2015年11月29日日曜日

2015年11月19日第2回高尾山古墳・道路整備両立協議会画像資料↓


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沼津市役所資料URL

第2回高尾山古墳・道路整備両立協議会議事録



第2回 高尾山古墳保存と都市計画道路(沼津南一色線)整備の両立に関する協議会
日時 平成27年11月19日(木)10:00~12:00
会場 プラサヴェルデ4階407会議室
資料説明
・(都)沼津南一色線の推計交通量について(資料1)
・古墳保存及び活用の手法について(資料2)
・空間的に整備可能性のある街路線形について(資料3)
・考えられる整備案の総合的評価について(資料4)


今日の会議で「高尾山古墳」現状保存と道路整備提案が絞られてきた。
車線4線でB案(西側T字4線案)・E案(西側S字2車線、東側トンネル2車線案)・G案(西側T字2車線、東側トンネル2車線案)それにD案・F案・H案も捨てきれない。
次回の会議までに市民の意見を収集し、協議会委員にに報告して下さい。と大橋会長より纏めがあり、閉会となった。


古墳回避へ4ルート
道路建設有識者協議 沼津市が提示
沼津市は19日、都市計画道路の建設予定地にある高尾山古墳(同市東熊堂)の墳丘などの現状保存と、道路建設の両立を模索する有識者協議会(議長・大橋洋一学習院大法科大学院法務研究科長)の第2回会合を、同市のプラサヴェルデで開いた。
市は墳丘を回避する街路線形について、①平面で西側を通過②平面で東側を通過③高架で上を通過④トンネルで下を通過ーの検討結果を公表した。4ルートについてそれぞれ、これまで時速60㌔としてきた設計速度を同50㌔にした場合、車線数を4から2に減らした場合も検討し、建物補償件数や用地買収面積を試算した。平面西側案ではS字カーブ、用地買収面積を減らせる可能性があるT字交差点を採用した場合を示した。
市は9、10月に2回実施した周辺道路の交通量調査の結果も報告し、沼津南一色線の2030年の推計交通量を1日約2万5800台と見積もり、2車線と4車線の境界として国が定めた1万2千台を大きく超えることから、「計画通り4車線が必要」と結論つけた。委員もこれを了承した。
同古墳は3世紀前半の築造とみられる前方後方墳で、当時としては東日本最大級とされる。日本考古学協会は5月、保存を求める会長声明を出したが、地元自治会は渋滞解消などのために道路の早期完成を要望する。市は9月、有識者7人を交えた協議会を設置し、実現可能性のある両立策を模索している。協議会の結論と市民への意見聴取を踏まえ、栗原裕康市長が最終判断を下す。
【静新平成27年11月19日(木)夕刊】


道路整備3案を軸
高尾山古墳回避 有識者協が方針 沼津
沼津市は19日、高尾山古墳(同市東熊堂)の現状保存と、道路建設の両立を模索する有識者協議会(議長・大橋洋一学習院大法科大学院法務研究科長)の第2回会合を同市のプラサヴェルデで開き、古墳を回避する三つの道路整備案を軸に検討する方針を決めた。協議会の委員は周辺道路の歩行者の安全性や史跡整備への道筋を再検討するよう市に要請した。
委員は市が示した九つの道路整備案について、用地買収費を含む事業費用、古墳区域内の車道の有無、建物補償の件数などの視点で比較した。片側2車線を前提に、実現可能性のある案として、①古墳北西の丁字交差点を経由する西側4車線②古墳西側にS字の2車線と古墳下にトンネルを掘り2車線③古墳北西の丁字交差点を経由する古墳西側2車線と古墳下にトンネルを掘り2車線ーを挙げた。
協議会終了後、大橋議長は「多角的に検討し、各案の問題点を指摘できた。ある程度、案を絞り込んで市に提示したい」と語った。栗原裕康市長は検討案に対して市民の意見を聴くパブリックコメントを実施する考えを示した。
【静新平成27年11月20日(金)朝刊】

