2015年6月22日月曜日

沼津の海とつわものたち:長浜城跡開園記念トークイベント

当日資料1「長浜城跡ガイドブック」です、クリックしてお読みください。




国指定史跡長浜城跡開園記念トークイベント
 時:平成27621()
 所:プラザヴェルデ沼津
北条水軍と武田水軍
 静岡大学名誉教授・文学博士
 小和田哲男


 1.北条水軍と長浜城
 「甲相駿三国同盟」の破綻
 武田氏に備え伊豆西海岸の水軍拠点強化
 御館の乱と「甲相同盟」破棄
 長浜の「船掛庭」普請












 2.武田水軍と三枚橋城
 武田水軍の構成
 武田水軍の海賊城
 三枚橋城の築城

 3.天正8(1580)の駿河湾海戦
 『北条五代記』が記す戦いの経過
 武田勝頼の感状
 女性兵士も戦った!?













千本浜沖海戦の項
 見しは昔、北条氏直と武田勝頼戦ひの時節、駿州の内、高(興)国寺と三枚橋は勝頼の城也。泉頭(がしら)・長久保・戸倉・志師浜(ししはま)、此四ケ城は駿河の国中たりといへ共、先年今川義元時代、北条氏綱切て取しより以来(このかた)、氏直領国となる。義元、信玄時代、此駿河領を取返さんと、遺恨やんごとなしといへども、つゐに叶はず。扨又沼津の浦つづき、香貫(かぬき)・志下(しげ)・志師浜・眞籠(まごめ)・江浦(えのうら)・多飛(たび)・口野(くちの)此等の浦里も、駿河領・氏直持也。志師浜には大石越後守在城す。此城の後にわしずと云高山あり。勝頼駿河へ出陣の時は鷲巣山に物見の番所有て、人しかと住し、浮嶋が原を見渡せば、勝頼の陣場の様子、目の下に手に取がごとし。されば駿河浦に、氏直兵船(ひょうせん)かけをくべき湊なきゆへ、伊豆重須(おもす)の湊に兵船ことごとくかけをく。沼津よりは二里へだたりぬ。梶原備前守・子息兵部大夫かしらとし、清水越前守・富永左兵衛尉・山角(かど)治部少輔・松下三郎左衛門尉・山本信濃守などと云船大将、此重須に居住す。氏直伊豆の国にをいて、軍舟を十艘作り給ひぬ。是をあたけと名付たり。一方に櫓(ろ)二十五丁、両方合(あわせて)五十丁立(だて)の兵船也。常にひとりさぐる鉄炮にて、十五間前に板を立、玉のぬけぬ程に、むくの木板をもて舟の左右艫舳をかこひ、下に水手(かこ)五十人、上の矢倉に侍五十人有て、矢ざまより弓・鉄炮はなつ様に作りたり。舳(へ)さきに大鉄炮を仕付をきたり。
然(しかるに)に、天正八年の春、勝頼駿河に出陣す。氏直も伊豆の国へ出馬し、三嶋にはたを立たたかひ有。重須の兵船駿河海へ働をなすべきよし、氏直下知(げち)に付いて、毎日駿河海へ乗り出す。勝頼旗本は浮嶋が原、諸勢は沼津千本の松原より吉原まで、寸地のすきまなく、真砂の上、海ぎは迄陣取。然に十艘の舟にかけをきたる、大鉄炮をはなしかくる。敵こらへず皆ことぐく退散し、へいへいたる真砂地白妙(しろたえ)に見えたり。扨又敵の諸勢浜へ来て、砂(いさご)を掘上(あげ)、其中に有て鉄炮を数百挺かけをき、舟を待所に、十艘の舟汀(みぎわ)をつたひ漕行。陸(くが)と舟との鉄炮いくさ雨のごとく舟にあたるといへ共、兼ての用意、板垣とをる事なし。敵船は清水のみなとにかけをくといへ共、小船ゆへ終に出あはず。日暮ぬれば伊豆へ帰海す。然所に腰頼下知して、三月十五日の夜いまだ明ざるに、敵船三艘、重須の湊へ来て、鉄炮をはなつ。すは敵船こそ来りたれ、と舟を出す。敵船は櫓二十丁立にて小船なり。此舟ををひ行所に、沼津河へも入ずして、勝頼の陣場浮嶋が原下へ漕行(ゆく)所に、又沼津川より舟二艘し、合(あわせて)五艘に成ぬ。浜辺に付て漕行(ゆく)くを、十艘の舟をひかくる。此五艘の舟、沖へこぎ出ては、叉浮嶋が原下へ漕帰る。勝頼は、舟軍(いくさ)見物として浜へおり下り、旗馬じるし見えたり。諸勢浜へ打出、塩水の中、腰だけに入て、弓・鉄炮をはなつ。十艘の舟あつまりて評定していはく「敵船清水・沼津へも逃ゆかず、又勝頼の旗本浮嶋が原の前梅に来る事、勝頼下知として、舟いくさ見物と知られたり。すべて、味方の舟二艘は浜辺の前後に有て、八艘の舟は沖より敵船を取まはし討とらん」と智略をめぐらすといへども、小船にてはやければをひつきがたく、広き海中に算(さん)をみだしをひめぐる。勝頼、五艘の舟共にぐるを見て、はらわたをたつ。其節持出たるはた・馬じるし・甲冑・ことごとく其仕場居(しばい)にて焼捨、本陳に帰り給ひぬ。
 (『北条五代記』第2期戦国史料叢書1北条史料集)

