四両が十二分間隔で運行。沼津・三島間を二十四分で走った。ために沿線の通勤、通学者の足として利用された。

 戦争が激しくなると乗客もあふれ座席は半減、最後は全員立ちん坊で荷物並みとなった。

 昭和三十年代に入るとバス路線との競合が激化。乗客は、だんだん減ってゆき、昭和三十八年、それまで五十七年間にわたって親しまれたチンチン電車も、ついに廃線となった。

 先日、往時を偲び、沼津駅から広小路まで旧電車道を歩いてみた。「イーラde」東側の旧沼津停車場から出発。最初の停留所は「追手町角」で裁判所前(現・中央公園)を下ると「三枚橋」がある。次に「平町」を経て「山王前」'で線路は複線となり三島から来る電車とすれ違う。

 さらに進めば「麻糸前」「石田」を経て旧道に入り、「黄瀬川」となる。黄瀬川橋を渡ると左手に、こんもりとした森の智方神社がある。

 境内には清水町で一番大きい「クスノキ」があり(建武二年(一三三五)、鎌倉の土牢に幽閉されていた、後醍醐天皇の皇子、護良親王が殺され、その御首をひそかに持ち出したものが途中、黄瀬川の洪水に遭い、やむなく、この地に葬り、目印にクスノキを植えたと伝えられている。

 井上靖は「夏草冬濤」の中で、三島に下宿していた洪作少年が沼中まで徒歩で通い、始業式の日、通学鞄を神社の木の根の洞に隠し失くしてしまう事件を書いている。鞄は地元の人に見つけられ、学校に届けられていた。

 「臼井産業前」には片側だけだが旧東海道の松並木が残り、この辺り左手に電車の車庫があった。次に「国立病院前」「長沢」「玉井寺前停留所」となる。

 八幡(やはた)の八幡神社境内には治承四年(一一八〇)、平家の軍勢が富士川辺りまで押し寄せてきた時、鎌倉にあった源頼朝が、この地に出陣した。奥州から駆けつけた弟の義経と感激的対面をした対面石が残されている。

 長沢から寄り道し現・柿田川公園と泉の館に行った。戦国時代、北条氏綱は今川氏や武田氏に対して、この地に泉頭城を築いた。豊臣秀吉が小田原攻めの際、北条方は事前に城に火をかけ山中城に退いた。その後、元和元年(一六一五)家康は、この地を隠居地と考えたが、急死により、ご破算となった。

 現在、公園の一画には若山牧水の弟子大悟法利雄の柿田川讃歌なる歌碑「天地のゆたけき心ここにありこの富士の山この柿田川」がある。近くに柿田川湧水があり、大小数十カ所から湧き、日量約130万㌧、幅50㍍、深さ3㍍、長さ12㌔で狩野川と合流する日本で一番短い1級河川である。

 電車通に戻ると「玉井寺前停留所」、近くには「一里塚」を示す道標があり、境内には白隠の遺墨「三界萬霊等」、同寺山号の「金龍山」、寺号の「玉井寺」がある。

 一休みした後、「伏見」「千貫樋」と進む。ここには伊豆と駿河の国境となる境川が流れ、戦国時代、北条が今川に三島の湧水を、この樋を使って送った千貫樋が左手に見られる。

 この用水は玉川、伏見、八幡、長沢、柿田の五力村(現・清水町)に引き入れられ、水田を潤してきた。大正十二年の関東大震災で樋は破壊されたが、鉄筋コンクリートに改造されて現在に至っている。

 電車は「木町」を過ぎ、遂に「三島広小路」の終点に到着した。 (歌人、下一丁田)

【沼朝令和21117日(火)寄稿文】

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2020年11月15日日曜日

縄文時代 信仰

 

 



縄文時代の信仰  縄文時代の生活は木の実などの採集やシカやキジなどの狩猟、川や海での漁労が中心でしたが科学が発達していないこの時代の人々は、木の実は神が作り狩猟がうまくいったり海が荒れて魚がとれなくなるのもすべて神の仕業であると考えていました。  そして神は不思議な力を持ち、姿を見せず、山や木や石などに宿るものとしていました。  こんな縄文時代の宗教はアニミズム(精霊崇拝)やマナイズム・自然崇拝・死霊崇拝(*1)を中心とした神を招き祈り願う祭りと、呪術(まじない)を中心とした信仰でした。  [土偶・配石遺構]  この時代の宗教を想像させるものに土偶と配石遺構があります。  土偶は土で出来た人形ですが殆どが女性像で、その怪奇な形や姿は出産にたいする信仰や神秘的な力をあらわしたものとみられています。また土偶は殆どこわされていることから、土偶を人間の身代わりにする呪術が行われていたことが推測されます。  配石遺構はいろいろな石を並べたり、組んだりしたもので集団で祭りをした場所とみられますが、共同墓地だったという意見もあります。代表的な配石遺構である環状列石は秋田県の大湯、長野県の上原など主に東日本で数十カ所も発見されています。  縄文時代の人々は土偶や人骨から推測すると、頭にくしをさし、耳、鼻、口のまわりには、飾りをつけたり、いれずみをし、手足に貝輪をはめ、首、胸、腰には動物の歯や玉類をつけていたようです。これらのものには神秘的な力が宿っていると信じられ、悪い霊から身を守るために身につけたと考えられています。 (*1)アニミズム・マナイズム・死霊崇拝  アニミズムとは存在するものは無生物にいたるまですべて生きていて霊魂をもっていると信じることです。  マナイズムとは人間の力を超えた神秘的な力を信じることです  死霊崇拝は死者の霊が生者に禍と福をもたらすと考え、死者の霊をおそれたり祀ったりすることです。