古墳の現状保存、道路4車線
両立に関する協議会で方針確認
「高尾山古墳保存と都市計画道路(沼津南一色線)整備の両立に関する協議会」の第2回が十九日、プラサヴェルデ会議室で開かれた。協議会の方針として、古墳の撤去・移設の可能性は除外すること、沼津南一色線は上下四車線で整備することを確認。また、市側からは、S字力iブの道路で古墳を迂回する従来の案に加えて、古墳の北西にT字交差点を設けて古墳の迂回を可能にする方式が新たに提出された。
道路側各案に一長一短
T字交差点新設案に優位性か
協議会には、大橋洋一委員(学習院大学法科大学院法務研究科長)、久保田尚委員(埼玉大学大学院理工学研究科教授)、矢野和之委員(文化財保存計画協会代表取締役、日本イコモス国内委員会事務局長)の有識者三氏と県幹部の杉山行由委員(県教育次長)が出席。前回出席した難波喬司委員(副知事)は欠席し、意見書を提出した。議長は前回と同様、大橋委員が務めた。
また、国土交通省街路交通施設課長の神田昌幸氏と、文化庁主任文化財調査官の禰宜田佳男氏がアドバイザーとして同席した。
前提方針 協議会では、初めに前回に市側が実施を約束した沼津南一色線の交通量推計が報告され、一日二五、八〇〇台であるとされた。この推計は、道路を二車線にするか四車線にするかの判断基準として実施され、一万二千台以下なら二車線化も可能になるとされていた。しかし、推計値は基準値を大きく超えたため、二車線化による道路設計は否定されることになった。
続いて、古墳の現地での現状保存については、文化庁の禰宜田氏から「移築では史跡指定の対象とはならない」との意見が出され、古墳移築は検討対象から除外された。
代替案 前回協議会で委員達が要望していた新たな道路設計の代替案について、市側から九案が提出された。
この九案を設計するに当たり、市側は「古墳北側部分の高く盛り上がっている墳丘部を壊さない」「道路用地取得のための建物再移転は可能な限り避ける」「追加の用地買収は最小限に抑える」などの原則を設定。
これに従い、①道路がS字力ーブで古墳を迂回する、②信号のあるT字交差点を設けて道路を直角的にカーブさせて古墳を迂回する、③道路の設計速度を六〇㌔から五〇㌔に下げて古墳の下にトンネルを設ける、の三方式が提案された。
九案は、この三つの方式を組み合わせて生み出されたもので、四車線を一体的に造るもの、二車線ずつに分けて古墳の東西両側に分散して通すもの、二車線に分けて片方をトンネル化するもの、などが含まれている。
一長一短 各案には、それぞれ利点と欠点がある。
四車線が一体的にS字力ーブで古墳を迂回する方式では、用地買収面積が広くなり、過去に移転に応じた建物が再移転を迫られる件数が最も多くなる。
T字交差点方式は、事業費用が約五億円と九案の中では最少レベルであるのに対し、交差点の追加により、スムーズな車両通行に影響が出る。
トンネル方式は、四車線をすべてトンネル化した場合、事業費として最低でも五十億円以上が必要となる。事業費の半分は国負担となるが、平均の年間道路事業費が約八億円である沼津市にとっては重大な負担となる。
四車線道路を二つの二車線道路に分けて古墳を間に挟むように迂回させる案は、古墳と現在の神社との間に二車線道路が通ることになる。このため、歴史的にもつながりの深い古墳と神社を分断してしまうほか、古墳が車道の間に入ることで、古墳見学者が古墳にたどりつくのが困難になる可能性がある。
T字方式の利点 新たに交差点を設けることになるT字交差点による古墳迂回方式は、スムーズな車両走行の妨げになる可能性があると指摘されたが、新たな用地取得や事業費が比較的少なくなることから、委員達からも大きく注目された。
それに伴い矢野委員は、「自分は道路の専門家ではないが」と前置きした上で、交差点の設置により車両の走行速度が落ちることから、交通安全の面では有益であると指摘した。
都市計画の専門家である久保田委員は「T字方式は、道路の専門家が見ると『びっくりたまげた』案であろう」と述べて非常識的なアイデアだとする一方で、「しかし、この場合は可能性のある案だ。近くには国道一号との交差点があり、沼津南一色線の走行車両は、必ず国道一号で止まることになる。どうせ、すぐに止まるのだから、その手前で一時止まるようなことになっても、交通への影響は限られるのではないか」と話した。
国交省の神田氏は、信号機付きの交差点が設置されることは、児童の道路横断にとって都合が良いものであり、交通安全の観点からプラスになる、と意見を述べた。
今回の結論議長役の大橋委員は、各委員からの意見表明を受けた上で、①四車線を一体的にT字交差点方式で古墳西側を迂回させる案、②片側二車線を古墳西側地上でS字カーブさせ、残り二車線をトンネル化する案、③片側二車線を古墳西側地上をT字交差点方式で迂回させ残り二車線をトンネル化する案の三案が有力になるだろう、と述べた。
これに対し、神田氏は、古墳と神社を分断する東西迂回案については、市民の意見を反映した上で今後の検討対象として残すことを要望した。
この意見を踏まえ、大橋委員は市に対して協議会の第3回開催以前に、パブリックコメントなどの実施による市民意見の聴取を市側に要望した。
【沼朝平成27年11月20日(金)号】