国指定史跡長浜城跡開園記念トークイベント
沼津の海とつわものたち
長浜城跡総合調査の概要一保存整備までの足取り一
 長浜城跡総合調査委員会
 委員長服部英雄


 静岡県教育委員会が中世城館分布調査を行ったのは昭和5355年度で、55年度末(1981)に報告書『静岡県の中世城館跡』が刊行されている。市町村の協力を得て、調査員30名が取り組み、主として県教委・山下晃主事がとりまとめ作業を行った。当時わたしは文化庁記念物課に勤務しており、担当であったが、県内各地とも調査に熱心で、地域が誇るべき城跡の保存に向けて積極的な市町村が多かった。調査の結果、把握できた城館遺跡は県内669ヶ所である。沼津市域(合併前、旧市域)では16ヶ所が、現在の沼津市域に含まれた戸田村では1ヶ所が、この報告書にて紹介されている。この成果を受けて、文化庁に設置されていた中世城館保存検討会議にて、成果の検討が行われ、早急に国指定史跡としての保存を検討すべき城館遺跡がリストアップされた。沼津市域では北条早雲が戦国大名としてのスタートを切る興国寺城の知名度が高く、リストアップされた。同時に委員から知名度は低いが、長浜城も重要であるという発言があった。その理由は長浜城が立地する内浦が、日本の漁業史を語る上で欠かせない場所であること、その中心地に築かれた水軍城であるということにあった。背景にはアチックミューゼアム、渋沢敬三氏の日本常民文化研究所から『豆州内浦漁民史料』という史料集が刊行されていて、多くの史実が明らかにされていたことがある。
 長浜城の発掘調査が行われたのは昭和60年度からで、最初の年に東端部、堀切の調査が行われたが、岩盤を加工し、急峻な壁面を造成していたことがよくわかったし、また北東方向、海に向かってに延びる尾根にも段造成や多くの掘っ立て柱跡が検出され、城に関わる生活遺構と思われた。良好に城郭遺構が残存していると確認された。この成果を受けて沼津市が長浜城を国指定史跡に申請したのは昭和62年、文化財保護審議会の答申を経て官報告示されたのは昭和63513日であった。
 当時城跡は民有地で、三井グループの別荘になっていたが、すでに建物は老朽化して取り壊されていた。保存事業はその公有地化(買い上げ)から始まった。のちに重須側の田久留輪地区が追加指定され、これも公有地化された(国指定史跡のばあい、80%が国庫補助となり、残りにも県補助があるから、沼津市の負担は10分の1程度で、大きく軽減される。保存整備事業に対しての国庫補助は50%で、県補助もあった)
 内浦と北条氏のつながりは早くから確認される。北条氏が木負百姓中に対し、りうし御用(家永遵嗣氏によれば「りうし」は鯛)を勤めよ、毎日の御菜御年貢のほか、美物(ごちそう)を韮山に運ぶときは、この印判状と郡代(君沢郡代)の判物をあわせて見せて、命令せよ、後日、数を報告せよ、とした永正十五年(1519)の虎印判状がある。御菜はおかずであるから、内浦は毎日おかず(魚であろう)を年貢として韮山城に届けていた。長浜の海には魚が回遊し、とくにマグロ漁が重要であった。春先から秋までにやってくるマグロは、「天保三年伊豆紀行」によれば、一度に数百本()で、長浜は金千両余に相当するマグロがとれると記されている。およそ今日の金銭価値でいえば、千両は1億円である。明治生まれの古老は神野善治氏に語っている。「10代の時に一回で600本をとった経験がある、それが今までの最高だった」。大型のマグロは、一人では運びきれない大きさで、跨ると足が地面につかなかった。一本の価格を考えれば、莫大な富をもたらしたことがわかる。季節が来れば、魚の方から内浦の網場にきてくれるのだった。
 栄える地域の漁民は、時に船頭・水主にもなった。安宅船、関船、小早を総動員する際には、内浦漁民のかなりが漕ぎ手になったと考えられる。内浦の長浜には漁民史料の所有者であった大川家があったが、網元で漁業の中心となる家だった。
 天正七年(己卯、1579)、長浜が「船掛庭」として普請され、冬の間木負百姓七人が七日間(119日から15日まで)動員された。多くの船が一斉に停泊でき、また同時に多数の船が出船もできる場所は、磯ではなく、長い浜である。この場合、船掛庭になった「長浜」も、地形そのものである長浜だったと考える。長浜にて、船掛庭を普請したとあるから、施設をともなうものだった。船倉かも知れない。
