2015年11月2日月曜日
第23回唔学舎仏教文化講座「和紙と仏教文化」宍倉佐敏教授
唔学舎仏教文化講座
和紙と仏教文化
平成27年11月1日
女子美術大学特別招聰教授 宍倉佐敏
紙は文化のバロメーターと言われ、一人当たりの紙の消費量がその国の文化度として評価される、日本は他の国々と異なり和紙の文化と洋紙の文化があり消費量もアメリカに次いで多い。和紙は仏教と共に発展したと言われているので、研究してみた。
☆紙の発明
2350年程前に中国の女性達は川や池の浅瀬で、笊(ざる)や篭(かご)に汚れた衣類や糸クズなどを入れ棒で叩いて洗濯をした。洗濯後に篭などの底に紙状物が残り、これを乾燥すると物を包むことができ、平らな面には簡単な文字が書けた、これが紙の始まりであった。
☆日本への伝来
中国の「後漢書」によると105年に官人「蔡倫(さいりん)」が古い布や麻屑・樹皮などを切断・分散して紙を作り、表面を木槌などで叩いて文字の書ける紙として帝に提出して、喜ばれこれを「蔡候紙(さいこうし)」と呼んだ。この製法が610年に日本に伝えられたと「日本書紀」にある。
聖徳太子は人民の意志統一を図るため仏教を取り入れ、文字の読み書きができる僧侶に写経の指導を依頼すると同時に、紙の原料になる楮(こうぞ)の殖産を奨励した。
壬申の乱の後に一切経(いっさいきょう)の集団写経が行われ写経事業は大きく膨らみ、紙の需要は増大したが、原材料が調達できず麻や楮の代わりに、雁皮(がんぴ)・オニシバリ・マユミ.フジなどの繊維が紙に利用された。(五月一日経(ごがつついたちきょう)、賢愚経(けんぐきょう)(大聖武:おおじょうむ)、百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)などの紙)
☆日本の紙(和紙)の誕生
中国から伝えられた紙は長い繊維を切断して叩き、網状物ですくい取り脱水して紙にして、表面を叩いて平らにする「溜め漉き法(ためすきほう)」であったが、日本では雁皮のヌルヌルした粘性からヒントを得て、粘性の高いビナンカズラやニレなどをネリ剤(繊維分散と沈澱防止)として使い、繊維液を竹や萱(かや)の簀(す)で漉く「流し漉き法」が生まれ、これを後世の人々は「和紙」と称した。
和紙は薄いが表面が美しく、文字が書き易いだけでなく、染色などの装飾ができるので平安時代には美術的に優れた装飾経が多くつくられた。
☆武士社会と紙
質実剛健を気風とした武士は貴族や僧侶が使用していた厚く大きい紙から、薄くて小型で安価の紙を求めたので、紙の品種は二種に大別された。
主に中央都市部で生産されていた紙も職人が出身地に帰郷し各地に生産地が生まれ、独特の地方紙が作られた。貴族などが求めた厚紙は「半流し漉き法」で作られ、表の平らな面には貴族が命令や手紙などを書き、粗い裏面は叩いて平らにして僧侶達が写経や日記などを書写した紙背文書(しはいもんじょ)が多くの寺院に残され、この古文書は日本独特である。
この当時の有名紙は陸奥紙(みちのくかみ)、美濃紙(みのし)、奈良紙(ならかみ)、高野紙(こうやかみ)などがある。
貴族に独占されていた仏教は、親鸞・日蓮・一遍など多くの僧侶によって、民衆に広める目的でやさしく誰にも解り易い形で布教された、布教には般若経や曼茶羅など書写し多くの紙が活用され、書以外では一遍上人が紙で作った衣服(紙衣:かみこ)を纏い布教活動をした。紙衣は現在でも東大寺お水取りで使われている。
遣唐使として留学した僧侶が帰国した際、中国の優れた紙と言われる竹紙(ちくし)を持ち帰りこれを広め、竹紙は書の巧みな人に喜ばれ多くの僧侶にも使われた。
紙は書写用だけでなく建築物にも活用され、絵屏風(びょうぶ)・襖(ふすま)・明り障子紙などの紙が各地で盛んに生産され、美濃紙は薄く縦横差が少なく毛筆で文字が書き易いので書写用に、白く綺麗で強度もあるため明り障子用に寺院や神社に大変好まれた。
和紙は各地で生産され伊豆や駿河でも独特な紙が作られ、寺院・神社などで使われた。
☆近隣の紙
徳川幕府が成立し藩ごとの自由経済体制がとられ、紙は藩財政を支える重要な物品となり生産を強制された藩もあり、江戸後期には紙一揆などが発生した藩もあった。
江戸幕府は人々が宗教を信仰して、幕府とは異なった思想で社会活動されることを恐れキリスト教だけでなく、仏教も制圧した為江戸時代の仏教に関する書物や文書は少ない。
伊豆や駿河の紙で歴史の古い修善寺紙は平家物語の下学集(かがくしゅう)に記載されていて、500年以上も前から生産されていた。製法は越前から修善寺に修業に来ていた僧から学んだと言われ、最初は楮紙であったが、室町時代に天城山中に多く自生していた雁皮や三椏(みつまた)が原料として使われ「柿色にして横に筋目あり」と言われた。その後「色よし紙」と呼ばれた高級紙も作られ東日本の代表的な紙であった。近年重要文化財に指定された三島大社収蔵の北条家文書には修善寺紙が多く使われている。
江戸で瓦版用紙や寺小屋の手習い帳に好評であった駿河半紙は約250年の歴史があり、製法は山梨県の市川大門で紙漉きを習得した清水市の住人が始めたと言われ、初期は楮の紙であったが後に江戸で評判が高く、生産単価の安い三椏紙に変わり、富士川沿岸で生産された紙も駿河半紙として出荷された。
特殊な紙として江戸の文人墨客に愛された熱海雁皮紙は200年の歴史があり、五色に染められ巻紙・短冊・色紙・書道用紙などとして販売されたが、原料と水不足で明治初期に生産は中止された。
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