全国の模範となるような手続きを
困難な課題だとしつつ市長
協議会の成り行きを主催者席から見守った栗原裕康市長は、終了後の記者会見で「いろいろな意見をいただいた。正直言って想像していたよりも難しい課題だ。古墳の扱いは、当初の計画が市議会での承認を得ていながら、全国的な反響と市民からの要望を受けて再検討することになった。全国の模範となるような手続きを進めていきたい。今回の流れが、価値観や意見の対立を乗り越えるための手法の模範となるよう努めたい」と述べた。
また、市民意見の扱いについては、まずはパブリックコメントという形式で募った後、専門家を交えた市民的議論の場を設ける考えを示した。そして(「あくまでも一私案に過ぎない」「行政の手法として正しいかは分からないが」などと断った上で、古墳や道路の整備費の一部を「ふるさと納税」などの形で広く募ることも有効ではないか、と話した。
一般傍聴席から協議会を見つめた「高尾山古墳を守る市民の会」の杉山治孝代表は、「我々にとっては良い方向ではないか。古墳の現状保存が大原則として確認されたことは、今回の大きな成果だと思う。これまでの活動に意昧があったと思いたい」と話した。
【沼朝平成27年11月20日(金)号】

高尾山古墳を考える:迂回3案を高評価 沼津市、意見公募実施へ 有識者協議会 /静岡
毎日新聞 2015年11月20日 地方版

高尾山古墳(沼津市東熊堂(ひがしくまんどう))の現地保存と道路建設の両立を検討する有識者による協議会(議長、大橋洋一・学習院大法科大学院法務研究科長)の第2回会合が19日、沼津市内で開かれた。市は古墳を迂回(うかい)する道路変更案を9案提示。協議会は、西に迂回しT字交差点を新設する案など3案を高く評価し、今後重点的に検討すると決めた。【石川宏】

協議会が評価したのは(1)4車線全てを西側に迂回させ、T字交差点を新設(2)西側2車線をS字状に迂回させ、東側2車線をトンネル化(3)西側2車線を迂回させT字交差点を新設。東側2車線はトンネル化−−の3案。

市は、古墳移設は価値を大きく損なううえ技術的に困難▽4車線の2車線削減は交通量の多さで困難▽4車線とも東にずらす案は神社の全面移転が必要で困難▽高架は古墳最上部を破壊する−−として案からあらかじめ排除。その上で4車線一体、もしくは2車線ずつ分離して、古墳を迂回させたり、下にトンネルを掘るなどした9案を提示した。

協議会は残り6案については、4車線全てをS字状に西側に迂回させると建物10件の移転が必要で補償費が過大▽上下2車線ずつ、もしくは4車線一体で全面トンネル化すると事業費が50億円を超え過大▽2車線ずつ東西に迂回させると古墳が道路に挟まれ活用しにくくなる−−などとして、低い評価をした。

市は次回協議会(時期未定)前にパブリックコメント(意見公募)をする方針。大橋議長は「傷のない案はない。多角的に検討し、各案の問題点を指摘でき非常に成果があった」と述べた。栗原裕康市長は「想像以上に難しい方程式。異なる価値観が対決した時の解決法として、全国の模範となるようなプロセスを踏みたい」と述べた。