 長浜城跡は長浜と重須の境界にあって、城跡のうち西側32が重須、東31が長浜である。江戸時代の地図には字ヲモス城山、ヲモス峯地、そして重須からの「古城道」が画かれている。長浜分は小脇とされている。長浜城の役割は、浜にあって船掛場である停泊地=浜を確保し、守り、海上合戦時には出撃の基地になった。
 またこの城は情報中継基地でもあって、のろし(狼煙、烽火)台のあったさなぎ(真城山)からのろしを受けて、湾内の各村や砦、そして韮山本城にも伝達する役割を担っていただろう。江戸時代になると魚の群れを見張る魚見が山上に作られていた。長浜城が機能していた時代はむろんそれより以前だが、長浜城の特色は水軍城であって、兵(つわもの〉のみならず漁村、漁民と一帯となって機能したことにある。
 さて沼津市は整備史料を得るために長年、発掘調査を行い、それをもとに総合調査委員会で検討を重ねてきた。理解がむずかしかった遺構として2ヶ所をあげよう。
 山上曲輪への入り口、三井別荘時代にも入り口があった位置になるが、門跡と推定される柱穴が検出された。一年目は岩盤を掘り込んだ巨大な柱穴が崖の下、通路のすぐ上に一ヶ所が見つかり、翌年度、それに隣接してもう一ヶ所、計二本の巨大な柱穴が見つかった。柱には大きな荷重がかかったと推定され、そのことから跳ね橋ではないかという仮説が麓和喜委員から提案された。跳ね橋はゴッホの絵にあるように西洋にはよくあって、城門にも使われている。日本の城では江戸城北桔橋門(きたはねばしもん)、西桔橋門が跳ね橋であった。検出された長浜城の柱穴が頑丈な橋脚であろうことは考えられることであった。ただしこの二本は通路に対して直角ではなく平行であったから、当時は通路ではなく堀だったということになる。さらに確認調査が行われ、次年度には直角になる位置にも柱穴一本が検出されたが、岩盤を掘り込んだものではなかった。左右対称というにはいくぶん構造に差がありすぎるように見えた。最終的な答えはまだ得られないが、復原された柱を見て、解説を読んでもらい、見学者に考えてもらうことにしている。
 もう一ヶ所は最上段曲輪に上がるための通路である。ここでは通路がみつからなかった。岩盤を掘り込んだ堀跡があって、そこには道はない。堀からわずかに離れた位置に、方形の約5メートル四方の岩盤に掘り込まれた四隅ほかの柱穴が見つかった。それも三時期にわたって、重なり合っていて、建て替えが確認された。重要な構造物と推定できる。ここに建物があって、内部に階段があって、そこから登ったという仮説に基づいて、櫓風建物内に階段を設置している。城跡の平面遺構だけからは登り口が見つからないことは時々あって、鳥取県若桜町鬼ヶ城には行き詰まりになって、前方を石垣にふさがれてしまう曲輪があった。階段施設があったものと推定できる。備中高松城には重要文化財の天守が残されていて、三重櫓と称しているが、実際は構造としては二階建てである。隣接して一段低い位置に付櫓があって、廊下から付櫓に入って階段を上る。この付櫓分とあわせて三重になっていて、たしかに登閣者は階段を三階分上る。外からは見方によって三重にも見えるけれど、建造物としては岩の上に建つ天守は二階であった。これも階段施設によって上にあがる一例である。長浜城もその類例と推定した。
 西の平坦地、田久留輪では安宅船の実物大復原を行った。沼津市が八王子市信松院にあった安宅船縮尺模型の複製を入手していたから、当初は船を立体的に復元し、船模型をそこに展示する案を検討していた。維持費が多額になることが懸念されたが、最終的に文化庁の了解も得られなかった。また船は本来立体であるし、航行中には帆を上げたり、あるいは下ろしたり、様々に形状も変わるけれど、まずは実物の大きさを実感してもらうことを優先している。四十挺櫓であれば漕ぎ手も40人必要となる。じっさいに船縁のセガイ(船椎、ふなだな=船棚)に立って並んで、各自が櫓を漕ぐつもりになってもらえれば、安宅船の大きさが実感できよう。なおこの地域では蔭野川(重須)との間に低い石垣が検出されている。小さな波止があったらしい。浜からスロープが続くわけではないから、巨大船が、このような形で田久留輪にまで引き上げられることはおそらくなかった。

