2013年3月17日日曜日

沼津市立第一小学校:明治時代の歴史

沼津市立第一小学校初期の歴史

明治元年9月 代戯館開く(添地の長屋を一棟借受け素読・手習・算術の三科)
●明治元年10月 代戯館 (十月には沼津城西南隅、外濠内の屋敷二戸を改造して仮校舎)
●明治元年12月8日 徳川家兵学校附属小学校開校(代戯館を引き継ぐ)
●明治2年1月8日 授業開始
●明治3年1月 静岡藩小学校(明治二年八月の静岡藩制改革に伴い、校名は「静岡藩小学校」と改められる)
●明治4年4月 沼津城丸馬出門外(今の上本通ボールビルの辺)に洋風瓦葺二階建の新校舎を建築し、移った。
●明治4年11月 沼津小学校(明治四年七月廃藩置県となり、十一月から校名も「沼津小学校」と改められた)
●明治5年8月2日 学制頌布により政府の教育方針も確立し、本校もこの時から徳川家の手を離れた。
●明治6年1月 城内町々立小学校集成舎〔この集成舎には正則学(小学部)と変則学(中学部)とがあり、沼津小学校の下級生は正則学に、上級生は変則学に編入された。この変則学には当時既に外人教師を招聘していた。集成舎の変則学は明治九年八月分離独立して第二大学区第十四番中学校となり、同十二年四月から沼津中学校と改称され、同十九年七月静岡中学校に統合されるまで、東駿地方最高の学校であった。〕
●明治6年 明強舎(城内以南の児童のために下本町の旧本陣清水宅を校舎として明強舎を設立した。校長には兵学校附属小学校に学び、明治六年一月から慶応義塾で洋学を修めてきた間宮喜十郎が就任した。明強舎は大字本町・上土・三枚橋方面を学区とした。
●明治9年 当時の集成舎の校長は、沼津小学校第一分校の後身の金岡村敬身舎の校長であった山田大夢が栄転してきた。
●明治10年 沼津学校 「集成・明強両舎を合して沼津学校」
(たまたま明治十年一月明強舎が類焼にあったので、これを機会に集成・明強両舎を合併する議が起り、校名は「沼津学校」、校長は集成舎校長山田大夢、副校長は明強舎校長間宮喜十郎)
●明治11年6月 小学沼津学校
(新校舎は沼津城本丸跡へ総工費五千円で十年六月着工、一カ年を費して建坪三五〇坪、延坪六二〇坪の洋風木造瓦葺二階建とし「小学沼津学校」の名称で十一年六月開校した。本校の名称を「沼津黌」と呼ぶものであるが、これは本校開校に際し徳川慶喜公が特別に「沼津黌」という扁額を揮毫)
●明治13年12月 後集成・後明成・三橋の三舎分立
(明治五年の学制は同十二年九月に廃され、また十一年七月郡区町村編成法が公布され、この時から駿東郡沼津町となり、これに伴い城内・本町・上土・三枚橋も一小行政区域となって会計も別個となり、各地区分離の気運が旺盛となった。これらが原因して全町一小学校の偉容を誇った沼津学校も、十三年十二月に集成・明強・三橋の三舎に分離した三校のうち後集成舎(便宜上の呼称)は添地町の西端元馬場跡に平屋建の校舎を新築して「城内町公立小学集成舎」と称し、城内一帯を学区とした。後明強舎は沼津学校々舎と交換した町方町の裁判所跡に移り「本町上土聯合小学明強舎」と称し、本町上土一帯を学区とした三橋舎の名称はこの時初めて用いられたもので、日枝神社神官川口信之の住宅の一部も教室とし「三枚橋町公立小学三橋舎」として三枚橋一帯を学区とした。)
●明治13年12月 城内町公立小学集成舎
〔城内一帯(条内・片端・添地・西条・町方)を学区とした〕
●明治19年7月 公立小学沼津黌「三舎は合併して一校となる」
(明治十七年に再び行政区画の改正があり、一度分れた四ヵ力町は旧に復して一区画となった。十八年七月には教育令も改正され、これに伴い十九年二月の県令で学区の改正もあって、沼津の大字四ヵ町は駿東郡第十五学区として一学区に指定された。これが原因して十九年七月、三舎は合併して一校となり「公立小学沼津黌」となったが、これは明治十一年に設立された沼津学校の別名を用いたものである。校舎は町方町の明強舎の個所に集中したが、手狭のため北隣の郡役所の建物を使用し、郡役所は他へ移転した学科の内容や学級の段階などは総べて以前と変りなかった。)
●明治20年1月 尋常小学沼津黌
●明治20年10月 公立沼津尋常小学校
●明治25年5月 町立沼津尋常小学校
●明治30年 沼津町では二十九年末より八幡町の現位置に大校舎を新築し、ここに尋常高等両科を統合することにし翌三十年ここに移転した。