傍聴した篠原和大・日本考古学協会理事(静岡大教授)は「かなりいい方向に向かっている。このままの方向で進んでほしい」と話した。

2015年11月28日土曜日

井上靖 中国出征の軌跡 「行軍日記」が単行本化

井上靖 中国出征の軌跡
「行軍日記」が単行本化
 長泉町の井上靖文学館は来年3月、開催中の「戦後70年井上靖と戦争・家族・ふるさと」展で紹介している作家井上靖の1937年の中国出征の軌跡をたどる単行本「中国行軍日記」(仮題)を発刊する。行軍ルート周辺の風景を、当時といまの写真で比較し、2等兵としての出征経験が戦後の井上作品に及ぼした影響も検証する。
11月上旬に井上の次女で詩人の黒田佳子さん(70)=横浜市=、同館の徳山加陽学芸員らが行軍ルートを車でたどり、周辺取材と写真撮影を行った。
 井上が手帳に記した記述などを手掛かりに、北京南西の町「豊台」から盧溝橋などを経由し、直線距離で約300㌔離れた町「元
氏」を訪ねた。
 黒田さんは「町や田園の風景に父の姿を重ねた。22日間の行軍は、さぞやきつかっただろう」と行程を振り返る。手帳の記録で綿畑の美しさをたたえていた保定市郊外では、父の詩を読み上げた。
 井上は1937年8月25日に召集され、大陸へ渡った。部隊の一員として行軍に参加したが、体調を崩して38年1月19日に帰国した。過酷な日々の記録は月刊誌「新潮」2009年12月号で初公開された。
 単行本はこの記事を再録し、11月の取材で撮影した写真、井上の湯ケ島小の同級生で同じ部隊だった西川喜三郎さん(故人)が持ち帰った現地の写真、作品論考も加える。同館長だった故松本亮三さん(9月29日死去、享年74)が企画し、徳山学芸員らが遺志を継いだ。
 西川氏の長男濃さん(75)=伊豆市=は「知られざる井上さんの姿が分かる。おやじもさぞ、喜ぶだろう」と刊行を心待ちにする。徳山学芸員は、井上が後に書いた行軍ルート周辺の町名を織り込んだ詩を例示し、「戦争体験がどう作品に昇華したかを示したい」と意欲を見せた。
【静新平成27年11月28日(土)朝刊】

2015年11月14日土曜日

百年後のために 匂坂信吾

百年後のために 匂坂信吾
 沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)主催の平成二十七年度・第8回市民公開講座「沼津ふるさとづくり塾」では、講師に国立歴史民俗博物館名誉教授高橋敏先生を迎え、「駿東文園と綴方教師たちー富原義徳と杉山正賢」をテーマに、大正から昭和にかけて駿東郡で始まり、全国的にもまれに見る綴り方教育をめぐる郷土の歴史を学びます。
 駿東郡では富原義徳と杉山正賢という、大正五年に静岡師範を卒業したばかりの二人の小学校教師が、御殿場方面を中心に、熱心に綴り方教育に取り組んでいました。彼らの努力の結果、郡教育会が大正十五年四月、公式に綴方誌「児童文苑」(戦時下に中断七、昭和二十二年「駿東文園」と改題して復刊)を発刊。富原が編集委員長に、杉山が委員になりました。
 富原の弟の薫は地元で小学校教師を務めるかた,わら、「汽車ポッポ」など童謡の作詞をしたことで知られていますが、兄義徳は、児童文苑の成功をもとに昭和三年、「創作鑑賞 土の綴方」を刊行して全国に知られる存在になります。
 富原の活躍の陰で地域の児童に直接がかわり、地道な指導を続けていた杉山は、当時の教育指導者を批判して独自の指導方法を貫き通しました。
 杉山は小学校教師として、児童の理解のために徹底して児童の生活に密着し、教育実践を思想として高めようとして懸命に努力を重ねましたが、昭和四年、病気により退職。沼津で入院・療養を続けましたが、翌年、三十五歳の若さで亡くなります。逝去の臥までペンを持ち最後まで綴り方教育にささげた人生でした。 このころ富原は、病気退職の後、請われて東京の学校に再就職し、綴り方に関する執筆活動などを行うようになり、児童文苑の発行は古見一夫が後任の編集委員長となり継承・発展させました。
 児童が現実の生活を直視して、ありのままを文章化する綴り方指導を通じて、ものの見方、人間としてのあり方を教えようとした彼らの志は、まさに百年後のために人を育てようとする信念に基づくものだったと思います。
 駿東文園は全国で唯一、当時から現在まで継続しています。当初、沼津を含む駿東の若き教師達が目指したものは何だったのか、講座の中で、地域教育の歩みを実感してみませんか?
 講座の日時=十一月二十一日(土)午後一時三十分開会。
 会場=市立図書館四階第一・二講座室。
 定員百人。資料代五百円が必要(会員は無料)。
 なお、会場として同じフロアの視聴覚ホールとして誤ってお知らせした,方面につきまして、同じ日に開催されます芹沢光治良文学講演会の会場と重なり、ご迷惑をおかけしたことをお詫びします。
 (沼津郷土史研究談話会副会長、小諏訪)
【沼朝平成27年11月14日(土)言いたいほうだい】

2015年11月12日木曜日

東海道こぼれ話 鈴川憲二

東海道こぼれ話 鈴川憲二

 志多町・川廓・水神社
 志多町と川廓は旧上土の一部として古くは三枚橋城の縄張の内にあって防備の重要な位置にあったが,名の示す如く低湿の地で,たびたび洪水に見舞われ,後に東海道の道筋にあたり人家が軒を連ねるようになるに従い,城地から外された。水神社は旧城時代の曲輪の守護祥であり狩野川洪水の守り神様でもあった。現在では極めてささやかな社殿が堤防の際にある。狩野川に添っている川廓の道は300年昔からの東海道そのままの道巾で旧市内では残っている唯一のところである。