 いくつかの課題を残しつつも整備は完成した。指定から二八年を経過してオープンの日を迎えた。多くの方が山にあがられて、整備された城跡と、富士山や淡島、内浦湾をはじめとする雄大な眺望にも満足され、また鉄砲隊をはじめ、甲冑隊多数の参加もあって、賑わいを見せた。長浜城開園が多くの方々の期待に、十分応えうるものになったことに、深い感銘を受けた。甲冑隊に少年少女甲冑隊多数がおられた。未来を担う若者が、誇るべき歴史を継承してくださることも語ってくれていた。

国指定史跡長浜城跡開園記念トークイベント
沼津の海とつわものたち
整備の成果と課題
 長浜城跡総合調査委員会
 副委員長 高瀬要一


 【成果(特色)
 1発掘調査を中心として関連する史料・民俗・現況植生調査などの成果を総合した整備ができた。
 城の全体構造が発掘調査によって解明され、旧に復することができた。どのような構造をもった城郭であるかが見てわかる整備ができたことは大きな成果、であった。
 2北条氏関係とりわけ武田氏との間で繰り広げられた海戦関係史料調査、廃城後の土地利用がわかる漁労関係民俗調査の成果は、長浜・重須の二ヶ所の入口に設けたガイダンス広場で情報発信されている。長浜側は民俗関係、重須側は海戦関係をテーマにしたガイダンス広場となっている。重須側ガイダンス広場に設けた安宅船の原寸大平面模型は、当時の大型軍船のスケールを体感できるすぐれた展示である。
 3通常、城跡の整備に民俗調査の成果が活かされる事例はほとんどない。長浜城跡は海に突き出した地形がもたらすマグロやイルカの好漁場であったこと、渋沢敬三による『豆州内浦漁民史料』の貴重な民俗調査の積み重ねがあったこと、神野委員の漁労民俗調査の成果などが長浜城跡のより深い理解を助け、それが整備に長浜側ガイダンス広場の形で反映できたことは大きな成果であった。
 長浜側から城跡へ至る見学路は木製デッキとして急な斜面を登ることになるが、途中の踊り場はマグロ漁の魚見櫓をイメージした形としたのも、民俗調査の反映である。
 4現況植生調査に基づいて、どのような森にすべきかを検討し、景観保全と城跡理解の両者の目的が共存する樹林とすることができた。
 3この門跡遺構は当初は第二曲輪と第三曲輪を連絡する東西2本の柱を用いた跳ね橋であったのが、後に南北2本の柱による門に変わったものと理解している。
 整備ではこの変遷をどのように表現するかが問題となった。最終的に計3本の柱をすべて同じように木柱を0.9mの高さまで立ち上げて展示し、遺構の変遷とそれぞれの構造を理解していただく、という思いのもとに今回の形を採用した。
 しかし、整備された状況を見ると、この意図は正しく理解し難いのではないかという感想を持った。学術的な良心に配慮し、橋と門という両案併記の整備案を選んだのであるが、ここはやはり見学する人のわかり易さを重視し、橋・門どちらかの案で現地では表現し、遺構の変遷は説明板で解説する方がよかったのでは、と反省している。
 4重須側ガイダンス広場の売り物として安宅船の原寸大平面模型を作製した。
この案も最終案に行き着くまでに紆余曲折があった。小さな失敗は、安宅船の大きな写真を展示した模型前面の説明板と原寸大平面模型の向きが逆になってしまったことである。
 5同じような間違いは重須側ガイダンス広場から城へ登る見学路の脇に設置したソーラーパネル付き照明灯にもある。見学路の中段に上から安宅船の平面模型を眺める平場を整備したのだが、ここから見るとソーラーパネルと安宅船が重なってしまい、ソーラーパネルが目障りな存在になっている。
 6長浜城跡では各曲輪にその曲輪を解説する立看板型の説明板を設けたが、第三曲輪や第四曲輪のような小面積の曲輪では説明板のみが目立ってしまいアンバランスな印象を拭い得ない。また、今回は立て看板型を多用したが、これもどうであったか、場所によっては地面に伏せるタイプが似つかわしいように思った。