 大手門前
 川廓から坂を上り静岡銀行沼津支店前が水野藩沼津城の大手門前にあたる。大手前広場といっても駅前通りの巾で銀行前から静銀代弁の前までの狭い所である。大手門は魚ぶんの天ぷら屋の所にあって東を向いていた。徳川の中期以後の太平の時代の大名の居館としての城のため,防禦は余り考慮する必要は無かったが,市街地に近接していたため,再度火災に見舞われた。

 上土通り
 東海道は大手前で左に折れて上土通りとなる。上土の地名は城の工事のため土を掘り上げたことから由来するが,大字の上土は町方・八幡町・片端・七反田までお城を取巻く全地域が含まれているが、最近古文書によって沼津古城すなわち三枚橋城の縄張りが七反田以南の大字上土全部にわたることが判明した。現在の上土町一帯は沼津古城内の町家から発展して城下町の宿場の商業中心地を経て今日に至ったのである。

 上土商人の系譜
 江戸末期から明治初年の上土は沼津城大手前にあって,東海道筋にあたり,裏に狩野川を背負っていたので,河岸の荷上げにも恵まれて,ことに東側は関西資本の商店によって殆ど占められていた。その国元をみると,阿波国から鹿島屋・阿波屋,近江国から日野屋,泉州堺から大坂屋等であった。その殆んどが本店が国元にあって,支配人番頭以下全員が同じ国から来ていて妻子は郷里にいて,盆暮年2回だけの休暇に郷里に帰えることになっていた。店は男世帯で飯炊き婆さんに炊事をさせた。古い番頭の言によると,たまに郷里に帰えるので子供は恐わがって,2,3日はそばに寄らないで,帰える頃になってやっとなれたという。年配者には新地の勘定は店持ちになっていたが,そう度々は帳面に書かれないので自前も多いとのことだった。
 当時最大の店は鹿島屋であって沼津藩のお金御用をして名字帯刀を許されていた。江戸の鹿島屋清兵衛は同じ一族であった。明治維新後,国元に引上げ店は支配人番頭等8軒に分割されたが現在上土に2軒だけ残っている。本会員と関係あるのは日野屋(山中君),阿波屋(石原君),大坂屋(鈴川)である。

 阿波屋のかっぱ薬
 石原君の店で大正の頃まで売っていた家伝薬で由来は阿波屋の裏の狩野川の河岸に大きな穴があって、先祖のお爺さんが風邪を引いて寝こんでいたときに河童が夢枕にでて,水出で大きな石が穴をふさいでいて出られないので,それを取り除けてくれればお礼に風邪薬を教えてくれるといった
ので,取り除いて教わったのが,その河章薬であったという,宣伝の妙。


 通横町
 上土から右折すると通横町となる。宿の主要機関である問屋場はここの北側におった。三町よりなっていた沼津宿では一か月のうち上旬は三枚橋中旬は本町,下旬は上土から問屋,名主,年寄と三役が勤務して公用の貨物の輸送や馬や人足の手配をしていた。
 問屋場の裏庭の一隅には人足部屋があった。俗にいう雲助たちの溜場である。駿河銀行西側の西島屋が茶飯屋で人足や旅人たちの大衆食堂であった。
 通横町から北に向う六軒町の通りが問屋小路で,西側に水野藩の町方役所があり郡奉行がいて町役人の支配をしていた。その隣りに町方御長屋が竝んでいて町方役人の住居であった。現在では町名にその名を残している。
 明治9年に港橋(現在の御成橋)が開通して通横町の道が河岸まで通じた。それ以前は上土と通横町の境の小路から河岸に下りて渡し船で香貫方面に渡った。
 問屋場の西に大黒楼や蓬莱屋等の遊廓があって上本町・下本町まで色街をなしていた。大門の通りは細い道で正見寺や本光寺に入る道として門前町として大門の名を残している。
 明治以後も有力な商店が軒を竝べていたが,大正2年の大火以後区画整理で本通りができて通横町は沼津の中心地となり,当時の珍らしいものとして勧工場と救世軍があった。勧工場はマーケットのようなもので店内にコの字形の通路があって自由に通り抜けができ座売りだけの商店の中にあって特に目を引いた。救世軍は駿河銀行の前あたりにラッパ太鼓の独特なメロディに夜の散歩客の足を止めさせていた。

 上・下本町
 城下町の沼津の街道は見通しできないように何度も折返している。通横町から直角に曲って本町に入ると本陣を初め宿屋の多いのが目立つ。幕末の頃には上本町に脇本陣1,仮本陣1,下本町に本陣2,仮本陣2,旅籠数軒があった。清水・間宮両家は木陣として有名であった。明治にな東毎道線が開通すると交通の変化によって廃業するものが多くなった。大正2年の大火災以後街の様相は変わり,花柳界の発展と映画館や劇場によって本町の繁栄時代となった。
 本ブラ
 大正の頃には夜ともなると夜店が出てアセチレンの焔のもとに夏の頃はバナナのたたき売りや虫売り植木屋その他,素見客に賑って銀ブラならね本ブラが出現した。千本・牛臥・静浦には別荘が建並んで避暑の客も本ブラを楽しんだ。

 映画館
 その当時,本町の中程に金鵄館があり下本町に中村演芸館があった。こちらは寄席であった。
 金鵄館は映画専門で沼津にいちばん初めにできた映画館であった。その頃は活動写真といった。連続大活劇や目玉の松ちゃんこと尾上松之助の旧劇(時代劇)が人気を呼んでいた頃であった。活弁こと映画説明者がいて,新派大悲劇では全市の子女の紅涙をしぼった。楽師はヂンタで,その呼込みや市中の宣伝隊は街の景物でもあった。ピアノ・ヴィオリンの伴奏に変ったのは大正10年の頃であった。当時の映画館は男女が別々にされて,真ん中が同伴席であった。後方に一段高く警官席があって,お巡りがサーベルをかまえていた。

 新町と浅間町
 東海道は新町に突きあたり右折して浅間町となる。突きあたりに仁堅家と言う薬屋があった。門口が2間であったので,そう呼ばれたのが屋号となった。現在は下本町に移ったが沼津朝日の露木豊君の生家である。隣にあった菓子屋の塩坂は御用邸御用の有名な店であった。
 浅間神社は旧沼津の氏子を二分する神社であるが,社格は旧郷社で居候の丸子神社は県社であって,この方が社格が上であった。丸子神社はもと丸子町にあって式内社として立派なものであったが,戦国時代の兵火に焼かれて現在の有様となった。旧社地には小祠が祀られているが,付近には社に関係ある地名が多く残されている。また市道の地名は門前市の名残の地名である。

 出口町
 出口は沼津宿時代の宿のはずれで旧幕時代には往来を見張る見付のあった所であった。元市長の和田家はこの地の草分けで名主を代々やっていた。
 大正2年の大火は出口の団子屋が火元で,3月の節句の風の強い日で子供が焼芋を買いに来て戸口を開けると西風が吹き込んで釜の火口から焔が縁の下に吹き出して,燃し物の松葉に火が移ってたちまち火事になった。手伝に皆行っているうちに風下の上土に飛火して,次々に延焼して手のつけようが無くなった。焼失1,500戸,罹災者7,500人,焼死9名であった。

 蛇松線
 自動車の交通の多い街々を汽笛を鳴らしながら遠慮がちに走っている蛇松線は,明治22年東海道線の開通前に工事線として、材料運搬のため作られた。当時は郊外の水田の中を走っていたが,町の発展に従がい市街地を走るようになった。千本浜の牧水碑の巨石もこの線のレールによって運ばれた。昔懐かしい蒸気機関車も現在はディーゼル機関車に変わっている。

 間門
 東海道は市道を経て間門となる。間門は囚人堀を境に東間門と西間門に分かれる。この地名については,いつの頃か古い時代にここの海底からエンマ王の首が漁夫の網にかかって引揚げられ,その首に「天笠まかつ国」と記されていた。里人が胴体を継ぎ足し,お堂を建てて祀っていたが,いつか転訛して「まかど」の地名になったと伝えられる。このお堂も明治になって姿を消して,あとの敷地は囚人堀の河川敷となった。

 囚人堀
 西北部排水路が正式の名称で,浮島沼に連なる湿田の排水のため戦時中,海軍工廠によって掘さくされた。堀の東は海軍工廠の敷地になっていて工事に沼津と静岡の刑務所の囚人を使役したので囚人堀と呼ばれるようになった。

 六代松
 東間門地先に千本松原の浜続きに六代松と称する老松が百数十年前まであったと伝えられている。現在は沼津藩の典医駒留氏の書かれた碑が残されている。平家の公達六代が,この所で打首になるのを,文覚上人に救けられたという,平家物語に拠ったものであろうか。