 7成果の項に記した樹林の取り扱いである。樹木は常に成長・枯死等の変化の中にあるから、問題が生じる前に景観保全と城跡理解の両者を考えた管理を実施していく必要がある。整備直後である現況の写真を撮影しておき、マイナスの変化が認められる場合はもとに戻す方向で考えることが肝要である。
 8史跡の整備事業は一段落したが、長浜城跡の活用はここからが開始である。多くの人々に訪れてもらい、長浜城跡の史跡としての価値や歴史上の意味を現 5長浜城跡は海戦基地として作られた城郭の本格整備としては全国初の事例である。これから同種の海城を整備する際には、必ず先行事例として参考にされることであろう。その意味では整備された長浜城跡に対する期待も大きいし、責任も求められる。
 6長浜城跡の遺構整備で特徴的であったのは、第一曲輪と第二曲輪を遮断する掘切の遺構レプリカによる展示と、第二曲輪の平坦面から第一曲輪へ登る階段の機能を有した櫓建物を復原したことの二点である。
 以上が今回の整備の成果であり、特色である。次に整備の問題点と今後の課題を述べる。
 【整備の課題】
 1長浜城跡は今回の整備以前は別荘地として利用されてきた。このため、整備着手以前には城内に別荘の建物基礎、石垣、コンクリート擁壁、重須側から登る園路などが残っていた。整備では長浜城跡の理解に誤解を与えるこうした構造物は基本的に取り除く方針で臨んだ。
 ただし、最終的に残ってしまったものがある。一つは重須側から登る園路である。城郭が作られた当時も重須側からの登城道はあったと考えられるが、別荘に伴う園路造成ですでにその痕跡をたどることができない。重須側からの登城道は復原したくともできなかったのである。やむなく重須側からの見学路は別荘の園路をそのまま利用することとした。この園路にはところどころに法面を押さえる玉石積の擁壁が伴っていたが、これを取り除くと新たな土留施設が必要になることから、この擁壁も残ってしまった。
 園路や玉石積擁壁が長浜城跡の遺構と誤解される懸念が残ってしまったのは、他にいい方法がなくやむを得ないことではあったが、一つの問題点である。
 2もう一つの登城道である長浜側からの道は城跡西側を通る県道拡幅時の工事によって、これも途中から失われている。発掘調査では第二曲輪と第三曲輪の間の堀底を通る道(以下、ここを「大手口」と呼ぶ)に門跡遺構が確認されており、長浜側から登ってきた道はこの地点を通過したことが明らかであるが、ここから下の道が分からない。これもやむなく、長浜側からの園路は下の釣堀側から木製デッキで登り、第三曲輪と第四曲輪間の堀底を通り、門跡へ至る動線を整備することとした。物に接することで理解していただきたい。地元の人々にとっては地域の誇りであろうし、また観光拠点としての期待もあると思う。
 オープン式典ではさまざまなイベントもあり、見学者で賑わった。時にはこうしたイベントの企画も求められる。
 9史跡指定地内の発掘調査は一応終了しているが、周辺には関連する遺跡が存在する可能性は高い。機会を捉えて発掘調査を行い、新しい情報を発信することも長浜城跡が忘れ去られない方法の一つであるとともに、長浜城跡の意義を解明することにもつながるので、意識して実施していくことが求められる。
 10最後は駐車場の問題である。文化庁の方針として、史跡指定地内には原則として駐車場を設けることができない。指定地周辺に土地を求める必要があるが、長浜城跡ではその適地がない。マイクロバスや乗用車での来訪が通常の手段となるから、駐車場の確保は必須の課題である。
 以上、成果と課題に分けて述べてきた。事前に気がつかなかった問題点もあるが、多くの課題は毎年開いてきた整備委員会で協議し、結論に至った結果である。残された課題には近々に改善可能なものと、少し長期の問題がある。

 問題解決に向けた息の長い取り組みと、また時には臨機応変に対応できる体制も必要であろう。


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