 甲州街道
 千本公園入口の右の道を入り右に折れて本光寺前を海岸沿に松林の中を行くとやがて国道1号線と出会う。昔は細い道であった。この道が甲州街道で戦国時代に武田氏が塩を求めて,駿河に進出して千本浜で塩たきをして,できた塩を延々と松林の中を富士川の河口まで運んだのが,いつしか細い道となり甲州街道と呼ぶようになった。富士川の急流は船によって甲州まで運んだ。黄瀬川沿の御殿場街道は甲州への近道であるが北条氏との勢力の接点であるので危険を感じたので,海岸筋を運んだと思われる。
 その後徳川家康は甲州への交通の重要性を認め富士川の水運再開を大久保長安に命じた。長安は慶長17年(1612)角倉了以の協力によって川底の岩を除き,甲州鰍沢(かじかざわ)から中流の飯富を経て岩淵まで72キロの富士川水運が通じた。
 高瀬舟で下り半日,上り3日程かかった。下りの主な荷物は米で,岩淵から駄送で清水港に至り船便で江戸に運んだ。これは幕府の御用米であった。上りの主なものは塩と雑貨であった。鮮魚は富士裾野経由の中道街道や沼津方面からは御殿場経由で送られた。現在片浜から原を経て西へ向う国道を疾走すをトラックやバスの乗客で昔をしのぶものは殆んどないが,晩秋の中の櫨(はぜ)の紅葉の美しさは目をみはるものがある。松林の中の雑木を育てる方法として,櫨の苗木を植林したいものである。
 沼津領の榜示
 甲州街道から旧東海道へ戻り西間門に入ると八幡神社の前に半ば埋れた石の標柱がある。僅かに「従是東」の上の部分だけが現われている。東の大岡久保にある「従是西沼津領」の榜示と東海道沿の沼津藩の境界を示すものであり,安永7年水野藩が沼津の地に封じられた時に建てたものである。古老の話によると子供の時分には,さんざ乗っていたづらしたので埋められたらしいとのことであった。

 大諏訪・小諏訪
 間門の西方には街道沿に民家の続く部落大諏訪・小諏訪がある。この地名はここに鎮座する諏訪神社による。熊野神社が黒潮に乗って紀州から海岸伝いに広まったように。諏訪明神信仰は富士川と天竜川によって東海道方面に伝って来たものである。

 松長
 松長には史蹟として神明塚と松長陣屋がある。神明塚は前方後円墳で全長62m,頂上に神明宮が祀ってある。沼津の古墳は殆んど根方方面にあるが,海岸近くにあるのは珍らしい。5世紀頃には浜通りの開拓が進み有力な豪族が現われたことを示すものである。松長の陣屋はこの神明塚から旧東海道の街道にかけての附近一帯が旧趾地である。小田原大久保藩の支藩荻野山中藩(神奈川県厚木の北2粁)1万3千石の内駿河に2千5百石,伊豆7千5百石の地を支配した後所をこの地に置き陣屋と称した。明治維には徳川領となり,廃藩置県によって静岡県に含まれて現在では当時の姿は全然残されていない。

2015年11月2日月曜日

第23回唔学舎仏教文化講座「和紙と仏教文化」宍倉佐敏教授







唔学舎仏教文化講座
 和紙と仏教文化
 平成27年11月1日
 女子美術大学特別招聰教授 宍倉佐敏
 紙は文化のバロメーターと言われ、一人当たりの紙の消費量がその国の文化度として評価される、日本は他の国々と異なり和紙の文化と洋紙の文化があり消費量もアメリカに次いで多い。和紙は仏教と共に発展したと言われているので、研究してみた。
 ☆紙の発明
 2350年程前に中国の女性達は川や池の浅瀬で、笊(ざる)や篭(かご)に汚れた衣類や糸クズなどを入れ棒で叩いて洗濯をした。洗濯後に篭などの底に紙状物が残り、これを乾燥すると物を包むことができ、平らな面には簡単な文字が書けた、これが紙の始まりであった。
 ☆日本への伝来
 中国の「後漢書」によると105年に官人「蔡倫(さいりん)」が古い布や麻屑・樹皮などを切断・分散して紙を作り、表面を木槌などで叩いて文字の書ける紙として帝に提出して、喜ばれこれを「蔡候紙(さいこうし)」と呼んだ。この製法が610年に日本に伝えられたと「日本書紀」にある。
 聖徳太子は人民の意志統一を図るため仏教を取り入れ、文字の読み書きができる僧侶に写経の指導を依頼すると同時に、紙の原料になる楮(こうぞ)の殖産を奨励した。
 壬申の乱の後に一切経(いっさいきょう)の集団写経が行われ写経事業は大きく膨らみ、紙の需要は増大したが、原材料が調達できず麻や楮の代わりに、雁皮(がんぴ)・オニシバリ・マユミ.フジなどの繊維が紙に利用された。(五月一日経(ごがつついたちきょう)、賢愚経(けんぐきょう)(大聖武:おおじょうむ)、百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)などの紙)
 ☆日本の紙(和紙)の誕生
 中国から伝えられた紙は長い繊維を切断して叩き、網状物ですくい取り脱水して紙にして、表面を叩いて平らにする「溜め漉き法(ためすきほう)」であったが、日本では雁皮のヌルヌルした粘性からヒントを得て、粘性の高いビナンカズラやニレなどをネリ剤(繊維分散と沈澱防止)として使い、繊維液を竹や萱(かや)の簀(す)で漉く「流し漉き法」が生まれ、これを後世の人々は「和紙」と称した。
 和紙は薄いが表面が美しく、文字が書き易いだけでなく、染色などの装飾ができるので平安時代には美術的に優れた装飾経が多くつくられた。
 ☆武士社会と紙
 質実剛健を気風とした武士は貴族や僧侶が使用していた厚く大きい紙から、薄くて小型で安価の紙を求めたので、紙の品種は二種に大別された。
 主に中央都市部で生産されていた紙も職人が出身地に帰郷し各地に生産地が生まれ、独特の地方紙が作られた。貴族などが求めた厚紙は「半流し漉き法」で作られ、表の平らな面には貴族が命令や手紙などを書き、粗い裏面は叩いて平らにして僧侶達が写経や日記などを書写した紙背文書(しはいもんじょ)が多くの寺院に残され、この古文書は日本独特である。
 この当時の有名紙は陸奥紙(みちのくかみ)、美濃紙(みのし)、奈良紙(ならかみ)、高野紙(こうやかみ)などがある。
 貴族に独占されていた仏教は、親鸞・日蓮・一遍など多くの僧侶によって、民衆に広める目的でやさしく誰にも解り易い形で布教された、布教には般若経や曼茶羅など書写し多くの紙が活用され、書以外では一遍上人が紙で作った衣服(紙衣:かみこ)を纏い布教活動をした。紙衣は現在でも東大寺お水取りで使われている。
 遣唐使として留学した僧侶が帰国した際、中国の優れた紙と言われる竹紙(ちくし)を持ち帰りこれを広め、竹紙は書の巧みな人に喜ばれ多くの僧侶にも使われた。
 紙は書写用だけでなく建築物にも活用され、絵屏風(びょうぶ)・襖(ふすま)・明り障子紙などの紙が各地で盛んに生産され、美濃紙は薄く縦横差が少なく毛筆で文字が書き易いので書写用に、白く綺麗で強度もあるため明り障子用に寺院や神社に大変好まれた。
 和紙は各地で生産され伊豆や駿河でも独特な紙が作られ、寺院・神社などで使われた。
 ☆近隣の紙
 徳川幕府が成立し藩ごとの自由経済体制がとられ、紙は藩財政を支える重要な物品となり生産を強制された藩もあり、江戸後期には紙一揆などが発生した藩もあった。
 江戸幕府は人々が宗教を信仰して、幕府とは異なった思想で社会活動されることを恐れキリスト教だけでなく、仏教も制圧した為江戸時代の仏教に関する書物や文書は少ない。
 伊豆や駿河の紙で歴史の古い修善寺紙は平家物語の下学集(かがくしゅう)に記載されていて、500年以上も前から生産されていた。製法は越前から修善寺に修業に来ていた僧から学んだと言われ、最初は楮紙であったが、室町時代に天城山中に多く自生していた雁皮や三椏(みつまた)が原料として使われ「柿色にして横に筋目あり」と言われた。その後「色よし紙」と呼ばれた高級紙も作られ東日本の代表的な紙であった。近年重要文化財に指定された三島大社収蔵の北条家文書には修善寺紙が多く使われている。
 江戸で瓦版用紙や寺小屋の手習い帳に好評であった駿河半紙は約250年の歴史があり、製法は山梨県の市川大門で紙漉きを習得した清水市の住人が始めたと言われ、初期は楮の紙であったが後に江戸で評判が高く、生産単価の安い三椏紙に変わり、富士川沿岸で生産された紙も駿河半紙として出荷された。
 特殊な紙として江戸の文人墨客に愛された熱海雁皮紙は200年の歴史があり、五色に染められ巻紙・短冊・色紙・書道用紙などとして販売されたが、原料と水不足で明治初期に生産は中止された。